まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

カント倫理学の魅力と限界

2011-10-03 06:16:08 | カント倫理学ってヘンですか?
先週末の日本倫理学会で、主題別討議 「カント倫理学と現代」 の提題者を務めてまいりましたが、
『大会報告集』 用に書いた文章をアップしておきます。
この主題別討議では、カント研究者以外の皆さんと活発な議論を交わせるように、
1.カントのテキストの細かい釈義に立ち入らずに、カント倫理学の基本的特徴を確認する
2.そうした特徴が現代においてどのような強みと弱みをもつかを明らかにする
3.そうした強みや弱みが、カント倫理学にのみ特有なのかを検討する
という3つの課題に応えることを求められておりました。
紙数の関係上、3の課題については本文中に書いてありませんが、
口頭で補いながら発表してきました。

このブログでは、「カント倫理学ってヘンですか?」 というカテゴリーを立ち上げておきながら、
たった2回記事を書いただけで、その後ずっと放置しっぱなしでしたが、
今回発表してきたようなことを、大学生や高校生の皆さんにもわかってもらえるように書く、
というのが本カテゴリーを立ち上げた目的でしたので、
この文章を転載しておくのは意味があるでしょう。
しかし、カント研究の専門家以外の人にも理解してもらえるように書いたつもりではありますが、
それでもやはり倫理学研究の専門家向けの文章にしかなっていないので、
この内容をさらに大学生や高校生にもわかってもらえるように書くというのは至難の業ですね。
このカテゴリーに関してなかなか思うように筆が進まないのはいたしかたないことなのかもしれません。
頭が痛くなってしまうかもしれませんがぜひ読んでみて、
どこらへんまでわかり、どこからまったく付いていけなくなるか教えて頂けるとありがたいです。




            カント倫理学の魅力と限界
                                    小野原雅夫 (福島大学)

 カント倫理学の基本的特徴として以下の八点を挙げることにしたい。1.道徳的立場の選択、2.形式主義と理性主義、3.反幸福主義、4.感情軽視、5.究極的善への志向、6.正と善を包含する規範体系、7.世界市民主義、8.理想と現実の峻別。これら八つの特徴は相互に密接に絡み合っているが、できるかぎり重複のないように説明しながら、カント倫理学の強み (魅力) と弱み (限界) について概観していくことにする。
 カントが絶対的に道徳的立場に立っているということに異論を唱える者はいないであろう。カントにとって道徳的立場に立つとは、普遍性の形式を選択することにほかならない。カントは常に、自らの利益のために自分だけを例外にする利己主義を敵視しており、利己主義から脱して、自己も他者も包含する第三者的な普遍的立場に立つことを要求している。もちろん、歴史上の倫理学説のほとんどは道徳的立場に立っているので、この第一の特徴はとりたててカントに固有であるというわけではない。しかしながら、カントほど力強く道徳的立場に立つことを鮮明に宣言した哲学者は古来稀であり、その意味でカントは道徳理論のチャンピオンであると言えよう。この立場に立つ者として 「Why be moral?」 問題にどう答えうるのかというのは重要な問題であるが、メタ倫理学に関わる問題なのでここでは割愛する。
 カント倫理学の特徴として第二に形式主義と理性主義を挙げておく。カントは道徳的立場のメルクマールである 「普遍性の形式」 に着目し、これを倫理学の根幹に据えた。規範の基礎づけの論証に関しても、規範の内実 (定言命法) に関しても、二重の意味で形式主義的な倫理学を構築したと言うことができよう。そして、こうした普遍性の形式は、カントによれば、理性によってのみ捉えうるものである。感性や感情や傾向性といったものは、個物に関わり個別的な認識しか与えない。したがって、カント倫理学においては形式主義と理性主義とは分かちがたく結びついている。これらの特徴は、討議倫理学やロールズのカント的構成主義に引き継がれていると思われるが、この点もメタ倫理学に関わる論点なのでここでは割愛する。
 第三に、形式主義から帰結する、規範倫理学的な意味で重要な特徴として反幸福主義を挙げることができる。カントは形式主義を貫いて、倫理学から実質的なものをできるかぎり排除しようと試みた。カントによれば、倫理学における実質的なものとは、行為の目的であり、行為の帰結であり、そして、万人にとって最も望ましい目的であり帰結であるところの幸福にほかならない。カントは自らの倫理学から、そうしたものを (少なくともいったんは) 排除しようとした。たしかに幸福はすべての人間が追い求めているものかもしれないが、ひとりひとり何を幸福とみなすかは千差万別であり、しかも、ひとりの人間にとってもそれは時や状況とともに変化してしまうものである。そして、幸福になるために何を為したらいいかもまったく不確定であり、一般的に幸福をもたらすだろうとされている行為を行ったとしても幸福という結果が得られるかどうかは定かではない。このようにカントは幸福を、倫理学に不確実性をもたらすものとして忌避した。
 反幸福主義とほとんど不可分なのだが、理性主義から帰結する第四の特徴として、カントは感情や傾向性を軽視したということを指摘することができる。幸福になりたいと望むのはまさに感情であって、カントはそれを自愛の傾向性と呼んでいる。カントは自愛の傾向性を排除して倫理学説を構築しようとし、場合によっては自愛の傾向性こそが悪の根源であるとも読めるような議論を展開したのである。そして、カントは自愛ばかりでなく、ありとあらゆる感情や傾向性を同一視して、愛情や共感のような、一般的には貴いものとされている感情にもとづいて行われたよい行いも、傾向性にもとづくたんに義務に適った行為にすぎないとして、道徳的価値を否認したのである。
 この第三や第四の点はカント主義者からは天晴れとして賞賛されているが、大方の倫理学者や一般の人びとからは常識外れのリゴリズムとして攻撃の的になっているように思われる。第五の点とも関連するが、カントの反幸福主義や反感情主義は、絶対確実な倫理学を確立し、純粋な究極的善を打ち立てるためには必要不可欠であったといえるであろう。カント倫理学は人間の弱さに譲歩しない。これは明らかにカント倫理学の強みである (とカント主義者としては考える)。しかしながら、これによってカント倫理学がごく普通の人びとに対する説得力を失ったことも確かであろう。自愛の傾向性を前提とした倫理学理論を打ち立てることも可能であるし、人間の感情に基づいた倫理学理論を唱えることも可能である。これに対して、幸福を捨象せよ、感情から離脱せよと要求する倫理学説は、聖人にしか実行できない達人倫理のように思われ、一般の人びとから忌避されたとしてもしかたないであろう。
 カントが愛情や共感にすら価値を置かなかったという点に関しては、カント主義者として一言弁明しておきたい。そうした感情はたしかに多くの場合よい行為を生み出すことができるかもしれないが、しかし、それらがたんなる感情であるかぎり、悪い行為、不正な行為とも結びつきうるということをカントは見抜いていたのである。利己心というのはたんに自分を利するだけでなく自分に近しい者を同心円的に含み込むので、家族や友人を皮切りに、宗派、民族、国家といった大集団にまで拡大しても利己主義は成立しうる。友愛や愛国心などは自集団内においてはよき行為を生むかもしれないが、集団の外部に対しては凶暴な牙を剥くことが大いにありうるのである。宗教戦争後の時代を生きていたカントにとってはそのような危険性こそが、倫理学が対峙すべき問題だったのである。「九・一一」 後を生きる私たちにとってもそれは同様であるように思われる。この点は第七の問題とも関わってくる。
 第五に、カントはそのような宗教戦争後の時代に生きていたにもかかわらず、ホッブズのように正 (=悪の回避) の問題のみに撤退してしまうのではなく、善を確立することを倫理学の使命とした。しかも、「およそこの世界においてはもちろん、それどころかこの世界の外においてすら、無制限に善いとみなしうるもの」 は何であろうかという問いを立て、究極的な善を求めたのである。それが 「善意志」(=道徳性) にほかならない。善意志とは、普遍性の形式を形式主義的に内面化したものである。 『人倫の形而上学基礎づけ』 や 『実践理性批判』 における定言命法は、規範の内面化を要求する規範として定式化されている。普遍性の形式をそなえた格率 (=道徳法則) を自ら立て、道徳法則 (=普遍性の形式) に対する尊敬の念にのみもとづいてこれに服従するという 「意志の自律」 こそが、カントが目指す究極の善である。かくしてカントは、動機の純粋性を強調した形式主義的な倫理学を樹立した。カント倫理学が動機主義とか心情倫理と称される所以である
 ここまで純化された善を提示することができたのは、古今東西見渡してもカント倫理学だけだったのではないかと思われる。とはいえ、やはり第三、第四の論点と重なるわけだが、カントの善はあまりにも純化されすぎていて、通常の人間からかけ離れたものとなってしまっている点は否めない。カントは純粋実践理性に定位して自らの倫理学を構築したので、ほんのわずかでも自愛その他の不純な動機が混入していれば道徳的善は否認される。その厳格さは人間の有限性と両立しえないようにも思われる。
 ところが、カントは一方でそのような純粋実践理性に定位した究極的善の理説を作り上げておきながら、他方では、人間の有限性にも配慮した、正と善を包含する諸義務の体系をも構築したのである。これがカント倫理学 (実践哲学) の第六の特徴である。晩年の 『人倫の形而上学』 は法論と徳論から成る実践哲学体系である。法論は正しさ (権利、正義、適法性) に関する規範体系である。徳論は 「同時に義務である目的」 を規定する実質的倫理学の体系である。前者は、人間が他の人間と有限な地球上で共存しなければならないという人間学的・根源的事実に、後者は、人間が目的 (行為の実質) を立てなければいかなる行為も為しえないという人間学的・根源的事実に依拠して成立する。いずれも、人間が人間であるがゆえに守らなければならない普遍的な規範の体系なのである。カントは正と善を、どちらか一方を断念したり、一方を他方のうちへ解消してしまったりすることなく、両者を截然と区別した上でいずれも共に基礎づけ体系化しようとした数少ない哲学者のひとりである。
 そのいずれにおいてもあいかわらず鍵を握っているのは普遍性の形式である。とりわけ法論の領域 (正に関わる理説) において普遍性の形式は、第七の特徴である 「世界市民主義」 という形を取って現われる。カントは人類の歴史性や多様性をいったん捨象することによって、文化や宗教や国家などを超えて、人間が世界市民としていかにあらねばならないかということを明らかにしようとした。カントにとっての正とは普遍的な人権にほかならないのである。
 カントは常に世界市民として人間は何を為すべきかという観点に立って論じているので、特定の文化や宗教や国家に属する者としていかに振る舞うべきかという個別的、特殊的問題はカント実践哲学の視野には入ってこない。カントはそういう問題があることを理解はしているが、それは歴史的、経験主義的に考察されるべき問題で、自らが論ずべき問題であるとは捉えなかった。しかし、そのことはカントが人類の歴史性や多様性を無視したということではなく、むしろカントは、人類の歴史性や多様性を尊重していくための普遍的な枠組みを求めていたのであり、多様な人間たちが多様性を保持したまま共存する 「永遠平和」 こそが、政治哲学における彼の理想だったのである。
 最後にカントの理想主義、すなわち、カントが理想と現実を峻別したことを第八の特徴として挙げておくことにする。今述べた 「永遠平和」 も純粋な理念であり、それは人類に課されているが現実世界においては永遠に実現されることのない理想であった。先に述べた 「善意志」 もやはり理念であって、現実世界において完全にこれを体現しているような人間が現れることは期待できないとカントは言っている。純粋な理性によって構築された理想は、けっして私たちが生きる現実世界のなかにおいて具現化されることはありえないのである。プラトン哲学から引き継いでいるといっていいこの格調高き理想主義は、カント好きにとってはたまらない魅力であるが、理想をいかにして実現したらいいかという問いを立てる者からすると敗北主義的に映るかもしれない。実際カントは理想と現実の架橋ということに関してきわめて無頓着である。この点は応用倫理学的な諸問題への適用可能性という論点とも関わるので、第三提題者に譲ることとしたい。
 以上、カント倫理学 (実践哲学) の基本的特徴を概観してきた。筆者としては、カントが築き上げた道徳的善に関する純粋な 「形而上学」 に作品 (理性の産物) としての完成された美を認めてはいるが、現代における私たち人間の行為や選択にどれほど有意味かということに関しては限界を認めざるをえない。筆者は現代の倫理学の課題を、グローバルなレベルで他者 (異質なる者) と共存、共栄することはいかにして可能か、という問いに答えることであると捉えている。その観点からすると、第六と第七で見てきた、正と善を包含した世界市民主義的なカント実践哲学体系は、現代における個別的諸問題への完璧な処方箋を与えてくれるわけではないものの、人類のグローバルな共存・共栄という問題を考えていくための大きな枠組みを提供してくれる、魅力的な源泉であるように思われる。