単純な二元論はまったくのナンセンスだ
ゆうべブラジル・ワールドカップを放映中のテレビの解説者が、「今回の大会はカウンター狙いのチームが多い。となればこの大会はリアクションサッカーが正しいのか、アクションサッカーが正しいのか、という結論が出る大会になるでしょうね」的なニュアンスのトンチンカンな解説をやっていた。
どうも日本のサッカー界には、「どちらが正しく、どちらがまちがっているか?」という単純な二元論でしかものを考えられない人が多い。だがこんな思考法はサッカーじゃまったくのナンセンスだ。例えば「個か? 組織か?」なんていう無意味な二元論の議論と同じである。だってサッカーにはどっちの要素も不可欠なんだから。
そもそもサッカーには絶対的な「正解」なんてない。そりゃ数学みたいに「正しい答え」がひとつしかないなら、どのチームもそのやり方を踏襲するはずだ。だが現実にはそうなってない。これはなぜなのか?
複数の正解が成立しうる競技であるサッカーでは、どちらの戦い方が「より自分たちに向いているか?」が常に問われる。つまり比較論の問題であり、「どちらが正しいか?」なんていう単細胞な正邪の問題ではない。
チームを構成する選手個々のキャラクター(特徴)と、彼らが複合的に組み合わさりチームとなった場合のキャラクター(方向性)、そして指揮する監督の資質や戦術的な志向性、さらには相手チームのスタイル。この4つの要素を総合的に考えた場合に、
1. 自分たちにはリアクションサッカーが向いているか?
(リアクションサッカーをしたほうが、自分たちの資質がより引き出されるか?)
2. それとも自分たちにはアクションサッカーが向いているのか?
(アクションサッカーをしたほうが、自分たちのキャラがより生きるのか?)
3. 相手チームが格上でポゼッション・サッカーをしてくるなら、リアクションサッカー(引いてカウンター狙い)をする。
4. 相手チームが格下で、引いたサッカーをしてくるならアクションサッカー(ポゼッション・スタイル)で行く。
(一例だが)こういう柔軟な発想をしない限り、日本のサッカーは永遠に世界で勝てないだろう。
ゆうべブラジル・ワールドカップを放映中のテレビの解説者が、「今回の大会はカウンター狙いのチームが多い。となればこの大会はリアクションサッカーが正しいのか、アクションサッカーが正しいのか、という結論が出る大会になるでしょうね」的なニュアンスのトンチンカンな解説をやっていた。
どうも日本のサッカー界には、「どちらが正しく、どちらがまちがっているか?」という単純な二元論でしかものを考えられない人が多い。だがこんな思考法はサッカーじゃまったくのナンセンスだ。例えば「個か? 組織か?」なんていう無意味な二元論の議論と同じである。だってサッカーにはどっちの要素も不可欠なんだから。
そもそもサッカーには絶対的な「正解」なんてない。そりゃ数学みたいに「正しい答え」がひとつしかないなら、どのチームもそのやり方を踏襲するはずだ。だが現実にはそうなってない。これはなぜなのか?
複数の正解が成立しうる競技であるサッカーでは、どちらの戦い方が「より自分たちに向いているか?」が常に問われる。つまり比較論の問題であり、「どちらが正しいか?」なんていう単細胞な正邪の問題ではない。
チームを構成する選手個々のキャラクター(特徴)と、彼らが複合的に組み合わさりチームとなった場合のキャラクター(方向性)、そして指揮する監督の資質や戦術的な志向性、さらには相手チームのスタイル。この4つの要素を総合的に考えた場合に、
1. 自分たちにはリアクションサッカーが向いているか?
(リアクションサッカーをしたほうが、自分たちの資質がより引き出されるか?)
2. それとも自分たちにはアクションサッカーが向いているのか?
(アクションサッカーをしたほうが、自分たちのキャラがより生きるのか?)
3. 相手チームが格上でポゼッション・サッカーをしてくるなら、リアクションサッカー(引いてカウンター狙い)をする。
4. 相手チームが格下で、引いたサッカーをしてくるならアクションサッカー(ポゼッション・スタイル)で行く。
(一例だが)こういう柔軟な発想をしない限り、日本のサッカーは永遠に世界で勝てないだろう。