細川陣営は、主張はよかったが候補者が悪すぎた
細川さんはインターネットに負けた。
昔なら、演説など聞かずにビラかなんかで公約だけ見て投票する人も多かっただろう。だが今や世の中にはインターネットがあり、手軽に動画で演説を視聴することができる。現に細川さんの公式ホームページでも動画が広く公開されていた。そして細川さんはこの文明の利器の前に負けるべくして負けた。
ディベート力に欠け、「自分はこう考える」とハッキリ自説を主張し議論を戦わせることができない。絵に描いたような「よきにはからえ」の人である。
おそらく優秀なブレーンがついて手足になれば、鷹揚な細川さんは彼らを自由に躍動させてスタッフのよさが出るのだろう。だがネットの向こう側の映像は、容赦なく本人そのものを引っ張り出す。たぶん1~2度、あの力ない演説を聞けば支持する気持ちが萎えるだろう。
いや細川さんはあくまで君臨すれども統治せず、脱原発の象徴である。だが投票日直前の「報道ステーション」で、田母神さんの原発擁護発言に鋭く切り込む宇都宮さんの姿を見せられれば、それは「原発をなくしたい」と考えている人なら、そっちへなびいてもおかしくはない(現に順位を見れば結果そうなった)。
勝負はあの田母神 vs 宇都宮の論争に、細川さんが無軌道に割って入れるかどうか? だった。だが細川さんは悲しいかな、関ヶ原の乱で戦塵を前にフリーズした小早川秀秋のように微動だにしなかった。そんな無法を働くには、人間的に上品すぎた。
それまで細川さんのか弱い演説(と具体性のない内容)にストレスをためていた無党派の支持者たち――君主が小早川秀秋化した「あの瞬間」に、彼らはみずからが小早川秀秋と化し、殿に旗印を背かせたとしてもおかしくはない。
主役はどんな演技を見せてくれるのか?
マスコミを味方にできなかったのも、大きな敗因のひとつだ。
今回の都知事選で(皮肉なことに)本丸だった小泉さんが細川支持を打ち出した時点では、少なくともマスコミは「いったいどんな絵を見せてくれるのか?」と期待していた。だが形の上では主役である細川さんが演技力不足と見るや(もちろん、そのほかに「どんな力学」が働いたのかは本題じゃないから邪推しないが)、いっせいに踵を返した。
その結果、細川陣営がいちばん見せたかったはずの小泉さんとのツーショットが雄雄しくテレビに躍ることはなかった(というより、どこか遠い国で関係のない何かが起こっている程度の雰囲気だった)。同時にまた、細川陣営の街頭演説に集まったあのドラマチックでおびただしい数の大群衆もクローズアップされなかった。
伝令役のメディアなしでは街頭のできごとが発火点となり、やがてはそれが渦となって大きなうねりを起こすことはない。アナウンス効果が小さすぎる。
それにネットの動画配信はプル型だ。客が能動的に情報を取りに行かなければ見られない。これだけではマーケティング的に弱い。やはり夕飯どきになんとなくテレビから勝手に流れてくるプッシュ型の絵が必要だった。しかも小泉さん入りの――。
討論ができなきゃ政治家じゃない
討論会を忌避したスタンスも響いた。「きちんと自分の主張を述べられる形式ならいつでも受ける。だがワイドショー的に蜂の巣を突付いたようなのは本意でない」と本人は説明していた。だが前述した報道ステーションでのひとコマを見ればわかる通り、逆に討論会に出ればマイナスになるようなキャラクターではそれもうなずける。
一方、「朝まで生テレビ」では、各候補者が司会者と1対1で問答するスタイルだったが(報ステも同じ)、「その形式でなければ出ない」とのオーダーがあったと番組の出演者から舞台裏を暴露されていた。
選挙の主役クラスの1人が出ないのでは番組にならない。局側は背に腹は変えられず、不承不承でも司会者とのインタビュー形式にせざるを得ない。踊ってもらおうにも役者がウンといわない。これではマスコミ受けが悪くなるのも当然だろう。
また1人の都合で、居並ぶ各候補者が全員「討論の場を奪われる」のでは理屈に合わない。有権者も、主要候補者の能力や政策、人柄を見比べる貴重な手立てであるディベートを見る機会を取り上げられるのだ。こんな理不尽な話はない。
結果、1月14日のあのツーショットでのド派手な出馬表明以降、次第にマスコミは小泉さんとのツーショットを隠そうとした。一方の細川さんは、自分の討論シーンを見せたがらない。
このメディアと候補者との奇妙な共犯関係が、最後に「本命」である舛添さんをダブルスコアで勝たせた――。まるでアメリカの大統領選挙のようにメディアが決めた都知事選だった。
今度は安倍劇場の始まりか?
二匹目のどじょうを狙った小泉さんのシングル・イシュー戦略は通用しなかった。劇場は、それを伝えるメディア抜きでは成り立たない。と同時に、小泉さんの仕掛けにハマらなかった都民は裏を返せばリテラシーを発揮したともいえる。
「国政マターの原発問題を、都知事選に持ち込むなんて邪道だ」
そんな「正論」が細川敗北の理由と信じる人は相当ウブな人である。
さて舞台は第二幕。
「都知事選を見よ。全権委任だ」とばかりに、今度は安倍劇場が始まるのか?
われわれ国民は注意深く見守らなくてはならない。
【関連記事】
『「小泉劇場」はいかにして作られたか? ──シングルイシュー戦略とその深層心理』
『政権交代が起きない日本というシステム──自民と民主の「新・55年体制」が始まる』
細川さんはインターネットに負けた。
昔なら、演説など聞かずにビラかなんかで公約だけ見て投票する人も多かっただろう。だが今や世の中にはインターネットがあり、手軽に動画で演説を視聴することができる。現に細川さんの公式ホームページでも動画が広く公開されていた。そして細川さんはこの文明の利器の前に負けるべくして負けた。
ディベート力に欠け、「自分はこう考える」とハッキリ自説を主張し議論を戦わせることができない。絵に描いたような「よきにはからえ」の人である。
おそらく優秀なブレーンがついて手足になれば、鷹揚な細川さんは彼らを自由に躍動させてスタッフのよさが出るのだろう。だがネットの向こう側の映像は、容赦なく本人そのものを引っ張り出す。たぶん1~2度、あの力ない演説を聞けば支持する気持ちが萎えるだろう。
いや細川さんはあくまで君臨すれども統治せず、脱原発の象徴である。だが投票日直前の「報道ステーション」で、田母神さんの原発擁護発言に鋭く切り込む宇都宮さんの姿を見せられれば、それは「原発をなくしたい」と考えている人なら、そっちへなびいてもおかしくはない(現に順位を見れば結果そうなった)。
勝負はあの田母神 vs 宇都宮の論争に、細川さんが無軌道に割って入れるかどうか? だった。だが細川さんは悲しいかな、関ヶ原の乱で戦塵を前にフリーズした小早川秀秋のように微動だにしなかった。そんな無法を働くには、人間的に上品すぎた。
それまで細川さんのか弱い演説(と具体性のない内容)にストレスをためていた無党派の支持者たち――君主が小早川秀秋化した「あの瞬間」に、彼らはみずからが小早川秀秋と化し、殿に旗印を背かせたとしてもおかしくはない。
主役はどんな演技を見せてくれるのか?
マスコミを味方にできなかったのも、大きな敗因のひとつだ。
今回の都知事選で(皮肉なことに)本丸だった小泉さんが細川支持を打ち出した時点では、少なくともマスコミは「いったいどんな絵を見せてくれるのか?」と期待していた。だが形の上では主役である細川さんが演技力不足と見るや(もちろん、そのほかに「どんな力学」が働いたのかは本題じゃないから邪推しないが)、いっせいに踵を返した。
その結果、細川陣営がいちばん見せたかったはずの小泉さんとのツーショットが雄雄しくテレビに躍ることはなかった(というより、どこか遠い国で関係のない何かが起こっている程度の雰囲気だった)。同時にまた、細川陣営の街頭演説に集まったあのドラマチックでおびただしい数の大群衆もクローズアップされなかった。
伝令役のメディアなしでは街頭のできごとが発火点となり、やがてはそれが渦となって大きなうねりを起こすことはない。アナウンス効果が小さすぎる。
それにネットの動画配信はプル型だ。客が能動的に情報を取りに行かなければ見られない。これだけではマーケティング的に弱い。やはり夕飯どきになんとなくテレビから勝手に流れてくるプッシュ型の絵が必要だった。しかも小泉さん入りの――。
討論ができなきゃ政治家じゃない
討論会を忌避したスタンスも響いた。「きちんと自分の主張を述べられる形式ならいつでも受ける。だがワイドショー的に蜂の巣を突付いたようなのは本意でない」と本人は説明していた。だが前述した報道ステーションでのひとコマを見ればわかる通り、逆に討論会に出ればマイナスになるようなキャラクターではそれもうなずける。
一方、「朝まで生テレビ」では、各候補者が司会者と1対1で問答するスタイルだったが(報ステも同じ)、「その形式でなければ出ない」とのオーダーがあったと番組の出演者から舞台裏を暴露されていた。
選挙の主役クラスの1人が出ないのでは番組にならない。局側は背に腹は変えられず、不承不承でも司会者とのインタビュー形式にせざるを得ない。踊ってもらおうにも役者がウンといわない。これではマスコミ受けが悪くなるのも当然だろう。
また1人の都合で、居並ぶ各候補者が全員「討論の場を奪われる」のでは理屈に合わない。有権者も、主要候補者の能力や政策、人柄を見比べる貴重な手立てであるディベートを見る機会を取り上げられるのだ。こんな理不尽な話はない。
結果、1月14日のあのツーショットでのド派手な出馬表明以降、次第にマスコミは小泉さんとのツーショットを隠そうとした。一方の細川さんは、自分の討論シーンを見せたがらない。
このメディアと候補者との奇妙な共犯関係が、最後に「本命」である舛添さんをダブルスコアで勝たせた――。まるでアメリカの大統領選挙のようにメディアが決めた都知事選だった。
今度は安倍劇場の始まりか?
二匹目のどじょうを狙った小泉さんのシングル・イシュー戦略は通用しなかった。劇場は、それを伝えるメディア抜きでは成り立たない。と同時に、小泉さんの仕掛けにハマらなかった都民は裏を返せばリテラシーを発揮したともいえる。
「国政マターの原発問題を、都知事選に持ち込むなんて邪道だ」
そんな「正論」が細川敗北の理由と信じる人は相当ウブな人である。
さて舞台は第二幕。
「都知事選を見よ。全権委任だ」とばかりに、今度は安倍劇場が始まるのか?
われわれ国民は注意深く見守らなくてはならない。
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