勝海舟の葬儀の時、かつてお世話になった方々が、何人も棺にすがって泣きました。
その一人に、今井信郎(のぶお)と言う方がいました。
岩本善治がまとめた「海舟座談」に、津田仙の言葉が載っています。
明治5~6年の頃、今井信郎という旧幕臣が、静岡県初倉村という所で園芸に従事し余生を楽しんでいました。
かつては、今の機動隊ような見回組でしたが、明治維新の当時は、まだ血気盛んな青年でした。
剣道の達人で何人も人を斬ってきた人で、京都では見回組にいて、幕府が倒れた後は北海道の五稜郭で闘いましたが敗れて捕まってしまったのです。
牢に入っていた時、坂本龍馬を斬った時の詮議がなされましたが、当時は見張り役だったと告白しました。西郷隆盛の嘆願もあり、その件に関しては問われることなく、牢から出してもらうことができました。
きわめて熱心な幕府の忠臣だったので、明治4、5年の頃、旧幕の旗本や御家人の多数が、静岡で農業についたのです。
維新の時、駿河の久能山に奉祠した徳川家康の木像と同じ木像がもう一つありました。
上野で彰義隊が、敗れた時に持ち逃げた物と、江戸城内吹上の紅葉山にあったのを、江戸城引き渡しの時、幕臣が持って来たからです。
久能山に二つ置くのはおかしいので、分けて帰農士族の村落に郷社を建立しょうという相談が始まりました。
今井は、その運動委員に選ばれたのです。
資金募集のために、今井は東京の山岡鐵舟を訪ねると、良い話だから、旧幕で東京府知事をしている大久保一翁と、勝海舟の力を借りるとよいと、方策を授けてくれたのです。
そこで、今井は、大久保を訪ねると、冷淡に、断れてしまいました。
怒りまくった今井は、今度は勝のところに行くのです。すると、「それを祭ると、何かになるのかエ。」「おいらは、まっぴら御免だ。」 と、またまた断われてしまいました。
今井は、怒って「徳川の大恩を忘れて、こんな奴らにはたのまね!」と言って立ち去り、旧士族から、なけなしの金千余円を集めて、村社を建てたのです。
その後、村にキリスト教の宣教師が来ましたが、頑固な士族たちは、けしからんと言って、今井が斬る事になったのです。
斬るのは簡単だが、その前に、一応聖書を読んでみましたが、バカバカしい子供だましのようなつまらないものだと思いました。
こんなものなら、斬ることもなく、多少の迫害ですぐに、退治できると思い、いろいろ迫害したのです。
そんなある日、お茶の用事で、横浜に行った時、海岸教会に出会いました。
攻撃の材料を仕入れようと、中に入り、稲垣牧師の説教を聞くと、今まで考えていたところと違い、誠に正理正道だと悟ったのです。
今まで、邪教と思い、迫害してきたのが間違いであったと気がつき、静岡に帰って、伝道師を訪問して、熱心に研究し善良な信者になりました。
後に、長く県会議員などをしていたが、各種の事業にキリスト教の精神を吹き込み、津田が禁酒演説に行くと、司会をしてくれたそうです。
昔、一生懸命になった徳川家康の木像を恥ずかしいと言って、勝をののしったことを恥じ、存命中は合わせる顔がないと言っていました。
20年後、勝海舟が、亡くなった知らせを津田から聞いて、即座にやって来て、お棺前で涙を流しながら、この話をしてくれたそうです。
その後、今井が友人の息子に、坂本龍馬を斬ったのは自分だと言う話をしました。
それを聞いた友人の息子が新聞に書いたので大変な目にあったのです。
いまさら、売名行為だとののしられましたが、たぶん本当だったと思います。
ところで、見回組に、龍馬のアジトを教え、殺害命令を出したのは誰なのかということです。
今井の孫に当たる方が、家伝などを調べて「坂本龍馬を斬った男」の中で、書いていますが、西郷隆盛ではないかという推測が成り立ちますが、すべては藪の中なのです。
それこそ、今となっては、神のみぞ知るですね。
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