すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【セクシー田中さん問題】原作者はなぜ死ななければならなかったのか?

2024-02-09 15:59:28 | メディア論
メディア業界の構造的な問題だ

 昨年10月期に同シーズンの視聴率一位を叩き出した日本テレビ系連続ドラマ「セクシー田中さん」の原作者であり漫画家の、芦原妃名子さんが亡くなった。捜査関係者によれば自殺らしい。

 彼女は亡くなる直前にSNS上で、(1)ドラマの内容が原作から大きく逸脱していた、(2)製作者側からそうした書き直しの指示を受け原作を修正していた、(3)ラスト2話の脚本だけは自ら書いたーーことなどを漏らしていた。

 まず原作者の芦原さんはドラマ化にあたり、「必ず漫画に忠実にしてほしい」とオーダーしていたようだ。だが局側(製作者側)からすれば「ああ、いつもの原作者のこだわりね? はいはい、わかりましたよ(と返事しておけばいいや)」程度の認識しかなかったのではないか? 要は、原作をどう改変しようが「売れたモン勝ち」なのだ。

 ちなみにこのドラマ制作の陰で腕を振るっていたのは、脚本家の相沢友子氏だった。

 複数の報道によれば同局は、「原作者のご意見をいただきながら脚本制作の話し合いを重ね、最後は原作者に許諾をもらった脚本を決定稿にしていた」という。

 だが、ならばなぜ、最後の2話だけは原作者自身が乗り出して「自ら書く」などということになったのか? 「この改変のされ方ではたまらない」という原作者の必死の心理が手に取るように想像できる。

 ただしあえて局側に立てば、彼らの正義はあくまで「売れるものを作ること」であり、「原作者の人権や作品を守ること」ではない。それが業界の論理であり常識だ。ゆえに局側はそのセオリーに基づき、粛々と制作作業を行ったに過ぎない。「いつものことだ。それのどこが悪いの?」てな感じだろう。

 つまり相手はそういう魑魅魍魎の世界なのだから、(自分が作った原作の世界観をあくまで守りたいなら)結果論になるが原作者の芦原さんはこの話を断るべきだったのだ。「今回のテレビドラマ化をきっかけに、さらに名を売りのし上ろう」などと彼女が野心をたぎらせているのでないならば。

ヒットを生んだのは実は脚本家だったのか?

 一方、テレビドラマ向けにウケるよう原作をアレンジすることに慣れているのだろう脚本家の相沢氏にしても、「またうるさい原作者に当たったなぁ」くらいにしか思わなかっただろう。テレビという媒体に合わせてヒットするよう加工し作品を作るプロフェッショナルである相沢氏とすれば当然だ。

 すなわち問題はだれか一個人ではなく、長年にわたるこうした業界構造そのものにある。

 それにしても皮肉なのは、ドラマの終盤になり視聴者の間で「作風が変わったぞ? おかしくなったよね?」などと評判が落ち、そのため脚本家の相沢氏がわざわざ「実は最後の2話を書いたのは(自分ではなく)原作者です」とSNSで釈明していた点だ。

 おそらくこのテレビドラマの高視聴率を支えていた多くの視聴者は「テレビで初めて観たセクシー田中さん」の支持者だったのではないだろうか?(つまり「脚本家側の支持者」である)。

 だがそこへ原作者が2話分だけ脚本を書いたために、かえって彼ら視聴者からすれば「あれ? なんかいつもと違うヘンな調子になったよね?」と逆に不評を買った、そういうシニカルな話の流れなのではないか?

 つまりテレビでこのヒット作を作ったのは実は亡くなった原作者ではなく、皮肉なことに大幅なアレンジを加えた脚本家の「腕」だったのではないか? そう思うと、いろいろと考えさせられるところが多い悲しいエピソードだったといえる。

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動画系コンテンツはあまりにも高すぎる

2024-01-18 16:19:19 | メディア論
DAZNの月3700円なんて一体どこのバカが払うんだ?

 もう腹立たしいことこの上ない。

 何が? って、動画系(ネット)コンテンツの高さが、である。

 例えば音楽系の「Apple Music」や「Amazon Music HD」なんかは、たったの月額1000円ぽっちで音楽がいくらでも聴き放題だ。しかもこれらのサービスにさえ入れば、たぶんもう二度と未来永劫、CDは1枚も買わなくて済む。

 そんなド偉いサービスがたったの月額1000円なのだ。

 それに引き換えあのDAZNなんかは、

「解約を申し出てから1ヶ月後にやっとその解約が認められる。
 したがって最後の1ヶ月分はコンテンツを観もしないのに必ず1ヶ月分、余分に月額料金を払わざるを得ない」

 ………などという、まるでサギ的なクソ仕様の悪徳サービスだ。あのDAZNの月額3700円などとくらべれば、これら音楽系サービスはべらぼうに安い。

 なんせApple MusicとAmazon Music HDに両方入っても月額・約2000円にしかならないのだ。これだけですでにDAZNへ月額3700円も払うのとくらべ遥かに安い。なんとApple MusicとAmazon Music HDに両方入っても「1700円もお釣りがくる」のだ。

まったくDAZNには煮え湯を飲まされた

 思い返せば、本当にあのDAZNには煮え湯を飲まされた。私があのサービスに入った頃には、まだDAZNはサッカーのチャンピオンズリーグを抱えていた。確かプレミアリーグもやっていたはずだ。

 だから加入したのに、いつの間にか両方ともサービスをやめてしまった。ゆえに私にとって加入している意味はまったくなくなった。(スペインのラ・リーガはやっているが…………ホジホジ)

 なんせ私はハイスピード・ハイラインでプレー強度がド高いプレミアリーグ信者であり、あの「のんびりゆったり」でプレイがヤワなクソ緩いラ・リーガなんてまるで観る気がしないのだ。なので「レアル・ソシエダの久保健英を観るためだけに契約する」みたいな話になる。

 まあそこは契約問題もあるだろうから、チャンピオンズリーグやプレミアリーグをやめたのは仕方ないとしよう。だが問題はあのべらぼうな料金設定である。

 繰り返しになるがDAZNの月額料金の高さは、なんとApple MusicとAmazon Music HDの両方に入ってもまだ「1700円お釣りがくる」高さなのだ。これじゃあ、たまらない。

 なら入らなきゃいいじゃん、といえばそれはそうだ。だが私が観たいプレミアリーグを「ネットに繋がった大画面テレビ」で今日現在観るためには、動画サービスのU-NEXT経由で「SPOTV NOWパック」を契約しなきゃならない。これには月額2000円かかる。

 なんとApple MusicとAmazon Music HDに両方入るのと「同額」なのだ。

ABEMAプレミアムというテはあるが……

 まあプレミアリーグを「部分的に観る」だけなら「ABEMAプレミアム」の方がコスパはいい。こやつは月額960円で済む。だがABEMAプレミアムの場合は、サービス側が勝手にセレクトしたプレミアリーグの試合を「一部分だけ」観る仕様に過ぎない。

 で、ABEMA側が視聴用にチョイスする試合というのは、例えば一般的に人気がある三笘薫の所属するブライトン戦など、ごく限られた試合だけだ。言葉は悪いが、選ぶ試合がいわば「ミーハー向け」である。

 例えば私が切実に観たいハイレベルなマンチャスター・シティ戦などは絶対やらない。

 となると、やはりU-NEXT経由で「SPOTV NOWパック」を契約せざるを得ないのだ。これには(すでに書いたが)月額2000円かかる。すなわちApple MusicとAmazon Music HDに両方入るのと「同額」だ(またかい)。

 やれやれ。

 サッカーを観るために費やさざるを得ないコストと手間は、計り知れない。

 そんなわけでいつしかサッカーから足が遠のいてしまい、最近はサッカー・ネタをすちゃらかブログで更新することもすっかり珍しくなってしまった。(いやサッカー・ネタをやめる気は毛頭ないのでそのうち復活させるが)。まあとにかくあのDAZNにはまったく腹が立つ、って話だ。

サッカー界は短サイクルな「ネット時代」に合わせて仕様を変えろ

 しかしまじめな話、サッカー界はもっと真剣にサッカーの普及を考えなければ、このままでは先が見えていると言わざるを得ない。

 現に開幕したばかりのサッカー「アジアカップ」にしろ、ロクに地上波で放映しない。ゆえにアジアカップの日本代表の試合を全試合、観るためには「あのクソったれDAZNと契約しなきゃならない」のだ。まったく腹がたつ。

 こんなふうじゃ、サッカーは先細り確定だろう。サッカー関係者は「日本代表の試合はスペシャル・コンテンツだから」などとあぐらをかいているんじゃ、足元をすくわれるぞ。

 そもそも試合がもっと安く手軽に放映されなきゃ観てもらえないし、肝心のお客さんに観てもらえなきゃその世界はただ廃れて行くだけだ。

 すでに昨日の記事でも書いたが、サッカーの世界はゲームの時間にしろ「90分間」なんていかにも長すぎる。YouTubeのコンテンツなんて今やせいぜい1本あたり10〜15分で、それでも長く感じて「かったるい」くらいなのだ。

 サッカー界はそんな短サイクル・小ロットな「インターネット時代」に合わせて巧みに仕様を変えて行かなければ、あの恐竜と同じくやがては滅んで行くだけだ。

 サッカー関係者は、ここをまじめに考えた方がいいですよ? いや、マジな話。

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ネットとTVの融合がライフスタイルを変える。

2023-02-05 05:21:35 | メディア論
スマートテレビは宝の箱だ

 我が家のライフスタイルが激変したのは、スマートテレビでネットコンテンツを見るようになってからだ。

 パソコンに向かい前傾姿勢になり、YouTubeを長時間観るのはツライ。そこへいくとスマートテレビなら、リビングのソファーにドッカとめり込みラクな姿勢で楽しめるので天と地の差だ。

 またアマゾンプライムビデオで映画やドイツサッカーもソファでラクラク楽しめるし、アベマプライムのイングランドサッカーほか膨大なコンテンツもテレビで観られる。

 あとダゾーンも契約しているが、パソコンで観たことはまったくない。すべてソファに座ってテレビで観る。

 そのほか余談だが「ラジオ体操」をテレビ上で検索し、それをテレビで観ながら毎朝ラジオ体操をしている。

 おかげですっかり我が家のライフスタイルは豹変した。

 まずパソコンをいじる時間が圧倒的に減った。

 そしてほとんどのコンテンツが「ソファでラクラク」化してしまった。

 非常にありがたい。

テレビのハードは今後の進化に期待

 ところが世の中そういいことばかりはない。

 例えばネットコンテンツの何かの設定を変えるとき、テレビの文字キーで文字を打つのは非常に苦痛だ。打ちづらい。

 ゆえに仕方ないので、そんなときにはパソコン上で文字を打って設定を変えている。

 テレビの文字キーはまだまだ原始時代みたいに遅れており、今後、大幅な改良が必要だろう。

 ただ、単に検索するだけなら、テレビのリモコンに向かって喋りかければいいだけなので楽チンだが。

 てなわけでテレビの仕様は今後、ネット対応向けにどんどん進化するものと思われるので大いに期待したい。

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ネットコンテンツは短時間化・短サイクル化する

2023-02-04 08:44:52 | メディア論
山本太郎がTikTokにやたら出てくる?

 ネットコンテンツはブログからTwitterやYouTube、TikTokなどに主流が移るにつれ、めっきり短時間化、短サイクル化が進んでいる。

 例えば初期のYouTubeは平気で120分とかあったが、いまや「切り抜き」化が進んで平均時間はせいぜい15分くらいだ。

「山本太郎さんの動画がTikTokでやたら出てくる」などと笑っている人もいるが、演説がやたら長い山本太郎氏の弁舌が短くコンパクトに編集される、というのも短時間化、短サイクル化の象徴的なできごとだろう。

YouTubeは「毎日15分観る」コンテンツへ

 またYouTubeはいまや毎日更新するのがふつうになっており、視聴時間と更新頻度がどちらも激しく短サイクル化してきている。つまりYouTubeはすっかり「毎日15分観る」のがスタンダードになってきた。

 もちろんYouTubeはライブ配信なんかで120分とかやってる例はあるが、いまや絶滅指定危惧種である。そんな長いコンテンツはとうてい観る気がしない。

 まあまったりライブ配信をエンエン楽しむ、というのもひとつの楽しみ方ではあるけれど。

 そう考えてみればブログからTwitterへ、という文字媒体の短文化、短サイクル化がまず進み、次に動画媒体の短サイクル化が進んできた感がある。

 やっぱりいまの主流は動画コンテンツなのだろう。

 てなわけでこの記事も短サイクル化を進めて、これくらいの記事の長さにしておくのが正解なのかなぁ(笑) 

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メディアの情報操作に惑わされない4つのコツ

2015-05-23 22:06:30 | メディア論
まず情報を疑い、できるだけ複数のメディアで真偽を調べてみる。

 ツイッターで面白いのは、平日と土日の落差だ。土日になるととたんに、ソースが不確かなウラの取れていない怪しい情報がめっきり増す。つまりツイッターのユーザは、自分のツイートのもとになる一次情報の多くを既存の大手マスコミに頼っている。

 だから既成メディア(や役所)が休みの土日になると、ツイートの「肌触り」が変わるのだ。

 だがマスコミによる報道も、もとは役所が発表した記者クラブ経由の情報が多い。クラブ詰めの記者は日夜、役所が作り発表した資料をせっせとリライトして記事を作っている。かたやツイッターのツイートも、それらの記事をもとに囁かれている。

 その意味で情報の世界はいまや、川上から川下まで役所や官邸にコントロールされている。

 報道の世界では、そんな問題意識をもつ記者の間で「発表物に頼るな。自分でネタをゼロから掘り起こす『調査報道』が大切だ」といわれる。だがその調査報道でさえ、記者の取材に答えた証言者の細かなニュアンスまで正確に伝えているとは限らない。

 たとえば記者の主観や解釈のちがい、また所属する報道機関のスタンスにより、記事はどうにでも転がって行く。厳密な意味での「客観報道」など存在しない。

 とすればわれわれに必要なのは、まず「疑うこと」。うのみにしないことだ。流れてくる情報を見て「おかしいぞ」と思ったら、できるだけ複数の異なるメディアを当たり、自分でことの真偽を調べてみる。別の角度から眺めてみる。それがメディアの情報操作に惑わされないコツだ。

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ブロガーに蔓延する「自分は能力があるのに認められない」病の論理

2008-02-13 08:58:55 | メディア論
■「評価されるべきものが認められない」は自分を慰める口実だ

「自分は才能があるのに認められない」

「能力を適正に評価されてない」

 これはいつの時代、どこの世界にもある人間ならではの煩悶である。

 承認欲求とそれが満たされないことへの怨恨は、「恵まれてしかるべきなのに恵まれない自分」の現状を説明する合理的な理屈はないかと探し始める。で、たどりつくのが、「そうかもしれない」と思わせる都合のいい論理である。

現在、ブログで人気エントリになるのは有名ブロガーのばかりだ。たとえ同じ内容のエントリを書いたとしても、知名度によって人気エントリになるかどうか大きく変わってくる。これが大多数のブロガーのモチベーション低下につながるのではないかなと、少し思うのだ。

●BLOG15.NET『ブログはこれからおもしろくなるのかな?』


「どんなにいい記事を書いても、無名ブロガーは人気エントリ入りするのがむずかしい。能力はあっても認められない。実力以外の要素で勝ち上がれる今の世の中はおかしいんじゃないか?」

 認められないのは自分に能力がないからじゃなく、常に世の中のせいなのだ。これってブログの世界に限らず、また今の時代だけの話じゃなく、いつの時代も人間が抱きがちな思いである。

■「人気エントリ入り」は読者獲得の絶対条件ではない

 たとえばこれと同じことは、はてなブックマークがスタートした3年前にも言われていた。はてブが始まったのは2005年2月だが、以下の記事はその3ヵ月後、2005年5月に書かれたものだ。論旨は上で引用した記事とほとんど同じである。

SBMのランキング機能は(中略)、SBMのユーザ数が少ない今でこそ有効に機能しているものの、今後ユーザ数が増えるに従って

・「注目されているサイトがますます注目される」

というベキ乗の法則に従うようになって、一度注目されたサイトはひたすらクリップされるけど、注目されないサイトは内容に関わらずいつまでも衆目に触れないということになってしまうのではないでしょうか? 

●無印吉澤『「同質的」という単語の意味 / SBMはロングテールの敵か?』


 確かにいったんSBMでブクマされる常連ブログになってしまうと、あまり面白いとはいえない記事にまで大量のブクマがつくことはある。その意味では、これらの記事の分析は一面事実である。

 だけどちょっと考えてみよう。

 まず第一に、これらの記事は「読者を獲得する上で、はてなブックマークは絶対的な存在である」という前提の上に立っている。だが読者を得るための手段は、別にはてブで取り上げられることだけじゃない。

 むしろ説得力を感じるのは、これらの記事より『ブログを始めてからアクセスが伸びるまで』(北の大地から送る物欲日記)の論旨の方である。

ここで、「同じ質の記事を書いてるのに、無名な自分の記事は人気エントリにならず、有名ブロガーの記事は人気エントリになるのはおかしい!」と言いたくなる気持ちはよく分かるが、有名ブログはどうして読者が多いのかを考える必要がある。

元々知名度の高い人がブログを始める場合もあるかもしれないが、多くの場合にはブログで過去に書かれた記事によって読者をじわじわ獲得してきた結果、有名ブログになってる訳で、ブログという場にたまった評価が上乗せ、いや、かけ算で効いてくる。(強調表現は松岡による/途中で改行した)

●北の大地から送る物欲日記『ブログを始めてからアクセスが伸びるまで』


■更新頻度と人気の高さは密接な関係がある

 もうひとつ、この記事はうなづける論点を提示している。それはブログの更新頻度と人気の関係だ。

ブログに新規参入した人が気づいていない、もしくは軽視しがちな部分として更新頻度がある。更新頻度が高い、特に毎日更新されるようなブログはアクセスが伸びやすい

数多く更新されることで常に新しい情報が得られることや、多くの記事があれば、ある読者にヒットする物も見つかりやすいという効果が思ったより大きいのと、過去記事に検索エンジン経由でやってくるアクセスがほんの少しずつではあるが積もり重なって、気づくと結構な量になっているというのがある。(強調表現は松岡による/途中で改行した)


 たとえば当ブログの昔からの読者の方ならおわかりだと思うが、私のブログは更新頻度がハチャメチャだ。やる気になれば頻繁に記事を書くけど、熱が冷めるととたんに書かなくなる。1年近く更新しない、なんてことも過去にあった。駄目ブログの典型である。

 そんな毎日だからよくわかるのだが、記事の更新頻度がスーッと下がると、アクセス数は潮が引くように落ちていく。数ヶ月単位で更新しない日が続けば、1日当たりのユニークIP数が200とか300なんて状態が続く。もうほとんど「ないも同じ」状態だ。

 ところが気が向いて毎日1本づつ欠かさず更新し始めると、これまた潮が満ちるようにアクセス数が上がっていく。で、いつのまにか元のレベルに戻る。

 いったんはゼロになり完全に見放された(笑)わけだから、このとき増えた読者は以前とまったく同じ読者層とは考えにくい。とすれば状況的には、初めてブログを書く人が新規参入したのに近い状態だろう。

 でもコツコツと毎日更新していれば、アクセス数が元に戻るまでにそれほど時間はかからない。(もっとも「戻った」といっても大した数字じゃないが)

 これは自分が記事を読む立場になればよくわかる。更新頻度が低いと、RSSリーダに登録しても意味がないからだ。

 ただでさえブログの総数はとんでもない。なのにたまにしか更新しないブログまで網羅していると、リーダへの登録数が膨大になってしまう。

 だから月に1回、120点の記事を公開するブログより、3日に1回、80点の記事を書き続けるブログの方が登録されやすい。そのぶん読者も獲得しやすいはずだ。

■はてブでアクセスしてくる人は、ほかのエントリは読まない

 はてブで人気エントリになると、ワッと一時的にアクセス数が増える。だから効果が見えやすい。で、「はてブで取り上げられること」は、読者獲得の必須事項であるかのように感じてしまう。

 だが一方、更新する頻度が人気につながる過程は目に見えにくい。だからつい軽視しがちだ。しかし前述の通り更新頻度って、ブログの人気度アップに計り知れない貢献をしているのである。

【本日の結論】

「はてブで人気エントリになること」は、読者を得るきっかけにはなっても決定的な要因にはなり得ない。第一に、はてブからアクセスしてくる人は、はてブで取り上げられた1エントリは読むが、ほかのエントリはほとんど読まない

 つまりブログ自体の読者になってもらうのって、そんな簡単なことじゃない。

 また第二の理由は、人気エントリ入りで一時的に読者が増えたとしても、その後、一定水準をクリアする記事を平均的なペースで書き続ける必要があることだ。

 なんせ更新頻度が下がれば、元の木阿弥なのだから。

(追記)私が利用しているgooブログのアクセス解析ツールは、記事を更新せず放置しておくと「300IPくらいで一定になる」という証言をekkenさんから得ました(『gooブログのカウンター表示は怪しいらしい』)。私も過去に、ekkenさんとまったく同じ体験をしました。で、その体験をもとに私が何気なく書いた「200~300IP」という数字が、誤解を受けているようなので追記しておきます(2008年2月14日)

【関連エントリ】

『ブログを毎日書くとクリエイティブな思考が「クセ」になる』

『ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力』

『「クセをつけろ」があなたの人生を変える』

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ネガコメを元に自戒するとき、スルーするとき

2008-02-12 07:45:49 | メディア論
■「無意味なネガコメはスルー」が黄金の法則だ

 3回前のエントリでは、ブクマ・コメントを読む側の心理を分析した。、また2回前のエントリでは逆に、書く側の論理を客観的に考えてみた。

 で、まとめとして私の主観的な結論を言えば、過去にも何度か書いた通りだ。

【ご参考】 ※いずれもアスキー連載

『小倉さん、それでもスルー力は必要ですよ』

『スルーが効く理由(わけ)、効く場合』

 自分にとってプラスになるネガコメは取り入れ、単なるノイズはスルーする。それが黄金のセオリーです、って話である。

■ネガコメ耐性を上げよう

 この間、いろんな人がネガコメに言及するのを読んだ。で、だいたい冒頭に書いた通りの結論が出たんじゃないかと思う。

ネガコメは必ず自分のところに届くものなんです。
はてブを禁止にしたら、また別の手段でネガコメを届けるだけです。(中略)

だから、ネガコメを受け取りたくないという考えは諦めてください。
ネット上に記事を公開している時点で諦めてください。
だったら少しでもネガコメに押しつぶされないように
ポジティブな意見を受け取れるようにするのが良いのです。

●304 Not Modified『はてブネガコメを嫌がるアナタへたったひとつのアドバイス』


 自分の意見に反対する意見は必ず出る。だったらネガコメ耐性を上げ、押しつぶされないようにしよう。で、ポジティブな意見の方を取り入れましょう、って話だ。

■被害妄想に陥ると自分がソンだ

 一方、コメントの読み手が疑心暗鬼にかかり、書かれてもいないネガティブなニュアンスを読み取ることで、自ら傷つくケースを指摘したのが以下の記事だ。

 はてなブックマークのコメントは、(中略)より多くの人の本音に近いコメントを見ることができる。ただ、(中略)受け取る側のリテラシーが重要になってくる。

 コメントを書いた人が思ってもいないような内容まで過度に読み取ってしまうのは読み取りすぎ(過敏)だし、個別の判断で行動しているブックマーカーに集団的な悪意を感じてしまうのは自意識過剰だろう。

●北の大地から送る物欲日記『他者のコメントとつきあう方法』


 ネット上では情報の受け手の側が過剰反応し、自分でみずから泥沼にハマっちゃうことって多い。そこで一歩引いて冷静にリテラシーを発揮し、客観的に事態をジャッジすればことなきを得られるのである。

■ただの罵声は聞き流するのがコツ

 ネガコメには2種類ある。自分のためになる(が自分を否定している)意見と、単なる罵声だ。で、後者の無意味なネガコメに係わり、一喜一憂するなんて生産的じゃないぞと諭すのが以下の記事だ。

罵倒などはノイズである。バカとか言われても、そんな相対的な指標を基準を示さずに使用する奴が自分より賢いわけがない。(中略)ノイズに対して真剣に反応する必要はないし、(中略)嫌がらせのようなものをコメントと受け取ること自体、時間の無駄だ。

●novtan別館『ネガティブコメントがどうとか、その考えが既にダメっ・・!』

 
 ネガコメにいちいち傷つき、「はてブはもう見ない」とか「ネットはやめる」とか言う人はいる。

 だけどネット上に限らず、自分に否定的な意見は必ず出るものだ。傷つく人はナイーブなんだと思うけど、それを乗り越える強さも時には必要なのである。

【関連エントリ】

『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』

『はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか?』

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はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか?

2008-02-10 11:12:59 | メディア論
■読み手じゃなく書き方が悪い場合もある

 前回エントリ『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』では、「はてブにはネガコメが多い」と感じる人の心理を客観的に分析した。

 書いたのはあくまで読み手に関する分析だ。そこで今回は少し視点を変え、情報の受け手の側の心理に加えて書き手の問題も掘り下げてみる。

■「批判されるのがガマンならない」人は異論を嫌う

「ネガコメが多い」てな印象論に代表されるように、はてブにマイナスイメージをもつ人は存在する。じゃあいったいそれはなぜなのか? 理由は大きく3つに分類できるだろう。まず受け手の側の問題からだ。

 いちばんありそうなのは、ブックマーク・コメントで自分の記事に異論を唱えられ、それを不愉快に感じるケースである。で、はてブをネガティブに捉えてしまう。自分とは異なる意見を受け入れられないために起こる悲劇だ。

 無用に挑発的で礼節を欠く表現でもない限り、コメントで反対意見を述べるのは正当な行為である。異論コメントを書かれたせいで、はてブに否定的な感情をもつのは正しい態度とはいえない。

■短く言い切る断定調のコメントはキツイ印象を与える

 ブクマ・コメントは文字数制限のせいで、短く言い切る断定調にならざるをえない。こういう表現は往々にして、読み手にキツイ印象を与える。断定調の短文は、「強い調子でヒステリックに言い立てている」と受け取られることも多い。

 だから本人にそんなつもりはないのに、「この人は自分に敵意があるんじゃないか?」などと誤解されることもある。

 また文字数制限に起因する類似のケースとして、「私はあなたの意見に反対だ」という結論部分だけしかコメントに書けない問題もある。つまり思考した過程を相手に説明できないため、記事の筆者がコメントの意見に納得しにくいのだ。

 論拠が示されず、「反対だ」「まちがっている」と結論しか書いてなければ、だれだって反対意見を受け入れにくい。それどころか反感を覚えるのが自然だろう。こういうコメントの書き方は、相手に意味もなく不快感を与えてしまう。

(だから字数制限をなくせ、という意味ではない。文字数に見合う種類のコメントを書けばいいだけの話だ)

 そこで私は対策として、論拠を十分に説明できないと判断したら、正当な異論であってもなるべくブクマ・コメントには書かないようにしている。そんなときはブログで記事にすればいい。

■コメントが揶揄や嫌味まじりになってしまう

 次が問題のケースである。読んだ記事とは異なる意見を、ブクマ・コメントに書き込んだ。ここまではいい。だがそのコメントが揶揄するような表現だったり、嫌味まじりだったりすれば相手は当然反感をもつ。

 たとえばブクマ・コメントを、自分のためだけのメモ用として書く人はけっこういる。もちろん正当な使い方だ。

 だけどそういう書き方をしている最中には、「そのコメントが広く公開・共有されていること」や、「記事の筆者本人もコメントを読む」んだってことが頭から抜け落ちていることがある。

 で、誰も読まないチラシの裏に書く感覚で、揶揄や嫌味を付け加えてしまう。そうでなくても人に読まれることを意識してなければ、ぞんざいな言葉遣いになるのはよくあることだ。

 また他人に読まれることを意識している場合でも、気がつくとコメントが何の気なしに揶揄や嫌味まじりになってる場合もある(自戒も込め)。もちろん嫌がらせのためにそう書いているなら論外である。

 同じ異論を述べるのでも、表現のしかた次第で生産的な議論になったり、罵詈雑言を投げ合う引き金になったりする。快適なコミュニケーションを成立させるには、「書き方」って重要なのだ。

【本日の結論】

1. はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか? 理由のひとつは、単に「自分がコメントで批判されたから」。自分と異なる意見を受け入れられない人は、異論を聞くと感情的な反応をしがちだ。

2. 逆にコメントを書く側の問題もある。ひとつは文字数制限により、相手に反対意見を示すとき「結論だけ」しか書けないケースだ。論拠を示さない書き方は、相手の共感を呼びにくい。

3. またコメントが揶揄や嫌味まじりになっている場合も、説得力が低くなる。意味もなく反感をもたれ、相手が異論を受け入れにくい。

4. コメントの論旨は正しくても、表現のしかたひとつで不快感を与えることもある。快適なコミュニケーションを実現するには、書き方に気をつけることは重要だ。

【関連エントリ】

『ネガコメを元に自戒するとき、スルーするとき』

『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』
コメント (1)
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「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?

2008-02-09 11:05:40 | メディア論
■賛同のブクマはしても、コメントを書かないケースは多い

 人間のネガティブな思考は、強いエネルギーをもっている。だからネット上で人物や意見に否定的な感情をもつと、ことあるごとに「彼」に対して嫌味や揶揄を連発するようになる。いわゆる「粘着系」の行動だ。

 これは特に意見を表明するための敷居が低いネット上では、よく起こる現象である。

 それに対して「好感をもちました」とか「おもしろかった」、「気に入りました」程度のポジティブな感想は、コメントとして発露しにくい。「思い」が負のエネルギーほど強くないから、単にブックマークしただけでコメントを書かずに素通りすることも多い。

 よっぽど「感動した」「強く賛同します」的な気持ちが湧いた場合を除き、わざわざポジティブな意見をコメントに書くことは案外少ない。

■9つの「無言ブクマ」より、1つのネガコメが印象に残る

 このネガ・ポジ比較論は、『はてブネガコメを嫌がるアナタへたったひとつのアドバイス』(304 Not Modified)を読んで浮かんだものだ。

 文中で筆者のまなめさんは、ネガティブな意見のインパクトについてこう分析する。

私も一人のブログ書きとして
99の賛同より1の反論の方が心に響いちゃうってのは分かるつもり。
そして、ネガティブな意見に同調した人がぞろぞろやってきて
ネガコメで埋まってしまうって状態もはてブではたまにあるからなんとも言えないけど。
人ってのはどうもネガティブな意見の方が書きたがるんだよね。(強調表現は松岡による)


 加えて冒頭に書いたように、記事に好感をもってもコメントは書かずにブクマするだけって例は多い。

 すると10個ついたブクマのうち、9つは賛同の意味だがコメントがない。唯一ついたコメントがネガコメだった、なんてケースも頻発するようになる。

 この場合、記事の筆者には、たった1つのネガコメが強く印象に残るだろう。

 その結果、筆者には「イヤな感じ」のほうが植えつけられる。記事に賛同する意見はステルスであることが多いのに、否定的な感想はコメントとして可視化されてるんだから当然だ。

■意見を否定された感情的な反発が「ネガコメ多い」論を生む

 もうひとつの要素はまなめさんも書いてる通り、「支持する意見」と「否定する意見」に対する情報の受け手の心理に落差がある点だ。

 人間は圧倒的に、自分を否定されたときのほうが心に残る。もちろん「おもしろい」と言われれば気分はいい。だが、「この記事のどこに価値があるかわからない」などと評されたときのショックとくらべれば格段の差だ。

 だからネガコメは記憶に刻み込まれる。で、「はてブはネガコメばかりだ」という印象論が多くなる。

 そんな人間の感情の動きと、印象論を生む構造を指摘したのが以下の記事だ。

これらの問題は、「気分が悪い」というごく私的で感情的な問題だ。そこに客観的な正しさを持ち込んだところで気分の悪さは消えるものではない。嫌なもんは嫌なもんなのだ。(中略)

実際はネガティブじゃないのにネガティブばっかりと思う人が結構いるということは、何か原因があるのだろうから、そこから見ていかないと駄目なんじゃないかなあ。

●Prepared Mind『「実際どうか」よりも「どう感じるか」が大事』


 たとえネガコメの内容が「客観的な事実」を指摘するものであっても、受け手の側はそれを快か不快か? の主観で判断する。で、感情的に反応する。いわゆる「気を悪くする」というやつだ。

 そして今日もまた「はてブは不快だ。ネガコメばかりだ」という印象論が再生産されるのである。

【本日の結論】

1. 最近またもや、はてブのネガコメ是非論が話題だ。だけどネガコメって実は数そのものは多くない。

2. なのになぜ「はてブはネガコメが多い」と言われるのか?

3. それは記事の筆者から見て「ポジティブなコメントより、ネガコメのインパクトの方が強いから」である。

【関連エントリ】

『はてブにマイナス・イメージを持つ人がいるのはなぜか?』

『ネガコメを元に自戒するとき、スルーするとき』

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ネット上で公共性はありえるか?

2008-02-08 12:18:52 | メディア論
■パブリックな精神は自律的に生まれる

 ITジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書「フラット革命」の中で、『「公共性の見えない世界へ』という節を立て(P209)、「フラットな社会の中で、公共性は保証されるのか? インターネットは公共性を保証できるのか?」と問題提起している。

 私は「公共性がそこにある状態」って別に誰かが与えてくれたり、システムが保証してくれるものじゃなく、「自分で勝ち取るもの」だと考えている。もっといえば、ネット上でそれは自律的に形成されて行くというのが私の結論だ。

■公共性って「アーキテクチャー」が作るのか?

 佐々木さんは同じ節の中で、2006年12月に筑波大学で開かれたパネルディスカッションの1シーンを紹介している。会場で質疑の際、ある大学院生がこう質問した。以下、同書から引用する。

たとえばアフリカの飢饉や内戦といった情報や理論を伝える媒体は、これまではマスメディアが担っていたんですよね。それがインターネットのような媒体が拡大していき、逆に旧来のマスメディアが市場を占める割合が少なくなってしまうと、社会貢献が困難になってくると思います。そういう場合、公共性はだれが担っていけるんでしょうか?

●佐々木俊尚・著「フラット革命」(P211)


 そしてパネリストの1人だった佐々木さんは、この質問に答えている。佐々木さんの結論は私の考えに近いんだけれど、ちょっと気になるのは回答の途中に出てくる以下の佐々木さんの表現だ。

だから集合知が実現すれば、アフリカに行く人も出てくるでしょうし、それまで興味を持っていなかった人がアフリカのことを知ることも可能になる。
 だから問題は、そうした仕組み--人々が関心のない問題に対してもきちんと接することができて、それに対して何らかの知見を得られるようにできるようなアーキテクチャーを、インターネット上でどれだけ実現できるかにかかっているんです。

●同書・P212より引用(強調表現は松岡による)


 ここでいう「アーキテクチャー」とは計算して作った仕組みのことではなく、「自然にそうなる社会構造のありよう」のことを指しているのだろうか?

 もしそうなら私の考えに近い。ただ新聞出身のジャーナリストらしいなあと思うのは、「自律」が本質である集合知を語っていながら、何ものか他者が人々を導き、よき方向へと「向かわせる」かのようなニュアンスを感じさせる点だ。

 別に佐々木さんを批判するつもりはないが、この発想って<たとえ人々の関心がなくても新聞が「それ」を報道し、人々を啓蒙し、教え導くんだ>というのとルーツが同じであるような気がする。

 それを作るのはシステムや技術、アーチテクチャーじゃなく、自律的な「人間」そのものだと私は考えるのだが。

■インタラクティブなコミュニケーションが証明したネット上の公共性

 それならインターネット上で、公共性はどこでどんなふうに発生し、形成されているのだろうか? 具体論に移ろう。

自分のエントリーは、たぶん、アウトプットした時点で自分のモノじゃないんだと思ってます。
そこにコメントがついたりして、いろんな人の手垢がついて。
そしてしばらくたって、それを(検索してきた人とかが)見たときに、
「ああー、こりゃ集合知だわ」っていう1つの話題ができあがってるんじゃないかなと。

●Attribute=51『Web 2.0での上手な発信方法』(行間を詰めた)


 文章をアウトプットした時点で「自分のものじゃなくなる」と自覚することは、すなわち公共性を意識するということである。いや正確には、たとえ意識してなくても結果的にそうなる(後述)って話だ。

 で、自分が書いた文章やコメントが他人と共有され、自分だけの所有物じゃなくなる事実を考えることから、だんだんこんな意識が生まれてくる。

「いま自分が書いてることは、みんなの利益にかなうか?」

「他人が読みやすい書き方(=公益)を心がけよう」

「ウケる(=人の役に立つ)情報を発信しよう」

 こういう感覚は、ネット上に広がるバーチャルな「公」を意識すると自然に出てくる。もちろん公を意識しながらあえて私的なことを書く人、ケースもあるし、また繰り返しになるが、意識はしてないけど結果的にそうなる場合も多い。

■「自分のため」が「他人のため」になる

 こうした感性は別に「Web 2.0だから」とか、いまあらためて新しくできたわけじゃない。昔からあったものだ。

 ブログやSNSなどのコミュニケーションは、相互に意思や情報をやり取りするインタラクティブな要素が強い。だから他者との接点がふえ、そのことがネット上に存在する公共性をひときわ目立たせているだけだ。

 たとえば掲示板文化が華やかりし頃、板に集う人にはパブリックを意識する感覚があった。(これはいまのQ&A掲示板にも引き継がれている)

「ADSLが開通したけど速度が出ません」

 そんな質問があると「あなたのRWINはどうなっていますか?」とか、「もし接続が切れるなら、家の保安器が6PTの初期型じゃないですか?」てな感じで、自分のトクになるわけじゃないのにみんなが手間をかけてレスをする。

 他人のことを考え、他人のためにと手間を惜しまず回答するわけだ。

 もちろん自分の知的探求のためとか、「オレにはこんなに知識があるんだぞ」と自己顕示欲を満足させるために回答する人もいるだろう。だけどインターネット上では、そんな自分のためにした情報発信が他人のためになることって多い。

■公共性はインターネットの属性だ

 またパブリックを意識すれば、「他人のために回答する」というだけじゃなく、掲示板を使う場合のあらゆる立ち居振る舞いについて公共性を考えるようになる。

 たとえば「適当なところで改行したほうが閲覧者は疲れない」(これも公益だ)てな書き方の問題から始まって、「質問する前にはまず過去ログを読む」(リソースの節約と他の閲覧者に対する配慮=公益)とか。

 あるいは「この論点はここの掲示板ではまだ出てないから、一度書いておけば閲覧者全体の利益になりそうだ」などなど。そこに集う人々が能動的に、そのコミュニティにおける公共性の維持・確保と公益を考えるようになる。

 今回はたまたま掲示板文化の例をあげたが、過去を振り返ればメーリングリスト文化にしろオープンソース文化にしろ、パソコン通信文化にしろ、こうした公的な感覚や概念はネット上では継続してあり続けた。

 冒頭の話にもどると、「発信した文章は自分だけのものじゃなくなる」(=公共性を帯びる)というテーゼはWeb 2.0特有のものじゃなく、インターネットの属性だって話である。

 それは別にアーキテクチャーやシステム、技術がそうさせてるんじゃない。そこに集う人間自身が、自律的に生み出しているのである。

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あなたはブクマコメント派? それともブログにコメント派?

2008-01-13 12:19:41 | メディア論
■ブログに書き込む行為は「筆者の手を握る感覚」だ

 ブログを読み、「おもしろい」と感じた。

 じゃあ、あなたが次に取る行動は何か?

 相手ブログのコメント欄に感想を書き込むか? それともソーシャルブックマーク(SBM)でコメントするか? それが問題である。

ブログを読んでいてコメントしたいな、と思うときが多々ありますよね。で、そんな時コメントする場所(方法)ってたくさんあるんですよね。(中略)

中でもブログのコメントとブクマコメントで迷いますよね。

●まだ限界だなんて認めちゃいないさ『どこにコメントすべきか問題』


 みんな同じだなあ。

 たとえば私の場合、デフォルトはブクマコメントだ。SBMを使い始める前は相手ブログに書き込んでいたが、今ではよほど感銘を受けた/反発を感じたとき以外、そこまでしない。

 すごく親しい人ならブログのコメント欄に書くが、たいていはブクマ・コメントで終わりだ。

 私にとって相手ブログへ書きに行く行為は、相手の両手を握り、「すばらしかっですよ!」と祝福するようなニュアンスがある。

 ただしこう書くと、SBMよりブログのコメント欄のほうが価値があるように感じるが……実は案外、そうでもない。

■記事を世の中に紹介する意味があるSBM

 たとえば相手ブログじゃなくSBMに書く行為を、(1)社会的な意味と、(2)ブログ筆者との関係──に分けて考えてみよう。

 相手ブログに書き込むのとくらべ、SBMでブックマークする行為は「みなさん、このブログはおもしろいですよ」と社会に向けて呼びかける意味合いが強まる。

 すると他ユーザがあなたのブックマークを見て、「オレも読んでみようかな?」と考える可能性が生まれる。つまり当該エントリを世に出す機能を果たすことになる。

 一方、相手ブログにコメントを残せば、ブログの筆者は喜ぶかもしれない。だけどあなたのコメントは、筆者とブログの読者が見て終わりだ。

 あなたが相手との1対1のコミュニケーションを重視するなら話は別だが、どちらがより「公益にかなうか?」といえばSBMのほうだろう。

■SBMは心理的負担の少ない「そこそこ感」がいい

 一方、SBMでコメントするのと、相手ブログに書き込むのとでは、あなた自身が感じる心理的な壁はどちらが高いだろうか?

 ブログにコメントを書けば、必然的に筆者とコミュニケーションが生まれる。もちろん感動のあまり手を握りたいならいい。けど、そこまでする気はないが「おもしろかった」と感じたことは公知、または記録したい、と考えるなら、SBMがもってこいだ。

 いわばSBMは、このそこそこ感がいいのである。

 だからこそ億劫にならず、たくさんのサイトを選ぶ気になる。また、あなたのセレクションが自動的に他ユーザと共有・公開される点も、社会的な意義を含めて得点が高い。

 てなわけで手のぬくもりがほしい、って筆者さんには受難の時代かもしれないけれど……まあそのぶんあなたの文章は、世の中の役に立ってるんだからいいじゃないですか。

【関係エントリ】

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

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【警察庁に電凸】新聞記事はこれだけ書き方が違う -ニュースの読み方とメディアリテラシー

2008-01-03 09:33:22 | メディア論
■自転車をこぎながらiPodが聞けなくなる?

 私はiPodを聞きながら、郊外の緑の中を自転車で走るのが大好きだ。

 ところが2007年12月27日、「走行中のヘッドホンステレオが禁止される」というニュースが流れた。大ショックである。最初に読んだのは、以下の産経新聞の記事だ。

 自転車運転のルールづくりを進めていた警察庁の有識者懇談会(座長・吉田章筑波大教授)は27日、走行中の携帯電話、ヘッドホンステレオの使用禁止、保護者が幼児を乗せる際はヘルメット着用を義務付けることなどを盛り込んだ報告書をまとめた。

 報告を受け、警察庁は年度内にも自転車運転のマナーなどを定めた「交通の方法に関する教則」(国家公安委員会告示)を改正する方針。(強調表現は松岡による)

●MSN産経ニュース『携帯、ヘッドホンは禁止 自転車の運転で新ルール』

 あえてこの記事だけで判断してみよう。まずニュアンス的には新しく規則ができ、ヘッドホンステレオが法的に禁止されるかのように受け取れる。ただし「マナー」という言葉を使っているため、じゃあ法的な拘束力はないのか? との疑問もわく。

 またこの記事からは、「交通の方法に関する教則」なるものの(法的効力も含めた)社会的な位置づけがわからない。これ以上は検索などで調べる必要がありそうだ。新聞1紙を読んだだけでは、事態を正確に把握できそうにない。

■毎日新聞の記事では印象がガラリと変わる

 てなわけで、お次は毎日新聞である。

 自転車の安全運転のあり方を検討する警察庁の有識者懇談会(座長・吉田章筑波大大学院教授)は27日、(中略)報告書をまとめた。同庁は報告内容を歩行者、運転者の守るべきルールなどを説明した「交通の方法に関する教則」に取り入れて、教則を29年ぶりに抜本改正し、警察が行う安全教室などで役立てる。(中略)

 教則はあくまでも警察が安全教育のために活用する指針で、罰則規定はない。

●毎日jp『自転車運転:携帯電話の通話ダメ 警察庁懇談会が提言』

 ニュースの印象がガラリと変わった。

 まずタイトルを比較しよう。産経の場合、「ヘッドホンは禁止」、「新ルール」という2つの言葉を使っている。読者はこの「禁止」と「ルール」の語感から、タイトルを見た時点で「新しい法律ができ、ヘッドホンステレオは禁止されるんだな」と思うはずだ。

 ところが毎日はタイトルで「提言」なる文言を採用している。提言てのは法律とは直接関係ない。つまりタイトルを見ただけでも、こんなにニュアンスがちがうのだ。

 次は本文へ行こう。毎日の記事からは、ヘッドホンステレオの禁止を呼びかける「交通の方法に関する教則」とは、警察が行う安全教室などで「こういう行為はマナー違反ですよ」などと啓蒙するための基準だとわかる。

 また「教則はあくまでも警察が安全教育のために活用する指針で、罰則規定はない」の一行により、最大の関心事だった社会的位置づけに関する疑問が一部解ける。ヘッドホンステレオ禁止は単なるマナーであり、指針なのだ。

 ヘッドホンをして自転車をこいでいると、お巡りさんに止められる。「あなた、それは危険ですよ。やめてくださいね」。ひと声かけられ、放免される。そんなイメージである。

 もちろん罰則もないただのマナーだから「守らなくていいや」ってことにはならない。本エントリの主題はその話ではない。

 今回のテーマをいったんまとめておく。

1. 新聞は「事実を報道している」というイメージがある。だけど新聞1紙を読んだだけでは、事実関係はこれだけ「わからないもの」なのである。

 2. やっぱりメディアリテラシーは重要だ。

 こういうお話である。

■時事通信の記事は毎日に近いが新たな疑問が

 一方、時事通信も毎日のトーンに近い印象だ。

警察庁は27日、自転車の通行区分などを明確にした改正道交法の来年6月までの施行を踏まえ、交通に関するルールやマナーを分かりやすくまとめた「交通の方法に関する教則」(国家公安委員会告示)を改正する方針を決めた。
 教則は安全教育や教本の基礎となるもので、自転車に関する内容の見直しは、現在の教則が作成された1978年以来、約30年ぶり。有識者の懇談会(座長・吉田章筑波大大学院教授)がまとめた報告書に基づき、3月までの改正を目指す。

●時事ドットコム『幼児は1人、傘の固定危険=自転車安全対策で教則改正へ-30年ぶり・警察庁』

 まず、「教則は安全教育や教本の基礎となるもの」のくだりから、ヘッドホンステレオは法律で禁止されるわけではないことがわかる。

 ただし細かいツッコミを入れると、「教本」という新たな言葉が出てきたがこれは何者なのか? また記事中には、「交通に関するルールやマナーを分かりやすくまとめた『交通の方法に関する教則』」とあるが、ルールとマナーじゃえらいちがいだ。ルールは「法律」とも解釈できるが、マナーはちがう。

 すると教則なるものは、法律とマナーが混在した性格のものなのか? などと新たな疑問もわく。

 結局、新聞記事だけじゃラチが明かない。かくて自分で調べることに相成った。

■最後は「警察庁に電凸」することに

 まずはネットで検索だ。「道路交通法」でググってみる。すると「交通の方法に関する教則」とは、交通安全の啓蒙活動などを推進するため、活動の基準にする目的で作られたものだとわかった。国家公安委員会が作成し、公表するしくみだ。

 厳密に言えばこの教則は、道路交通法第6章の4「交通の安全と円滑に資するための民間の組織活動等の促進」の中で、「交通安全教育指針及び交通の方法に関する教則の作成」として、第108条の28で規定されている。(強調表現は松岡による)

 つまり「交通の方法に関する教則」の性格は、毎日新聞の説明通りであることがわかる。だけどこれだけじゃ、わかったようなわからないような感じだ。

 そもそも教則に盛り込まれるってのはすなわち、「法律になる」ということなのか? また破ると「道路交通法違反」になるのか? まだまだ解けない疑問は多い。

 で、警察庁に電話取材することにした。

 結論から先に言おう。

 まずヘッドホンステレオを聞きながら自転車で走ると、今日現在においても「道路交通法違反だ」と言う人がネット上にはたくさんいる。だがそれはデマだ。目下のところ(2008年1月3日現在)道交法本体はおろか、教則の中にさえそんな禁止項目はない。

 同じく警察庁によると、教則にヘッドホンステレオ禁止が盛り込まれるのは、あくまでマナーとしてだ。

 では従わなければどうなるのか? もちろん道交法違反ではないし、罰則もない。警察庁によれば、単なる「マナー違反」である。(ただしマナーを守らなくていいのか? って議論はまた別の話だ)

 一方、教則にヘッドホンステレオ禁止が盛り込まれるのは、報道によれば「2008年3月までにも」だ。で、それ以後に、警察が取る対応はこうである。

『ヘッドホンをして自転車をこいでいる人を見かけた場合、注意を促すことはありえます。ただしどう対応するかは警官個人によって違う。名前を聞くことも考えられるし、声をかけるだけになるケースもあるでしょう』(警察庁)

 結局、今日現在も、また教則に盛り込まれて以降も、法律ではなくマナーであることに変わりはない。ちがうのは教則に入れて明文化すれば、「警官が指導しやすくなります」って点だけだ。

 私の疑問はやっとすべて解消した。

 こんなふうに新聞を3紙読み比べた場合でさえ、疑問が残ることはけっこう多い。

 最終的にはネタ元である警察庁に直接聞かなきゃわからないのである。

■「検証する目」で記事を読むのがポイントだ

 まとめよう。

1. 忙しい現代人はごく一部の人を除き、新聞各紙の紙面を読み比べるなんてことはしない。

2. とすれば「どの新聞をたまたま読んだか?」、または「どの新聞を定期購読しているか?」により、同じニュースに接する場合でも解釈が大きくちがってくる

3. 現に今回検証したように、産経だけを読んだ人と毎日のみを見た人とでは、受ける印象がかなり異なる。

4. とすれば新聞1紙だけを読んでいたのでは、客観的事実とはかけ離れた認識をもってしまう可能性がある。(これはかなり危険だ)

5. 解決策のひとつは複数の新聞を読み比べることである。だが日常的にそうするのが無理ならば、絶えず記事に疑問を持ちながら検証する目で読むのがコツだ。で、必要と判断した場合のみ、他紙も読んでみるってことになりそうだ。

【本日の結論】

 今回の検証では複数の新聞を読むだけでなく、自分で道路交通法の中身を調べた。またネタ元である警察庁にも確認の取材をした。これらはいわゆるウラ取りという行為である。新聞社が調査報道をする場合には一般的だ。

 メディアリテラシーという意味では、自分が持っている不確かな情報をネタ元に当て、ウラを取るのは大切である。だけどお巡りさんだって、いちいち国民全員から問い合わせがくるんじゃ大変だ。また普通の人は、とてもそんなことまでしていられない。

 とすれば最大のポイントは、まずマスコミの報道を鵜呑みにしないことだ。流れてくる情報を常に疑う心を持ち、記事や番組をチェックする目で読む。これが現代人にとって最低限必要な、情報に対する佇まいだといえるだろう。

【関連エントリ】





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すちゃらかな「おすすめエントリ2007」

2007-12-30 12:46:27 | メディア論
 ニュースサイト『まなめはうす』の管理人・まなめさんが2007年のおすすめエントリを募集してるので、私も遅ればせながら参加しちゃお。年を締めくくるのにちょうどいいや。

2007年にあなたが自分で書いた記事の中で「これはおすすめ」という記事を最大3つまで選んでトラックバック送ってください。その際、この記事へのリンクも貼ってください。

●304 Not Modified『【TB企画】あなたのブログの中でおすすめのエントリを教えてください2007』


 では行きます。

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

 最近のエントリってことで、3本とも2007年12月に書いた記事にしました。1本目はこれ。ブログやmixi、ソーシャルブックマーク(SBM)などでは、心理的な意味でインターネットの「個室化」が起こりやすい。この個室化は新聞のネタになるような事件も起こす反面、クリエイティブな文章を生む源泉にもなる。

 だからSBMではあえて個室に入り、自分にしか書けないコメントを書いたほうが世の中的にはおもしろい、ってお話だ。

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

 たとえばmixiは、「仲のよさ」や「好きなこと」を通して繋がるファンクラブ志向のコミュニケーションだ。一方、SBMはそれとは対照的に、記事の内容優先で意思の疎通が行なわれる議論志向のメディアである──。

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

 個人ニュースサイトの管理人さんは、「自分の好み」をいい意味でゴーマンに押し付けてくれる必殺・記事選び人である。てことは、あなたの好みにマッチする傾向のニュースサイトを見つけられれば、「そこに出ている記事は(あなたにとって)みんなおもしろい」って世界が開けるにちがいない。


 以上、ゆく年くる年バージョン、すちゃらかな「おすすめエントリ2007」でした。

 みなさん、よいお年を♪
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過去記事にスポットライトを当てる個性派ニュースサイトの威力

2007-12-26 10:04:39 | メディア論
 このところ、ソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイト(NS)をテーマに記事を書き、読んだ方といろんなコミュニケーションができた。いただいた感想にインスパイアされ、新しく浮かんだアイデアも多い。

 たとえば自分の目で記事を読み「おもしろい」と感じることは、いわば「一次評価」である。一方、SBMは、そんな各人の一次評価を持ち寄り、みんなで「二次評価」体験を共有する場といえる。

■ニュースサイトは速報性にこだわる必要があるか?

 またSBMはどちらかといえば新しい記事を追うメディアだ。その意味では速報性が武器である。ところが一方のニュースサイトは、案外、古い記事でもいいものを紹介していたりする。

 私も以前、何度か『駄文にゅうす』さんで過去記事を取り上げていただき、うれしく思ったことがある。

 とすればSBMと差別化する意味で、ニュースサイトは「それが新しい記事かどうか?」にあまり固執せずセレクトする戦略もアリかもしれない。多少以前の記事で、なおかつ当時、SBMではあまり評価されなかったものでも、管理人さんの目で見て「いい」と思った記事を紹介するとか。

 たとえば『まなめはうす』さんには、「★一年前のニュース」という過去記事を掘り起こすコーナーがある。また『駄文にゅうす』さんも同様に、そういう地道な作業をしているところが個性的だと思う。

■あなたはSBMとニュースサイトをどう使っているか?

 さて前々回のエントリ『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』では、情報収集の手段がSBMとニュースサイトだけになってしまうことの問題点を考えた。

 繰り返しになるが、論点は以下の2つだ。

1. SBMとNSに頼りきりだと、記事を発掘する目が他人まかせになりすぎないか?

2. SBMとNSに頼りきりだと、自分の感性で自分だけが「おもしろい」と感じる記事を見逃すんじゃないか?


 で、その記事には、興味深いブックマーク・コメントがたくさん寄せられた。まさに集合知を見る思いである。

 そこでソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイトの使い方について、コメントをもとに、おもしろくて役立つトピックス一覧を作ってみた。

 以下、いただいたブクマ・コメントを引用した上で、それに対する私の感想を書きながらトピックスを並べる(2007年12月25日現在)。●印の項目はすべてはてなブックマークのコメント・ページからの引用だ。また読みやすくするため、タグその他は削除した。

■SBMは記事を「二次評価」する機会を効率よく作る

takoponsさん 『自分で「これは良く書けたかなー」と思う記事を上げても反応(☆, B, ※等)がなくてしょんぼり(´・ω・`)していたら、数日後にニュースサイトで紹介されてシャキーン(`・ω・´)ってなることがたまーにあります』

 冒頭で書いた通り、確かに私にも経験がある。してみるとSBMはどちらかといえば速報性即時性に重きを置いたメディアであり、かたやニュースサイトは過去記事の掘り起こしにも役立つ、ということかも? もちろんSBMでも古い記事にスポットが当たるケースもあるから、いちがいにはいえないと思うが。

pre21さん 『これも2次発掘しました。2次発掘ばんざい!』

「これ」というのは私の前々回のエントリのこと。つまり「あなた(松岡)のこの記事も2次発掘で見つけたんですよ」てな意味だ。「他人の目に頼るだけでなく、自分の目で記事を読むこと」を呼びかける当の(松岡の)記事が、まさに他人の目で発掘されている皮肉──。シニカルで味のあるコメントだ。

cloverleaf24さん 『1次発掘した良質記事でもブクマじゃなかなか広がらない。ブログで掘り下げないと何も起こらないことを最近痛感していますよ、私』

 いくら自分が「おもしろい」と思いブックマークしても、ブクマ数が「1 user」から増えないことはある。とすれば特に自分のアンテナを刺激した好記事は、自分のブログで詳しく取り上げる方がいいのかもしれない。ブログ記事で掘り下げて分析・解説すれば、紹介した記事にも新しい価値が生まれそうだ。

dodododさん 『「他人の目」で再評価される』

 短いが、印象的なコメントだ。自分の目で見て「おもしろい」と感じることは、いわば一次評価である。とすればその記事をブックマークすることで、第三者が「おもしろい」と感じるのは二次評価(再評価)に当たるんじゃないか? SBMがもつお気に入り記事の共有機能は、確かにそんな構造を発生させる。

■SBMはあえて「他人の目で見たクリップ集」として使う

julajpさん 『RSSリーダーを自分なりにカテゴライズ、レべリングなどとことん細分化チューニングして追い詰めていけばいいのだろうけど、結局ぱっと見られるSBMなどが手っ取り早くて便利なんですよね』

 手っ取り早くて便利。SBMはこのひと言につきる。実際、私も「今日の新聞」を読む感覚で、手軽にSBMを利用している。やっぱりこれはやめられない。

hatayasanさん 『深く印象に残ったブログはすぐにRSSリーダーに登録するようになりつつある。SBMに比べると「打率」は低いかもしれないけれど』

 私も以前はそうだったんですよねえ。「いい」と思ったら、すぐRSSリーダに登録してた。ところが時間に追われ、そのうちにSBM一辺倒になっちゃって……。

straymindさん 『SBMは敢えて世間の目で利用しているなぁ/個人的に興味のある分野はキーワード使って収集してる/要は使い分けなんだろうな』

 SBMは他人の目で集めた記事専用のクリップ集として使う、って利用法。なるほどこういう使い分けもアリだ。

F-SQUAREさん 『自分で「面白い」と思う1次情報を見つけるのと、それが「面白い」と2次情報として共有できるかどうかは別の話なんだけどね』

 記事Aを「おもしろい」と自分ひとりで感じることと、記事Aの「おもしろさ」を不特定多数に公開し、共有することはまったく別の作業だ、って話。確かにその通りだ。この視点は私の元エントリにはなかったものである。

 ただ私の元記事は、「自分がおもしろいと感じること」にテーマを絞った文章だ。一方、F-SQUAREさんが指摘された「人とおもしろさを共有する」話は、それとはまた別の切り口の記事になるのだと思う。

■「おもしろブクマ・コメント集」は集合知の新しい集約法では?

 今回の記事を書いて思ったのだが、自分の記事についたコメントのうち、おもしろいと思ったブックマーク・コメントを集めてブログで定期的に紹介する、って企画はどうだろう?

 まず記事の冒頭で、自分の元記事を読んでない人にも意味がわかるよう、自分の元のエントリの要旨を説明する。で、その記事についたコメントを掲載し、「このコメントはココがこうおもしろかった」、「こんなふうに意表を突かれた」、「この視点は自分にはなかったものだ」てな感じで紹介するのだ。

 もちろんSBMを利用していれば、ブックマーク・コメントは日常的に読める。だけど自分の記事についたコメントだけに限定し、かつおもしろかったコメントのみをダイジェストにした上で自分の感想も載せれば、これもひとつのコンテンツとして成立するんじゃないだろうか?

 定期的にやれば自分のブログのネタにもなる。なによりおもしろいコメント、およびそのコメントがもつ視点・論点を共有するって、集合知を集約する方法としては新しい切り口なんじゃないかな?

【関連エントリ】

『きっかけは「他人の目」でも、「自分の目」で見て判断する』

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

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きっかけは「他人の目」でも、「自分の目」で見て判断する

2007-12-25 16:55:19 | メディア論
 前回エントリ『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』では、情報収集の手段がソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイト(NS)だけになるとまずいんじゃないか? てな話をした。

 論点は以下の2つだ。

1. SBMとNSに頼りきりだと、記事を発掘する目が他人まかせになりすぎないか?

2. SBMとNSに頼りきりだと、自分の感性で自分だけが「おもしろい」と感じる記事を見逃すんじゃないか?


 で、例によってはてなブックマークのコメントで、示唆に富むおもしろい意見をたくさんいただいた。それらを読み、思考がさらに深まった感じだ。そこで新しくエントリを立てることにした。結論をひと言でいえば、次のタイトル通りである。

■自分の目と脳で読めば無問題じゃない?

 今回の記事を書くモチベーションになったのは、以下のコメントだ。(2007年12月25日現在)

NOV1975さん 「読むときには自分の目だな」(以下略)

pbhさん 「フィルタリングを自分の脳ですれって話と理解」


 どちらも主旨は近いだろう。記事を見つけるきっかけになったのは「他人の目」でも、「自分の目」で読み判断すればいいんじゃないの? って意味である。

 人に記事の存在を教えられ、他人の価値観に脳を支配された状態で読むのはよくない。こりゃ洗脳されている。

 要は、思考をスイッチすればいいのだ。

 記事を読む時点で頭を切り替えよう。で、「あのアルファ・ブックマーカー(またはニュースサイト)の○○さんがおもしろいと言っている。なら、きっとおもしろいんだろう」的な悪い意味の予断をなくす。

 そして自分の目で記事を読み、自分の脳で記事の価値判断をする。この方法なら、確かにジャッジの部分に関しては問題ないだろう。

■「自分だけのおもしろい記事」を見逃す可能性は残る

 ただし私の問題提起のうち、これでもなお、まだ次の論点については解決されていない。前回のエントリから該当箇所を引用しよう。

 なぜならこの選び方(SBMとニュースサイトのみに頼る方法)だと、結局、ある程度メジャーなもの(SBMやニュースサイトですでに選ばれているもの)しか読まなくなるのでは? という危惧がひとつ。

 もうひとつは、これだと「自分にとって本当に読む価値のある記事」を見逃すんじゃないか? というのもある。(中略)

 私のRSSリーダには、私が自分の目で選んだ「自分にとって価値がある」ブログがたくさん登録されている。ためしにそのうちのひとつから、任意の記事を読んでみると……やっぱりおもしろいのである。

 けど、その記事はSBMやニュースサイトではまだ取り上げられていないのだ。

 やっぱりこういう記事を探し出す「一次発掘の目」を持ち続けなきゃなあ……。

 そんなことを感じる今日このごろである。

●すちゃらかな日常 松岡美樹『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』


 自分の価値観というフィルタを通して読めば、確かに読むときの問題点は解消される。だけど記事の発掘については、依然、事態は変わらない。

 SBMとニュースサイトだけに頼っていると、それらに載っていない記事を見逃す可能性がある。SBMやニュースサイトには出てないけれど、自分が読めばおもしろいと思う記事に出会えなくなるのでは? そんな危惧が残る。

 要は「人に頼りすぎると自分らしさをなくす」、「程度問題だよね」って話である。

 この点についてはブログ「北の大地から送る物欲日記」さんが、端的にまとめられている。ポイントを引用しよう。

私は両方の見方(他人の目、自分の目)を使って記事を見つけて読みますが、両方半々くらいです。自分の見る範囲の視野を広げるのに、他人の目を使った見方はありがたいですし、他人の目では見逃してしまいがちな自分のお気に入りの記事を見つけるためには、やはり自分の目を使って記事を見るのも大事。

『「他人の目」と「自分の目」を駆使してウェブを読む』


 他人の目と自分の目をバランスよく併用する。私もこれが正解だと思う。

 人間が情報収集に使える時間は限られている。それに加え、現代は情報過多の時代である。で、ついついSBMとニュースサイトだけに頼り切りになってしまうが……やはり自分の目で探す作業も平行して続けたいものだ。

【関連エントリ】

『過去記事にスポットライトを当てる個性派ニュースサイトの威力』

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』


(追記)今回見てきたようなニュースサイト関連のテーマについては、『駄文にゅうす』さんが役に立つリンク集を作られているようだ。参考までに付記しておく。

■駄文にゅうす『「葦の髄から天井を覗く」ような事をしても見える世界は限られている訳ですが』

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