ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「ぴあ」とBLOG

2005年03月25日 | ビジネス
何年ぶりかで「ぴあ」を買った。ちょっと時間も空いたことだし、映画でも観ようかと思って買ったのだけれど、改めて僕らは情報に氾濫/枯渇しているのだなぁと思う。「情報の氾濫」と「情報の枯渇」。これは決して異なるものではなく、1つの断面として起こっていることだ。

出張先から17:00くらいに東京に戻って、それから見ることのできる映画を探していたのだけれど、せっかくだし近所のシネコンで見ることのできないようなミニシアター系で何かないかと思って「ぴあ」を見たのだけれど、まぁ、とりあえず公開中の映画の数は結構ある。

しかしその映画の解説記事を読んでも、どれが面白そうなのか(あるいは面白いのがなかったのかもしれないが)、自分の好みに合いそうなのはどれか(あるいは好みに合うのがなかったのかもしれないが)が全くわからない。どれもが面白そうであり、かつどうでもよさそうでもある。

日々、映画の情報をチェックしていれば別なのだろうが、たまにこういう情報にアクセスすると全ての情報が一覧のように並べられ、それらの差異やその本人の志向性との合致具合を把握できない。つまり本当に欲しい情報、「この映画はきっと自分に合うのだろう」「きっと面白いに違いない」という確信を得るための情報が見当たらない。

そもそも「ぴあ」自体が、そういった作品なり公演情報なりを編集者側で取捨選択することなく、網羅的に取り扱う雑誌であることもそう感じた原因だろう。紹介される作品が多ければ多いほど、我々自身が内容を読み、自分自身に合うのか、面白そうなのかを判断しなければならない。網羅的に紹介するということは、与えられた情報を見極める目を求められるのと同義なのだから。

これが「TokyoWalker」だったらもう少し取り扱う作品数を押さえて、みんなが見たがる情報のみを紹介してくれるのかもしれない。例えば荒木経惟の生活に肉薄したドキュメンタリー映画「アラキメンタリ」なんて、見れば面白いのかもしれないが、世の多くの親子連れやカップルには紹介する必要もないだろうし、「アビエイター」なんて僕は全く見る気がしないが、カップルにとっては知りたい情報だろう。そうした作品に対する価値付けを行い、対象となる読者層にあった少数の作品をリコメンドしていく「TokyoWalker」は、網羅的な「ぴあ」に比べれば便利だと感じている人が多いはずだ。

特に作品などに対して指向性がない人や自らそういった情報収集をするのが面倒くさい人にとっては、ある程度妥当な情報を紹介してもらいたいのだろう。探すより与えられる方が楽なのだ。

結局この「情報の氾濫/枯渇」という状況は、一方で「一曲集中メガヒット時代」という様相を示し、もう一方で「口コミへの信頼度」を作り出しているのだろう。あまりにも情報や商品が溢れてしまった時代において、(例え数年後には誰も覚えていないとしても)誰もが反応しそうな「曲」や「映画」、「小説」などが様々なメディアを通じて紹介され、誰もがその作品に反応する。趣味指向の多様化が叫ばれつつも、特定の作品がメガヒットする状況は、時代の空気が要請しているという側面があるにしても、本当に自分の求めているものを見つけられない(探せないし探そうともしない)ことの裏返しだろう。誰もが与えられた情報で満足しているのだ。

その一方で僕は既にマスを対象にしたメディア(テレビや雑誌など)の伝える情報が正確ではないと知っている。それらはあくまでどこかでコマーシャリズムと繋がっていることを知っている。彼らが「面白い」として伝える情報は7割は本当かも知れないけど、3割は怪しいのだと感じている。口コミが注目されるのはこうしたことの裏返しであり、「誰か」のリアルな体験であれば本当のはずだ、という期待の現われなのだろう。

特にそれが知り合いや、そうでなくても「顔」が見える場合、その「人物像」が見える場合はより「リアル」さを期待する。素人の書くBLOGやSNSなどの記事が見られるのにはこうした背景もあるのだろう。

もし仮に「ぴあ」などの網羅的な情報紹介の「場」に「顔」の見えるコメントがあったなら…これは顔写真付のという意味ではない。例えばその人の記事や感想を読み、この人が薦めるんだったらきっとこの映画は合うはず、面白いに違いないという確信がもてるような仕掛けがあったなら、この「情報の氾濫/枯渇」という状況を変えれるのではないだろうか。



口コミ検索―googleがBLOG検索をはじめたら


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