しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日比遊郭 ②「日和申し」

2017年03月21日 | 江戸~明治
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「玉野市史」より転記する。
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当時の廻船業は船主が船長であるという例が多く、自分の船に自分が乗って、自分の資金で諸国の物産を買付けて商売するもので、運賃積という分業はそれほど発展していなかった。
北前船もそうであるし、廻船業者もほとんどが船主船長で商売をしており、数隻の船を持った者は身内か、信用ある雇い船長にまかすが、積み荷は自分の商品であった。
つまり船長は船主であり、荷主であり、商人であった。
したがって金づかいも荒く、町に落ちる金も相当なものであったという。

2~3日もしけが続くと、日比港の西側の山の丸山という広場で海の静まるのを祈り、そこで各船対抗の角力や力くらべをやり、芸者を集めて飲めや唄えの大さわぎをやる。
これを「日和申し」といって、日比港の名物であったと伝えられている。

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日比遊郭 ①ひと潮

2017年03月21日 | 江戸~明治
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「玉野市史」より転記する。
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瀬戸内海の、東西のみちひきする潮の分かれ目が、笠岡市の沖合である。
そこで「ひと潮」といわれる周期の約6時間を、日比港を起点として潮流にのって西に航海すると、満ち潮にのって走ると笠岡の沖合でひき潮に変わる。そのまま引き潮ににのると広島県大崎の木江港、御手洗港まで一気に走るのである。

潮待に寄港する船は多く、煙草屋、風呂屋、船具屋、米屋、荒物屋、油屋、塩みそ醤油かの商家をはじめ、茶屋料理屋などの花街も繁盛したのである。

岡山県では明治10年、貸座敷の営業できる所を指定している。
備前国 
上道郡 岡山西東中島町、九ばん村、西大寺村。
御野郡 福島村
児島郡 下津井村 吹上村 田ノ口村 日比村 山村
以下略
これらは、すでに江戸時代から花柳街として発展してきた場所ばかりであるが、日比港の新地が遊郭というかたちを整えて繁盛しはじめたのはこの頃のことであろう。

海が荒れて、上り下りの船が溜まると日比の町はたいへんなにぎわいである。
何百人もの船乗りが一度に上陸すると、まず繁盛するのが風呂屋であり料理屋であり花柳街であった。

この頃、日比港の花柳街の資料を紹介しておく。
この資料は日比村の娼妓の数を記録したものの残欠である。
明治
13年 30.人
14年 45人
15年 19人
16年 25人
17年 31人

またこれとは別に、明治31年から書かれた岡山駆梅院日比分院の日誌というのがある。
この「岡山駆梅院」というのは、娼妓に対し性病の検査、予防、治療などを専門とする病院で、日程を決めて医師が検診にきていた。
この日誌は、その都度立会する駐在所の巡査が記録したものであるが、だいたい60~70人程度の人数が記録されている。
性病に対する厳しい予防体制と、日比港のようすを想像することができるのである。

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父の進学先

2017年03月14日 | 父の話
父は、農家の長男で小学校卒業後、神辺実業へ進学した。

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おばの話・談・2017.2.9

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兄は笠商へいきたかった。
じゃけどじいさん(父)が、あの頃のことじゃけえ
「お前が跡をとる。次男の〇〇が跡を継ぐはずがねぇ。
お前が跡を継がにゃあ跡が絶える」
それを聞きょうた。
それで神辺(実業)にいった。

(父の末弟は笠商卒業後、国鉄に勤め、その後進学した)
(末弟が高松経専にいた時)
子供が出来んので四国へ参りに行った。その帰り道、夫と高松の下宿に寄った。
下が店で、二階が下宿じゃった。
二階へあがったが、弟はちょうど居なかった。
飯ごうの中には麦飯ばああった。
少し小遣いをおいとかにゃあいけなんだが、あの頃のことじゃけえ、それができなんだ。
それが今でも・・・(心残りになっている)

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キセル

2017年03月06日 | 父の話
おばの話・談・2017.2.9


キセル

(管理人の世代は、親は大正生まれ、祖父母は明治生まれ、とほぼ決まっていた。
成人になりタバコを吸うのは「フィルター付きタバコ」、
親は「両切りタバコ」、
祖父は「刻み」とこれまた決まっていた)

キセルは利三郎じいさんも吸ようた。(管理人の曽祖父)
火鉢でコンコンと叩きょうた。おいしそうに吸ようた。
安かった。

(タバコの種火はのえではどうしていたか?)
家でしか吸ようらなんだ。畑で吸うことはなかった。
おおタバコ吸いではなかった。



奉安殿の思い出

(奉安殿がない、奉安室の記憶は?)
記憶にない。


ブタを飼う
(戦後のこと)

兄貴がウチヘ豚の子を呉れた。
豚の子は七匹ぐらい産むんじゃって、それで
「これを大きゅうせぇ、そしたら小遣いくらいにゃあなる」
もってきてくれた。

牛小屋の前にこおまい豚小屋を作って、そこで飼ようた。そしたらまた五匹くらい産む。
(臭いがあるが)
残り物をなんでも食うのがえかった。
それで、残ると「豚にやれぇ」ゆうて食わしょうた。


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リンゴの話

2017年03月06日 | 父の話
おばの話・談・2017.2.9

リンゴの話

リンゴをいっぱい作りょうた。
それで、わたしらはリンゴで学校へ行かしてもらようたもの。
(その後)
ほかした。
土地柄がいけなんだ。


麦の米の比率

半々よりもコメが多いぐらいじゃった。


警鐘台は

豆腐屋のいわさん方の北側にあった(今と同じ、今は火の見櫓)


えべすんき

えべすんきは茂平に二軒あった。先生方とウチで、
「えべすんきのみーちゃんどこいきょうるん?」ゆうて言わりょうた。


黒船(写真屋のこと)
船に乗りょうた人がおった。


とんまの土手の龍王のこと

龍王さんの祀りは、
太夫さんがきて二人ぐらいで、こまい太鼓を叩きょうた。
記憶がほんのりある。



“ろうまん“のこと---労研饅頭(ろうけんまんとう)---
(おばに「ろうまん」のことを問うと)

あの硬い、あんころの入っていないパンのことじゃろうか?
労研パンなら知っとる。
硬おうて美味しゅうない、細長い。ろうけんパンようた。
安い、硬い、おいしゅうない。


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