すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

異性の友だちってありえるか?

2007-08-30 10:05:34 | エッセイ
 みなさんは、異性の友だちって成立すると思いますか? 

 私はほんの10年位前まで、そんなもんはありえないと感じていた。現にありえてなかったし、これからもそうだと思ってた。だけど幸か不幸かそのころ付き合ってた元カノが、この前例を木っ端微塵に吹き飛ばした。ホントに幸か不幸かなんだけどさ。

 明らかに私と彼女は相互補完の関係にあった。まったくタイプがちがうから合わないと思いきや、自分にはあるけど相手に足りない部分を自然に手助けしていた。

 彼女は私の好きなことをやろうとした。もちろん逆に私もそうだ。

 あるとき私が好きな盆踊りに行き、いっしょに踊った。私には経験があるが、彼女が踊るのは初めてだ。すっかり盛り上がり、私はなかなか帰る気にならない。すると彼女は汗だくになりながら、ずっと私の後ろについて踊っていた。

 ふと時計を見るともう夜中の2:30だ。なのに彼女は「疲れた」とか「帰ろう」とかひと言も言わず、何時間も楽しそうに踊っている。結局、私が根を上げ、3:00頃に私のほうからお開きにした。すると「じゃあ帰りましょう」とあっさり言う。こいつはすごいやつだなあ、と思った。私のおばあちゃんにそっくりなのだ。

 私のおじいちゃんは私と同じで、盆踊りになるとやってることがもうハチャメチャだった。なのにおばあちゃんはニコニコ笑って共闘していた。いい夫婦だった。

 ああ話がそれたぞ。異性の友だちの話だ。元に戻そう。

 てなわけで私にはなんとなく、「こいつと縁が切れるなんてことはありえないな」という妙な確信があった。女性に対してそんなことを感じたのは生まれて初めてだ。

 いまから思えば、ここで言う「縁」てのは恋人とか夫婦とかじゃなく、人間としての縁だったと後日気づくわけだが。

 万物は流転し、形あるものはいつかは崩れる。

 こんなふうにすっかり油断し切っていた私は、あるとき彼女にやるべき大切なことをやらなかった。今でもそのことはとても申し訳なく思っている。もしもう一度生まれ変わることがあったなら、私はそのことをやるだろう。

 そのせいかどうかはわからないが、男と女としての私たちは終わった。

 で、われわれは必然的に異性の友だちになった。あるときは1年くらい、電話さえしないこともあった。一ヶ月、二ヶ月なんてザラだ。

 だけど次に話したときは、何事もなかったかのように会話が成立する。ブランクの期間なんてなかったかのように。

 結果、彼女は男友だち以上に私の親友になった。というか超ダントツの友だちだ。スペシャルである。彼女の才能はすごいと思うし、尊敬している。何よりいいやつだ。私は心から応援している。……ってラブレターみたいになってるぞこれ。いやそうじゃないんだけどなあ。

 でさ、こういう話って実名ブログだとマジで書きにくいわけよ。かなりボカしてるんだけど、わかる人にはわかっちゃうし。

 てなわけで私はネットの実名化に反対です(どないやねん)。
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CGMは集合知を発信するツールである(くどいけど反論)

2007-08-19 13:05:21 | メディア論
 おとといの夜、東京へ帰ってきました。南の国へ優雅に夏休みのバカンス(笑)に出かけてる間に、集合知についていろんな「お手紙」をいただいたようだ。

 夏休みだし、次は「人生スルー」系とか生き方関連のエントリを連発したいって思ってたんだけど……まあいいや。ここ何回かは寄せられたお便り群への反応エントリとさせていただく。

 まずブログ「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」さんのエントリ『「実名匿名論争」のその後』である。

 筆者のmb101boldさんは、バランス感覚のある客観的な視点と筆致が特徴だ。私が言いたいこと、および私に反論されている方々の主張を、私よりうまくまとめられている。このエントリに反応しておけば、おおよそ他の反論エントリへのお返事にもなりそうだ。

 なので私が提示する反証の第一回目は、mb101boldさん方面から書き始めることにしよう。

■実名制度は水戸黄門の印籠か?

『CONCORDE』のTristarさんが言うとおり(参照)、ブログは娯楽の領域に入っているんだと思うんですね。そういう人が大多数の場合、より精度や質の高い論議を守るために、実名化を制度化するとなると、少数の利益のために大多数が不利益を被ることになるんですね。だから、匿名の害悪をデフォルメせざるを得ないのかな。

●ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね):『「実名匿名論争」のその後』(以下、同)


 同意できるご意見だ。ただし一点、少しちがうと思うポイントもある。それは弁護士・小倉秀夫さんらが主張されている実名制度をもってしても、「より精度や質の高い論議を守る」ことができるのか? が不透明な点である。

 ゆえに、「彼らがそれによって『質の高い議論が可能になる』と考えている実名制度を導入しようとすると」みたいな書き方のほうが正確かもしれない。

 加えてインターネットの実名化は、メリットよりむしろデメリットのほうが大きいと私は考えている。繰り返しになるので、その理由については文末にあげた過去の「関連エントリ」を参照してください>読者のみなさん。

■小倉さんはSNSの活用やコメント欄の閉鎖に否定的だ

要は、Tristarさんは、匿名さんと一緒にいるのが嫌な人は、じゃあ、自分たちの場所を別に作ったらいいんじゃないですか、ネットの空間は無限だし、SNSとかもあるし、ということだと思うんですね。それよりも、学会の活性化を行えばいいじゃん、と思います。その誤解がちょっと生まれているのが、残念かなあ、と思います。


 この点については後日、Tristarさんへの反論エントリで書こうと思うが少しだけふれておく。

 私は基本的に小倉さんのご意見へのアンチテーゼとして、一連のエントリを書いている。でなければ議論にならないからだ。

 で、(Tristarさんのお考えとは関係なく)当の小倉さんはSNSを否定されている。またコメント欄を閉じる手法も支持されていない。これらは小倉さんと、えっけんさんとの質疑応答ですでに明らかになっている。

 つまり小倉さんはSNSの活用やコメント欄閉鎖などの空間の閉域化を行わず、かつ、そのオープンな空間から匿名者を排除したいとお考えだ。なのでTristarさんが個人的にSNSの活用をイメージされていたとしても、それは小倉さんへの対案にはならない。

 もっとも個人的には、小倉さん的な発想の方はご自分がSNSに閉じこもるなり、何らかのアクセス制限をかけるなりするのが筋だと私は思う。

 だけど小倉さん個人はそうするつもりはないようだし、また世の中にそれらの対策を呼びかける意思もお持ちになっていない。

 つまりオレは自分でできる対策はいっさい取らない。だからお前らは言葉を発するな。匿名の人間はみんな実名で書けってことなわけ。

 でもさあ、これって車の両輪じゃないの? 自分でできる対策と、(実名化に限らず)それ以外の社会的な対策は同時にやんなきゃだめでしょう。で、私は一連のエントリにおいて、このご意見に対する反論をしているわけだ。

 ※mb101boldさんのおかげで、かなり論点が整理できました。

■集合知の概念ってそんなにわかりにくいかなあ?

 またmb101boldさんは、こうもお書きになっている。

「集合知」というネーミングが誤解を与えるのかなあ。それは、「みんなの意見(集合知)」と書き直されていたので、もしかすると松岡さんは気づかれているのかもしれないですが。集合知、質が高い、専門性、アカデミズム、みたいな連想になりますが、この「実名匿名論争」も「集合知」のひとつですよね。W-ZERO3[es]というウィルコム端末があるのですが、この本質的に不完全なスマートフォンをよってたかって素晴らしい端末に変えてしまったのは、ネットにいる有名無名人たちです。これも立派な「集合知」だと思うんですわ。


 前段については、「もしかすると」じゃなくその通りです。

 実際、ブログ「幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする」さんが7月31日にお書きになったエントリ『インターネットはローカル現実と違うリアリティを目指した方が良いよね』の次のくだりを読み、「ああ、そういう誤読のしかたもありえるのか」とは感じていた。

「集合知」って単語だけを聞くと「世界中の天才の知性を集結!」的なファンタジーを思い浮かべがちで、小倉センセイ辺りは松岡さんの説明だけだと誤解しちゃうんじゃないかと思ったり。


 集合知って概念はもう常識だと思ってたんで、私は当初よけいな説明を省いた。私の文章はただでさえ長文になりがちなので、読みやすく整理するためだ。ところが上記のご指摘を読み、何も知らない方にもわかる書き方をしなきゃダメだなと考えた。

 そこで私はその後に書いたエントリ『みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合』の中で、かなりわかりやすく集合知について再説明したつもりだ。

 また客観性を持たせるために、いくつかの参考文献もあげている。ところが小倉さんとTristarさんのその後のエントリを読む限り、お二方は依然として集合知なる概念・定義を誤解されているようである。

 だけどこれ以上の説明を加えるのもくどいし、なによりmb101boldさんが上記の後段で一発回答されている。なのでそれにからめてもう一度だけ、集合知について以下の通り補足しておく。

----------------------------------------------
 CGMから生み出される集合知が有効に機能するための要件は、多様性や独立性など前々回のエントリで説明した通りだ。また広い意味では、CGMによって総体としてなされる意思決定や作られるトレンド、世論など、思考のありようやそのメカニズム自体も集合知だと個人的には思っている。ただし、もちろんそれらが常に正しいとは限らない
----------------------------------------------

■「匿名で書くか、実名で書くか」は他人が判断すべきことか?

 一方、mb101boldさんの次の主張もうなずける。

実名の人から、おまえら匿名で卑怯だと言われると、まあ、少しばかり後ろめたいとこあるから、うーん、となるんですが、私は本業が広告屋でいま午前4時30分で、一仕事終えてから「実名匿名論争」という仕事に何の関係もないことをつらつら書いているわけで、実名でやってるとおまえ仕事中途半端にして何をしてるんだ、と言われそうですよね。それが匿名だと、気楽に書けると。別に、私個人は別人格でこれを書いてるわけではなくて、匿名が与えてくれるこんな自由は認めてくれてもいいんじゃないですか、と思うのですがねえ。


 おっしゃる通りだ。実際、私も2005年4月1日に書いたエントリその他で、実名でブログを運営することの窮屈感について以下の通り言及している。

おい、仕事の原稿たまってんのに、こんなん書いててどうするんだよ? 編集者様もこれ見てるぞやばいぞ、おまい。

『ほりえもんで読み解く「ブログはアウトサイダー」か?』


 私は実名なので、仕事の締め切りをシカトしてブログを書けない。それどころかコメント欄に応えることすら不可能だ。「松岡さんは仕事の原稿が1日遅れてるのに、ブログなんか書いてるッ」ってなっちゃうからだ。

 いや私の個人的な事情が主題なんじゃなく、一般論として実名で書くといろんな縛りがかかりますよって話だ。

 かといって私は別にだから匿名のほうが優れてるとも言わないし、逆にもちろんネット全体を実名化しよう。実名以外のヤツは書くななんてことを言うつもりもない。

 匿名で書くか? 実名で書くか? んなこた、各自が勝手に判断すりゃいいことなんだから。

■その昔、ネット上には「公益」なる概念があった

 さてその他の方々への問題提起や反論は、別途、次回以降のエントリで書くつもりだ。

「おいおいまだ続くのかよ」と思わないでもない。けど、こりゃ徹底的に論点をあぶり出し、みなさんに提示しておいたほうが公益にかなうかな? って気がしてきたのだ。

 そのほうが勝ち負けにこだわりがちな論争の当事者以外(読者のみなさん)の判断材料になる。また、なによりこの論争を読まれている第三者の方々がネットを使う上で、何かしらのメリットになるかもしれない。

 なんでかって? いや、このテの質疑応答やら問題提起自体がコレすべて、みーんな集合知なんだからね。

(こう書くとまた誤読されるのかなあ。ポリポリ)

【関連エントリ】

『みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合』

『実名制度は集合知の多様性を奪うか?』

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』
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人生をスルーした人々

2007-08-09 07:34:00 | エッセイ
 休暇で沖縄の離島に行き、不思議な人たちと出会った。彼らは決まって20代で、本州など沖縄以外の土地から移住してきている。仕事は現地ツアーのガイドや民宿の従業員など。島での雇用はもっぱら観光産業しかないからだ。

 彼らはなぜ20代の若さでこんな南の果てへ来たのか? 興味をもち、何人かに話を聞いてみた。神戸から移住し、ホテルで働く女性は「ここなら何もないと思ったから」と言う。なんと私がこの離島へ遊びに来たのと同じ理由だった。

 だけど彼女は旅行じゃない。移住だ。「何もないから移り住んだ」というのは、ある意味ふつうじゃない。なんだか老子みたいに人生を達観したような感じなのだ。

 しばらくあれこれ話してみた。すると本人は決して触れないけれど、自分の人生でかなりヘビーな体験をしたようだった。で、突き抜けてここへ来たというのが真相らしい。

 またトレッキングツアーのガイドをやってる岐阜出身の男性に「なぜ来たのか?」と聞くと、「岐阜って海がないんすよねぇ」と笑う。

 まあ冗談なのだが、このジョークは相手を笑わせようっていうんじゃなく、明らかに言わなきゃいけなくなることを言わずにすませるために発したものだ。やはり何かがあったのだろう。

 基本的に彼は笑顔が多いのだが、ふとした瞬間にとても厳しい顔つきになる。そのときの目は、平々凡々と生きてる人の目じゃなかった。船に乗るクルージングツアーでガイドをしている移住者の女性も、そういえば同じ目をしていた。

 ほかにも何人かに話を聞いたが、似たような人はかなりいるらしい。まだ20代なのにご隠居さんみたいに人生を降りてる感じ。スルーしているのだ。島そのものが尼寺というか。大量の若い人たちがこんなふうに降りているのは、かなりショッキングだった。

 いわゆる上昇志向がなく、何かを目指したりもしない。たぶん彼らは旧来の価値観でいえば、負け組とか下流とかにカテゴライズされる人たちだろう。

 だけど果たして彼らは「負けた」のだろうか? いや、これは人生のリターンマッチだ。

 いったんは何かをなくし、あるいはなくす以前にまだ何者でもない自分を抱え、人生という名のジグソーパズルでどうしても見つからなかった最後のワンピースが「カチッ」と音を立ててハマった人たち。

 新自由主義的な政策がこのまま続けば、今後ますますアメリカみたいにリッチな層とプア層との二極化が進むはずだ。だけどいわゆる「負け組」に占める「負けたと思ってない人たち」の比率もまた高くなるんだろうな、きっと。

【関連エントリ】

『自分探しシンドロームを超えろ』

『自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』

(追記)クロスワードパズルをジグソーパズルにかえた(2007-8/9)

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みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合

2007-08-08 16:51:36 | メディア論
 ブログ「CONCORDE」のTristarさんと、弁護士の小倉秀夫さんからトラックバックをいただいた。お二方とも集合知に疑問をお持ちのようだ。そこで寄せられたご意見をもとに、集合知について概観してみよう。

■集合知が機能するためには多様性や独立性が大切だ

 結論を先に言えば、集合知がうまく機能するには条件がある。集まった個が多様であること、また彼らが他人に影響されない独立性を保っているか? などの要素により、集合知が有効に働く場合とそうでない場合があるってことだ。

 まず議論の前提をはっきりさせるために、集合知の定義を確認しよう。わかりやすい参考文献をあげておくので、ご一読願いたい。

『Web2.0と集合知』(Much Ado about Web ウェブのから騒ぎ)
『多様化する個を集めて新しい価値を生み出す「Wisdom of Crowds」』(伊藤直也の「アルファギークのブックマーク」)
『The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business,Economies, Societies and Nations』(H-Yamaguchi.net)

 ではTristarさんのご意見から見て行こう。

「ネットのオープンさ」に対してなのか、「ブログ」に対してなのか、
ともかくそれらに過剰に期待しすぎてはいませんか。

『現実世界へのメリットや有益有能が前提なら、それ専用の場でするのが効率的だと思うよ、という図示』(CONCORDE)


 いや別に過剰な期待などしていない。私は前々回のエントリで、国家が戦争を回避するケースや会社の売上高を予測するケースを例に取り、集合知が有効に機能した場合の説明をしている。

 文中で私は、多様性が重要なポイントだと書いた。また売上高予測の項では、逆に多様性がなく、集合知が適切に働かないケースについても触れている。「集合知は常に有効だ」とか、「必ず正しい」なんていう極論は書いてない。

 加えて私は以前、ネットに過剰に期待しすぎると「参加型ジャーナリズム」はどうダメになるか? さらには人々の集団が衆愚に陥る危険性についても言及している。次のエントリをお読み願いたい。

 ●『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』
 ●『参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係』

 つまり意図(集合知がうまく機能する場合)と逆の結果が出る可能性を常に考えながら、頭の中でバランスを取るのが大事だってことだ。そうすれば「自分の考えはいつも正しい」みたいな愚を犯さずにすむ。

 だからこそ私はメディアリテラシーが大切だと書いているし、

 ●『ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱』

 なぜブログ界に多様性が必要なのか? についても次のエントリでふれている。

 ●『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』

■Googleは集合知を集約しフィルタリングするシステムだ

 さて、結論としてTristarさんはこうお書きになっている。

実名匿名どっちにしたって才能を生かしたエントリー・有益な文章が前提なのであれば、実名匿名のメリットデメリットに話が矮小化されてまとめられつつある件について。(2007.07)より再掲しますが:『我は「玉石の玉なり」と信ずる者たちの"ゲーテッド・コミュニティ"』のなかで発信/コミュニケーションを行えばメリットを得るにしろ"集合知"の醸成にしろはるかに効率的ではないのでしょうか?


 いや現にGoogleは、玉も石もあるネットの大海から、効率よく有益な情報をすくい上げている。

 Googleやソーシャルブックマーク、Wikipediaなどは、集合知を集約してうまく機能させるツールである。人々から得られた知識やものの見方をあれこれ比較し、よりよい結論を出すためのシステムだ。これらがあれば効率のよさは担保されるし、同時に多様性も維持できる。別に専門家だけが集まって何かをやる必要なんてないのだ。

■問題は「総体」として信頼性が高いかどうかだ

 じゃあ次は小倉さんのエントリに移ろう。

集合知が価値を持つためには、意見を発する「衆」の側に一定の能力と誠実さがあることが求められます。「おふざけ」を含めた邪な気持ちで発信される情報の割合が増えれば、集合知の価値はどんどん下落していきます。

『集合知の価値を維持するのは大変だ』(la_causette)


 もちろんすべての人間が能力や誠実さをもっているのが理想だ。だけどそんな世の中ってありえない。小倉さんの持論通り、ノイズは一定レベルで存在する。ではどうすればいいのか? 先に書いたように、Googleやソーシャルブックマークを使えばいいのだ。そうすればノイズをフィルタリングしながら、質的にも総体として一定水準をクリアできる。

 こんなふうに小倉さんは、部分を見て全体をジャッジしようとする。だけど問題は全体のほうではないだろうか?

例えばWikipediaですら、特定の人物に悪意を持つ者により執拗な「編集」が行われると、その内容は途端に実態を乖離したものとなります。Amazonのレビューでも、特定の人物に悪意を持った人々がその人物の著書について軒並み最低の評価点をつけることにより、その著書のレビューポイントを落とすことができます。

●同


 もちろん小倉さんが指摘しているようなケースは一部にはあるだろう。だけど問題は総体として信頼性が高いかどうか? である。

 ちなみにイギリスの科学雑誌「Nature」は、「Wikipediaの情報はブリタニカと同じくらい正確だ」という調査結果を出している。体感的にも同意できる分析だ。

 なにより小倉さんの極論メソッドで行けば、Googleの検索結果の10万位に「バカ!」「死ね」って出てきたからGoogleはダメだ、捨ててしまえ、って話になりますよ。小倉さん、Googleやめますか?

■スルーはノイズをフィルタリングするための民間療法だ

 で、小倉さんはこんなふうに結論づけている。

 そういう意味で、単純に「集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す」と言ってしまっている松岡さんの「集合知」に対する理解には疑問を挟まざるを得ません。


 同じことを何度も書くことになってしまうが、これまで見てきた通りだ。数や多様性は集合知が成立する前提条件である。たくさん集まったせいでノイズが混入したら、あとからGoogle等でふるいにかければいい。

 その意味じゃスルーは、ノイズをフィルタリングするための自分でできる民間療法といえるだろう。

 逆に多様性がなく、意見がひとつやふたつしかなければ保険がきかない。それらの意見がまちがっていればおしまいだ。前々回のエントリで書いた通りである。

■ブクマする前に他人のコメントを読まないのは正解か?

 最後に小倉さんは文末で、こんな指摘をされている。

 さらにいえば、匿名さんは何をしても無責任でいられる環境では、匿名さんたちのお気に召さないであろう発言は回避されがちになり、結局、意見の多様性は奪われていきます。実際、匿名さんに牛耳られている場所では、匿名さんたちから「空気を読む」ことを強要されることもあって、しばしば、既存メディア以上に意見の多様性に乏しかったりします。


 もちろんこれはありえる話だ。集合知が成立する要件のひとつに、「参加者がほかの参加者の影響を受けず、たがいに独立していること」がある。小倉さんの言うような同調圧力が強ければ、確かに独立性は損なわれるだろう。

 また私は以前、エントリ『いきなりコメントを書いてブクマするか、他人のブクマコメントを読んでからはてブるか』で、次のように書いている。

 はてブるとき、私は自分にひとつの決まりを課している。それは他人のコメントを決して先に読まないことだ。まず自分のファースト・インプレッションをコメントに書き、ブクマする。それからおもむろに、同じ記事をブクマしている他人のコメントを読むのである。なぜそうするのか? 先に人の意見を聞いてしまうと、影響されて自分の視点がブレるからだ。


 これも意味は同じだ。他人のコメントを先に読むと感化され、独立性が失われる。その結果、集まった意見に多様性がなくなる。で、これを避けるため、他人のコメントを先に読まないようにするわけだ。

 だけどこれって集合知がうまく働く場合もあれば、そうでない場合もあるというだけの話である。だからといって集合知なんかダメだ、使えない、ってことにはならない。くれぐれもそのテの極論の愚には陥らないようにしたいものである。
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自分探しシンドロームを超えろ

2007-08-03 13:45:54 | エッセイ
 今の派遣とか非正規雇用とかの状況を見ていると、結局、勝ち続けるのは個人じゃなく企業なんだなぁと思い知らされる。

 1980年代初頭にフリーターなる言葉が出てきたとき、思ったものだ。「これからは目標も持たずになんとなく就職するんじゃなく、自分のやりたいことを目指す社会になるんだな」と。

 ライフスタイルとしての個人主義って言葉は当時すでにあったけど、ワーキング・スタイル的にも集団(企業)ではなく個人の時代が来たんだな、と感じた。

 それまでの企業中心主義社会では、企業の終身雇用制が社会的なセーフティネットの役割を果たしていた。仕事は保証する。死んだら会社が墓も作ってやる。そのかわりカイシャに隷属せよ、と。

 そんなカイシャは否応なくプライベートに侵入してくる。冠婚葬祭では上司の部長が音頭を取り、退社後の花見では場所取りをやらされる。暑くても上着を着ろネクタイをしろ革靴を履け。カイシャ中心のライフスタイルを生き、カイシャ中心主義的な価値観を持てと要求された。それが安全な生き方だよ、と。

 だからこそ学生たちはモラトリアムな大学4年間を楽しんだ。人生最後の晩餐である。で、その後は安定してはいるけど、魂をカイシャに預ける人生の軟禁生活を耐え抜いた。

 なぜ彼らは耐えられたのか? それは妻子のためだったり、親のめんどうを見るためだったりした。ひっくるめて言えば、広い意味で社会のためである。もちろん自分が食うためでもあるのだが、他者のための物語がまだ有効に機能していた時代だった。こうして社会はうまく回っていた。

 一方のカイシャは終身雇用制を敷くことで、技能や才覚など能力のある人材を組織の内部に蓄積できた。それがエネルギー源になり、1970年代までの高度経済成長を成し遂げた。

 ところが1980年代初頭にフリーターが登場し、カイシャと社員の蜜月時代が壊れていく。

「オレは自分のやりたいことをやるんだ」

 自分の意思で就職せず、アルバイトをしながら自己実現しようとする生き方が出てきた。相対的に他者のための物語は崩壊し、結婚しない人が増えたり、婚期がドーンと後退した。核家族化が決定的に進んだのも、この前後だ。

 で、バイトをしながらバンドをやったり、演劇やったりマンガ描いたり小説書いたり。もちろん明確にそんな目標を持ったやつばかりじゃなく、自分のやりたいことがわからないから就職しないてな人もたくさんいた。というか、むしろそっちのほうが多かった。つまり自分探しである。

 だけどそういう人たちも、「いつかは自分のやりたいことを見つけて自己実現するんだ」と考えていた。キーワードは自己実現と自分探しだ。これが80年代から90年代にかけて起こった社会的な価値観の転換である。

 オフタイムだけでなくライフスタイル全般に、組織に属さず個人主義を生きる。この大きなパラダイムシフトを迎え、企業のほうも変わらざるをえなかった。

 それまでの買い手市場が崩壊し、新人が入社してくれない。入社したとしても言うことを聞かない。

 昔なら上司は、「釘を持って来いと言ったら、金槌もいっしょに持ってくるんだよ! 馬鹿野郎」と一喝すればよかった。けど、「なぜ金槌も持ってこなきゃいけないのか?」を社員に丁寧に説明しなきゃならなくなった。

 でないと一喝した時点で、その社員はカンタンに辞めてしまうからだ。こうして雇われる側主導の形で、企業は変わって行った。

 ところがさすがはカイシャである。転んでもタダじゃ起きない。80年代に起こったこのパラダイムシフトを逆手に取り、反転攻勢に出たのである。

 新卒が入ってこないなら、もう外注しちまえ。大幅なアウトソーシングで人件費を削り、コストダウンしようじゃないか

 で、派遣業界はご覧の通りである。

 80年代のフリーターは自分の意思で就職しない人だった。だけどそんなわけで今のフリーターは、就職したいのにできない人たちである。

 さて、そんな若い人たちに何かサジェスチョンできるとすれば、自分探しシンドロームにハマらないことだ。

 特に1980年代以降、マスコミを中心に、「目標のある生き方をしなきゃいけない」、「人生に目的を持つことでこそ、あなたは自己実現できる」、「だからナンバーワンになるんじゃなく、あなただけのオンリーワンを探そう」てな壮大な洗脳が行われてきた。

 自分だけの人生を生きろ。あなたには必ず何か魅力がある。好きなことに向かって努力すれば絶対にやり遂げられる──。

 とっても口当たりのいいコピーばかりだった。だから人々はあっさり洗脳された。

 だけど勝ち組がいれば負け組が必ずいるのと同じで、人間なんてみんながみんなオンリーワンをもってるやつばかりじゃない

 機械的に9時に出勤して5時に帰ることそのもので、対価を得る人もいる。他人にお茶をいれ、快適を売ることで収入をもらう人だっている。人間が100人いれば、それぞれの社会的な役割が決まってる。それがあなたの役割なんだ。

 100人のうち、上から5人くらいはホントの天才だ。あなたがその5人と同じ生き方をしようとし、いくら自分探ししたって意味はない。だって彼らはあなたとちがって天才なんだから。

 100人のうち、まあ30人くらいはオンリーワンなるものがあり、自分だけのとっておきな生き方ができる人なんだろう。

 さて、もしあなたが残り70人に当たるなら要注意だ。分不相応な自分探しは時間のムダである。早めに自分の人生に折り合いをつけるのが賢い。

 勉強しろとたきつける学校は勝とうとすることは教えても、上手な負け方なんて教えてくれないんだから。

 イヤな仕事をガマンして趣味に生きるもよし。家族とのコミュニケーションを生きがいにするもよし。何かとんでもなくスペシャルな生き方をしなくたって、人生はいくらでも楽しくなる。それを見つけるのもまた一興、である。

 これは決して敗戦処理じゃない。

 あなたが真の負け組にならずにすむかどうかは、いつ自分探しシンドロームから抜け出せるか? にかかっているのだ。

【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』


※追記/釘と金槌を入れ替えた(2007-11/1)
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実名制度は集合知の多様性を奪うか?

2007-08-02 07:31:39 | 実名・匿名問題
 ブログ「福田::漂泊言論」さんからトラックバックをいただいた。ポイントは集合知の定義や解釈に対する疑問だ。論点が微妙に実名制度から逸れてるんだけど、まあこれはこれでおもしろいからいいや。

 さてブログ「福田::漂泊言論」の筆者の福田さんは、私がエントリ『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』で書いたのとは逆に、「多様性がなければないほど『集合知』の価値が上昇すると言えると思います」と言う。

 じゃあまず、私が書いた集合知のくだりを引用しよう。

 インターネット上に存在するデータ(文章その他)は、集合知である。集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す。また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。それが実名でなされたものか? それとも匿名か?なんて関係ない。

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』


 福田さんはこの論述に対し、次のように疑問を投げかけている。

「また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。」というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか。集合知は「意見が多様であればあるほど」その「解」に近づきにくくなるわけですから、意義深くはならない筈です。例えば営業社員の売り上げ予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる筈です。

『2007年08月01日 現状維持派の方々への返答 その4(および「集合知/多様性」について)』


 まず「『集積された意見が多様であればあるほど意義深い』というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか」についての答えから行こう。

 前にも書いたが、小倉さんにしろ福田さんにしろ実名制を唱える方は、1+1が必ず2になる数学的な問題だけが議論のテーマだとイメージされてるフシがある。

 だけどたとえば「人間はなぜ生まれてくるのか?」をテーマに、さまざまな人が自分の意見をブログで公開したとしよう。すると「種の保存のためだ」って見方をする人もいるだろう。かと思えば、こう考える人たちもいる。

「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、生まれてくる人間が多ければ多いほど、社会に多様性が生まれる。それはいいことだ」

「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、その社会は必然的に多機能化する。そのことによって、他人は他人がもたらす多種多様で専門的な機能の恩恵を蒙り、より多くの便益が得られるようになる」

「人間はなぜ生まれてくるのか?」てなテーマに対する答えは、ひとつじゃない。かつ、正解がなかったりする。つまり1+1が2にならないのだ。このテのお題はほかにいくらでも考えられる。

 こんなテーマのときには当然、たくさんの参考意見を聞けたほうがいい。かつ、それぞれの意見が異なって(多様化して)いたほうが有益だ。なぜならその中から自分の価値観にフィットする考えを選び、自分の人生に取り入れて生きて行けるからだ。

 多様性とはすなわち選択肢の豊富さであり、その中からより自分に近いものを選べる柔軟性でもある。これが回答のひとつめだ。

 続いてふたつめに行こう。福田さんは多様性がない方がいい場合の例として「営業社員による売り上げ予測」をあげ、「予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる」とする。

 つまり売り上げ額という正解はひとつなんだから、それ以外の誤答は必要ないじゃないか、って話だ。なるほどこっちは、1+1が2になるお題である。

 でもちょっと考えてみよう。カンタンな話だ。

 仮に売り上げ額の正解が2000万円だとする。で、売り上げを予測する営業社員は20人いると仮定しよう。このときたとえば20人全員が、「売り上げ額の予測は1000万円です」と分析したらどうなのか? 答えに多様性はなく単一だが、その単一な答えがまちがっていては絶対に正解へたどり着けない。

 一方、「2000万円だ」って人もいれば「700万円だ」と言うやつもおり、「1500万円です」と主張する人間もいる多様な状態ならどうか?

 それぞれが数字を出している以上は、各人がもとになる根拠や分析を行っているはずだ。なら、全員の分析を聞いてそれらを精査し、正解がどれなのかを突き止めればいいのである。

 多様であることはすなわち、保険が用意されているってことだ。多様性には人間が誤りを選択してしまうリスクを減らす効果が備わっているのである。

 もうひとつわかりやすい例をあげよう。選挙が終わったばかりだから、民主主義の話にするかな。

 民主主義っていうと多数決の原理ばかりがクローズアップされるが、決を採る過程では多様な意見をすり合わせて議論する。その上で採決を行う。おわかりだろうか? 前述した通り、たくさんの答えの中から売上高2000万円という正解を導き出す行程と同じなのだ。

 じゃあ、逆にナショナリズムがガーッと盛り上がった場合はどうだろう? 国民世論が一致して、仮にこう考えたとする。

 年金は破綻するし、ワーキングプアとか格差とか日本は難問山積だ。それというのも日本は資源がない国だからである。そうだアメリカと戦争して領土を広げよう。このさいだ、やっちまえ

 歴史を振り返れば、戦争に突入するときというのは、往々にしてこんなふうに世論が単一化したときだ。「いや待て。勝ち目がないぞ」とか、「アレクサンダー大王の時代じゃないんだから、戦争で領土を広げるなんてナンセンスだ」とか、多様な意見があるからこそ正解を導き出せるのである。

 余談だが、福田さんの発想を見ておもしろいなと思ったのは、他人に答えを出してもらおうと考えているところだ。主体的じゃないのである。

「意見が多様であればあるほど、その解に近づきにくくなる」っていう福田さんの論法は、他人が解を考える場合の話だ。一方、私なら、それらの多様な意見を自分の頭の中に取り入れ、自分の頭で分析すればいいじゃないかと考える。

 他人がポンと答えを出してくれるから、そこにあるのは単一の正解だけでいい。合理的だが、いかにも70~80年代以降のマニュアル文化の洗礼を受けた発想である。

 いや私は福田さんがどんな世代なのかも知らないし、別に福田さんを批判してるわけじゃない。あくまで一般論だ。で、おそらく他力本願なこのテの発想は、特に若い人に多いんだろうと思う。

 たとえば「朝まで生テレビ」を見て、「あの番組は結論が出ないから意味ないじゃん」てなことを言う人は多い。いや結論は自分で出すんだよ。人が考えてくれるんじゃない。番組の中であれだけ多様な考えが提示されてるんだから、それらをもとに自分の頭で考えればいいじゃないか。

 てなわけで話がいい感じにあさっての方向へ飛んだところで、今回はおしまい。福田さんが出したほかの論点については、もし気が向いたら次回以降に書く。しかしホントは実名・匿名問題って、私の中ではとっくに結論が出てるんだけどなあ。

【関連エントリ】

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『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』

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