「BLOG STATION」さんからいただいたエントリー『「批判について考える」へのトラックバック雑感』の論点は、わかりやすく言えば以下の3点だ。
1 松岡美樹は『原典であるはずの「はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」』に、いっさい触れていない。本題に言及せず、「僕が書いたわずか数行の文章」にだけ反応している。「原典から脱線しすぎ」である。これでは議論にならないのではないか?
2 「BLOG STATION」のブログ主さんは、「僕の意見が理解できないとか、反対意見だと書かれること自体は、そんなに嫌ではないのですが」といいながらも、あきらかに気分を害し感情的に反応している ⇒私からみれば、逆にこれこそ議論にならないスタンスである。
3 松岡美樹は、自分のエントリーで取り上げた「hankakueisuuさん」、「えっけんさん」に関しては人名で呼び、「僕だけブログ名で」呼んでいる。このことに僕は「著しい当惑を覚えた」 ⇒私の考えを言えば、これまた典型的な感情的反応にすぎない。
以上、「BLOG STATION」さんの論旨は、この3点だけだ。ここまで読んでもうおわかりだろうが、「BLOG STATION」さんとは生産的で論理的な議論などできないことは明白だ。
なぜなら前回、私が書いたエントリーに沿って言えば、「BLOG STATION」のブログ主さんは自分とちがう意見をぶつけられたとき、【パターン1】に陥ってしまう典型的なタイプの人だと推測できるからだ。
私は前回のエントリーで人間のコミュニケーションを大きく2つに分類し、意見のちがいがケンカにしかならないケースと、生産的な議論に発展するケースについてふれた。それは以下の通りだ。
【パターン1】また、前回のエントリーで私がいちばん言いたかったことは、以下の部分だ。
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子 ⇒この時点で自我を傷つけられたと感じ、「感情的」な反応をする。
結論●ケンカにしかならない
【パターン2】
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子「じゃあ、なぜ自分はおもしろいと思ったのか?」について、冷静に論拠Bを提示する
結論●論拠Aと論拠Bをもとに、生産的な議論が発生する
たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点や物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。もし私の前回のエントリーに対して異論を述べ、論理的に議論するならば、この私の主題に対して反論するのがふつうだ。ところが「BLOG STATION」さんは、上記の主題にはいっさいふれずに、「著しく当惑を覚えた」などと感情的な反応に終始している。これではまともな議論が成立するはずがない。
これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。
とはいえせっかくトラバをいだいたのだから、彼があげた3つの論点に対して論理的に反駁しておく。
【論点1について】
論点1は、「松岡は、原典にふれてない。これはおかしいんじゃないか?」という内容だ。
ここで彼が言っている原典とは、「モヒカン族」とは何か? とか、「ムラ社会」の定義とはいかなるものか? みたいな文章のことを指している。
ところが私はモヒカン族がどうだとか、ムラ社会とはなんなのか? なんていうことにはまったく興味がない。そういうことに興味がある人は勝手にそれを「本題」にして議論していればいいと思うが、私はそんなことにはてんで関心がないんだから、エントリーの中でそのことに言及しないのは当たり前の話だ。
そもそも基本的に「BLOG STATION」さんは、私が書いた前回のエントリーの本題を誤読しているのである。
私はモヒカン族だのムラ社会だのには興味がない。だからそれについて書く気もまったくない。私が前回のエントリーを書く動機になったのは、「BLOG STATION」さんが以下のようなことを書いているのを読んだからだ。
私は彼が書いたその内容に対し、それはちがうだろうと考えた。だから前回のエントリーを書く気になった。私が書くきっかけになった「BLOG STATION」さんの文章を、以下に引用しておく。
■価値観って、人格の一部でしょ?人間の価値観なんていうものは、人によってちがうのが当たり前だ。で、私は「あなたの価値観は私とはここがこうちがう」と、自分の意見を率直に述べるのはごく自然なことだと考えている。
「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」
(はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」)
私たちは全員、ムラ社会の中に住んでいます。(もちろん、モヒカン族も例外ではありません。)
モヒ男君は、「映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」と言い訳していますが、「○○という映画が面白い」と言っている、ムラ子さんという人間の価値観を否定していることに、気づいていないようですね。
このモデルケースで言えば、ムラ子さんが私・松岡に対して「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」と言ったとしよう。ところが私は「いや、自分はその映画はちっともおもしろくなかった」と感じた。なら、率直に自分の異論を述べ、さらにその論拠を明確に提示するのが自然なことだと私は考える。もちろん私とムラ子さんの立場が逆でも同じことである。このへんについては、前回のエントリーのコメント欄をお読みいただきたい。
ところが「BLOG STATION」のブログ主さんは上に引用したように、人間というものは個々の価値観のちがいを決して表明してはいけないという意味のことを書いている。彼によれば、それは「人格を否定する行為」らしい。私にはこの論理展開がまるで理解できない。理由は、上のほうに書いた通りだ。
私は議論の相手から、自分が思ってもみなかった新しい視点や斬新な発想を受け取るのがエキサイティングだと感じるからである。
ところが「BLOG STATION」さんは「それはいけないこと」であり、「人間として、してはいけないことだ」と書いている。
だがそもそも他人が見ておもしろいと思った映画を私・松岡が「おもしろくない」と感じたとき、いったいなぜ私はその意見を述べることを制限されなければならないのだろうか?
私から見れば、そんな自分の意見を率直に言えない社会なんて窮屈この上ない。そもそもそれが認められないならば、すべての「評論活動」は成り立たない。だから私はこの「BLOG STATION」さんの不自然な意見に反駁したいと考えた。で、前回のエントリーを書いたのだ。
くどいようだが、私はモヒカンがどうだの、ムラ社会がなんたらいう話(原典)にはまるで興味がない。そんなことは私にとって本題じゃないのだ。
私にとっての本題は、「自分の意見を言うことはいけないことだ」と語る「BLOG STATION」さんの理解不能な論理である。だから「BLOG STATION」さんが勝手に本題だと考えている原典にはふれず、私にとっての本題である「BLOG STATION」さんの意見に対してだけ異論を述べた。
以上が彼の「論点1」に対する私の回答だ。結論として私の考えを言おう。「BLOG STATION」さんはご自分の考えに異論を述べられたくないのであれば、ぜひご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と明記しておいてほしい。
そうしてくれてさえいれば、私としても仕事が忙しい中、論理的な議論が成立しない相手に対してこんなムダなエントリーを書かずにすんだからだ。
【論点2について】
これはあらためて言及する必要もないだろう。「BLOG STATION」さんは私に異論をぶつけられ、「著しい当惑」を感じたと書いている。つまり「BLOG STATION」さんが私の異論に対して気分を害し、感情的に反応しているのはあきらかである。
【論点3について】
論点3は、私が書いたエントリー中で紹介した3つのブログのうち、「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼んでいない」「そのことでオレはむかついた」という、本当にどうでもいい「きわめて感情的」な問題だ。
じゃあなぜ私は「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼ばなかった」のか? その理由を書こう。
まず私はえっけんさんとは、今までに何度か私のブログ上、およびえっけんさんのブログ上で直接、レスを交わしたことがある。すでに何度も意見交換したことのある相手だ。
またhankakueisuuさんは、以前、私が「ガ島通信」さんについて書いたエントリーを取り上げられている。で、その私のエントリーに対するhankakueisuuさんの分析について、私はhankakueisuuさんのブログのコメント欄に書き込みをしたことがある。
つまり私から見ればえっけんさんとhankakueisuuさんは、「けっこう知り合いだと言える相手」か、もしくは「そこそこ知り合いだといっていい相手」である。
ところが一方、私はいままで「BLOG STATION」さんとは、なんらかかわりをもったことがないし、コミュニケーションを取った経験がない。いわば、見ず知らずのアカの他人だ。
人間にとって、「その人を名前で呼ぶかどうか?」は、親しさのバロメーターでもある。また世の中には、まったく知らない相手から名前で呼ばれたら、「オレは知りもしない相手からなれなれしく名前で呼ばれた」と怒る人だっている。
そこで私はわざわざ気を遣い、「BLOG STATION」さんだけは「ブログ名」で呼んだ。ところが彼はそんな私の気遣いにはまるで気づかず、「著しい当惑を覚えた」と書いている。
わかりやすくまとめを書こう。
まず彼は私のエントリーを読み、自分が貶められたと感じた。早い話が、不愉快になったわけだ。だから私がわざわざ気を遣って先方を「ブログ名」で呼んでいるにもかかわらず、そのことに対してまるで見当ちがいのネガティブな解釈をしてしまっている。
ではなぜ彼はこんな反応のしかたをしてしまうのか?
それは彼が異論に対して論理的・客観的に反駁するタイプの人ではなく、感情的な反応をする感性の持ち主だからだ。
本当にくどいが、「BLOG STATION」さんはご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と表記しておいてほしい、と個人的に思う。そうすればこんなまったくの時間のムダで不毛なやり取りを防げるからである。
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(追記)経緯をわかりやすくするために、一部補足した(2005,8/31)