ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

エセー

2018年10月22日 17時03分10秒 | 本の中から
毎日夕方5時ころには風呂から上がり晩酌、そして夕食。
そして8時ころには寝るという、良い子過ぎる時間をおくっている。
そのため夜中に1時ころには目を覚まし、
本を読み、疲れたら転寝をして、起きてはまた本を読む。
一日のうちで一番充実した時を過ごす。

今読んでいるのはモンテーニュのエセー。
昔読んだ時は、引用の多さに、さらにその本では外国語の引用をカタカナで翻訳してたので、とっても読みにくくてうんざりした。

いったい引用って何だろう?
権威付け?
こんなに本を読んだんだぞという自慢?
引用って他人の思想の借り物ではないのか?
たとえ借りものであってもそれを消化したら自分の言葉で語るはず。
しょせん引用とは人の言葉の借りもの、それも未消化に書いた物ではないか?

昔はよく引用した文章を書いたけど、その後ほとんど自分の文章に引用はしない。
そして自分の言葉で書くようにしている。
それでその頃エセーは受け入れることができなかった。
それでほとんどなにも頭に残っていない。

でもいろんな本を読むとエセーの再読を進めている。
どうやらエセーは世界の名作、晩年になればなるほどその良さがわかる本らしい。
それでようやく再読する気になった。

引用の多さには相変わらずうんざりさせられるけど、昔ほどの抵抗感はない。
それにモンテーニュの引用してる本、昔、その時はほとんど読んでいなかった。
ホラティウス、プルターク、ウェルギリウス、ルクティウス、プラウトゥス、テレンティウス、オウディウス、プリニウス・・・
今ではなんとか読んだ。
もちろんそれぞれ一部の作品を読んだに過ぎないだろうけど、何とか引用についていけるようになった。

そこでエセーを再読している。
それで昔よりは面白く読んでいる。

ところでちょっと気になったのは山羊の話。
エセーの中に次のような話があった。

昔はフランスでも日本と同じ、
母乳が出なかったら山羊の乳をのませていたらしい。

 ある農家で母親の母乳が出なかったので、近所の農家から山羊を借りてきて赤ちゃんに飲ませた。
 すると山羊はどうやら自分の子供と思ったらしい。
 赤ちゃんが泣き出すとすぐにやってきて乳を飲ませた。
 でもそのうちそのヤギを持ち主に返した。
 そして代わりに他の山羊を連れてきた。
 ところが赤ちゃんは飲もうとしない。
 そしてとうとう餓死してしまった。

この話、かなり怪しい。
前半部分はあるいはそうかなぁ~と思える。
でも、後半部分は・・・?

なんせモンテーニュのこと、
こんな挿話がある。

 ある農家で子牛が生まれた。
 それがとっても可愛かったのでそこの娘さんが毎日抱いて歩いた。
 するとそれがすっかり習慣になって、その子牛が大きな牡牛になっても毎日抱いて歩いた。
 (習慣とは怖いものだ)

なんてこんな挿話をのせる、モンテーニュのこと。
きわめて怪しい。
コメント
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