しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「平家物語」厳島御幸  (広島県宮島)

2024年07月21日 | 旅と文学

高倉天皇は後白河天皇の第7皇子で、
8歳で高倉天皇となり、
20歳で天皇退位。上皇となった。
21歳、高倉上皇は崩御した。

実父(後白河法皇)や義父(清盛)が命じるような感じで
天皇になり、そして退位した。
宮島訪問は、高倉上皇の短い人生の最期の表舞台となった。

 

・・・

旅の場所・広島県廿日市市宮島町  
旅の日・2023年6月10日                 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」古川日出男 河出書房新社 2016年発行

・・・

 

厳島御幸---三歳の新帝誕生


治承四年正月一日。
鳥羽殿には参賀に参る人がありません。
入道相国が朝臣の参賀を許さず、後白河法皇もまた気兼ねなさっていたからです。


二月二十一日。
高倉天皇はべつにこれといったご病気でもいらっしゃらなかったのに
無理にご退位させ申して、春宮が皇位を継がれたのでした。
もちろん入道相国の、「すべては思いのままになるから」となされたこと。
平家一門は、自分たちの時代が到来したぞとばかり、みな大騒ぎです。
高倉天皇は高倉上皇となって、
灯火も減り、宮中警固武士たちも途絶え心細いのでした。
新帝は今年三歳。
幼帝も幼帝。まさに幼君。
「ああ、このご譲位はあまりに時期が早すぎる」

 

 

治承四年三月。
高倉上皇が安芸の国の厳島神社へ御幸なさる話が伝わりました。
人々は不審に思いました。
なぜならば、
天皇がご退位になった後の諸社御幸の初めには、
八幡、賀茂、春日などへお出になるのが常の習いでした。
遠い安芸の国までの御幸とは不思議でならないからです。

三月二十九日。
高倉上皇は今年おん歳二十。
お姿はひとしお美しくお見えになるのでした。
鳥羽の草津という船着場からお船にお乗りになりました。

 

 

 


還御---帰路の風雅

三月二十六日。
上皇は厳島へご到着になりました。 
入道相国がたいそう寵愛された内侍の邸が上皇の御所となりました。
中二日ご滞在なさって、御経供養や舞楽が行なわれました。 
導師は三井寺の公顕僧正であったということです。
この僧正が高座に上り、鐘を鳴らし、表白の詞に
「九重の都を出て、八重の潮路を分け、はるばると参詣なさったおん志しの、忝さ」
と高らかに申されたので、君も、臣も、みな感涙を流されましたよ。
高倉上皇は本社の大宮や客人の宮をはじめ、各社残らず御幸になりました。
それと大宮から五町ばかり山をまわって、滝の宮へもご参詣になりました。
公顕僧正は一首の歌を詠み、その滝の宮 拝殿の柱に書きつけられました。

三月二十九日。
上皇は船出の用意を調えられて帰途に就かれました。
しかし、どうにも風が熟しい。そこでお船を漕ぎ戻させて、厳島のうちの有の浦というところにお泊まりになりました。
上皇はお供の公卿や殿上人におおせになります。
「さあ、皆の者、厳島大明神とのお名残りを惜しんで、作歌しなさい」
そこで少将藤原隆房が詠みましたのは、この一首。

たちかへる 
なごりもありの 
浦なれば 
神もめぐみを 
かくる白波

 

 

夜半になって波も静まり、あの烈風も収まりましたので、上皇はお船を漕ぎ出させ、
その日は備後の国の敷名の泊にお着きになりました。
今日が何月何日かと申せば、もう四月の一日。
「そうか、今日は衣更えの行なわれる日だ」と、上皇も供奉の人々もそれぞれ都のほうを偲んで、お遊びに興じられます。


四月二十二日。
この日、新帝のご即位の儀式が行われたのです。
安徳天皇でございます。

 

・・・・

 

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「平家物語」富士川の戦い  (静岡県富士川)

2024年07月21日 | 旅と文学

斎藤実盛(さねもり)といえば、
岡山県では「実盛さま」と呼ばれ、田んぼの虫送り行事で知られる。

奥の細道では、芭蕉の句も有名。
【むざんやな甲の下のきりぎりす】

元はと言えば、斎藤実盛は平家物語に多く登場する。
富士川の戦いでも、主役をつとめていると言っていい。

 

・・・

旅の場所・静岡県富士川
旅の日・2022年7月9日
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

・・・

 

富士川

その日の暮れ方、平家の陣の前を、急ぎ足で西の方へ行く下男の男があった。
怪しいと見て、平家の兵はこの男を捕え、侍大将忠清の前へひっ立てて来た。
すぐに尋問がはじまる。
「そちはどこの何者か。」
「はい、常陸(今の茨城県)の源氏、佐竹太郎殿の下男でございます。」

「して、どこへ行く。」
「はい、都へ参ります。」
「時に、そちは鎌倉を通って来たであろうが。」
「はい、通って参りました。」

「では尋ねるが、鎌倉には源氏の軍勢がいかほど集まっておったかの。」
「さあ、私のような下郎の身は、四、五百、千までは数えられますが、それから上は数えられませぬ。」
「いや、そちがいちいち数えなくとも、人のうわさでは、どれくらいと申しておったか。」
「はい、たしか二十万騎とか申しておりました。」
「なに、二十万騎!」

「それはたんに人のうわさであろうが.........」
「もちろん、うわさでございます。しかし、私がここまで参ります間、八日九日と歩きつづけて参りましたが、
野も山も海も川も、みな源氏の武者で埋まっておりました。」

 

 

平家の遠征軍の中には、斎藤別当実盛という老武者がひとり加わっていた。
彼はもと源氏の家来であったのだが、今は平家につかえているのである。
平素は武蔵の国に住んでいたので、坂東の事情に詳しかった。

大将軍維盛
「いかに実盛、坂東八か国には、そちほどの強い弓を引く者が、何人くらいあるかな。」
そうはあるまいと思って、雑盛は尋ねてみたのであった。


実盛
「はっ、はっ、はっ。」

大将軍維盛
「実盛、どうしたのか。急に笑い出したりして。」

実盛
「殿はこの実盛の弓を強いと思われますか。
矢の長さはわずかに十三束にござりまする。
坂東に強弓矢と申しますは、十五束以上をさしまする。
かような大矢に当たりますと、鎧の二つ三 つは、ぶつりと射通されてしまいまする。

だいたい、東国の大名は、ひとりで五百崎の敵を相手にいたしまする。
それに坂東武者はみな馬の達人、どんな足場の悪い悪所をかけても、馬を倒すことはありません。
いざいくさともなれば、たとえ親が討たれ、子が討たれても、その死骸を乗り越え乗り越え戦いまする。
それに比べ西国のいくさは、
親が討たれれば引き退き、その仏事供養をすませてから戦います。
子が討たれれば親は泣き、もはや戦う気力もなくなってしまいます。
兵粮米が尽きればいくさはやめ、夏は暑いとていくさをきらい、冬は寒いとて出陣いたしません。
こんなことでは勝てるいくさにも勝てません......」


そこまで話して実盛はひと息つき、並みいる平家の武士たちを見まわした。
恐ろしさのために青い顔をしたのもあり、恥ずかしそうに下うつ向いているのもある。
かくするうちに、源氏の軍勢がようやく富士川の対岸にあらわれた。
あとからあとからと、それはつづく。平家の赤旗に対して、源氏の白旗が野にも山にもへんぽんとひるがえった。
十月二十四日の卵の刻(午前六時)に、源平の矢合わせが行なわれることになった。


その夜半、富士川付近の沼におびただしく群がっていた水鳥が、何に驚いたのか、いっせいに ぱっと飛び立った。
何千、何万という水鳥の羽音が水面にこだまして、雷のように聞こえた。
平家の兵たちは、これはてっきり源氏が夜討ちをかけてきたものと思い込んだ。

「おお、夜討ちだ! 夜討ちだ! 源氏が押し寄せたぞ!」
「親が死んでも子は知らぬという坂東武者だ!」
平家の陣営は上を下への大騒動になった。だれかがどなっている。
「取りまかれては全滅だ。逃げろ!」
と、ひとりが言い出すと、あとはもう総崩れだ。

弓を持った者は矢を持たず、矢を持った者は弓を忘れる。
他人の馬には自分が乗り、自分の馬には他人が乗る。
中には瓶につないだままの馬にあわてて飛び乗って、馬の尻をひっぱたいたからたまらない。
馬は枕のまわりをグルグルとまわる。こうして平家軍は、一兵も残さず、夜なかのうちに逃げて行った。


平家が戦わずして逃げ帰ったといううわさは、すぐに京都や福原へも聞こえてきた。
平清盛は、ひたいに太い青筋を立てて怒った。
「なんというぶざまな負けようだ。維盛は鬼界が島へ流してしまえ!忠清は死罪にしてしまえ!」 
と思いたが、なだめる者があって、それまでの罰は行なわれずにすんだ。

 

 

それにしても、水鳥の羽音に驚いて逃げたという例は、今までの歴史にないことだ。
そのただ 一つの例を作った平家の軍勢は、後世の物笑いになった。

 

 

 

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風林火山  (長野県川中島)

2024年07月21日 | 旅と文学

第二次世界大戦中、
皇居や大本営や政府機関を、東京から日本本土の中央部分に移転することが決まった。
その工事は完成をみないうちに終戦となった。
今は一部が「松代大本営跡象山地下壕」として一般公開されている。

信玄と謙信の川中島の戦いの場所は、
その「松代大本営跡」と数キロと離れていない。
つまり、信玄と謙信の両雄は、日本の中央部分で華々しく戦ったともいえ、
戦国時代を代表する合戦として現在まで語り継がれている。

 

・・・

旅の場所・ 長野県長野市小島田町 「川中島古戦場」
旅の日・2014年7月19日
書名・風林火山
著者・井上靖
発行・新潮社 2006年発行

・・・

 

 

信玄の本隊一万は予定通り十八日に古府を出発すると、二十日に大門峠を越え、南信の部隊三千を加え、二十一日に腰越に到着、その夜は上田に宿営した。
海津城からの急便は次々に到着した。
謙信は 千曲川を渡り武田陣の背後に廻り、自らが退路を断った形だった。
二十九日、信玄は再び千曲川を渡り、全軍を海津城に収容した。
妻女山の謙信と海津城の信玄は指呼の間に相対峙したまま九月を迎えた。

 

九月九日の重陽の節句の日、海津城の将兵は本丸付近に集まり、そこで祝宴が張られた。
高坂昌信の率いる一万二千の大部隊が、卯の刻(午前六時)に妻女山の謙信の陣営を衝くために、
深夜、城を出て丘陵の急坂を登って行ったのは月の出の少し前であった。
広瀬で千曲川を渡った。
平原には濃霧が立ちこめていた。
武田の旗本軍はその霧の底を這うようにして、次第に幅広く横隊となって展開して行った。
信玄の本営が陣したのは八幡原であった。
風林火山を初めとする何十本の旌旗は霧の中に立てられた。
「まだか」
妻女山の方向を注意させていた。
依然として霧は深く、一間先きの見通しは利かない。
「上様!」
「前面の部隊は越後勢と見受けます。推定一万数千」
言った時、烈しい銃声が西方で起った。

 


いつか霧は上がろうとしていた。。
勘助は見た。
それは彼が生を享けて初めて見る世にも恐ろしいものであった。
勘助は思わず息を呑んだ。
はっとして見惚れていたいような、見事な敵の進撃振りであった。

敗退した武田隊に替って前線に出た山県隊は、左翼から中央へかけての広い戦線に亘って長い間攻勢を持していたが、これまたいつか守勢に立ち、一歩一歩後退の余儀なきに到っていた。
こうした情勢下に、右翼では諸角豊後守が乱戦の中に討死した。
大将を討たれて、右翼方面 は一度に浮足立った。

 


「山本勘助、首級を頂戴する」
ひどく若々しい声が聞えた。
勘助はその方を見ようとした。何も見えなかった。
突き刺された槍の柄を握ったまま、勘助は三尺の刀を大きく横に払った。手応えはなかった。
烈しい痛みがまた肩を走った。
勘助は半間ほど、突き刺されている槍で手繰り寄せられるようによろめき、松の立木にぶつかった。
勘助はそれに寄りかかりながらなおも刀を構えていた。 
勘助の一生の中で、一番静かな時間が来た。 
相変らず叫声と喚声は天地を埋めていたが、それはひどく静かなものに勘助には聞えた。
血しぶきが上がった。
異相の軍師勘助の首は、その短い胴体から離れた。

 

 

 

そして、またその時、越軍の総帥謙信は、金の星兜の上を、白妙の練組をもって行人包みにし、
二尺四寸の太刀を抜き放つや、いままさに月毛の馬に鞭を入れようとしていた。
単身信玄を襲い、いっきに宿敵と雌雄を決せんとするためである。
平原はその頃から全く表情を改め、
陽は翳り、西南にはどす黒い雨雲がもくもくと沸き起りつつあった。

 

 

 

・・・

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徐州戦争「麦と兵隊」

2024年07月15日 | 旅と文学

徐州戦争には日本軍約200.000、中国軍400.000~500.000が参加したと言われる。
従軍した日本兵は
〽行けど進めど 麦また麦の・・・の大平原を幾日も歩きつづけた。

「麦畑は何処まで行っても尽きない。
岩と岩の間をも限なく開墾して麦畑を作り。 間に高粱や芋や葫などを植えている。
山の絶頂にこちらを見ている人影がある。
望遠鏡で見ると土民である。」


作者・火野葦平は徐州戦争従軍中に、
現地で小林秀雄さんから”芥川賞”を渡されている。
その芥川賞作家でさえ、「麦と兵隊」で中国人を土民と表現している。
後世の民としてはすこしつらい。
(侵略戦争事態もそうだが)

当時少年たちに人気の「のらくろ」では、
兵隊になったのらくろが南洋に出兵し、現地人を「蛮公」「蛮人」と呼んでいる。
1930年代の日本人は、国民全体が普通に異常の様相だ。

 

・・・


五月二十日

岩山の間の麦畑を行く。 
我々の進軍は何処まで行っても麦畑から逃れることが出来ない。
丘陵もことごとく岩石で埋められている。周囲の山の肌にはっきりと地層が露出しているが、それは横にではなくて、縦にである。
斜にあるかと思うと、まっすぐにあり、恰度縞模様のようである。
北支に近づいたので、山が北らしくなってきた。
山西省の方に行くとこんな形の山が多いよ、と梅本君が云った。

土質も砂礫を交えた粘土質で、土の色も繪河を渡って徐州に近づくにつれて赤味を帯びて来たようだ。
河を渡る迄にあった部落の家はほとんど土の家ばかりであった。
しかし、繪河を渡ってから時々石を礎にだけ使った家を見かけるようになったが、此の辺では、丹念に 石を積み重ねた石ばかりの家が各所にある。
道路にも小石を敷きつめて石だたみをつくっている。
この附近の山の岩石を使うからに違いない。 
小さな部落も周囲は土壁ではなく石の城壁が囲らしてある。 

麦畑は何処まで行っても尽きない。
岩と岩の間をも限なく開墾して麦畑を作り。 間に高粱や芋や葫などを植えている。
山の絶頂にこちらを見ている人影がある。
望遠鏡で見ると土民である。
部隊が通り過ぎると、山の稜線の上ににょきにょきと幾つも黒い影が現われ、稜線を越えて土民がぞろぞろと降りて来始める。黒い山羊が麦畑の中に百匹程も団っているところがある。
クリークに青い羽の蜻蛉が飛んで居る。 
飛行機が何台もしきりに飛んで居る。

左手の山の遥か向うに繭のような気球の上って居るのが見える。
徐州に入城した荻洲部隊が気球を持っていると聞いたことがあるので、その気球のあるところが徐州に違いない。 
前方の山の向うで続けさまにすさまじい爆撃の音がする。
退却している敵に爆弾を投下しているらしい。
六台飛行機が我々の頭上に来て、 爽快な爆音を立てながら低く旋回し始めた。
山の肌に黒く飛行機の影がる。
海のような麦畑の上をすうっと黒く影を落してすぎる。
すると一台の飛行機から、ぱっぱっと白い煙の玉を吐くように幾つも落下が飛び出した。 
他の飛行機も同じように落下傘を発射しだした。 
一台のごときは続けざまに十個の落下傘を出した。
真青の絨毯の上に落した貝殻のように白く浮び、次第に落ちて来る。
数十の落下傘には黒い箱がぶち下っている。
弾を投下したのだ。
麦畑に落ちるとトラックがすぐに取りに行った。

・・・

旅の場所・(なし)
旅の日・(なし)  
書名・「麦と兵隊」 
著者・火野葦平 
発行・「現代日本文学全集48」筑摩書房 1955年発行 (初本・昭和13年雑誌「改造)

・・・

 

(父・昭和14年北支時代)

 

 

 

「岡山県郷土部隊史」

(昭和13年)
5月18日第11中隊菊池中隊は赤柴部隊と共に微山湖を渡り、微山湖西方を南下し、
5月19日岡部隊主力は運河を渡って進撃すると、敵は退却していたが陣地は堅固に構築されており、小銃弾ではどうにもならず、後方陣地との交通壕も数条つくられていた。
柳泉駅はわが荒鷲のため爆砕されていたが、工兵隊は線路を修理し、 
5月22日列車で徐州に着き、一週間滞在の上赤柴部隊に追及する。
韓荘守備期間のわが方の損害は戦死21、戦傷44。

 

微山湖を渡り施家楼に到着した我が赤柴部隊

 

5月24日徐州西方地区を南下して敗敵を追撃中の赤柴沼田の両部隊は蕭県を経て、永城南方で3千余の敵縦隊を敗走させ、
5月28日夜毫県前面の渡河を敢行して、谷口部隊は県に砲撃を加え、
歩兵は29日終日猛攻を繰り返して午後8時県域に突入。
5月30日払暁完全に占領する。 

 

 

父の徐州戦争従軍日誌(昭和13年・1938年)
 
赤柴部隊本体に到着  5月15日

遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。

しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。

戦車・装甲車の車輪の音。
自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。

本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。

自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。
各隊のものものしい警備。

顔、みな悲壮な決心がうかがわれた。

 

無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。

ああ戦場の柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。

実に物騒なところだ。

流弾が地上をかすめる。
兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。

いよいよ、第一戦だなあ、でも


赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。 


言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

 

 

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生きている兵隊②  「生きている兵隊」事件  

2024年07月08日 | 旅と文学

昭和13年著作の、石川達三の「生きてゐる兵隊」は、
軍の検閲にかかるのは氏も確信していたことだろう。
それでも書いたのは、それは作家として氏の矜持であったように思える。

大きな権力の前に、自己の保身を微塵だに感じさせない作品。
”東洋平和のために戦う正義の皇軍”と、国内が統一世論の時代に発表された稀有な本。

・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

戦場の軍紀

戦場における徴発
その時食糧の補給が続かない時に日本軍はえてして末端の小部隊、時には分隊単位に食糧の調達をさせていたことが知られる。その時の調達は「微発」という用語で語られ、伝えられた。
そしてほとんどは強制を伴った行為であった。
この行為を軍紀違反にしたかどうかの確固とした事例が見出せない。
これは軍上層部でも十分に意識されていないようである。
ここで無名の兵の記録を示すことはやめよう。
たとえば、当時のベストセラーになった日中戦争のルポルタージュ、火野葦平の『麦と兵隊』(改造社、1938年)をみると、
兵たちが行軍中の小休止で、鶏や豚や羊をとったり、芋や野菜をとり、分隊で調理して昼食をとる場面がある。 
火野自身の述懐もあるが、原稿は軍の厳重なチェックを経ているのである。
しかし軍の検閲ではこうした一種の略奪行為はむしろほほえましいエピソードとして描かれる。
軍紀に厳密なはずの軍が、このようなケースは違反事項と考えていないことがわかる。
南京の事件をルポルタージュした石川達三の「生きてゐる兵隊」(『中央公論』1938年3月号)は検閲にひっかかっているのである。
軍の徴発行為は許していた、あるいは基準がきわめて甘いことがわかる。


・・・

 


「語りつぐ昭和史(4)」 朝日新聞社 昭和51年発行

「生きている兵隊」事件

青地晨(あおちしん)

 

「生きている兵隊」事件

私は十三年に中央公論社に入社。
当時の「中央公論」というのは、今の「中央公論」よりも権威があったと思います。
「改造」と 肩を並べて日本の代表的な二つの総合雑誌というふうに、一般にみなされていた。
今でも「中央公 論」は立派な雑誌ではありますが、当時は今よりもなお権威があったというふうに思います。

入社そうそういきなり「生きている兵隊」事件にぶつかった。
その当時、私は切り取られた「生きている兵隊」をそっと読ませてもらったんですが、軍の忌諱にふれた部分は、次のような一節だったというふうに聞いております。
日中戦争の初期のころ、上海で戦線が膠着した。 
その間に起こった悲惨な状況を石川さんが書いているわけです。
ちょうど両軍が対峙している戦線の真ん中に、砲弾か爆弾かでつくられた大きな穴があいている。 
そこに逃げ遅れた中国の若い嫁さんが、乳飲み子を連れて逃げ込んだ。
その若い奥さんは負傷しているが、むろん飲み水も食料もそこにはない。
しかも両軍対峙の真ん中だから、逃げ場はないわけです。
深夜になると砲声がいくらか静かになる。
すると乳飲み子の泣き声が聞こえてくる。
母親は食べる物も飲む物もないから、だんだん身体が弱りお乳も出なくなる。
腹をすかせて赤ん坊が火がついたように泣く。
その泣き声が日が経つにつれ、だんだん弱くなって命の灯が消えてゆくのが兵隊たちにもわかる。
赤ん坊の泣き声はなんとも物悲しく、陰惨に塹壕のなかの兵隊たちの耳に届く。 
そのころ上海戦線には、予備や後備の中年の兵隊が駆り出されていた。
この連中は、当然妻子を国に残している。
そういう老兵たちが赤ん坊の泣き声を聞くたびに、故郷を思い妻子を思い出してくる。
そういうような情景がありまして、私は非常に印象が深かった。
いかにも石川さんらしい人道主義といいますか、そういう場面があったわけです。


つまり石川さんは、戦う兵隊ではなく、ひとりの人間、生きている兵隊としての人間を書いている。
あのころ軍部は、兵隊というものは忠君愛国にこりかたまっているべきで、血も涙もある人間、つまり人間らしい人間であってはいけないという考え方なんです。
だから「生きている兵隊」は、軍の忌諱に触れたということだろうと思うんです。

そういうことで、中央公論社に入ってしょっぱなにそういう目に遭ったんです。
日中事変が昭和12年に起こってますから、ちょうど私が入社したころ、ずいぶん召集があって、駅々では「天にかわりて不義を撃つ」という軍歌を歌いながら出征兵士を見送る情景が、至るところで見られた時 代だったわけです。


内閣情報局と軍人情報官

昭和15年12月に、内閣情報局というものができました。
600人もの人々を集め、いわば日本の言論統制、弾圧の総本山という意味をもっていた。
そこに情報官という役人がいっぱいいたわけですが、その役人たちの重要ポストのほとんどは、陸海軍の現役将校によって占められていた。
情報官のなかで羽振りがいいのはみな軍人、ことに新聞、雑誌の直接の統制に当たる人たちは陸軍の少佐、中佐というクラスが大部分でした。
この人たちが内閣情報局を支配し、本当の力を持っていたといえると思います。


呼びつけられて、毎月、雑誌出版懇談会が開かれた。
大きなホールに雑誌、出版関係の編者が集まり、軍人情報官が壇上に上がり、大声を張りあげて今月号の雑誌についてこれから講評をおこう」というんです。
その上で「今月の『中央公論』は国策非協力である。
○○の論文はけしからん、××の小説は個人の恋愛とか情とかを書いていて国策にそわない」
というようなことを言うわけです。

「非国民だ」ということばは、もう耳にタコができるほど再三再四、「中央公論」や「改造」の連中は言われ続けてきた。
それだけならいいんですけれど、非常に不愉快だったのは、そこに列席している出版雑誌社の人たち、
講談社のMという人だったかが、「中央公論」は国策非協力だ、非国民だといわれてる最中、急に立ち上がってわれわれのほうを指さして「おい、お前たち非国民は出ていけ! 同席するのが恥ずかしい」とどなり、
それに乗っかって軍人が「腹を切れ」ということを言った。
そういうふうに、内部から足を引っ張る編集者がいたわけです。

 

軍人情報官の腐敗
同時に腐敗の面をいいますと、情報局のほかに大本営陸軍報道部、大本営海軍報道部というものがあって、
そこにも報道関係の将校がいる。
これらの将校は、情報官を兼務している者が多かった。 そういう軍人に、むやみやたらと原稿を頼む。
そして夜の接待をする。 原稿料は普通の二倍、三倍を支払う。
厳密にいえば用紙割り当てにからむ賄賂みたいなものだと思うんです。

 

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生きている兵隊   (中国・無錫市)

2024年07月08日 | 旅と文学

日中戦争に参加派遣された作家は多い。
応召兵として実戦参加の火野葦平。
中央公論の派遣記者、石川達三。
内閣の「ペン部隊」だった、菊池寛・吉川英治・尾崎士郎ほか20人。
なかでも林芙美子は、「漢口(武漢市)一番乗り」で有名。

火野葦平の「麦と兵隊」は、父の体験談とほぼ同じ。読みながら父を思う。
石川達三は、その時見たこと聞いたことを小説にしていて、現実のように思わす。
林芙美子さんはあおったり、美化した。戦後批判されたが、それは当然だろう。

 

 

・・・

旅の場所・ 中国・無錫  
旅の日・2016年3月11日  
書名・「生きている兵隊」 
著者・石川達三 
発行・日本現代文学全集35 講談社 昭和44年発行(初本は昭和13年)

・・・

 

 

・・


その夜のうちに友軍は、三方の城門を突破して城内になだれ込んだ。
城門の上に立てられた日章旗は雨にぬれてびたびたと鳴った。 
翌朝は未明から城内の掃蕩が開始され正午に至つてひとまづ占領は完成した。
兵は到るところで火を焚いて服を乾かし、火のまはりにごろごろ と横になって眠った。

蘇州、常熟を放棄した敵はすべて西に走って無錫の堅陣に據つた。
人口二十萬の城市、農産物と生繭との集散地、大運河と京滬鐵道とによる交通の要地、
そして南京攻略戦の重要な防禦地點でもある。
二十日、海軍の航空は友軍の頭上を通過して無錫の敵陣地に痛烈な爆撃を加へた。
地上部隊の攻撃は二十一日から開始された。
蘇州から追撃してきた友軍は望亭から長靡して京滬沿線を進み、常熟から進んだ西澤聯隊その他はクリーク地帯をわたつて東から迫った。

敵陣はコンクリートのトーチカと掩蔽壕とによつて堅固な守りをかためてゐた。 
古家中隊の戦闘は午後からはじめられて塹壕の第一線を奪った が、
小銃と機銃とを敵に向けたまで戰線は黄昏れてきた。
敵の守りは堅くなかなか突撃にうつるまでの態勢ができなかった。
そして暗くなりはじめるにつれて両方の銃火はまばらになり、戦局は一段落のかたちになって行った。

稲を刈ったあとの何も生えてない畠が平につづき、民家がその間に點々と低い屋根を置いてゐた。
家々の裏手には必らず掘割りがあつてクリークの水がそこまで流れこんでゐた。
遠くに無錫の低い城壁がまつくろく連なってその上の空が廣重の版畫のやうに靑かつた。
ふりかへつて見ると過ぎてきた職場では看護兵の姿が、横たはつてゐる戦死者を探してはその場に佇み手を合はせて冥福を祈ってゐる片山従軍僧のずんぐり肥った姿もそれと見分けられた。

 

 

 

・・・

倉田少尉と平尾、近藤一等兵と機銃分隊の笠原伍長とが鐵兜をならべて煙草を喫つてゐる壕のそばに一軒の平たい農家があった。 
屋根は砲弾に打ちぬかれ扉は土間に倒れ裏の菜園はふみ荒されて、この家の中から女の泣き聲がしてゐた。
銃聲の止んだあとになってその聲は急に兵士の耳につきはじめた。
「何だ、女が泣いとるぜえ」と女好きな笠原伍長が言った。 
「姑娘だぞ!」
「可哀相にな」
「母親がな、彈丸を喰ってまゐつてるんだよ。十七八のクーニだ」
「いい娘かい?」と一人の兵が言った。
「まだ泣いてやがる」 
平尾一等兵は小さなで呟いた。
「うるせえっ!」
「あいつ、殺すんだ!」
平尾一等兵はさう言ひすてて銃剣を抱いたま低くなって駆けだした。
「えい、えい、えいっ!」
まるで気が狂ったやうな甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもつて女の胸のあたりを三たび突き貫いた。
他の兵も各短剣をもつて頭といはず腹といはず突きまくった。
ほとんど十秒と女は生きては居なかった。

笠原伍長は壕の底の方に胡坐をかいて煙草を喫ひながら笑ひを含んだ聲で呟いた。
「勿体ねえことをしやがるなあ、ほんとに!」

・・

 

さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもつひに城門をぬくまでには至らなかった。 
西澤聯隊はこの日聯隊旗手を失った。
弾丸は彼の左胸部をつらぬき、擔架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。
戦闘は夜を徹して行はれ、翌廿六日の朝になつてやうやく無錫は攻撃軍の手に陥ちた。 
永い戦ひに疲れ切った兵は市街の家々を占領し市民たちのベッドにもぐりこんで眠った。
友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向ひ、西澤聯隊は無錫にとどまつて三日間の休養をとつた。

生き残ってゐる兵が最も女を欲しがるのはかういふ場合であつた。
彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまはり、兎を追ふ犬のやうになって女をさがし廻った。 
この無軌道な行爲は北の戦線にあつては厳重にとりしまられたが、ここまで来ては彼等の行動を束縛することは困難であつた。
彼等は一人一人が帝王のやうに暴君のやうに誇らかな我儘な氣持になつてゐた。
そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家までも出かけて行った。
そのあたりにはまだ敗残兵がかくれてたり土民が武器を持つてゐたりする危険は充分にあったが、
しかも兵たちは何の逡巡も躊躇も感じはしなかった。
自分よりも強いものは世界中に居ないやうな氣持であつた。 

 


聯隊の大行李はまだ上陸してゐない、漸く上海に近づいたくらゐの頃であった。
従って前線の部隊は後方の輸送をあてにすることはできず、
物資はすべて現地で微して間に合はせるより仕方がなかつた。
米や野菜には比較的こまらなかったが、一番ひどく缺乏したのは調味料であつた。
最も缺乏のはなはだしかったのが無錫滞在のあひだであった。

聯隊本部の炊事當番は茶碗に一杯ほどの白砂糖の使ひ残りを大事に持つてゐた。
武井は腰の短剣を引きぬくと一瞬の躊躇もなしに背から彼の胸板を突き貫いた。
青年は呻きながら池の中に倒れ、波紋は五間ばかり向の近藤が米をといでゐる岸にばさばさと波をうつた。
「何をやったですか」
「ふてえ野郎だ、聯隊長殿にな、やつととつてあった砂糖を盗んでなめやがったんだ」
「はあ」 
近藤は飯盒をぶら下げたま水に浮いてゐる背中を眺めてゐた。
上等兵は足どりも荒々しく帰って行った。
それにしても一塊の砂糖は一人の生命と引きかへられるのである、と。
またしても生命とは何ぞやであった。

 

 

 

無錫を出する朝、兵士たちは自分等が宿した民家に火をはなつた。 
といふよりも火を消さないであとから燃え上ることを期待して出したものが多かった。
それは二度とこの町へ来ないといふ覚悟を自分に示するでもあったし、 
敗残兵が再びこに入ることを防ぐ意味もなくはなかった。
更に、この市街を焼きはらふことによって占領が最も確実にされるやうな気もしたのである。

 

ふり向いて見ると無錫の空は黒煙が渦巻き立つていた。
燃えあがる炎は吹きすぎる風のやうな音をたてて遠くまで聞こえて来るのであった。
人口二十萬の都市無錫は、大部隊が出発して行つたあとには極く小人数の警備兵が残つてゐるばかりで
殆んど住民の影も見らず、炎は燃えあがるまに辻から辻、町から町へとひろがり
そして自然に消えて行くのであった。

この日部隊は道に沿うて行軍した。
南京へ、南京へ!
南京は敵の首都である。
兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗つとることは決定的な勝利を意味する。 
彼等は退屈しなかつた。

 

 

・・・

つづく

「生きている兵隊」事件  

 

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花と龍  (福岡県若松港)

2024年07月04日 | 旅と文学

著者・火野葦平は、本名・玉井勝則さんで、
この本に「勝則」として登場する。
父の名は玉井金五郎氏で、本名で登場し、小説の主人公。

小説には人も会社も、ほぼ実名で書かれていて、若松港の生の歴史を見るようだ。
洞海湾は製鉄、石炭が集約する日本を代表する繁栄地だった。
主人公の金五郎は沖仲士の労働条件向上に義侠心をもって闘った。

そんな父のことを火野葦平は書き残し、伝えたかったのだろう。
小説には親族で、アフガニスタンで亡くなられた故・中村哲氏家族も登場している。
中村さんにも洞海湾の金五郎と同じ血が流れているのだろう。

 

 

 

・・・

旅の場所・福岡県北九州市若松区 
旅の日・ 2015年2月20日  
書名・花と龍
著者・火野葦平
発行・岩波文庫 2006年発行

・・・

 

 


その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、
「実二、実二、腹が立ツ」
と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。
(一体、どうすればよいのか?)
的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。
金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。
-三菱炭積機建設問題。

その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、
「実二、実二、腹が立ツ」
と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。
(一体、どうすればよいのか?)
的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。これまで、どんな事態に対処しても、
熟慮して判断を下せば、強い意志力と、なにものにも屈しない実践力とで、すべてのことを解
決して来た。それなのに、 今度の問題は、金五郎を当惑させる。昏迷させる。
(おれは、馬鹿じゃ)
と、自信を喪失する気持にさえなるのだった。
金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。
-三菱炭積機建設問題。
この文字は、一年間以上も、前の日記に、いたるところ、散見している。
前年四月、上京したときには、三菱本店を訪問した。
四度も行ったのに、四度とも玄関払いを食わされた。

この 問題は、年が改まってから、にわかに表面化した。
「洞海湾における数千の石炭仲仕は、石炭荷役をすることによって、僅かに、生きている。 
然るに、次々に、荷役は機械化されて、仲仕の仕事は減少した。
仲仕の生活は、貧窮の底に叩き落された。
このうえ、またも、三菱炭積機が建設されるということは、そのまま、仲仕の飢 餓と死とを意味する」

この明瞭な道理によって、反対運動が起されたのである。
それが、うまく運ばない。
立ちふさがる暗黒の壁の中に、金五郎は、この親分の鋼鉄の顔を見るのであった。
(友田喜造と、いよいよ、最後の対決をせねばならんときが来た)

四月七日小頭組合総会。
この日に、三菱問題は、まったく新しい展開をしたのであった。
金五郎は、組合長として、悲痛な宣言をした。
「昨今のような状勢では、もはや、現在数の仲仕や、小頭は、必要ありません。餓死を脱んとしますなれば、大部分の者は、長年馴れ親しんだ仕事に訣別して、転業するの一途です。 
すべては機械のためです。
しかし、それは今度の三菱機だけのためではありませんから、荷主全体、つまり、石炭商組合から、救って貰う外はありません」
このため、小頭組合として、三菱、三井、麻生、住友、貝島、その他を含む「若松石炭商同業組合」に対して、
転業救済資金、二十五万円を要求する決議がされたのであった。
沖仲仕労働組合も、全面的に、これに同調した。
歎願書が作製された。
ところが、その役目を引きつけたのは、友田喜造であった。

 

 

洞海湾の水の色が、梅雨に濡れた後、やがて、夏雲を映すようになった。
戸畑側の新川岸壁には、三菱炭積機が、着々と、工事を進められた。
港には、なにごともないように、日夜、船舶が出入した。
聯合組の隣りに、「若松港汽船積小頭組合」の事務所がある。
その看板とならんで、三倍も大きな、「争議本部」の新しい板札がかかげられた、小頭組合の裏にある「玉井組詰所」の二階に、「若松港沖仲仕労働組合」の看板がかかっている。赤地に、スコップ、雁爪、櫂を組 みあわせて図案化した組合旗が、ひるがえっている。明治建築の名残りをとどめている「石炭商組合」の事務所は、そこから、一町とは離れていない。
これらの建築の間を、このごろは、 連日、あわただしげに、多くの人々が右往左往し、殺気に似たものがただよっていた。 

「この争議はどうなるとじゃ?」
「石炭商が強硬で、てんで、話にならんらしいわい」
「資本家は、おれたちゴンゾが乾干しになろうが、のたれ死にしようが、なんとも思わんのよ。痛うも、痒うもねえとじゃ」
「人間と思うちょらん」

 

 


翌朝、いつもと同じように、機嫌よく、子供たちと、朝食をした。
「お父さんの作夜の「ゴンゾ踊り」、面白かったわ。また、見せてね」
御飯を食べながら、女学生の繁子がいった。 
里美も同意見とみえて、姉といっしょに、父の顔を見た。
金五郎は、にこにこと、踊ってみせる。
「勝則」
金五郎は、息子を呼んだ。
「はい」
「今日は、十時から、争議本部で、小頭組合の評議員会をすることになっとる。お前も行っといてくれ。
無論、おれも行くが、もし、行かなんだら、万事、お前 が処理をしてくれ。ええな?」
「承知しました」
八時すこし前、金五郎は、「小頭組合」の半纏を着て、家を出た。
今日も暑そうな上天気らしい。
すでに、入道雲が純白の頭だけを、高塔山の背後にのぞかせている。
安養寺に寄った。
墓地に行った。
「玉井家累代之墓」と彫られた、花崗岩の墓標の前に立った。合掌した。

 

 

・・・

 

 

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「国史」神武天皇  (岡山県笠岡市)

2024年07月02日 | 旅と文学

笠岡諸島の高島は、映画「釣りバカ日誌」で浜ちゃん・スーさんのロケ地になったほどに、
瀬戸内海に浮かぶきれな小島。
本土からは料金180円での8分間の船旅で到着する。
かつては石材産業が盛んで、今は漁業やリゾート・ペンションが人気の島。

高島が一番沸いたのは、皇紀2600年記念祝賀の前。
初代天皇が数年間滞在した”高島”で注目された。
騒ぎは一瞬で終わり、敗戦によって更に忘れ去られた。

 

 

 

・・・

旅の場所・岡山県笠岡市高島  
旅の日・2020年11月30日
書名・国定教科書「尋常小学国史 上巻」
著者・文部省
発行・1934~1940
資料・「ニイタカヤマノボレ1208」 岩崎書店 1995年発行

・・・

 

 

・・

「尋常小学国史 上巻」 (小学校五年用)

 

第二 神武天皇

瓊瓊杵尊から神武天皇の御時にいたるまでは、
御代々、日向においでになって、わが国を治めになった。
けれども、東の方は、なおわるものが大勢いて、たいへんさわがしかった。
それ故、天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、舟軍をひきいて、
日向から大和(いまの奈良県)へお向かいになった。
そうして、途中ところどころにお立寄りになり、そのあたりを平げつつ、
長い間かかって難波(いまの大阪府の一部)におつきになった。

天皇は、河内(いまの大阪府の一部)から大和へお進みになろうとした。
わるものどものかしらに長髓彦というものがいて、地勢を利用して御軍をふせぐので、
これをうち破って大和へおはいりになることは、むずかしかった。
そこで、天皇は、道をかえて、紀伊(いまの和歌山県)からおはいりになることになった。
そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かったので、ひととおりの苦しみではなかった。
しかし、天皇は、ますます勇気をふるいおこされ、
八呎鳥を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、とうとう大和におはいりになった。

 

天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになった。
しかし、長髄彦の手下のものどもが、いっしょうけんめいに戦うので、御軍もたやすく勝つことが出来なかった。
時に、空がにわかにかきくもり、雹が降り出した。
すると、どこからともなく金色の鶏が飛んで来て、天皇のお持ちになっている御弓のさきにとまって、きらきらと強くかがやいた。
そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦うことが出来
なくて、まけてしまった。
長髓彦も、まもなく殺された。

やがて、天皇は、宮を畝傍山の東南にあたる橿原にお建てになり、はじめて御即位の礼をおあげになった。
この年をわが国の紀元元年としている。
そうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、国民はこぞって、この日に紀元節のお祝いをするのである。

天皇は、また御孝心の深い御方で、御先祖の神々を鳥見山におまつりになった。
かように、天皇は、天照大神のお定めになったわが帝国の基を、ますます固めて、おかくれになった。
そのおかくれになった日に毎年行なわれる御祭は、四月三日の神武天皇祭である。

 

 

・・・

 

 

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「国史」天照大神  (岡山県備中神楽)

2024年07月02日 | 旅と文学

戦前の小学生でも、神話をほんとの話とは信じていない、
ただ先生の授業を黙って聞いていたのだろう。
たぶん、そのことに触れるのはタブー。疑問を感じないことにする。
先生も質問を受けない・答えない。
おしえる方も、ほんのいくらか抵抗があったことだろう。

 

でも信じていた人がいたかもしれない。
今でも皇紀を信じる人がいるから。
そういう人たちは「天皇陛下のご先祖は天照大臣(女性)である」
ことを、
まさか知らんことはないだろうな。

 

 

(画像はすべて素戔鳴尊です)

 

・・・

旅の場所・岡山県笠岡市甲弩 ”備中神楽”  
旅の日・2023年10月15日 
書名・国定教科書「尋常小学国史 上巻」
著者・文部省
発行・1934~1940
資料・「ニイタカヤマノボレ1208」 岩崎書店 1995年発行

・・・

 

 

「尋常小学国史 上巻」 (小学校五年用)

第一 天照大神

天皇陛下の御先祖を、天照大神と申しあげる。
大神(おおみかみ)は御徳のたいそう高い御方で、
はじめて稲や麦などを田畑にうえさせたり、
蚕をかわせたりして、
万民をおめぐみになった。

大神の御弟に、素戔鳴尊という御方があって、たびたびあらあらしい事をなさった。
それでも、大神は、いつも尊をおかわいがりになって、少しもおとがめになることはなかった。
しかし、尊が大神の機屋(はた織りの小屋)をおけがしになったので、
大神は、とうとう天の岩屋に入り、岩戸を立てて御身をおかくしになってしまった。

大勢の神々は、たいそう御心配になった。何とかして大神をお出しそう、
岩戸の外に集まって、いろいろ御相談の上、
八坂瓊曲玉や八呎鏡などを榊の枝にかけて、神楽(神を祭るときにする音楽)をおはじめになった。その時、天鈿女命のまいの様子がいかにもおかしかったので、神々はどっとお笑いになった。
大神は、何事が起こったのかと、ふしぎにお思いになり、少しばかり岩戸をお開きになった。
すぐさま、神々は榊をおさし出しになった。
大神の御すがたが、その枝にかけた鏡にうつった。
大神は、ますますふしぎにお思いになり、少し戸から出て、これを御らんになろうとした。
すると、そばにかくれていた手力男命が、大神の御手を取って、岩屋の中からお出し申しあげた。神々は、うれしさのあまり、思わず声をあげて、およろこびになった。

 


素戔鳴尊は、神々に追われて、出雲(いまの島根県)におくだりになった。
そうして簸川(ひのかわ)の川上で、八岐の大蛇をずたずたに斬って、これまで苦しめられていた人々をおすくいになったが、
この時、大蛇の尾から一ふりの劔を得、これはとうとい劔であるとて、大神におさし上げになった。
これを天叢雲剣と申しあげる。


素戔鳴尊の御子に、大国主命という御方があった。
命は、出雲をはじめ方方を平げられて、なかなか勢いが強かったが、
その他の地方は、まだまだわるものが大勢いて、さわがしかった。
大神は、御孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国を治めさせようとお考えになり、
まず御使いを大国主命のところへやり、その地方をさし出すようにおさとしになった。
命は、よろこんで大神のおおせに従った。


そこで、大神は、いよいよ瓊瓊杵尊をおくだしになろうとして、尊に向かい、
「この国は、わが子孫の王たるべき地なり。汝皇孫ゆきて治めよ。
皇位の盛なること、天地と共にきわまりなかるべし。」とおおせになった。
万世一系(ばんせいいっけい)の天皇をいただいて、
天地とともにいつの世までも動くことのないわが国体の基は、実にこの時に定まったのである。


大神は、また
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)
を瓊瓊杵尊にお授けになった。
これを三種の神器と申しあげる。
尊は、この神器をささげ、大勢の神々を従えて、日向(いまの宮崎県)へおくだりになった。
これから神器は、御代々の天皇がおひきつぎになって、皇位の御しるしとなさることになった。


大神は、神器(じんぎ)を尊にお授けになる時、
「この鏡をわれと思いて、つねにあがめまつれ。」とおおせになった。
それ故、この御鏡を御神体として、伊勢の皇大神宮に大神をおまつり申し、
御代々の天皇をはじめ、国民すべてが深く御うやまい申しあげているのである。

 

・・・

 

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「絶唱」葬婚歌  (鳥取県桝水高原)

2024年06月29日 | 旅と文学

日本レコード大賞歌唱賞「絶唱」の歌詞は、詩人西條八十さんでないとありえない、
という程に小説を短い言葉であらわしている。


愛おしい 山鳩は
山こえて どこの空
名さえはかない 淡雪の娘よ
なぜ死んだ ああ 小雪

 

・・・


旅の場所・鳥取県西伯郡伯耆町・桝水高原  
旅の日・2020年10月27日  
書名・絶唱
著者・大江賢次
発行・河出書房新社 2204年発行

・・・

 

順吉はシベリアに拘留されていた。
順吉はラーゲリで2年間を過ごしていた。

 

 

 

第三章 葬婚歌

終戦の翌々年になっても、待ちに待った園田順吉は復員して来なかった。
小雪がついに寝ついたのはその夏だった。
その秋、園田惣兵衛が脳出血で、突然亡くなった。
主人の急死にあって、山番の老夫婦ははじめて小雪を見舞った。
それまで律義でもの堅い山番は主家をおもんばかって動じなかった。
いま、その封建の扉がやっとひらかれたのだ。


小雪の名にふさわしい冬が山陰地方に訪れて、チラリチラリと雪花が湖面に舞うころ
――園田順吉はシベリヤから復員してきた。
七年ぶりだった。七年前の小雪はあどけなさのただよう小娘であったが、
いま見る小雪はまるで別人の、老婆のようにやせさらほうてしまって、明日知れない重患にあえいでいるのだ。
七年間――ああ、云いようもない残酷無比な歳月だった。
小雪はちょっとためらった後で、
「.........七年ぶりでお帰りになったのに、私、けえ、病気でごめんなさいな」と、妻としての千万無量の想いをこめて、ソッとわびた。
「七年ぶりだのに・・・・・・ほんとにかんにんして」
「いいとも、いいともさ小雪、よくなれば何だって埋合せがつくじゃないか」
順吉は林檎の汁をしぼりながら、凍傷あとのまだらな顔でおだやかにいたわった。
しぼった果汁を吸呑にいれて、咽せないように少しずつのませてやると、
「ま、おいしや、私の胸ン中のあなたは話すだけだったに、やっぱり、ほんとのあなたに甘えていいかしらん?」


小雪が息をひきとったのは、永いきびしい冬が終りをつげて、どことなく忍びやかに春が近づいてきたころだった。
「山へ帰ろう!」
「小雪、おれの家へ帰ろう、もう誰もはばかることはないんだ、いいだろう?」
この瞬間の、小雪の表情ははげしいものだった。
最愛のひとの言葉を信じかねたふうに、しばらくぼんやりとみつめていたが、やがて、順吉の真意をコクリとうなずくと、
「私、ほんとは、いままで・・・・・・妻とは思っていなかったけに」
と、云ったかと思うと、 はじめてさめざめと泣いた。
そして、そのまま息をひきとったのである。


園田順吉は、これまた呆然と、最後の小雪のことばを信じかねたふうであったが、小雪をゆすぶりつけて、
「やっぱり園田家を気にしていたのか、かわいそうに・・・・・・なあ小雪、お前は僕のりっぱな妻だぞ! 
いいか小雪 日本一の妻なんだぞ!」
「おい大谷、小雪の婚礼 と葬式を一緒にやろうと思う」と、力づよく告げたではないか。
順吉はついに小雪に見せないでしまった大粒の涙をこぼした。

 

「西河克己映画記念館」


僕は小雪の墓穴を掘りながら、シベリヤの極寒を思いだした。 
収容所で日ごとに、捕虜の戦友たちは栄養失調から死んだ。 
零下三十度、屍はカチカチに凍てついた金属性の音をたてた。
僕たちは同様に凍てついた密林の大地を、ちびた鶴嘴でどんなに苦労をかさて墓穴を掘ったことか。
下手をすると墓穴を掘る方も凍傷でやられるのだ。
僕は、.....ラーゲルの、
あの金属性の音をたてる屍の始末をいつまでも忘れないだろう。 

「小雪!小雪!おうい小雪よう!」と、僕は呼んだ。
それから、なかばもの狂わしそうに小雪の墓標にしがみついて、頬ずりをしながら脚がズルズルとくずれ折れてひざまずくと、土饅頭のぬれた地面へ顔をおしあてて・・・・慟哭した。
このとき、もろもろの僕にまつわりついて、悩み煩わした瑣末な雑念がケシとんで、虚飾のみじんもないただあるがままの園田順吉が、赤裸々にノタうっていた。 
すでにいま、つねづね醜態ときめて抑制していたこの慟哭のふるまいも、かくしだての ない本然の美点となって光耀とかがやき、
まことに単純な愛しいひとを哀悼するこの涙にいっさいが洗い浄められて、もはやメフィストのしのびこむいとまもない--
僕は人間らしい、人間にひたりきっていた。・・・・

 

・・・


「夫が妻の墓穴を掘った」
という事や話は、管理人も見たり聞いたりしたことが一度もない。
小説ゆえだろうか。

 

 

 

「絶唱」は何度も映画化された。
社会派映画としてでなく、純愛映画として。


有名なのは、
小林旭・浅丘ルリ子。
舟木一夫・和泉雅子。
三浦友和・山口百恵。


管理人は舟木一夫・和泉雅子の映画を観に行った。
映画のラストでは観客全員がお決りのように泣いていた。

その頃、
純愛とは”死”が必須条件だった。
「愛と死を見つめて」
「わが愛を星に祈りて」
「絶唱」
どれも、愛し合う片方が死んでいった。
当時高校生の管理人は、
商売ッヶがあるなあ、とは感じながらも楽しんでいた。

・・・

 

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