まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.苦手な食べ物は何ですか?

2012-11-10 07:06:12 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
看護学生の皆さんからいただいた質問ですが、
こんなプライベートなやつがまだ残っていました。
そして、この問いに対しては以前にお答えしたことがあるような気がして、
自分のブログ内をくまなく探し回っていたのですが、
どうやら一度も書いたことがなかったようです。
授業や飲み会の席ではたびたび話題にしているので、
学生たちも行きつけのお店の方々もみんなよーく知ってくださっていて、
気遣われたりネタにされたりいろいろなんですが、
それっぽいことを小出しにしたことはあっても、ブログではきちんと論じたことがありませんでした。
遅ればせながらここにしっかりと書き留めておこうと思います。

A.私はキュウリが大っ嫌いですっ!

いや 「嫌い」 という言葉ももったいないくらいです。
憎んでいます。
dislike ではなく hate です。
福島でこんなこと言うと多くの人を敵に回してしまうのですが、
(あ、だから今まで書かなかったのかな?)
味とか臭いとかがどうこうという問題ではなく、キュウリの存在自体が許せません。
天然痘やエイズウィルスとともにこの世から撲滅してもかまわないとまで思っています。
(この問題になると私のなかの自由主義は破綻します)

食わず嫌いではありません。
人生で一度だけ食べたことがあります。
子どもの頃キュウリばかりでなく、ホウレンソウ以外の野菜類がすべて食べられなかった私は、
小学校時代にある転機を迎えてしまいました。
給食の時間は担任の先生とのガマン比べで、昼休みの時間をすべて棒に振っても、
頑として野菜を食べずにすませていた私ですが、
どうしても野菜を食べないわけにはいかない局面に立たされてしまったのです。
家庭科の調理実習です。
自分たちで初めて作った料理ですから、さすがの私も手をつけないわけにはいきません。
その日はご飯を炊き、味噌汁を作り、トマトとキュウリのサラダを作ることになっていました。
トマトとキュウリ。
見るからにグロテスクです。
むろんそれまで一度も口にしたことはありません。
私の予想ではトマトは絶対にムリだろうなという気がしていました。
あの色といい、中のトロッとした部分といい、破壊力抜群です。
それに比べるとキュウリはまだおとなしい感じです。
外側のイボイボは強烈ですが、薄切りにしてしまえばなんとなく何とかなりそうな存在感の薄さです。
とにかく目をつぶって呑み込んでしまおうと決め当日を迎えました。

みんなはミョーなテンションで楽しげに料理をしていましたが、
私は料理がだんだん形をなしていくにつれどんどんブルーになっていきました。
そしてとうとうその時が来てしまいました。
覚悟を決めて先にヤバそうなやつを片づけてしまおうと思い、まずはトマトを口に放り込みました。
ものすごい衝撃が押し寄せることを覚悟していましたが、予想していたほどではありませんでした。
フニャフニャ、ドロドロした口当たりは最悪でしたが、味そのものは耐えられないほどではありません。
今から思うと、おそらくケチャップは大好きでその味に慣れていたからかもしれません。
ダメだと思っていたトマトがこれくらいですんだのですから、
今日はこの調子で何とか乗り切れるかもしれません。
そう思ってちょっと余裕をこきながら、おとなしげなキュウリも口に入れました。
その瞬間に予想もしなかった衝撃が舌と口と全身を襲ったのです。

なんじゃ、こりゃあ

思わずその日食べたものを全部リバースしそうになりました。
えづきながら何とかその衝動を抑え込み、
味と臭いと存在に涙しながら永遠とも思われる時間をかけて嚥下しました。
あの日、家庭科調理室でアレを吐き出してしまわず、
泣きながら呑み込むことのできた自分を誇りに思います。
その後、その昼食がどうなったのかはまったく覚えていません。
あの一口の強烈な思い出以外、一切の記憶は失われてしまいました。
ただひとつ、これは人間の食べ物ではない、
二度と口にはしないと堅く心に誓ったのでした。


P.S.
これはあくまでもまさおさまの主観的な感想であり、個人的な好き嫌いにすぎません。
自分の言ってることが穏当を欠いているということは重々承知しております。
キュウリ好きの方々やキュウリ農家の方々を貶める意図はまったくありません。
ただ誠に申しわけないけど私は嫌いですというだけのことなのです。
不快な思いをさせてしまったかもしれませんが、子どもの戯言だと思ってお聞き流しください。

わたし祈ってます

2012-11-09 17:24:09 | 性愛の倫理学
好きな人と別れたとき、ふつう皆さんは相手に対してどう思うのでしょうか。

あるときカラオケである女性が一青窈の 「ハナミズキ」 を歌うのを初めて聞いて、

私は腹がよじれそうになりました。

「僕の我慢がいつか実を結び

 果てない波がちゃんと止まりますように

 君と好きな人が 百年続きますように♪」

前半の 「果てない波がちゃんと止まりますように」 はいいんですが、

「君と好きな人が百年続きますように」 って、それはいくらなんでも現実離れしすぎでしょう。

自分を基準にして 「同化による理解」 をするつもりはありませんが、

自分以外の人と百年続きますようになんてフツー思いますか?

ていうかどんな相手とだって百年続くなんて考えられないし。

そんな荒唐無稽なこと、本気で願ってるなんてとても思えない、

どんだけ自分をいい人に仕立て上げたいんだろうと、この世界観にまったくついていけず、

歌詞にいちいち爆笑してしまいそうになるのを必死でこらえたものでした。

この曲をこんなふうに受け止める私って邪悪ですか?

それに比べると、SUGARの 「ウェディング・ベル」 は痛快でしたね。

「ひとこと言ってもいいかな くたばっちまえ アーメン♪」

最近の歌だったらこの手の歌詞もよく聞かれるようになりましたが、

当時は歌詞というともうちょっと歯に衣着せるというか建前の世界っていうか、

ここまで本音をぶっちゃけるということはなかったのでビックリしてしまった覚えがあります。

ただ、現実問題ホントにここまで思うかというと、

よっぽどひどいフラれ方をしたのであればそんな気にもなるかも知れませんが、

結婚式に呼ばれるくらいの間柄であるとするならば (別にそうでなかったとしても)、

「くたばっちまえ」 とまでは思わないのではないでしょうか。

少なくとも私はそうですねえ。

最後は破局に終わったとはいえ、お互いに好きで付き合っていたわけですし、

付き合っている間は幸せな時間を共有してもいたはずですから、

結果的に別れることになったとはいえ、

相手にも (もちろん自分も) 幸せになってもらいたいと私などは思うのですが、

皆さんいかがでしょうか?

誰か特定の人と百年続いてほしいとまでは思いませんが、くたばってしまったりすることなく、

その都度いい人とめぐりあって幸せになってほしいなあとは思うのです。

というわけで敏いとうとハッピー&ブルーのこの歌あたりが一番ピッタリ来るなあと思うのでした。

「幸せになってね わたし祈ってます♪」

「高校倫理からの哲学」 書評

2012-11-07 14:34:30 | 哲学・倫理学ファック

「高校倫理からの哲学」 のシリーズが完結し、全巻刊行されました
ある高校教員の方が自らのホームページに第1巻の書評を書いてくださいました。
第1巻に対する書評ではありますが、
シリーズ全体に対する書評にもなっていると思われます。
辛口でありながらも温かい眼差しに溢れたコメントどうもありがとうございました。
ここに全文引用させていただきます。

(引用はじめ)
哲学の第一線の研究者たちが集まって、高校生に、高校の『倫理』を入り口に、
哲学への導きとなるものを与えたいという趣旨で作られた、意欲的なシリーズである。
この第一巻「生きるとは」に続いて、
「知るとは」「正義とは」「自由とは」で本編4巻、
別巻として「災害に向きあう」の、合計5巻が出される。
対話を用いたり、高度な内容を扱うコラム、高校倫理との対応表など、
分かりやすくしたいという工夫や努力は、
大学の研究者たちがこれまでなかなか果たせてこなかったものである。
取り上げられている具体的な事例も、なるほどと思わせるものばかりである。
ただ、途中から頼まれてアドバイザー的な形で
編集会議に何度か出させていただいた立場からすると、
「やはりちょっと難しいよね・・・」 という感想はどうしても出てくる。
それぞれの専門家であるがゆえの 「正確さ」 と、
学者らしいちょっとした 「ヒネリ」 のようなものが、どうしてもひっかかるのである。
「ヒネリ」 という表現がどうか自信はないが、
そもそもの出発点が 「倫理、哲学って、あんがいいいもんなんだよ!」
というところにあるから、
折に触れて 「ほら、気がついてみたらあんがいよかったでしょ?」
という展開に持ち込むやりかたのことである。
そこにある種の驚きを覚え、魅かれるかどうかというのは、
これは単に学力の問題ではないと思う。
私も倫理学を学び、高校倫理の教師をしてきたので、悪い感じはしないのだが、
一般的な高校生たちのコミュニケーションのスタイルからすると、
まだまだ説教臭く感じたり、もったいぶっているとか
なんかよく分かんないけどだまされているみたいな?
というような印象を与えてしまわないか、気になるのである。
しかしとにかく、内容の充実度は申し分なく、高校倫理の先生方には、
まず手に取ってもらいたい、ネタ満載の贅沢なシリーズではある。
(引用おわり)


さあ、みんなも今すぐ本屋に買いに走ろうっ!

『天地明察』 映画&小説

2012-11-06 07:25:45 | 人間文化論

『天地明察』 の映画を見て、その後、小説を読みました。

この順序がとてもよかったですね。

小説が話題になっていたのは知っていましたが、あまり惹かれることはありませんでした。

どういうお話かまったくわかっていませんでしたし。

岡田准一主演で映画化され、宮崎あおいがまた妻役ということでちょっと関心が湧きました。

岡田准一については 『SP』 とか 『東京タワー』 とかでホーと思っていましたし、

宮崎あおいも 『神様のカルテ』 で見たばかりでしたし。

で、たまたま時間の空いてしまった週末に急に思い立って見に行ってみたのです。

原作を知らずに見たわけですが映画は映画で十分面白かったですね。

主人公が碁打ちで算学者で暦学者である実在の人物であったということは見て初めて知りました。

時代劇であるのだろうということだけは何となく事前に見たポスターとかで想像ついていました。

それくらいの前情報で見に行ったのは正解だったろうと思います。

そして何と言っても、原作を読まずに行ったのは大正解でした。

小説を読んでから映画を見ると失望する確率がムチャクチャ高いですからね。

で、映画が面白かったので早速 『ブックオフ』 で文庫本を買い求め原作も読んでみました。

いや、驚きました。

映画とこんなに違っているなんて!

たしか映画の最後に 「原作や史実とは違えてあります」 みたいなクレジットが出て、

そんなことをいちいち断るのは珍しいなあと思っていたのですが、

そういう断り書きを入れたくなる気持ちもよくわかりました。

それがなかったなら原作読んでから映画見に行った人は暴動起こしただろうなあ、みたいな。

例えば、史実がどうなのかは私の知ったことではありませんが、

岡田准一が宮崎あおいと結婚する前に、宮崎あおいだけでなく岡田准一にも結婚歴があった、

ということには映画はまるで触れていませんでした。

そういう細かいことよりも、古い暦を正しいものに改めるということがどういう意味をもつのかとか、

改暦をめぐる政治的駆け引きとか、小説を貫く神道的な宗教観・世界観とかが一切省略されていて、

映画としてはたぶんそのほうが見やすかったのだろうとは思いますが、

原作を読んだ上で映画を思い返してみると、やはり一味も二味も物足りなく感じられました。

そういう意味では小説 (活字) の力というものを久しぶりに再確認させられました。

このところわりと小説のドラマ化、映画化がうまくいっていて、

あまり原作と見比べても遜色ない作品にけっこう出会っていましたので、

これくらい原作と映画が違っていてくれると、

活字派の私としては 「ほらやっぱりね」 と久々に溜飲を下げることができました。

もう映画の上映は終わってしまったでしょうか?

間もなくDVDも販売、レンタルされることでしょう。

両方楽しむためにはぜひまずDVD、それから小説の順でお楽しみください。

ブラス・アンサンブル輝響第9回演奏会

2012-11-05 05:31:42 | 人間文化論
11月はイベント目白押しとお伝えしましたが、音楽イベントもいろいろ開催されるようです。

まずはそのひとつ。

「ブラス・アンサンブル輝響」 の第9回演奏会 「Count Down」 です。

こういう団体があってこういう活動をやってるということ今まで知らなかったんですが、

「文化創造論」 を取ってくれた音楽の学生さんたちがずっとやっていたようです。

Facebookつながりで今回初めて知ることができました。

しかし、「まなびピア2012」 と同様、私の留守中に開催されるので、

残念ながらこのイベントにも参加できそうにありません。

うーん悔しい。

よく知ってる4年生たちが中心になってやっているので、

最後の勇姿を見に行ってあげられないのはたいへん心残りです。

きっと卒業してからも活動を続けてくれるものと信じましょう。

それにHPによると定期演奏会ばかりでなく、けっこう頻繁にイベントやってるようなので、

まだまだ 「最後」 なんて言ってしまってはいけないのでしょう。

でもなあ、「サンダーバード」 とか 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 とか、

今回の演奏会はぼく好みの選曲が入っていたので聞き逃すのはやはり残念です。

誰か、ぼくの代わりに聞いてきてください。



ブラス・アンサンブル輝響 第9回演奏会
        「Count Down」


開催日 : 2012年11月10日 (土)

時 間 : 13 : 30開場 14 : 00開演

場 所 : 福島市音楽堂大ホール (入場無料)

曲 目 : 舞踏劇 『ラ・ペリ』 より 「ファンファーレ」 (P.デュカス)
     吹奏楽のための第1組曲 変ホ長調 (G.ホルスト)
     人形劇 『サンダーバード』 より
     映画 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 より 他

誤審との闘い

2012-11-04 13:04:22 | 人間文化論
「文化創造論」 の授業で、誤審をなくすために機械化できるところはどんどん機械化し、
例えば野球だったらストライク、ボールの判定なんて、
赤外線とかでストライクゾーンを照射し自動的に判定できるようにしちゃえばいいのに、
と言ったら多くのスポーツマンの方々から反感を買ってしまいました。
人間は不完全で間違えるもので、その人間が審判をするからスポーツは人間的でいいんだ、
というような意見の方が大半を占めているようでした。
うーん、けっこうみんな物わかりがいいんだなあ。
ぼくなんかはスポーツって素人には絶対にマネできないような、
人間離れした技術を見せてもらえるから面白いんであって、
例えばストライクゾーンぎりぎりに投げ分けるコントロールそのものを楽しみたいから、
それはもう神のような正確さできっちりとストライク、ボールの判定をしてもらいたい、
と思ってしまうのです。
サッカーだったらオフサイドぎりぎりで飛び出してパスをもらってシュートする、
みたいなそのギリギリ感を楽しんでいるのに、
ちょっとしたジャッジの匙加減で、こちらのチームのときにはオフサイドを取り、
あちらのチームのときにはオフサイドにしないなんていう人間的なジャッジがいると、
スポーツそのものの醍醐味がすべて失われてしまうような気がするのです。

どちらかのチームを有利にするようわざと不公正な判定をするなんていう、
スポーツそのものを冒瀆しているような審判のことは今回は無視することにしましょう。
(そんなことを一度でもしたやつは永久追放にすればいいだけのことです)
問題は、今回の危険球退場事件のような場合です。
審判は一度はファウルと判定し、抗議を受けて危険球退場に判定を変えました。
審判も人間ですから間違うことはあるし、見落としてしまうこともあります。
審判自身にもよくわからないということはよくあることでしょう。
問題はそういう場合にどうするかです。
どんなことがあっても審判は絶対だ、という倫理を押し通すことも可能でしょう。
だとしたらいかなる場合もジャッジに対して抗議をしてはならないことにすべきです。
選手であれ監督であれジャッジに文句を言ったら即刻失格ないし退場にしてしまえばいいのです。
しかし、実際にはそんなふうに定めているスポーツは1つもありません。
審判も人間であり間違うこともありうることを認めるということは、
審判の判定に対して異議を唱える権利は残されていることになるのです。

だとしたら、可能な場合には必要に応じてビデオ・チェックをするようにしたらどうでしょう。
たしかにインプレイ中の個々の判断をいちいちビデオ・チェックするのはムリでしょうから、
サッカーのオフサイド判定とか野球のアウト・セーフの判定に取り入れることはできないと思いますが、
今回のような死球かどうかの判定であれば、プレイは止まっているわけですから、
その間にビデオを確認するくらい簡単なことだと思うのです。
両チームの監督が交互に抗議にやってきて、両者が納得して引き下がるまで審判が説明を続ける、
なんていう時間を費やすくらいなら、とっととビデオを見たほうが早く試合を再開できると思うのです。
審判にとってだって、試合が終わった後スポーツ・ニュースの時間に何度もビデオを流されて、
「世紀の大誤審」 だとか 「喝だ、喝!」 だなんていつまでも言われ続けるより、
よっぽどすっきりするのではないでしょうか。
怪しいケースに関してちょっとビデオで確認するくらいのことで審判の権威は下がらないと思うのです。
「あの」 相撲ですらビデオ確認を取り入れていますよね。
あれだけ権威主義的な旧態依然とした組織を未だに維持し、
審判 (行司) は万一の誤審に備えて切腹用の短刀を携えて土俵に上っているという、
あの相撲がもうものすごく早い段階からビデオ・チェックの制度を整えているのです。
他のスポーツでできないことはないでしょう。
不正確なジャッジを下してあとから証拠を突き付けられて槍玉にあげられるほうが、
よっぽど審判の権威を低下させてしまうように思うのです。

そして誤審は、先に論じたアンフェアプレイと同様、スポーツ離れをも引き起こすように思われます。
ロンドン・オリンピックでも多くのミスジャッジがあり興ざめでした。
こちらとしては最高の舞台での最高のプレイを期待しているのに、
選手たちの長年の努力と鍛錬の成果が、未熟なジャッジにより邪魔されて、
彼らのプレイではなく誤審ばかりが後世に語り継がれていくというのは残念でなりません。
スポーツの主役はジャッジではなく選手たちとそのプレイであるべきです。
彼らの最高の技と力を引き出せるよう、現代において利用できる技術はどんどん取り入れ、
正確で素早いジャッジを下せる体制を、すべてのスポーツは確立していくべきではないでしょうか。

Q.なぜ日本人だけが三途の川を見るのですか?

2012-11-03 10:26:42 | 哲学・倫理学ファック
臨死体験問題の続きです。
今回の問いは、前回の問題と関連しています。
正しくはこういう質問でした。

Q.もし、臨死体験が現実体験ならば 「三途の川」 を見るのはなぜ日本人だけなんだろうと思った。

これも若干、補足説明が必要でしょう。
臨死体験談を蒐集してみると、国や文化、宗教の違いによって、
体験する要素に偏りのあることがわかってきました。
例えばキリスト教徒の場合は、イエス・キリストに出会ったという報告がよく聞かれます。
ところが日本人ではイエス・キリストに会ったという人はほとんどおらず、
その代わりに日本人の場合はご質問にもあったように、三途の川を見てきた人が数多くいます。
この話を聞くと多くの学生さんたちは、
国や宗教によって死後の世界がいろいろたくさんあるというのは変なので、
それは臨死体験が現実体験ではないということの証拠なのだ、と判断するみたいです。
私は現実体験説派ではありませんが、しかし、文化によって臨死体験に偏りがあるということは、
現実体験説を否定する論拠にはなりませんので、そのことは説明しておきたいと思います。

私は自分の仮説を 「ノストラダムスの悩み」 問題と名づけています。
ノストラダムスが本物の予言者、予知能力者だったのかどうかはここでは置いておいて、
予知能力をもった人が本当にいると仮定してみましょう。
彼は未来の世界や未来の出来事を映像でパッと見ることができます。
しかし、彼にもいろいろな悩みがあるはずなのです。
見た映像が近未来のイメージで、そこに自分の知った人物や風景が出てくれば、
なんの問題もありません。
例えば、自分の知ってる生きてる人物が槍に刺されて死ぬ映像を見たとすれば、
その映像の意味するところは明らかでしょう。
のちにそれと同じ出来事が起これば、自分に予知能力があったことが判明します。
しかし、ずーっと先のものすごい未来の映像を見てしまったとしたらどうでしょうか。
例えばノストラダムスは16世紀の人でしたが、
その彼が20世紀末 (1999年) の映像を見たらどうなるでしょうか?
飛行機から爆弾が落とされる映像や、ミサイルが爆発する映像を見たとして、
はたして彼はその意味を理解することができたでしょうか?
彼の時代には飛行機なんてありませんでしたし、ミサイルもありませんでした。
それどころか自動車も電話も高層ビルもなかった時代です。
ですから彼が20世紀末の映像を本当に見たとしても、
その映像が何の映像かほとんど理解できなかったはずなのです。
彼の予言詩がほとんど意味不明なのは、そういう理由によるのじゃないかと思うのです。
見るには見たけど何を意味しているのかよくわからなくて、
自分の知っている範囲内のものに置き換えて何とか表現しようとすると、
どうしたってあのわけのわからない詩のようなものにしかならないでしょう。
けっきょく私たちはまったく未知のものを見たとき、
それが本当は何なのかを理解することはできず、
自分の知っているものに置き換えて何となくわかった (表現できた) ような気になるしかないのです。

臨死体験においてもまったく同じ問題が生じます。
本当に死後の世界があると仮定しましょう。
そして、臨死体験においては実際にその死後の世界に行ってきたのだと仮定しましょう。
おそらくその死後の世界というのは、私たちのこの世界とはまったく違う、
全然未知の、意味不明の世界なのではないでしょうか。
物質などまるでなく、したがって物理の法則など何の役にも立たない、
霊的な世界なのでしょう。
というか、とりあえずそう仮定しておくことにしましょう。
その全然未知の世界に一瞬入り込んでしまったとしたら、どうなるでしょうか?
ずっとその世界に住み続けて、先にそこにいた人たちにいろいろ教えてもらえれば、
そこにあるものが何なのか、新しい世界がどんな世界なのかだんだんわかってくるでしょうが、
臨死体験のようにほんのちょっとだけ垣間見てくるだけだとしたら、
ほとんどの事物が実際には何なのかわからないままでしょう。
しかし、わからないではすまされませんので、人間は何とか理解しようとします。
その場合、さっきの予知能力者と同じように、
自分が知っている範囲内のものに置き換えて自分なりに理解するしかないでしょう。
つまり、未知のものに対して自分の知っている概念を当てはめて自分なりに解釈するのです。
この解釈というプロセスにおいて各人の文化的背景が入り込んできてしまうのです。

例えば、闇のトンネルを抜けて光に包まれるという体験をしたときに、
日本人ならたんに 「ものすごい光の中に入っていった」 としか理解しないでしょうが、
キリスト教徒の場合、ずっと 「神は光である」 と聞かされて育ってきているわけですから、
その光の体験を、神とかイエス・キリストに包まれた、と表現する人も出てくるでしょう。
また、記憶や印象に残る残り方も文化的背景によって人それぞれ選択的であるはずです。
その世界で水が流れているような場面を見たとして、
普通だったら、あ、水があるなとか川があるな、と思うだけかもしれませんし、
場合によったら、水が流れているところを見たことすら記憶に残らないかもしれません。
しかし、日本人は皆あの世とこの世の間には三途の川が流れていると聞かされて育っていますので、
見た瞬間に、おお、これはあれだあ、と認識するでしょう。
こっちの世界とあっちの世界を分断して、その川を渡らないと向こうに行けないようになっていれば、
それはおそらくどんな文化圏に所属している人でも、その重要性に気づくでしょうが、
ただたんにそこいらへんに水が流れているだけだとしたら、
多くの民族はさして気にも留めないでしょうが、
それでも日本人は三途の川と思って記憶に留めることになるでしょう。
つまり、未知の世界に出会ったとき、
私たちはけっきょく私たちの知っているものを手がかりに自分なりに解釈していくしかないのです。

というわけで、臨死体験が現実体験であったとしても、
各人の報告が個々バラバラとなり、それぞれの文化的背景に左右されるというのは、
まったく不思議なことでもなんでもなく、むしろそうなるに決まっていると言えるのです。
もちろん、臨死体験はたんなる脳内現象で、各人がそれぞれ違うものを見ているから、
みんなの言うことがてんでバラバラなのかもしれません。
その可能性は高いでしょう。
しかし逆に、臨死体験は脳内現象にすぎないのだけれど、
実は全員が同じ映像を見ているという可能性だってないわけではありません。
同じ映像を見ているのだけれど、人によって記憶しているところがバラバラだったり、
その表現が人それぞれまちまちになってしまっているという可能性もあるわけです。

けっきょく今日の話は臨死体験の問題というよりも認識論の問題になりました。
人はものをどうやって認識するのかという、哲学の由緒正しい問題です。
事物そのものをありのままに認識するというのは実はけっこう難しくて、
私たちはそれぞれがかけている色メガネを通じてしか世界を捉えることはできないのです。
まさにカントの認識論の世界ですね。
最後にお答えを端的にまとめておきましょう。

A.臨死体験が現実体験だとしても、私たちは自分がもっている枠組みを通じてしか、
  未知の世界を理解したり表現したりすることができないので、
  文化や宗教の違いによって見るもの (見たと思うもの) が変わってきてしまうのです。

だます方もだます方、だまされる方もだまされる方

2012-11-02 16:01:28 | 人間文化論
ちょうど 「文化創造論」 の授業でスポーツについてお話しし、
ジャッジの正確性とか、フェアプレイについて論じたばかりですが、
昨日の日本シリーズでそれを語るにうってつけの出来事があったみたいですね。

「世紀の大誤審! 加藤小芝居? 危険球退場」

日本ハムのピッチャー多田野が巨人のバッター加藤に投じた球が、頭部への死球と判断され、
多田野は危険球を投じたとして退場になってしまったという事件です。
その場面、いろいろな番組で何度も繰り返し再生されていますが、
どう見ても身体に当たったようには見えません。
加藤はバントに行きかけてボールが内角に来たために大きくよろけて倒れ込み、
その後、激しく痛がってみせていますが、
ボールはバットに当たったとしか見えません。
仮に身体に当たっていたとしても、けっして頭ではなく、
せいぜいバットを握っていた手に当たったくらいでしょう。
実際、柳田主審は最初ファウルと宣告しています。
ところがそれに対し原監督が抗議し、それを受けて死球とジャッジを変え、
しかもそれが頭部への危険球だったとしてピッチャーを退場としてしまったのです。
それに対しては栗山監督も猛抗議をしましたがこちらは受け入れられませんでした。
ピッチャーからするならば、本来ならファウルでワンストライク稼げていたはずのところ、
誤審によって出塁を許してしまったばかりか、
退場を食らってしまったというのですから、憤懣やるかたないのもうなずけます。
多田野投手は 「だます方もだます方、だまされる方もだまされる方」 という名言を残して、
グラウンドを後にしたそうです。

だましたのは加藤選手で、これはフェアプレイについて考えさせられます。
だまされたのは柳田球審で、これはジャッジの正確性について問題を提起しています。
まずは前者の問題から見ていきましょう。
こういうのって昔は広島の達川選手がよくやっていましたね。
実際には身体に当たっていなくても身体に当たったとアピールして出塁する。
これはどう考えてもフェア (公正) なプレイとは言えないでしょう。
本人は当たっていないことをわかっているわけですからね。
達川の場合は愛敬がありましたが、
今回は日本シリーズという大勝負の場でしたからちょっと後味が悪くなりました。
しかも、加藤は頭に当たったとまで主張したわけではなく、
あわよくば出塁できればいいとは思っていたでしょうが、
まさか相手ピッチャーを退場させようとまでは狙っていなかったものと思います。
(そうであってほしいです)
まだ早い回でピッチャーは交代したばかりでしたから、
そのピッチャーが退場になってしまい、
急遽別のピッチャーをマウンドに上げなければいけないというのは、
勝負の行方を決定づけるような大問題です。
結果的に相手ピッチャーが退場となって加藤はどう思ったのでしょうか?
してやったりとほくそ笑んだのでしょうか。
それとも、まさかそんなつもりじゃなかったのにとちょっと後悔したのでしょうか。

サッカーではこういうプレイがよく見られますね。
相手のスライディングに対して大げさに倒れ込み、
激しく痛がってみせるというシーンです。
本人たちは大まじめで演じているのかもしれませんが、
見ているほうとしてはシラけることこの上ないです。
何が何でも勝たねばならないという前提からするならば、
こんな小芝居のひとつも打ってみたくなる気持ちもわからなくはないですが、
そんなにご贔屓チームのある本格的なサッカーファンではない私としては、
勝ち負けなんかどうでもいいから、最高のプレイを見せてもらいたいだけで、
誤審を誘ってそれに乗じて勝とうとする姿には吐き気を催してしまいます。
サッカーの場合は、やられたフリをするのも反則らしく、
審判が演技を見抜いて逆にその選手にペナルティを与えてくれたりすると、
拍手喝采、それ見たことかざまあみろという気分になります。
今回の日本シリーズも日ハム、巨人、いずれも贔屓のチームではないので、
どちらが勝とうとどうでもいいのですが (若干、巨人に負けてほしいかなあ?)、
日本シリーズという最高の決戦の場にふさわしいハイレベルなプレイを見せてほしい、
というのが私の一番の願いです。
いや、たとえヤクルト・スワローズが出場していたとしても、
その願いに変わりはなかったでしょう。
小ずるいマネをして日本シリーズという場を汚してまで、
贔屓のチームにただ日本一になってもらえばいいというわけではないのです。
すべてのスポーツファンはそう願っているのではないでしょうか?

文化創造論のワークシートでは、フェアプレイを望む者が半数以上いる一方、
特にスポーツに携わっている人たちからは、
勝つためにわざと反則したりするのはやむをえないという意見も多く聞かれました。
商業主義、勝利至上主義が蔓延している今のスポーツ界では、
外野 (第三者) からの希望・期待に沿うより、
目先の結果にこだわらざるをえない事情が存しているのだろうなあということは想像できます。
日本シリーズで優勝できるとできないとでは、今オフの年俸交渉でも大きな差が生じるのでしょう。
でもなんだかなあ。
そういう小賢しい計算ってわざわざスポーツの場で見せられたくないんだよなあ。
目先の利益を追っていると、まわりまわってファン離れを招き、
けっきょく最後は自分たちの首を絞めてしまうように思うのですがいかがでしょうか?
というか、現在のプロ野球の低迷はまさにある1人のオーナーが長年続けてきた、
目先路線の末路にほかならないのではないでしょうか。
このあいだのオリンピックも後味の悪い試合が散見されましたし、
全スポーツは今こそ、長期的視点に立ってフェアプレイの確立を目指すべきではないでしょうか。

すでに長くなってしまったので、ジャッジ問題については別稿にて。

Q.臨死体験は現実体験 or 脳内現象どちらだと思いますか?

2012-11-01 18:20:22 | 哲学・倫理学ファック
看護学校で臨死体験の話をしたところ、いくつか質問をいただきました。
臨死体験とは、心停止や呼吸停止など死にかかったことのある人が、
その最中に経験してきたことで、
本人たちは死後の世界を垣間見てきたと思う場合が多いようです。
立花隆氏によるNHKスペシャルの番組や
『臨死体験』 という本によって日本でも広く知られるようになりました。
私も、立花氏の本が出版された翌年に、
『ホスピスの理想』 という本の第8章 「臨死体験」 を執筆することになり、
いろいろ本を読みあさって調べた覚えがあります。
体外離脱や光のトンネル、死者との出会い、人生走馬灯など、
臨死体験では多くの人が共通した経験をしていることがわかってきています。
統計では、死にかかったことのある人が全人口の約15%、
そのうちの約3分の1、つまり全人口の約5%くらいの人が臨死体験をしているそうです。
まずはこんな質問をいただきました。

Q-1.小野原先生は臨死体験をしたことがありますか?

A-1.まだ体験したことはありません。

いろいろ調べてみてとても興味をもったので、
ぜひ体験してみたいと思っているのですが、
まず死にかかったことがないことには臨死体験はできないので、
いまのところは未経験です。
臨死体験はしてみたいですが、じゃあそのために死にかけてみるかと問われると、
そこまでの勇気はないですね。
死んでしまっては元も子もないわけですし…。
次の質問です。

Q-2.臨死体験は現実体験 or 脳内現象のどちらだと思いますか?

ちょっと説明を付け加えると、臨死体験をしてきた人の多くは、
自分は現実に死後の世界を体験してきたのだと主張するのだそうです。
夢や幻覚ならば見ているときは現実と思っていても、
目覚めてしまえばあれは夢だったとか幻覚だったと自分でも自覚できるものです。
ところが、夢や幻覚とは異なり、臨死体験の場合はものすごい現実感が伴っていて、
目覚めた後もあれは実際の経験であったとしか思えないのだそうです。
そこから、臨死体験は現実に死後の世界を体験してきたのだする、
現実体験説が生まれてきます。
一方で、現実感というものも脳が感じているものにすぎず、
脳のある部分に刺激を与えれば、現実に経験していなくとも、
強烈な現実感を感じることがあるということがわかってきていますので、
臨死体験というのは重篤な状態に陥った人が脳に障害を受けて感じる、
脳内現象にすぎないのだとする説も根強くあります。
授業ではその2説を紹介してみんなはどっちだと思うかと問いかけましたが、
同じ質問が私にも返されてきたというわけです。
この問いにはこうお答えしておきましょう。

A-2.臨死体験は脳内現象だと思います。
    現実体験ではないと証明することはできませんが、
    私としては脳内現象にすぎないんだろうなと思っています。

「人は死んだらどこへ行くのだと思いますか?」 という質問に、
「どこへも行きません。骨や灰などの物質だけが残り、
 意識も心も消滅してしまうだろう、と私は考えています」 と答え、
「心ってどこにあると思いますか?」 という質問に、
心はどこかにあるというようなものではなく、
たんなる脳の働き (機能) にすぎないと思います、と答えた近代合理主義者の私ですから、
この問題に関して脳内現象説派であることは予想がついただろうと思います。
重篤な状態に陥った人は脳の同じような箇所に障害を受け、
その刺激によって同じような映像や感覚が脳内で生じているのだと考えるのが、
科学的には一番合理的な解釈ではないでしょうか。
つまらないっちゃあつまらない解釈ですが…。

ただ私としてはたんなる脳内現象であったとしても、
臨死体験には重要な意味があり、その価値は奪われるものではないと思っています。
それは、臨死体験というのは死後の世界の体験ではなく、
死のプロセスの体験なのではないかということです。
死んだ後のことはわかりませんが、死ぬプロセスにおいては、
多くの人がああいうものを見たり聞いたり感じたりするのではないか。
死ぬ人というのは皆ああいうものを体験しながら死んで行くのではないか。
もちろんこれも死んだ人に聞いて確かめることはできないので、
あくまでも仮説にすぎないのですが、
死の際に脳内で生じていることを推測してみると、
けっこう当たっているような気がするのです。
私は立花氏のあの本を読んで、それまでずっと持っていた死への恐怖が軽減されました。
私が持っていた恐怖というのは死んだ後のことではなく、
死ぬ途中でどんな苦しい思いをするんだろうかという恐怖でした。
その恐怖は、近代合理主義者の私であっても確実に軽減されたのです。
ですから脳内現象であったとしても臨死体験には重要な意味があると思うのです。
詳しくはぜひ立花氏の本を読んでみてください。
けっこうハマりますよ。
もうひとつ質問をいただいていましたが、それは稿を改めて書くことにしましょう。