「(サンスクリット版縮約)法華経」(植木雅俊・訳)を読んだ。
これで法華経は3回読んだことになる。
昔読んだ岩波文庫の「法華経」(坂本幸男・岩本裕訳)
そしてこの前読んだ、「全品現代語訳・法華経」(大角修・訳)
そして今回の「(サンスクリット版縮約)法華経」(植木雅俊・訳)
この3訳の「法華経」みなそれぞれに味がある。
そして今まで持ってた違和感、「観世音菩薩普門品」とか「陀羅尼品」とかその他いくつかの品が、どうやら後世で追加されたものらしいことも分かった納得した。
サンスクリット語訳はわかりやすくはあるのだけど、だらだらした文章にはまったくうんざりさせられた。
これでも縮約!
原本はどれほど、だらだらだったか!
それにこの訳の偈(詩)の部分、訳者ははなから詩として訳すことを放棄しているらしい。
もちろんそのまま散文で訳したら本文とほとんど重なってしまうので、重なる部分は省いて訳している。
もう少し詩として訳したらいいのに・・・
やっぱり鳩摩羅什訳の「法華経」は名訳だと思う。
単に訳するだけでなく、有名な方便品の十如是(この部分はサンスクリットの現本にはないらしい)などを加えることによって(よくわからぬながらも)さらに深みを、有難味を増している。
法華経は鳩摩羅什以前と以後にわかれるだろう。
前者を尊ぶのは仏教学者、後者を尊ぶのは仏教徒。
宗教は生きている。
その生きている宗教が一番わかってないのが仏教学者なのかもしれない。
「(サンスクリット版縮約)法華経」を読んでふとそう思った。
さてこの三つの訳ではまず、「全品現代語訳・法華経」(大角修・訳)をおすめしたい。
入りやすいわかりやすい。
やはり今の日本人にいちばん合うのは鳩摩羅什訳の「法華経」だろう。