何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

「ありがとう」を超えて

2023-07-05 07:57:00 | 詩はあいまいな哲学
飾られ眺められるだけのものは美藝とし、
民藝は語ることなき衆生の伴侶で、
苦しみや痛みを柔らげてくれる現世に咲く神から贈られた草花のようで、
工藝の美は奉仕の美であるという。

「本」は誰かに読まれたことで「書物」となり
更に「料理」も人に食されて「糧」になり
出来上がった時が最も美しいということではない。

人の生活の中で用いられ浸透し命を帯び時の力を得て変貌し、
用いられるものは一部欠けていても美が深まるならば、
古くなれば古くなるほど、修復すればするほどその固有性を強くし、
更に言えば欠けたままでも美しいという。


「助かりました、じゃあね」の代わりに「ありがとう」という私だった。
普段から言い過ぎてきたかもしれない。礼儀もあるし。

仕事で下げられたお皿やらを黙々と洗う日々。
「お願いします」「はい、ありがとうございま~す」これは変か?
私の取柄は挨拶を誉められることぐらいなんだもの。

実体は、純粋で単一の否定で、単一なものを二つに引き離す。
仏教に「不二」という言葉があり、
二つではないが二つのものが二つのままで繋がり、
決して「二」にはならない似て非なる不二があるという。

主観(対自真)と客観(即自知)を対立させ、更に対立を否定する。
真理は他在に於いて直接ではなく矛盾や挫折を辿りながら
一本源的な自己回復へと復帰するならヘーゲル風。

有難うという言葉には苦難という芽が有りきで、感謝の果実になる。

感謝の言葉で不合理な切なさがどうして出てくるのだろう。
安心してくれる、喜んでくれるはずなんて期待の押し付けになるかな。
感謝を伝えたいのだから「ごめんね」も違うと思うし
言葉だけで嘘偽りない気持ちを伝えるのも難しいものだな。
話もしたくない、顔も見たくない、ほどに嫌うに至っては
機能表現が「別れてくれてありがとう」にかわる。

宇多田ヒカル - Flavor Of Life -Ballad Version-
2023-07-02 22:39:19に追記
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