すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

ガラスのような感性をもつ「BLOG STATION」さんに対する反論

2005-08-31 03:12:27 | メディア論
 前回のエントリー「なぜ日本では議論が生まれにくいのか? ──議論とケンカのメンタリティ」で紹介した「BLOG STATION」さんから、トラバをいただいた。せっかくなので、それに対する私の意見を述べようと思う。結論を先に言えば、残念ながらやっぱり私には彼の感性はまるで理解できませんというお話にすぎないのだが。

「BLOG STATION」さんからいただいたエントリー『「批判について考える」へのトラックバック雑感』の論点は、わかりやすく言えば以下の3点だ。

1 松岡美樹は『原典であるはずの「はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」』に、いっさい触れていない。本題に言及せず、「僕が書いたわずか数行の文章」にだけ反応している。「原典から脱線しすぎ」である。これでは議論にならないのではないか?

2 「BLOG STATION」のブログ主さんは、「僕の意見が理解できないとか、反対意見だと書かれること自体は、そんなに嫌ではないのですが」といいながらも、あきらかに気分を害し感情的に反応している ⇒私からみれば、逆にこれこそ議論にならないスタンスである。

3 松岡美樹は、自分のエントリーで取り上げた「hankakueisuuさん」、「えっけんさん」に関しては人名で呼び、「僕だけブログ名で」呼んでいる。このことに僕は「著しい当惑を覚えた」 ⇒私の考えを言えば、これまた典型的な感情的反応にすぎない。

 以上、「BLOG STATION」さんの論旨は、この3点だけだ。ここまで読んでもうおわかりだろうが、「BLOG STATION」さんとは生産的で論理的な議論などできないことは明白だ。

 なぜなら前回、私が書いたエントリーに沿って言えば、「BLOG STATION」のブログ主さんは自分とちがう意見をぶつけられたとき、【パターン1】に陥ってしまう典型的なタイプの人だと推測できるからだ。

 私は前回のエントリーで人間のコミュニケーションを大きく2つに分類し、意見のちがいがケンカにしかならないケースと、生産的な議論に発展するケースについてふれた。それは以下の通りだ。

【パターン1】

ムラ子「○○という映画はおもしろかった」

モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する

ムラ子 ⇒この時点で自我を傷つけられたと感じ、「感情的」な反応をする。

結論●ケンカにしかならない

【パターン2】

ムラ子「○○という映画はおもしろかった」

モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する

ムラ子「じゃあ、なぜ自分はおもしろいと思ったのか?」について、冷静に論拠Bを提示する

結論●論拠Aと論拠Bをもとに、生産的な議論が発生する
 また、前回のエントリーで私がいちばん言いたかったことは、以下の部分だ。

 たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点や物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。

 これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。
 もし私の前回のエントリーに対して異論を述べ、論理的に議論するならば、この私の主題に対して反論するのがふつうだ。ところが「BLOG STATION」さんは、上記の主題にはいっさいふれずに、「著しく当惑を覚えた」などと感情的な反応に終始している。これではまともな議論が成立するはずがない。

 とはいえせっかくトラバをいだいたのだから、彼があげた3つの論点に対して論理的に反駁しておく。

【論点1について】

 論点1は、「松岡は、原典にふれてない。これはおかしいんじゃないか?」という内容だ。

 ここで彼が言っている原典とは、「モヒカン族」とは何か? とか、「ムラ社会」の定義とはいかなるものか? みたいな文章のことを指している。

 ところが私はモヒカン族がどうだとか、ムラ社会とはなんなのか? なんていうことにはまったく興味がない。そういうことに興味がある人は勝手にそれを「本題」にして議論していればいいと思うが、私はそんなことにはてんで関心がないんだから、エントリーの中でそのことに言及しないのは当たり前の話だ。

 そもそも基本的に「BLOG STATION」さんは、私が書いた前回のエントリーの本題を誤読しているのである。

 私はモヒカン族だのムラ社会だのには興味がない。だからそれについて書く気もまったくない。私が前回のエントリーを書く動機になったのは、「BLOG STATION」さんが以下のようなことを書いているのを読んだからだ。

 私は彼が書いたその内容に対し、それはちがうだろうと考えた。だから前回のエントリーを書く気になった。私が書くきっかけになった「BLOG STATION」さんの文章を、以下に引用しておく。

■価値観って、人格の一部でしょ?

「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」
 (はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」)

私たちは全員、ムラ社会の中に住んでいます。(もちろん、モヒカン族も例外ではありません。)
モヒ男君は、「映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」と言い訳していますが、「○○という映画が面白い」と言っている、ムラ子さんという人間の価値観を否定していることに、気づいていないようですね。
 人間の価値観なんていうものは、人によってちがうのが当たり前だ。で、私は「あなたの価値観は私とはここがこうちがう」と、自分の意見を率直に述べるのはごく自然なことだと考えている。

 このモデルケースで言えば、ムラ子さんが私・松岡に対して「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」と言ったとしよう。ところが私は「いや、自分はその映画はちっともおもしろくなかった」と感じた。なら、率直に自分の異論を述べ、さらにその論拠を明確に提示するのが自然なことだと私は考える。もちろん私とムラ子さんの立場が逆でも同じことである。このへんについては、前回のエントリーのコメント欄をお読みいただきたい。

 ところが「BLOG STATION」のブログ主さんは上に引用したように、人間というものは個々の価値観のちがいを決して表明してはいけないという意味のことを書いている。彼によれば、それは「人格を否定する行為」らしい。私にはこの論理展開がまるで理解できない。理由は、上のほうに書いた通りだ。

 私は議論の相手から、自分が思ってもみなかった新しい視点や斬新な発想を受け取るのがエキサイティングだと感じるからである。

 ところが「BLOG STATION」さんは「それはいけないこと」であり、「人間として、してはいけないことだ」と書いている。

 だがそもそも他人が見ておもしろいと思った映画を私・松岡が「おもしろくない」と感じたとき、いったいなぜ私はその意見を述べることを制限されなければならないのだろうか?

 私から見れば、そんな自分の意見を率直に言えない社会なんて窮屈この上ない。そもそもそれが認められないならば、すべての「評論活動」は成り立たない。だから私はこの「BLOG STATION」さんの不自然な意見に反駁したいと考えた。で、前回のエントリーを書いたのだ。

 くどいようだが、私はモヒカンがどうだの、ムラ社会がなんたらいう話(原典)にはまるで興味がない。そんなことは私にとって本題じゃないのだ。

 私にとっての本題は、「自分の意見を言うことはいけないことだ」と語る「BLOG STATION」さんの理解不能な論理である。だから「BLOG STATION」さんが勝手に本題だと考えている原典にはふれず、私にとっての本題である「BLOG STATION」さんの意見に対してだけ異論を述べた。

 以上が彼の「論点1」に対する私の回答だ。結論として私の考えを言おう。「BLOG STATION」さんはご自分の考えに異論を述べられたくないのであれば、ぜひご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と明記しておいてほしい。

 そうしてくれてさえいれば、私としても仕事が忙しい中、論理的な議論が成立しない相手に対してこんなムダなエントリーを書かずにすんだからだ。

【論点2について】

 これはあらためて言及する必要もないだろう。「BLOG STATION」さんは私に異論をぶつけられ、「著しい当惑」を感じたと書いている。つまり「BLOG STATION」さんが私の異論に対して気分を害し、感情的に反応しているのはあきらかである。

【論点3について】

 論点3は、私が書いたエントリー中で紹介した3つのブログのうち、「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼んでいない」「そのことでオレはむかついた」という、本当にどうでもいい「きわめて感情的」な問題だ。

 じゃあなぜ私は「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼ばなかった」のか? その理由を書こう。

 まず私はえっけんさんとは、今までに何度か私のブログ上、およびえっけんさんのブログ上で直接、レスを交わしたことがある。すでに何度も意見交換したことのある相手だ。

 またhankakueisuuさんは、以前、私が「ガ島通信」さんについて書いたエントリーを取り上げられている。で、その私のエントリーに対するhankakueisuuさんの分析について、私はhankakueisuuさんのブログのコメント欄に書き込みをしたことがある。

 つまり私から見ればえっけんさんとhankakueisuuさんは、「けっこう知り合いだと言える相手」か、もしくは「そこそこ知り合いだといっていい相手」である。

 ところが一方、私はいままで「BLOG STATION」さんとは、なんらかかわりをもったことがないし、コミュニケーションを取った経験がない。いわば、見ず知らずのアカの他人だ。

 人間にとって、「その人を名前で呼ぶかどうか?」は、親しさのバロメーターでもある。また世の中には、まったく知らない相手から名前で呼ばれたら、「オレは知りもしない相手からなれなれしく名前で呼ばれた」と怒る人だっている。

 そこで私はわざわざ気を遣い、「BLOG STATION」さんだけは「ブログ名」で呼んだ。ところが彼はそんな私の気遣いにはまるで気づかず、「著しい当惑を覚えた」と書いている。

 わかりやすくまとめを書こう。

 まず彼は私のエントリーを読み、自分が貶められたと感じた。早い話が、不愉快になったわけだ。だから私がわざわざ気を遣って先方を「ブログ名」で呼んでいるにもかかわらず、そのことに対してまるで見当ちがいのネガティブな解釈をしてしまっている。

 ではなぜ彼はこんな反応のしかたをしてしまうのか?

 それは彼が異論に対して論理的・客観的に反駁するタイプの人ではなく、感情的な反応をする感性の持ち主だからだ。

 本当にくどいが、「BLOG STATION」さんはご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と表記しておいてほしい、と個人的に思う。そうすればこんなまったくの時間のムダで不毛なやり取りを防げるからである。

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(追記)経緯をわかりやすくするために、一部補足した(2005,8/31)
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なぜ日本では議論が生まれにくいのか? ──議論とケンカのメンタリティ

2005-08-28 09:51:42 | メディア論
「真性引き篭もり」さんはエントリー「なぜ議論をしたいと思うのか、何を目指して議論をするのか」の中で、議論好きな人間は「人を見下し叩きのめすことで快楽を得るタイプ」だという。これはちがうと思うぞ。

議論好きな人々の多くは、「勝利至上主義」という誰かを見下し叩きのめす事に快楽を得タイプ、あるいは議論くらいでしかコミニケーションが取れないコミニケーション不全の孤独人間であると感じる。(同エントリーより)
 たしかにあちこちブログを読んでると、議論することの目的が「勝つこと」になってる人はいる。一面それは事実だし、そもそもhankakueisuuさんはどっからが本気でどっからがネタなのかわかんない微妙な文章を書くので(笑)、マジレスするのもアレかもしんないけれど。

 たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。

 これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。

 だから「議論に勝つのが目的で議論してる人」のメンタリティってのが、これまたさっぱりわからない。「日本人は議論がヘタだ」、「日本人は議論するとたいていケンカになる」とよくいわれるのは、勝つことが目的でやってる人が多いからなのかもしれない。

 もっといえば日本人は、反対意見をぶつけられると自分自身の自我が傷つけられたように感じる人が多いんだと思う。でもそういうことじゃないんだよなあ。

 たとえば「BLOG STATION」さんはエントリー「批判について考える 」の中で、「はてなグループ」を引用しながらこう書いている。

■価値観って、人格の一部でしょ?

「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」
 (はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」)

私たちは全員、ムラ社会の中に住んでいます。(もちろん、モヒカン族も例外ではありません。)
モヒ男君は、「映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」と言い訳していますが、「○○という映画が面白い」と言っている、ムラ子さんという人間の価値観を否定していることに、気づいていないようですね。
 私の意見はまったくちがう。

 モヒ男クンの荒っぽい言い方に是非はあるだろうが、なんでこれが「ムラ子さんの価値観を否定してる」ことになるのか、私にはまるでわからない。そもそもこれを「批判」と表現してること自体が理解できない。

 つまり前述したようにムラ子さんは、自分とはちがう意見をぶつけられたことで「自我が傷つけられた」と感じてるわけだ。「BLOG STATION」さんの見方も同じだ。そうじゃないだろう、と私は思う。

 このモデルケースについては「むだづかい日記♂」のえっけんさんも、似たようなことを書いているので参考までにリンクを。私とえっけんさんの意見は微妙にちがう部分もあるが、方向性としては同じだ。
「事実確認は人格の否定ではないしょ」
「ネット上で議論を仕掛ける事について」

 たとえば上記のケースを例に取れば、意見のぶつかり合いがケンカにしかならないケース【パターン1】と、生産的な議論になるケース【パターン2】はこんなふうだろう。

【パターン1】

ムラ子「○○という映画はおもしろかった」

モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する

ムラ子 ⇒この時点で自我を傷つけられたと感じ、「感情的」な反応をする。

結論●ケンカにしかならない

【パターン2】

ムラ子「○○という映画はおもしろかった」

モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する

ムラ子「じゃあ、なぜ自分はおもしろいと思ったのか?」について、冷静に論拠Bを提示する

結論●論拠Aと論拠Bをもとに、生産的な議論が発生する

 日本のブログはアメリカとちがって議論が生まれにくい、とかいわれるのも、日本では【パターン1】になるケースが圧倒的に多いからだろう。まあ個人的には日本のブログだって、除々に議論ができるようになってきてるとは思うけどね。
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瀬戸際に立たされたときに出る人間の器

2005-08-23 09:30:38 | メディア論
 北海道新聞の高田さんが、2ヵ月ほど前に「そのとき、記者は逮捕された」というエントリーを公開されていた。そのときは「この会社、終わってるなあ」と思いながら読んだのだが、突然ある記憶がよみがえってきたのでエントリーを立てることにした。たぶん高田さんがいちばん言いたかったことのひとつは、こういうことじゃないかと思ったからだ。

 くわしくは高田さんのエントリーをお読みいただきたいが、ごくカンタンに内容を説明しておこう。

 ある記者が、警察による立件が間近に迫っていた事件関係者の自宅へ取材に出かけた。インタホンを押したが返事がない。で、しばらくインタホンを押したり、少し中をうかがうようにしていた。すると民間の警備員があらわれ、ほどなく警察のパトカーもやってきた。

 最終的に記者は住居侵入容疑で書類送検されたが、不起訴になった。しかし警察はその記者を「担当からはずせ」と会社に圧力をかけてくる。会社はそれに対しなんの抗議もせず、受け入れた。それだけでなく記者を懲戒処分にし、社員に緘口令を敷いた──。

 私が思い出したある出来事とは、警察がらみじゃない。だけど組織のあり方に関係する話だ。

 もう15年くらい前のことだが、そのとき私はある雑誌の編集部で副編集長のX氏と打ち合わせをしていた。すると同じフロアで電話をしていた30才くらいの平の編集者が、なにやら声高に電話の相手と口論をはじめた。言葉の端々から想像すると、どうやら電話の相手は広告のクライアントらしい。

 世の中に存在するほとんどの商業雑誌は、広告がなければ経営的に成り立たない。いってみればクライアントさんは、出版社にとって警察以上に頭の上がらない存在だ。

 で、何をモメているのかよくわからないが、とにかくその編集者はかなり怒っていた。初めはおだやかに話をしていたのだが、たぶん電話の相手が最初から怒ってかけてきたのだろう。応対した彼もいまや激昂している。フロアには彼のでかい怒声がとどろき、電話はその後エンエンと30分以上続いた。

「自分が被害者みたいなその言い方はおかしいんじゃないですか? 被害者はむしろこっちですよ?」

 そんなことを言いながら、怒涛のように怒っている。

 そのうちに彼はやっと電話を置き、広告担当の副編集長であるA氏のデスクへ行った。彼はことの次第をA氏に説明している様子だ。すると10分ほど話を聞いたA氏は、あっさりとこう言った。

「わかりました。ウチはその広告はもう要りません」

 そのとき編集部には30人以上の人間が居合わせたが、おそらくだれもが「このオッサンになら、ついていってもいい」と思ったはずだ。

 蛇足だがちょっと説明しておく。副編集長のA氏はその編集者の説明を聞き、「こいつの言ってることは筋が通っている」と判断した。で、その場で誰に相談することもなく、自分の責任において編集者が担当していたらしいその広告を「もう要らない」と言ったわけだ。

 現場の人間は、自分が正しいと信じたら先へ先へと進みたがる。これは本能みたいなものだ。だけどそれがときにはトラブルの元になることもある。そのときいったい誰が「ケツをもつ」のか?

「オレが責任をもつから、お前は自分が正しいと思ったことをやってこい」

 高田さんが言いたかったことは、こういうことなんじゃないだろうか。

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8月21日頃まで夏休みします(^^;

2005-08-14 11:18:01 | お知らせ
 こないだから夏休みに突入して東京から逃亡してるので、8月21日頃まで更新お休みします(^^; いまいる場所はネット環境がエッジなんですが、電波状態がえらく悪いんです。この投稿画面を表示させるのに何度も失敗し、3日かかっちゃいました(笑)
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湯川さんに言及したhideさんのコメントに対する反論

2005-08-07 03:22:18 | メディア論
 hideさんという方から、前回のエントリー『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』にご意見をいただいた。ちょっと長くなりそうなので、新しくエントリーを立てて私の意見を述べたいと思う。

 まず私は前回のエントリーで、次のような問題提起をした。

 もうひとつ考えられる要素は、湯川さんが「ジャーナリズム」なる概念や定義に逆の意味でとらわれている可能性だ。【仮定2】である。

 すぐれたジャーナリズムたるには、学歴がないとだめだ。エスタブリッシュメントでなければ、それは成し遂げられないはずである。だから仮にきのうまで市井の人だったとしても、その人がすぐれたブロガーとして頭角をあらわしたとすれば学歴があるにちがいない。そいつはエスタブリッシュメントに決まってる──。

 こう解釈すれば湯川さんがガツーンと頭を殴られたと書くエントリーで、優秀なブロガーはみんな「エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけ」だ、とする不可解な論理展開にも辻褄があう。
 で、おそらく上記の記述に対する反論として、hideさんはコメントの冒頭で以下のようにお書きになっている。

湯川氏は

「ジャーナリズムという呼び方に問題があるのかと思います。ジャーナリズムだけが質が高くて、それ以外の言説は質が低いというようなイメージになりがちなのかも。わたしは東芝事件を評価します。別のエントリーで考察することにしようと思っていますが「日本型のジャーナリズム」とは東芝事件に似たものが中心になるように考えています。」(http://kusanone.exblog.jp/1960514コメント欄)

と述べています。
 さてまず第一の疑問を提示しよう。湯川さんは上記のように「ジャーナリズム」という言葉が誤解を招くと感じていながら、今でも一貫して「ジャーナリズム」という言葉を使っている。いったいこれはなぜなのか?

 湯川さんがもし本当に「ジャーナリズムという呼び方に問題がある」と考え、「ジャーナリズムだけが質が高くて、それ以外の言説は質が低いというようなイメージになりがちなのかも」と感じているのならば、なぜご自分で新しい言葉を作らないのか? と私は思う。それで私は前回のエントリーで、以下のように問題提起したわけだ。

 またそもそもジャーナリズムうんぬん的なややこしいことを考えるから、こういう論理になってしまうんじゃないか、とも推測できる。そうではなく、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」てな風に広く構えるのではダメなのか?
 私はジャーナリズムなる言葉を使うつもりはあんまりないし、その言葉にこだわる気もまったくない。だから私自身が新しい言葉を作る必要もない。

 で、私は上記のように、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」と長ったらしく書いたわけだ。

 でもこんな長い表現を文章の中でその都度使うわけにはいかない。それなら「ジャーナリズムという呼び方に問題がある」と感じていながら「ジャーナリズム」に相当することを言いたい人は、新しい言葉を作る必要があると思うのだが、どうだろうか? なぜ湯川さんはそれをしないのか? これが第一の疑問である。

 またhideさんに紹介していただいた湯川さんの文章を読み、さらに湯川さんには矛盾を感じた。再度、hideさんのコメントを引用しよう。

松岡さんが気にかけておられる「質より量」の部分は、

「NGO、NPO以外にも参加型ジャーナリズムは発展していくと思う。身の回りのささいなことでもいいから、社会を変えたいという思いをブログに書いていく。そして横の連携を築きやすいというブログの特徴を生かして、同じ思いのブログがつながって、1つの運動を形成していく。それだって立派なジャーナリズムだと思う。1つ1つは小さな記事でも数が集まることで、マスメディア以上に社会を変える原動力になるのではなかろうか。」
(同上)

と敷衍されています。
 ちなみにカギかっこの中は湯川さんの文章だ。上記のように湯川さんは、「社会を変えたいと思いながら身の回りのささいなこと」を書く行為を、「それだって立派なジャーナリズムだと思う」と言う。

 だから、それをなんでわざわざ誤解をはらみかねない「ジャーナリズム」という言葉でカテゴライズしてしまうのか? お願いだから「それ」を「ジャーナリズム」と呼ぶのはやめてほしいと私は思う。

 ちなみに私は以前、エントリー「ライブドアのPJってマトモな人はいないの?」で、PJの小田光康氏を批判した。で、批判しながらも、ライブドアPJのもつ可能性について以下のように書いた。

 せっかく新しいことをやるんだから、大新聞と同じ土俵で、同じフレームワークに乗って活動するんじゃ意味がない。

 たとえばPJが力を発揮するとしたら、それは日常生活に潜む「ちょっとした違和感」や「ちょっとした不安」、「ちょっとした不服」、「ちょっとした輝き」を切り取ってくるときだろう。

 身近な町の話題でもいいし、自分の生活感を通して見える日本の姿でもいい。PJからたくさんの「ちょっとした」が発信されれば、人を動かす点火装置になりそうな気配がする。
 つまり私と湯川さんはまったく同じことを考えているわけだ。どうでもいいことだが、私の上記のエントリーは2005年4月5日付、湯川さんのは2005年7月21日付である。

 で、2人はまるで同じことを考えていながら、湯川さんはそれを「立派なジャーナリズム」と「立派な」つき(これにも私はすごく違和感を感じる)で「ジャーナリズム」と呼ぶ。かたや私は「ジャーナリズム」と呼ぶ気はまったくない。私は「それ」は芸術活動・評論活動だと思う。だから私は「それ」を、ともすれば誤解されがちな「ジャーナリズム」という言葉でくくらないでほしいと切に願っている。

 ここまでをまとめると、湯川さんは結局、「ジャーナリズム村」の人なんだなあ、と脱力感を感じてしまうというのが正直な心情だ。

 さて私は「それ」を芸術だと考えている。そして「質を問わない芸術」なんてのはありえない。だから湯川さんのように「質を問わない」という発想が出てくること自体考えられないし、とても異様に感じる。

 で、なぜ「質を問わない」というみょうな発想が出てくるのか無理やり想像すると、前回のエントリーに書いた以下の結論にたどりついてしまうのだ。3点だけあげよう。

(1)ほかのエントリーもふくめて読むと、湯川さんの中には質とは別のもうひとつの理想があるように感じる。それは「みんなが同じように参加できなきゃいけない」、「そこに分け隔てがあってはならない」みたいな一種の平等主義だ。ここで矛盾が起きるんじゃないかと想像できる。

 質の高いブログがたくさんあるのは事実だけど、世の中のみんながみんな、一定水準をクリアした文章が書けるわけじゃない。当たり前の話だが、人間はいろいろだからクオリティにはばらつきが出る。となると一方ではブログの質に驚きながらも、質を尺度にしてしまうと「みんなが参加できる参加型ジャーナリズム」が実現できない。

 だからホントは質が大事だと思ってるんだけど、掲げる戦略としては「記事の質に関してはそれほど問題にはしていない」という話になる。これが【仮定1】である。

(2)質に意味を感じながらも、質をモノサシにしたら平等という大切なイデオロギーに抵触するからやめとこう。で、「質は問いません」と世間体モードになる。下衆のカンぐりかもしれないが、どうもそんな雰囲気を感じてしまう。

(3)ただし山川さんは「社会の階層間対立を煽るような方法論は、個人的にあまり好ましく思わないのだが」としながらも、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と論じている。私はこの点には同意できない。

 それは「参加型ジャーナリズム」なるものに対する万人の参政権を確保せんがために、人間個々がもつ自然な能力の差をも仮想的に平準化しようとしているように見えるからだ。これは民主主義というより、芸術に対するファッショ(笑)だと思う。
 質に価値を感じながらも、イデオロギーにとらわれて別の行動を取ってしまう。これを教条主義という。意味のわからない人もいるだろうから、書いておこう。

 きょうじょう-しゅぎ けうでう― 5 【教条主義】

事実を無視して、原理・原則を杓子(しやくし)定規に適用する態度。ドグマティズム。

三省堂提供「大辞林 第二版」より
 本当はこれは書きたくなかったのだが、話をわかりやすくするためにひとつだけ教条主義の例をあげよう。

 それは自衛隊が存在するのはだれだってわかってるのに、内部的にはずっと自衛隊は「ない」ことになっていて、最後には自衛隊の「存在を直視する」と言って笑わせてくれた昔のどっかの党である。

 念のために言っておくが、もちろんこれは湯川さんが特定の政治活動をしているという意味ではない。あくまで教条主義がいかにナンセンスかをしめすために、ある政党の例を出しただけだ。私は湯川さんを認めてないわけじゃない。だけど湯川さんには、ともすればそんな教条主義に走ってしまいそうな「あやうさ」を感じるのだ。

『山川草一郎ジャーナル』さんは湯川さんのそういうところを称し、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と言う。なぜ山川さんが「青臭い」とわざわざつけ加えた上で好感がもてると書いているのか、私にはよくわかる。

 だけど私は山川さんのように、ゲタをはかせて甘く採点する気になれない。で、私は湯川さんのそれは「あぶない」とはっきり言っているのだ。

 さてhideさんはコメントの最後をこう結んでいる。

湯川氏が「ジャーナリズム」をこのように捉えているのであれば、「第3の市民記者新聞」というエントリの記述は特に問題ではないように思いますが、いかがでしょうか。
 もうおわかりだろう。以上、述べてきたように、私の目から見れば依然として「問題大アリ」ってことになる。

 くりかえしになるが、私は湯川さんを全否定してるわけじゃない。湯川さんが書いてることは、私とけっこう共通してるのだ。ただし湯川さんは自分をもっと客観視し、自分のはらんでいる「あやうさ」を見つめなおしてはどうかというのが私の意見だ。

 まったくよけいなお世話だし、大変失礼な物言いだとは思うけれども。

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(追記)文章中、(3)の段落を一ヶ所、改行した。また文中の「ナンセンスなのかを」を「ナンセンスかを」に、「教条主義的に走って~」を「教条主義に走って~」に修正した。もちろん文意は変えていない(2005.8/7)
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質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?

2005-08-06 17:12:56 | メディア論

 7月頭まで休眠と言いつつ、8月頭になってしまった。やっと終わったんで今日から復活します(笑)。てなわけで仕事から解放されてひさしぶりにブログ・サーフィン(?)してたら、びっくりしました。『ネットは新聞を殺すのかblog』の湯川さんが言う「参加型ジャーナリズム」って、「質を問わない」んですか? なんか団藤さんも驚いてるみたいだけど、いや私もびっくらこきました。


  いきなりでわけわかんない人もいるだろうから、ちょっと説明しておこう。湯川さんはエントリー「第3の市民記者新聞」の中で、市民記者新聞「ツカサネット新聞」にふれ、こう書いている。


 わたしの市民記者サイトに対する期待は団藤さんのそれとはちょっと異なり、個々の記事の質に関してはそれほど問題にはしていない。量の制約を質でカバーするのが既存メディアであり、個々の質の問題を量で圧倒するのが新しいネットメディアだと思っているからだ。

「ちょっと異なり」どころかえらいちがいだと思うんだけど、それについては気が向いたら回をあらためて書く。


 まず上記のくだりで湯川さんは、記事の質はそれほど問題ではなく「個々の質の問題を量で圧倒するのが新しいネットメディアだ」としている。これはそっくりそのまま湯川さんが考える「参加型ジャーナリズム」を定義したものである、と解釈していいんだろうか? たぶんそうですよね。


 ところが腑に落ちない点がある。えー? おかしいなぁ、と思って『ネットは新聞を殺すのかblog』のエントリー「参加型ジャーナリズムの時代」(2004年8月11日付)を読み直してみた。


  するとやっぱりこのエントリーで湯川さんは、『Fireside Chat』さん、『あざらしサラダ』さんら複数のブログをあげ、「わたしよりも情報収集力、分析力、筆力に勝る人が数多くいるという事実」に「愕然とした」と書いている。で、こう結んでいる。



 この経験はわたしの中に2つの感情を呼び起こした。
 1つは、敗北感である。商業ジャーナリズムに身を置く自分が、報道を生業とする自分が、ブロガーに勝てなかったのだ。非常に残念ではあるが、どうしようもない事実である。
 もう1つの感情は、希望である。ジャーナリズムがまさにこれから変わろうとしているという実感である。報道機関の入社試験にたまたま受かった者だけがジャーナリストになれるという、これまでの閉鎖的なジャーナリズムはやがて幕を閉じる。一般市民を巻き込んだ参加型ジャーナリズムの時代が今まさに来ようとしている。


 つまりこのエントリーでは各ブログのに驚き、「だからこれからは参加型ジャーナリズムの時代なんだ」と書いている。ところが一方、前述のエントリー「第3の市民記者新聞」では、「個々の記事の質に関してはそれほど問題にはしていない」と言う。矛盾しているのだ。


 いや別に矛盾がけしからんというわけじゃない。でもいったいなぜこの矛盾が生まれてくるのか? ちょっと不思議な感じがする。で、ない頭を使ってあれこれ考えてみたのがこのエントリーである。


  おそらく湯川さんの素朴な実感、出発点は、ライティングのプロではない一般ピープルが書いてるブログの質に驚いたことなんだろう。これは読んだとおりだ。「こういうレベルの文章がたくさん出てくれば、きっと世の中が変わるぞ」=参加型ジャーナリズムの時代になる、と感じた。たぶんこっちがナチュラルな本音だ。


  とすると質に価値を感じながらも、戦略的には「質を問わない」という選択をしていることになる。それはなぜなのか? いくつか考えられる要素がある。


  ほかのエントリーもふくめて読むと、湯川さんの中には質とは別のもうひとつの理想があるように感じる。それは「みんなが同じように参加できなきゃいけない」、「そこに分け隔てがあってはならない」みたいな一種の平等主義だ。ここで矛盾が起きるんじゃないかと想像できる。


  質の高いブログがたくさんあるのは事実だけど、世の中のみんながみんな、一定水準をクリアした文章が書けるわけじゃない。当たり前の話だが、人間はいろいろだからクオリティにはばらつきが出る。となると一方ではブログの質に驚きながらも、質を尺度にしてしまうと「みんなが参加できる参加型ジャーナリズム」が実現できない。


  だからホントは質が大事だと思ってるんだけど、掲げる戦略としては「記事の質に関してはそれほど問題にはしていない」という話になる。これが【仮定1】である。


  だとすれば質に価値を感じてスタートしたはずのそもそもの動機が、あれこれ思考をめぐらすうちに、自分の中に並存する平等主義というイデオロギーとコンフリクトしているように見える。


  それは別のエントリー『団藤さんの「ネットジャーナリズム」とわたしの「参加型ジャーナリズム」』を読んでも感じる。ちょっと長くなるが、一部分では文意が正確に伝わらない可能性があるのでまとめて引用させていただく。



 米国で一部ブロガーがプロのコラムニスト以上にすばらしい政治論評を続け高い評価を得ているが、団藤さんの考える市民ジャーナリズムはまさにこうしたものを指すのだと思う。
 何度も言うが、それはそれですばらしいことだと思う。プロがジャーナリズムを独占するのではなく、広く一般の人が社会を変えるような言論活動に積極的に参加することが民主主義にとってどれだけすばらしいことか。
 わたしもそうした観点で米国のブログジャーナリズムの現状を講演などで紹介することがある。ところがときどき「それって今のジャーナリズムとどう違うの」という質問というか、反発を受けることがある。「エリート気取りのプロの組織ジャーナリズムが、エリート気取りのアマチュアの個人ジャーナリズムに変わるだけでしょ」「組織か個人という違いはあっても、結局エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけが社会をひっぱっていく資格を持つ、という考え方は変わっていないじゃないか」というような主張だと思う。頭をガツーンと殴られたような気がした。


 いや別にガツーンと殴られるようなことでもなんでもない。


  質の高いエントリーを書けるのはその人の能力なんだから、能力は正当に評価されて当たり前だ。


  なのになぜ、いい文章が書けるブロガーは「エリート気取りのアマチュアの個人ジャーナリズム」だってことになるのか? 読んだ人に何かを感じさせるエントリーを書くブロガーはみんな、「エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけ」なんですか?


  いったいなんでこういう論理展開になるんだろう。私にはさっぱりわけがわからない。


  エスタブリッシュメントであるかどうか。また高等教育を受けているかどうか。これらの要素と、その人がすぐれた文章を書けることとは、私にはまるで関係ないとしか思えないのだが。えっと、これ私がおかしいんでしょうか?


  では、なぜこんな論理になるのか? 無理やり想像すると、ひとつはさっき書いた順位の問題が思い当たる。いいエントリーを書いて人から評価された時点で、その人はエリート化エスタブリッシュメント化する。湯川さんの中ではこういう図式があるのかもしれない。


  いくらすぐれたことを成し遂げても、そのことで順位がついてしまうと平等じゃない。きのうまで市井の人だったものが、その瞬間にエリートになってしまう。これでは「ジャーナリズム」は以前と変わらない。一部の人間が牛耳る閉ざされた世界のままだ──。そんなふうに発想してるのだろうか?


  だけどくり返しになるが、質が高いなら他人から評価されて当然だ。その文章を読み、人が心を動かされるのも自然である。だからいいものを書けば、結果的にその人の声は大きくなるだろう。


  しかし少なくともネット上では、質がイマイチだから「参加できない」なんてことはありえない。だれもが情報発信できるのが、インターネットの最大の特徴のひとつなんだから。ゆえにみんなが参加できるように質を問わないというのは、ナンセンスだ。また、もしそういうコンセプトなんだとしたら、機会平等ではなく結果平等を求めているようにも見える。


  湯川さんは民主主義という言葉を使っているが、なんだか文章の優劣が選挙権の有無と同列に語られてるような違和感を覚えるのだ。


  自分の子供が勉強できること(質)に誇りや価値を感じながらも、運動会になったらこの子は駆けっこでビリになっちゃう。だもんで教育委員会に「運動会で順位をつけるのは差別だ。民主主義に反する。子供が傷つくからやめてほしい」と訴えるダブルスタンダードな親みたいな感じがする。いや湯川さんがもしそう考えてるんだとしたらだけど。


  駆けっこはだめでも、勉強で1番になる子供を認めちゃだめなんだろうか? 逆に勉強はできないけれど、駆けっこで1等賞になる子供を評価するのは悪事なのか? もっといえば勉強も駆けっこもダントツで1位を取っちゃう子供をほめると、「何をやってもダメな子」に対して差別になるからいけないんだろうか?


   質に意味を感じながらも、質をモノサシにしたら平等という大切なイデオロギーに抵触するからやめとこう。で、「質は問いません」と世間体モードになる。下衆のカンぐりかもしれないが、どうもそんな雰囲気を感じてしまう。


  もうひとつ考えられる要素は、湯川さんが「ジャーナリズム」なる概念や定義に逆の意味でとらわれている可能性だ。【仮定2】である。


  すぐれたジャーナリズムたるには、学歴がないとだめだ。エスタブリッシュメントでなければ、それは成し遂げられないはずである。だから仮にきのうまで市井の人だったとしても、その人がすぐれたブロガーとして頭角をあらわしたとすれば学歴があるにちがいない。そいつはエスタブリッシュメントに決まってる──。


  こう解釈すれば湯川さんがガツーンと頭を殴られたと書くエントリーで、優秀なブロガーはみんな「エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけ」だ、とする不可解な論理展開にも辻褄があう。


  でもこれって概念というより、既成概念ですよね? インターネットにはその既成概念を打ち破る力があるから、プロではないけど筆力のある人がどんどん文章を発表しているわけだ。結論を言えば「質は問わない」とか人工的な細工を考えずに、ほっとけばいいのである。


  またそもそもジャーナリズムうんぬん的なややこしいことを考えるから、こういう論理になってしまうんじゃないか、とも推測できる。そうではなく、「人の心を動かしたり、他人に何らかのモチベーションを起こさせる文章、およびそれを書くためのなにがしかの活動」てな風に広く構えるのではダメなのか?


  ネットのおかげで、鋭い文章を書くのは実はプロだけじゃないとわかってきた。これは客観的事実である。ただしそのことと、みんなが参加できる平等な社会を作りたい的なイデオロギーとは別の次元の話だ。こっちは世直しみたいなレイヤーでしょう。


  ところが前者の客観的事実をもとに、だから理想とするイデオロギーが実現できそうだ、あるいはこれらの事実をふまえて、イデオロギーを実現していく運動を起こそうという世直しレイヤーに落とし込もうとするから、矛盾が起きるんじゃないだろうか?


  ちなみに『山川草一郎ジャーナル』さんもエントリー「2つの市民ジャーナリズム論」の中で、湯川さんのコンセプトはジャーナリズムそのものではなく「一種の社会改良運動だ」と分析している。


  ただし山川さんは「社会の階層間対立を煽るような方法論は、個人的にあまり好ましく思わないのだが」としながらも、「湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる」と論じている。私はこの点には同意できない。


  それは「参加型ジャーナリズム」なるものに対する万人の参政権を確保せんがために、人間個々がもつ自然な能力の差をも仮想的に平準化しようとしているように見えるからだ。これは民主主義というより、芸術に対するファッショ(笑)だと思う。ただこの話を続けるとゲージュツとは何か? みたいなたいそうな話になるのでここでは置く。


  最後に、もうひとつ残る可能性をあげよう。【仮定3】だ。


  私は以前、『JR西日本を恫喝した「髭記者」の実名にたかるブログ・スクラム』というエントリーを書いて地雷をふんだわけだが(笑)、これを書いた主旨のひとつは「みんなと同じことをして意味あるの?」だった。


  私はそれまで、文章には人とちがう新しい視点、独創性が大事だと思っていた。人と同じことを書くなんてダサいじゃん、みたいな話だ。ところがこのエントリーを読んだ人から、そんな価値観にツッコミを入れるコメントをもらった。わかりやすくいうと、こんなふうだ。


  ひとりひとりは他人とまったく同じ平凡なことを言ってても、それが1万人、10万人、100万人になれば世の中が変わるんじゃないの?


  私にはこんな視点はまるでなかったので、とても驚いた。(ただし実名晒しの是非とは別の問題としてだが)。で、なるほどそんな考え方もあるのか、と教えられた気がした。ブログってこういうコミュニケーションができるからエライと思う。


  さて湯川さんが言ってる「質を問わない参加型ジャーナリズム」というのも、この図式を当てはめれば成り立つかもしれない。ただ湯川さんがそういう構図を頭に描いているのかどうかは、わからないけれど。


  じゃあ、お前はどう考えてるんだって? 私は湯川さんの考えとはあきらかにちがうけど、団藤さんとも同じじゃなくて……えっと、長くなったので気が向いたら別の回に書きます(笑) いやひさしぶりにブログ書いたんで疲れたんです、はい。


 


(追記)文中で、『ネットは新聞を殺すのかblog』のエントリー「参加型ジャーナリズムの時代」にリンクを張った。また前後関係をわかりやすくするため、当該エントリーが書かれた日付(2004年8月11日付)を加筆した(2005.8/7)

コメント (6)
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