メディア業界の構造的な問題だ
昨年10月期に同シーズンの視聴率一位を叩き出した日本テレビ系連続ドラマ「セクシー田中さん」の原作者であり漫画家の、芦原妃名子さんが亡くなった。捜査関係者によれば自殺らしい。
彼女は亡くなる直前にSNS上で、(1)ドラマの内容が原作から大きく逸脱していた、(2)製作者側からそうした書き直しの指示を受け原作を修正していた、(3)ラスト2話の脚本だけは自ら書いたーーことなどを漏らしていた。
まず原作者の芦原さんはドラマ化にあたり、「必ず漫画に忠実にしてほしい」とオーダーしていたようだ。だが局側(製作者側)からすれば「ああ、いつもの原作者のこだわりね? はいはい、わかりましたよ(と返事しておけばいいや)」程度の認識しかなかったのではないか? 要は、原作をどう改変しようが「売れたモン勝ち」なのだ。
ちなみにこのドラマ制作の陰で腕を振るっていたのは、脚本家の相沢友子氏だった。
複数の報道によれば同局は、「原作者のご意見をいただきながら脚本制作の話し合いを重ね、最後は原作者に許諾をもらった脚本を決定稿にしていた」という。
だが、ならばなぜ、最後の2話だけは原作者自身が乗り出して「自ら書く」などということになったのか? 「この改変のされ方ではたまらない」という原作者の必死の心理が手に取るように想像できる。
ただしあえて局側に立てば、彼らの正義はあくまで「売れるものを作ること」であり、「原作者の人権や作品を守ること」ではない。それが業界の論理であり常識だ。ゆえに局側はそのセオリーに基づき、粛々と制作作業を行ったに過ぎない。「いつものことだ。それのどこが悪いの?」てな感じだろう。
つまり相手はそういう魑魅魍魎の世界なのだから、(自分が作った原作の世界観をあくまで守りたいなら)結果論になるが原作者の芦原さんはこの話を断るべきだったのだ。「今回のテレビドラマ化をきっかけに、さらに名を売りのし上ろう」などと彼女が野心をたぎらせているのでないならば。
ヒットを生んだのは実は脚本家だったのか?
一方、テレビドラマ向けにウケるよう原作をアレンジすることに慣れているのだろう脚本家の相沢氏にしても、「またうるさい原作者に当たったなぁ」くらいにしか思わなかっただろう。テレビという媒体に合わせてヒットするよう加工し作品を作るプロフェッショナルである相沢氏とすれば当然だ。
すなわち問題はだれか一個人ではなく、長年にわたるこうした業界構造そのものにある。
それにしても皮肉なのは、ドラマの終盤になり視聴者の間で「作風が変わったぞ? おかしくなったよね?」などと評判が落ち、そのため脚本家の相沢氏がわざわざ「実は最後の2話を書いたのは(自分ではなく)原作者です」とSNSで釈明していた点だ。
おそらくこのテレビドラマの高視聴率を支えていた多くの視聴者は「テレビで初めて観たセクシー田中さん」の支持者だったのではないだろうか?(つまり「脚本家側の支持者」である)。
だがそこへ原作者が2話分だけ脚本を書いたために、かえって彼ら視聴者からすれば「あれ? なんかいつもと違うヘンな調子になったよね?」と逆に不評を買った、そういうシニカルな話の流れなのではないか?
つまりテレビでこのヒット作を作ったのは実は亡くなった原作者ではなく、皮肉なことに大幅なアレンジを加えた脚本家の「腕」だったのではないか? そう思うと、いろいろと考えさせられるところが多い悲しいエピソードだったといえる。
昨年10月期に同シーズンの視聴率一位を叩き出した日本テレビ系連続ドラマ「セクシー田中さん」の原作者であり漫画家の、芦原妃名子さんが亡くなった。捜査関係者によれば自殺らしい。
彼女は亡くなる直前にSNS上で、(1)ドラマの内容が原作から大きく逸脱していた、(2)製作者側からそうした書き直しの指示を受け原作を修正していた、(3)ラスト2話の脚本だけは自ら書いたーーことなどを漏らしていた。
まず原作者の芦原さんはドラマ化にあたり、「必ず漫画に忠実にしてほしい」とオーダーしていたようだ。だが局側(製作者側)からすれば「ああ、いつもの原作者のこだわりね? はいはい、わかりましたよ(と返事しておけばいいや)」程度の認識しかなかったのではないか? 要は、原作をどう改変しようが「売れたモン勝ち」なのだ。
ちなみにこのドラマ制作の陰で腕を振るっていたのは、脚本家の相沢友子氏だった。
複数の報道によれば同局は、「原作者のご意見をいただきながら脚本制作の話し合いを重ね、最後は原作者に許諾をもらった脚本を決定稿にしていた」という。
だが、ならばなぜ、最後の2話だけは原作者自身が乗り出して「自ら書く」などということになったのか? 「この改変のされ方ではたまらない」という原作者の必死の心理が手に取るように想像できる。
ただしあえて局側に立てば、彼らの正義はあくまで「売れるものを作ること」であり、「原作者の人権や作品を守ること」ではない。それが業界の論理であり常識だ。ゆえに局側はそのセオリーに基づき、粛々と制作作業を行ったに過ぎない。「いつものことだ。それのどこが悪いの?」てな感じだろう。
つまり相手はそういう魑魅魍魎の世界なのだから、(自分が作った原作の世界観をあくまで守りたいなら)結果論になるが原作者の芦原さんはこの話を断るべきだったのだ。「今回のテレビドラマ化をきっかけに、さらに名を売りのし上ろう」などと彼女が野心をたぎらせているのでないならば。
ヒットを生んだのは実は脚本家だったのか?
一方、テレビドラマ向けにウケるよう原作をアレンジすることに慣れているのだろう脚本家の相沢氏にしても、「またうるさい原作者に当たったなぁ」くらいにしか思わなかっただろう。テレビという媒体に合わせてヒットするよう加工し作品を作るプロフェッショナルである相沢氏とすれば当然だ。
すなわち問題はだれか一個人ではなく、長年にわたるこうした業界構造そのものにある。
それにしても皮肉なのは、ドラマの終盤になり視聴者の間で「作風が変わったぞ? おかしくなったよね?」などと評判が落ち、そのため脚本家の相沢氏がわざわざ「実は最後の2話を書いたのは(自分ではなく)原作者です」とSNSで釈明していた点だ。
おそらくこのテレビドラマの高視聴率を支えていた多くの視聴者は「テレビで初めて観たセクシー田中さん」の支持者だったのではないだろうか?(つまり「脚本家側の支持者」である)。
だがそこへ原作者が2話分だけ脚本を書いたために、かえって彼ら視聴者からすれば「あれ? なんかいつもと違うヘンな調子になったよね?」と逆に不評を買った、そういうシニカルな話の流れなのではないか?
つまりテレビでこのヒット作を作ったのは実は亡くなった原作者ではなく、皮肉なことに大幅なアレンジを加えた脚本家の「腕」だったのではないか? そう思うと、いろいろと考えさせられるところが多い悲しいエピソードだったといえる。