いくじぃ という言葉があるらしい。
育児をする爺さんの意味らしい。
夕方Daycatchで聞いたのだが、スルーに聞けなかった。
そういうのに意見を言うのは私の主義に反するが聞こえたところだけ。
「日本だけいつから空洞化
子供は自然に育てる」
と言っていたところが聞こえた。
どうも核家族のことらしい。
でも、核家族なんてフランスではずっと前から始まっていて、
夫婦と子供(未成年)がひとつの家族の単位だ。
フランス人の知り合いが何かのときに
「結婚するとなったとき、最初に考えたことは母親と奥さんを離すこと」と言った。
ひとつの屋根の下に二人の主婦はいらないということだ。
嫁姑の問題は似たり寄ったりで
夫婦で夫のおかあさんに会いに行っても嫁さんは車のなかで待っている
というのを聞いたことがある。
行き過ぎと思ったが、嫌いならしかたない。
フランスで言えば、個人主義ということもあるが、
子どもが道路で遊ぶなんて少なくても大都市ではありえない。
子供は学校の側ではみかけるが
道路で遊んでいる姿なんか見たことない。
それは決していいことではないが
誘拐とか、犯罪を心配する結果なのだ。
幼稚園など親が必ずついていくし、むかへにくる。
幼稚園側も知らない人に子供をゆだねて帰宅させるなんてしない。
友達が「きょうはむかえに行けないから電話して子守が行くことを言わないと」とせわしく言ったことがある。
近所の人に預けられたら、ある意味でいい。
でも友人の子供を預かって、その子をうっかりころばせてしまった。
子どもが勝ってに転んだのだが、後で、もし病院通いするような怪我になって
いたらどうしようと思った。 善意で預かった、よく知っている子だ。
でも怪我をするというのは話しが違ってくる。
「ころぶ」なんて想像もしなかった。
二度と預かったことはなかった。
ラジオでは「コブのひとつやふたつ」と言ったが
その程度の話しで済むことならいい。
しかし、孫ではない、他人の子供を預かるというのはもっとデリケートなことなのだ。
あなたの子供がもし悪意でなくても怪我をして
それが尾をひいてなんてことになったとき、友人、知り合い、イヤ、
その子のおじいさん、おばあさんに怒りを向けずにいられるだろうか?
怒りを向けなくても、「どうして預けたのだろう」という自分を責める結果になるのではないだろうか?
大家族で何世代も大きな家にいるようなのは別な話だ。
それが無くなったのは、必ずしも社会の人間の衰退の結果ではないと思う。
別なシステムの社会になったということなのだ。
もし子供を社会の子としてと考えるなら、
どこかに書いたけど、中国やベトナムみたいに友人の子供の親になってやるとか
方法はいくらでもあると思う。
興味ある人は私のブログをさかのぼってください。
育児をする爺さんの意味らしい。
夕方Daycatchで聞いたのだが、スルーに聞けなかった。
そういうのに意見を言うのは私の主義に反するが聞こえたところだけ。
「日本だけいつから空洞化
子供は自然に育てる」
と言っていたところが聞こえた。
どうも核家族のことらしい。
でも、核家族なんてフランスではずっと前から始まっていて、
夫婦と子供(未成年)がひとつの家族の単位だ。
フランス人の知り合いが何かのときに
「結婚するとなったとき、最初に考えたことは母親と奥さんを離すこと」と言った。
ひとつの屋根の下に二人の主婦はいらないということだ。
嫁姑の問題は似たり寄ったりで
夫婦で夫のおかあさんに会いに行っても嫁さんは車のなかで待っている
というのを聞いたことがある。
行き過ぎと思ったが、嫌いならしかたない。
フランスで言えば、個人主義ということもあるが、
子どもが道路で遊ぶなんて少なくても大都市ではありえない。
子供は学校の側ではみかけるが
道路で遊んでいる姿なんか見たことない。
それは決していいことではないが
誘拐とか、犯罪を心配する結果なのだ。
幼稚園など親が必ずついていくし、むかへにくる。
幼稚園側も知らない人に子供をゆだねて帰宅させるなんてしない。
友達が「きょうはむかえに行けないから電話して子守が行くことを言わないと」とせわしく言ったことがある。
近所の人に預けられたら、ある意味でいい。
でも友人の子供を預かって、その子をうっかりころばせてしまった。
子どもが勝ってに転んだのだが、後で、もし病院通いするような怪我になって
いたらどうしようと思った。 善意で預かった、よく知っている子だ。
でも怪我をするというのは話しが違ってくる。
「ころぶ」なんて想像もしなかった。
二度と預かったことはなかった。
ラジオでは「コブのひとつやふたつ」と言ったが
その程度の話しで済むことならいい。
しかし、孫ではない、他人の子供を預かるというのはもっとデリケートなことなのだ。
あなたの子供がもし悪意でなくても怪我をして
それが尾をひいてなんてことになったとき、友人、知り合い、イヤ、
その子のおじいさん、おばあさんに怒りを向けずにいられるだろうか?
怒りを向けなくても、「どうして預けたのだろう」という自分を責める結果になるのではないだろうか?
大家族で何世代も大きな家にいるようなのは別な話だ。
それが無くなったのは、必ずしも社会の人間の衰退の結果ではないと思う。
別なシステムの社会になったということなのだ。
もし子供を社会の子としてと考えるなら、
どこかに書いたけど、中国やベトナムみたいに友人の子供の親になってやるとか
方法はいくらでもあると思う。
興味ある人は私のブログをさかのぼってください。