これが事実だなどと語るつもりは到底ない。「ボーリング・フォー・コロンバイン」が「ドキュメンタリー」という名の下で再構成された「虚構」であるのと同様、この物語もあくまで「虚構」に過ぎない。しかしガス・ヴァン・サント監督の描いた世界は、単純に虚構と言いきれない「何か」がある。コロンバイン高校で起きた乱射事件とそれを理解しようとした社会との間にあった「隔たり」。この映画が突きつけているものは実はこの絶望とでもいうべき「隔たり」だったのではないか。2003年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと監督賞のW受賞した必見の作品。
どこまでも澄み切った初秋の朝。ジョンは、酒に酔った父と車の運転を交代して学校に到着。兄に迎えに来てもらうように連絡するが、遅刻した彼に校長は居残りを命じる。写真好きのイーライはパンク系のカップルの写真を撮ったりと、ポートレート制作の真っ最中。女子に人気のアメフト部員ネイサンはガールフレンドと待ち合わせ。食堂では仲良しの女子3人組がダイエットや買い物などの話で持ちきりだ。
それはいつもと同じ平凡な1日のはずだった…
![](http://image.www.rakuten.co.jp/yamagiwa-soft/img10571241219.jpeg)
この映画は1999年に起きたコロンバイン高校で起きた高校生による銃乱射事件をモチーフとした作品だ。この件に関してはもちろんマイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」が有名なわけだが、この映画のアプローチはそれとは全く違う。「ボウリング・フォー・コロンバイン」はドキュメンタリーとは言いながら、所謂、事実を追いかけるというアプローチではなく、マイケル・ムーアの視点から編集・再構成された「マイケル・ムーアの主張を伝える作品」となっている。
この作品の中で、マイケル・ムーアはアメリカの「銃社会」を事件の背景として捉え、Kマートなどでの「銃弾販売」の実態や事件の直後に同じ土地で銃擁護の演説大会を開いた「全米ライフル協会」の姿を描き出している。もちろんこれらは間違いではないだろうが、こうした理解は「コロンバイン高校銃乱射事件」という事件の個別性に対しての理解からは遠い気がする。
ではガス・ヴァン・サント監督は何をメッセージとして描いたのか。
「エレファント」を観た人の中には、犯人の高校生に対する「いじめ」を原因として挙げるかもしれない。あるいは「テレビゲーム」の影響を挙げる人もいるだろうし、インターネットを通じて子供たちでも安易に「銃」を購入できる社会システムを批難するかもしれない。これらはいずれも間違いではないが正解でもない。ガス・ヴァン・サントが描いたものは、むしろただそこに「在る」世界であり、彼らの世代が感じている「何か」に過ぎないのだ。そこには我々が分析し、解釈し、特定されうる原因というものは存在しない。
例えば、アレックスとエリックが銃を構えた時、そこには「いじめ」に対する復讐といった湿っぽい「憎悪」や「恨み」があったであろうか。何らかの目的やメッセージというものがあったであろうか。あるいは「殺人」自体を楽しむ・興奮するといったものがあったであろうか。むしろただ「撃つ」。ただ「殺す」。それはある意味、テレビゲームのような感覚でもあり、しかしそれ自体を楽しむというよりは、自らの役割を果たすようにただ撃っていっただけでないか。
その感覚というものはそれ以外の世代が理解・解釈できるものではない。そうした「説明の不可能性」こそガス・ヴァン・サントの描いたものの本質だったのではないだろうか。
彼らの世代を支配している感覚。それは決して特定の理解可能な原因に帰することができない。「理性」や「倫理」や「宗教」や「道徳」やあらゆる人の行動を制御するであろう内面的な規範が崩壊し、法律などで規制しつつもあらゆるものが「金」で実現してしまえる社会システムが片方であり、社会全体でのむかうべき方向が失われ、そうしたものの一員としての参加意識さえ存在しない社会。そんな中では我々の視野は「日常」という狭い世界に限られ、あらゆる感情や欲望は現実化される。そんな中で醸成された「感覚」というのは決して解説されて理解されるものではない。当事者にしかわからない「何か」なのだ。
岩井俊二が「リリイ・シュシュのすべて」で描いた「暴力」や「狂気」といったものも、こうした説明されえない「何か」を孕んでいたのではないか。あの映画を「残酷だ」という言葉で片付けるのは「理解できない」ことの裏返しであろう。あの「友情」が「暴力」や「殺意」へと変わる理由、過剰なまでに繰り返され、容認される「暴力」。それらもわかる人間にはわかるとしか言いようがない。
しかしそれでもわれわれは「理解しよう」と努めてしまう。
おそらくこの他者を「理解しよう」という動き、あるいはその背後にある「支配」への眼差しは、人間が背負ってしまった原罪の1つなのだろう。我々はそこにただ「在る」世界をそのまま見ることはできない。どのような形であろうと自分達が納得できる形に読み替え・理解しようとする。もちろんそれ自体はけして批難されるべきものではない。しかしその働きが強すぎる時、自分の「理解できない」世界を、そのありのままの姿ではなく、自分の理解できる形に歪曲し理解しようとする。我々は現実から遠く離れた世界を生きることになるのだ。
ガス・ヴァン・サント監督はこの映画を、それぞれが解釈して欲しいとのメッセージを残している。
もちろんこの映画自体もガス・ヴァン・サント監督とそれぞれの役者たちが切り取った一つの断面に過ぎず、現実の「コロンバイン高校銃乱射事件」そのものではない。その断面からどのような世界を読み取るか、我々に突きつけられた課題なのだろう。
【評価】
総合:★★★★☆
社会派:★★★★★
問われる感性:★★★★★
---
「エレファント」
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「ボーリング・フォーコロンバイン」
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どこまでも澄み切った初秋の朝。ジョンは、酒に酔った父と車の運転を交代して学校に到着。兄に迎えに来てもらうように連絡するが、遅刻した彼に校長は居残りを命じる。写真好きのイーライはパンク系のカップルの写真を撮ったりと、ポートレート制作の真っ最中。女子に人気のアメフト部員ネイサンはガールフレンドと待ち合わせ。食堂では仲良しの女子3人組がダイエットや買い物などの話で持ちきりだ。
それはいつもと同じ平凡な1日のはずだった…
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この映画は1999年に起きたコロンバイン高校で起きた高校生による銃乱射事件をモチーフとした作品だ。この件に関してはもちろんマイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」が有名なわけだが、この映画のアプローチはそれとは全く違う。「ボウリング・フォー・コロンバイン」はドキュメンタリーとは言いながら、所謂、事実を追いかけるというアプローチではなく、マイケル・ムーアの視点から編集・再構成された「マイケル・ムーアの主張を伝える作品」となっている。
この作品の中で、マイケル・ムーアはアメリカの「銃社会」を事件の背景として捉え、Kマートなどでの「銃弾販売」の実態や事件の直後に同じ土地で銃擁護の演説大会を開いた「全米ライフル協会」の姿を描き出している。もちろんこれらは間違いではないだろうが、こうした理解は「コロンバイン高校銃乱射事件」という事件の個別性に対しての理解からは遠い気がする。
ではガス・ヴァン・サント監督は何をメッセージとして描いたのか。
「エレファント」を観た人の中には、犯人の高校生に対する「いじめ」を原因として挙げるかもしれない。あるいは「テレビゲーム」の影響を挙げる人もいるだろうし、インターネットを通じて子供たちでも安易に「銃」を購入できる社会システムを批難するかもしれない。これらはいずれも間違いではないが正解でもない。ガス・ヴァン・サントが描いたものは、むしろただそこに「在る」世界であり、彼らの世代が感じている「何か」に過ぎないのだ。そこには我々が分析し、解釈し、特定されうる原因というものは存在しない。
例えば、アレックスとエリックが銃を構えた時、そこには「いじめ」に対する復讐といった湿っぽい「憎悪」や「恨み」があったであろうか。何らかの目的やメッセージというものがあったであろうか。あるいは「殺人」自体を楽しむ・興奮するといったものがあったであろうか。むしろただ「撃つ」。ただ「殺す」。それはある意味、テレビゲームのような感覚でもあり、しかしそれ自体を楽しむというよりは、自らの役割を果たすようにただ撃っていっただけでないか。
その感覚というものはそれ以外の世代が理解・解釈できるものではない。そうした「説明の不可能性」こそガス・ヴァン・サントの描いたものの本質だったのではないだろうか。
彼らの世代を支配している感覚。それは決して特定の理解可能な原因に帰することができない。「理性」や「倫理」や「宗教」や「道徳」やあらゆる人の行動を制御するであろう内面的な規範が崩壊し、法律などで規制しつつもあらゆるものが「金」で実現してしまえる社会システムが片方であり、社会全体でのむかうべき方向が失われ、そうしたものの一員としての参加意識さえ存在しない社会。そんな中では我々の視野は「日常」という狭い世界に限られ、あらゆる感情や欲望は現実化される。そんな中で醸成された「感覚」というのは決して解説されて理解されるものではない。当事者にしかわからない「何か」なのだ。
岩井俊二が「リリイ・シュシュのすべて」で描いた「暴力」や「狂気」といったものも、こうした説明されえない「何か」を孕んでいたのではないか。あの映画を「残酷だ」という言葉で片付けるのは「理解できない」ことの裏返しであろう。あの「友情」が「暴力」や「殺意」へと変わる理由、過剰なまでに繰り返され、容認される「暴力」。それらもわかる人間にはわかるとしか言いようがない。
しかしそれでもわれわれは「理解しよう」と努めてしまう。
おそらくこの他者を「理解しよう」という動き、あるいはその背後にある「支配」への眼差しは、人間が背負ってしまった原罪の1つなのだろう。我々はそこにただ「在る」世界をそのまま見ることはできない。どのような形であろうと自分達が納得できる形に読み替え・理解しようとする。もちろんそれ自体はけして批難されるべきものではない。しかしその働きが強すぎる時、自分の「理解できない」世界を、そのありのままの姿ではなく、自分の理解できる形に歪曲し理解しようとする。我々は現実から遠く離れた世界を生きることになるのだ。
ガス・ヴァン・サント監督はこの映画を、それぞれが解釈して欲しいとのメッセージを残している。
もちろんこの映画自体もガス・ヴァン・サント監督とそれぞれの役者たちが切り取った一つの断面に過ぎず、現実の「コロンバイン高校銃乱射事件」そのものではない。その断面からどのような世界を読み取るか、我々に突きつけられた課題なのだろう。
【評価】
総合:★★★★☆
社会派:★★★★★
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