昨日 お話し しました摂津の國。
これを真っ二つに割った理由はなんでしょうか。
幕末から明治維新を経て新政府になった時です。
まず明治政府は日本 の首府を江戸に決めました。
これについても諸々の裏話がありますが 今回は割愛します。
明治政府は新しい国作りとして様々な政策を打ち出した中に 廃藩置県がありました。旧態の國を改めて県 に移行したのです。
例えば、武蔵の國は埼玉県と東京府に分けました。尾張と三河を併せて愛知県になりました。
又、近江の國はそのまま滋賀県。
バラしたり、引っ付けたりそのままだったり 様々ですが、
先ほどの摂津の國 この國は 面積は狭いのですが、江戸時代は流通経済の中心となっていて 他の國と比較にならない裕福な、つまり経済力がある國でした。
又、同じ摂津の國には兵庫という良港があり 飛行機のない時代、船舶が最大の輸送手段。将来は日本の玄関口として 海外向けに港を開く候補地でもありました。
つまり 今でも経済力が抜群な摂津の國に港が出来たら これはもう 江戸を改名した新首府の東京 を凌駕する県、府になってしまうのは間違いのない事でした。 それで何を危惧したかと言いますと、最初に首府の位置を大阪(坂)にしよう。という意見がかなりあって しかし政府庁舎の場所がない などの反対意見に押されたため江戸 東京になった経緯がありました。 せっかく東京で落ち着いた遷都問題がぶり返すのを 明治政府は危惧したわけです。
それで摂津の國を二つに分割すれば 巨大な経済力は半分になり東京 を越えなくなるだろう。
ただし摂津の國を半分にすると 如何にも狭すぎるし、背後にある河内と和泉は大阪と結び付きが強いので一緒にすればいいのでは それで今の大阪府が誕生となったのです。 一方 摂津の國のもう半分は 将来の兵庫港を開発して海外の船舶を迎い入れる港とする。 これは 国策でしたただし開発には莫大な費用が嵩むため、隣の裕福な播磨の國や諸々の土地と併せたのですね。
つまり播磨やその他の土地は兵庫港を開拓するために揚がった諸税を貢ぎ続けるためだったのです。 兵庫は県名となり 港は神戸と名付けられたのは 衆知のことですね(^^)
大阪がいかに 明治政府からみて別格だったかは 府 が付けたことでもわかります。
明治政府は 首府としての 東京に府をつけて 東京府としました。戦前に東京都となりましたが 明治時代は東京府。そして それまで千年を有するあいだ首府であった京都にも 敬意を評して京都府としました。
そして 経済力が桁外れに大きかった大阪にも 西日本の中心として大阪府としたのです。
経緯からして 又それ以前の歴史から摂津の國のなかにある神戸と大阪は兄弟みたいな街だったのですね。
今、仮に明治政府の政策がなかって 摂津府 であったら 府庁はやっぱり大阪にあったのでしょうか。
ここまで仲が悪くなかったのか…
興味は尽きないですね(^^)
これを真っ二つに割った理由はなんでしょうか。
幕末から明治維新を経て新政府になった時です。
まず明治政府は日本 の首府を江戸に決めました。
これについても諸々の裏話がありますが 今回は割愛します。
明治政府は新しい国作りとして様々な政策を打ち出した中に 廃藩置県がありました。旧態の國を改めて県 に移行したのです。
例えば、武蔵の國は埼玉県と東京府に分けました。尾張と三河を併せて愛知県になりました。
又、近江の國はそのまま滋賀県。
バラしたり、引っ付けたりそのままだったり 様々ですが、
先ほどの摂津の國 この國は 面積は狭いのですが、江戸時代は流通経済の中心となっていて 他の國と比較にならない裕福な、つまり経済力がある國でした。
又、同じ摂津の國には兵庫という良港があり 飛行機のない時代、船舶が最大の輸送手段。将来は日本の玄関口として 海外向けに港を開く候補地でもありました。
つまり 今でも経済力が抜群な摂津の國に港が出来たら これはもう 江戸を改名した新首府の東京 を凌駕する県、府になってしまうのは間違いのない事でした。 それで何を危惧したかと言いますと、最初に首府の位置を大阪(坂)にしよう。という意見がかなりあって しかし政府庁舎の場所がない などの反対意見に押されたため江戸 東京になった経緯がありました。 せっかく東京で落ち着いた遷都問題がぶり返すのを 明治政府は危惧したわけです。
それで摂津の國を二つに分割すれば 巨大な経済力は半分になり東京 を越えなくなるだろう。
ただし摂津の國を半分にすると 如何にも狭すぎるし、背後にある河内と和泉は大阪と結び付きが強いので一緒にすればいいのでは それで今の大阪府が誕生となったのです。 一方 摂津の國のもう半分は 将来の兵庫港を開発して海外の船舶を迎い入れる港とする。 これは 国策でしたただし開発には莫大な費用が嵩むため、隣の裕福な播磨の國や諸々の土地と併せたのですね。
つまり播磨やその他の土地は兵庫港を開拓するために揚がった諸税を貢ぎ続けるためだったのです。 兵庫は県名となり 港は神戸と名付けられたのは 衆知のことですね(^^)
大阪がいかに 明治政府からみて別格だったかは 府 が付けたことでもわかります。
明治政府は 首府としての 東京に府をつけて 東京府としました。戦前に東京都となりましたが 明治時代は東京府。そして それまで千年を有するあいだ首府であった京都にも 敬意を評して京都府としました。
そして 経済力が桁外れに大きかった大阪にも 西日本の中心として大阪府としたのです。
経緯からして 又それ以前の歴史から摂津の國のなかにある神戸と大阪は兄弟みたいな街だったのですね。
今、仮に明治政府の政策がなかって 摂津府 であったら 府庁はやっぱり大阪にあったのでしょうか。
ここまで仲が悪くなかったのか…
興味は尽きないですね(^^)