しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国鉄井原線に赤信号

2020年08月31日 | 昭和51年~64年
国鉄井原線は総社~神辺間で、昭和41年に工事着工。
当時は矢掛~神辺間は井笠鉄道が営業中、赤字のため昭和42年の営業廃止も決定していた。
その頃は日本中で、路面電車や軽便の事業廃止のど真ん中で、国鉄が事業を始めたのは正気の沙汰とは思えなかった。
事実当時の国鉄は採算無視の国営会社だった。

それにしても
よくまあ井原線は、第三セクターとはいえ開業できたのものだ。
そして今日まで無事営業をつづけている。




(井原鉄道・小田~早雲の里荏原駅間 2015.4.3)

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国鉄井原線に赤信号

ニュー井原新聞・縮小版 昭和54年?月?日


今月初旬頃、運輸省が財源難を理由に、現在建設中の地方線を、原則として中止するとの方針を打ち出した。
建設期成同盟会長の小野井原市長を陣頭に、沿線の役員首長が相並んで上京した。

現在建設中の線は41線。
建設続行のメドは、一日一キロ当たりの輸送密度が四千人とされている。
これに合格するのは茨城県の鹿島線、愛媛県の内山線の二線だけといわれる。

しかし岡山県と鳥取県を結ぶ智頭線が3900人、これに次いで井原線は3800人と見込まれている。
井原線の場合,辛うじて存続が可能なのでは?
というのが期成会の感触のようである。

勿論これには、沿線市町の用地供与、工事進捗に対する全面協力などとともに、関係当局に対する間断のない強力な運動が必要不可欠、との前提がついている。

国鉄井原線は、昭和41年5月、神辺~総社間40.8キロをめざして着工したものだが、
現在用地の買収率68%、路線完成率44%。

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風船爆弾の矢掛小田工場・・・その2

2020年08月31日 | 昭和16年~19年
ニュー井原新聞・縮小版 昭和55年2月20日


冨士ベークが35周年記念式典
小田小へ50万円 芳井中へ350万円贈る


冨士ベークライト(株)では、創業35年の記念式典を、2月2日矢掛町小田の同社本社で挙行した。
あいさつに立った藤井社長は、

「当社の淵源は、先代が天産物商だったことから、戦争末期コンニャクから風船爆弾を造るため、昭和19年8月矢掛町小田の乾けん場跡に工場を設けたことに始まる。
然しこの風船爆弾に疑惑をもった軍により、翌20年1月には生産を中止、2月から三菱電機(株)福山製作所の疎開工場として、航空部品の製造を開始したが8月終戦により軍需品の生産中止、
同年10月、同製作所の平和産業への切り替えに伴い、専属工場として、積算電力計の部品を製造するようになった。
自今幾多の辛酸と風雪に耐え、特に昭和39年11月には、兄昇社長が疲労困憊から急逝するなどの痛手にも見舞われたが、
従業員並びに協力工場の皆さん、それに三菱電機の並々ならぬお力添えにより、今日の発展をみたことは、感謝と感激にたえない。
私は不敏な者だが皆さんと共に今後も精いっぱい努力する所存なので、何卒ご協力願いたい」、と決意の程を披歴した。

これに対して、上原同社労組委員長が、
「いまや業界で五指に入る優秀な会社に成長したことは、偏に労使の信頼関係と、社長の手腕人徳である。
この円満な会社の気風を大切に育て、会社と従業員が一体となって発展するよう努めたい」と誓いのことばを述べた。

藤井社長は、35周年を記念して、芳井中学校視聴覚教育機器の購入費に350万円、小田小学校の新築費助成金として50万円をそれぞれ寄贈した。
なお同社は、芳井、美星に分工場を持ち、従業員は265人。



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「しらべる戦争遺跡の事典」 十菱・菊池編 柏書房 2002年6月発行


大津風船爆弾放流地跡
アメリカ本土を攻撃した奇抜な発想の兵器


敗戦が色濃くなった1944年11月、アメリカ本土を直接攻撃する兵器を発射していた基地があった。
「ふ」号作戦と呼ばれ「風船爆弾」を放球していた主力基地が大津風船爆弾放流基地跡である。
1944年8月、五浦から平潟、通称長浜の土地を陸軍が借り上げ、周辺の住民は基地造成の工事に動員された。

その後、放球の大隊が到着して秘密基地となった。
基地周辺を通過する際には常磐線の列車の窓を覆って走り、住民に対しても厳重な注意がなされていた。

風船爆弾の基地は勿来・大津・一宮の合計3ヶ所であった。
晩秋の11月から翌年の4月まで合計9.300個撃ちあげられた。
この時期、アメリカ本土に向かって吹く偏西風に乗って風船爆弾は50時間で到着する計画であった。

1945年4月、東京大空襲の影響も絡み、風船爆弾の資・機材の補給は完全に不可となり、
風船爆弾の役割は終わり、8月15日の無条件降伏の夕刻から「ふ」号作戦のすべての証拠資料を一切焼却し、隊員の早期解散が命ぜられた。
気球は焼却され、大津基地の水素発生工場も破壊された。

1945年9月19日、連合国の細菌兵器の研究をしていた調査チームに風船爆弾の製造責任者が呼ばれ、経緯と実態の査問を受けている。
もちろん細菌搭載の風船爆弾としてのアメリカ本土攻撃に関する重大な嫌疑であった。

風船爆弾を研究開発した旧陸軍登戸研究所の役割も含め,
戦後の今日になってもこの風船爆弾の全貌は明らかにされていない。

現在、大津基地の跡には誤爆事故で亡くなった兵隊供養の『鎮魂碑』が建ち、
アメリカのオレゴン州で亡くなった6名の方々の慰霊の言葉をも織り込んだ『わすれじ平和の碑』が建っている。


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九軍神・・・その2

2020年08月29日 | 昭和16年~19年
「軍神」  山室建徳著  中公新書 2007年発行



九軍神の葬儀

九軍神の葬儀は、四度目の大詔奉戴日である昭和17年4月8日に行われた。
特別に日比谷公園に式場を設けて、合同葬儀が挙行されている。
遺骨は無いから遺品を安置した砲車が先頭になり、遺族がこれにつき従った。
「市民は脱帽している、泣いている、みんな泣いている、どうして泣かずにいられよう、若くして散った真珠湾の華、殉忠壮美の九軍神の心根こそ一億国民感激の的なのだ。
『よくやって下さった有難う』という気持ちが胸底からぐんと突き上げてきてどうにも抑え切れぬこの涙なのだ」という涙の情景が広がった(東日4月9日)。
葬儀では嶋田海相嗚咽のため絶句いくたび。
永野修身軍令部長、東條英樹総理大臣らの弔辞が続いた。
一般市民群衆はその数実に十数万、感動の人群れはいつまでも立ち尽くしていたのだった。
この葬儀については、「東京日日新聞」古屋信子が、「読売新聞」に吉川英治が参列記を載せている。
古屋信子
「これが、もし米国や英国だったら花輪を山積みした柩車、表情たっぷりの人々、むやみと感情をそそる音楽、あらゆる芝居気の儀礼が劇的シーンを展開させたであろうに、
ーーーー
われら日本人は、違うのである。
だから,九軍人は此の国に生まれたのである。」
素朴な日本と表情豊かな米英という比較は、精神の日本と物質の英米という対比とそのまま重なり合う。
吉川英治
「神代も決して遠くはない。
今日もまた二千年の後には神代である。
岩佐中佐その他の軍神は、正に千載の後にまで、偉大なる幸と誇りと、そして国民のあいだに『死なざる生命』の訓えを遺している」のである。
九軍神は死んではいない。
和気清麻呂、楠公父子、吉田松陰、そして広瀬中佐や佐久間艇長らとともに、彼らは日本国民の中で生きている。
「もしこの諸魂の死ぬ日あれば、それは日本の土も枯れる日でなければ死なぬ」のだ。
「岩佐中佐、あなたは何という日本一の孝行息子なのだ」
こうして、国家への忠義と親孝行とが同じ意味あいを持つことになる。

自己犠牲がすべての行動の大原則となった。
自らの信奉する「正義」で、敵は叩き潰す「悪」であった。
九軍神は誰でも覚悟さえできれば似た行動をとれるはずである。
九軍神とその母親は、日本の男性と女性それぞれに対して自己犠牲の模範を示す存在となった。


最初の特別攻撃隊

九軍神には、これまでにない特徴があった。
これ以前の軍神の死はみな戦友たちに目撃されている。
九軍神の場合は状況がまったく分からず、遺骨もない。
はたして5隻のうち何隻が真珠湾侵入に成功し、何隻が魚雷を発射できたのか、どれほどの戦果があったのか、といった点が論じられることはなかった。
しかも、捕虜が出たために、潜航艇が何隻だったのかも当局は明言しなくなった。
戦果が検討されなかったのとは対照的に、九軍神の人となりや出撃直前の様子が掘り起こされ、大きな感激を呼び起こした。
極めて精神的に語られたのである。
九軍神は正式には「特別攻撃隊」と呼ばれた。
戦争末期に数千名の若者が命を捧げた特攻作戦のお膳立ては、すでに開戦時にできあがっていた。


シドニー湾攻撃

特殊潜航艇による攻撃は、昭和17年5月31日にも行われた。
その後戦死者は10名であったことを海軍省は発表した。
二度目の特別攻撃のため、一般に「軍神」と呼ばれることはなかった。

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九軍神・・・その1

2020年08月28日 | 昭和16年~19年
「軍神」  山室建徳著  中公新書 2007年発行



九軍神誕生
昭和17年(1942)3月7日の各新聞は、一面のすべてを割いて、前日に大本営から発表された真珠湾攻撃での特殊潜航艇の作戦の詳報を掲載した。
真珠湾攻撃に特殊潜航艇が参加していたことは、10日後の大本営海軍部がすでに発表していた。
そこには「警戒厳重を極むる真珠湾内に決死突入し、少なくとも戦艦アリゾナ型一隻を轟沈したるほか大なる戦果を挙げて敵艦隊を震駭せり」とある。
この時、国民は知ったのである。
「我が方の損害」は攻撃機29機と特殊潜航艇5隻が挙げられていた。




(「甲標的」江田島市 元・海軍兵学校 2013.1.15)


特殊潜航艇

特殊潜航艇はどんなものか公にされていなかった。
潜水艦育ての親・末次大将も、
「特殊潜航艇がどんなものか僕にもわからない。
しかしアリ一匹も通さない真珠湾港口をくぐり港内ふかく突入し、
万死あって一生さへないところへ彼らは飛び込んでいったのである。
大君のしこのみ盾でなくてどこの国の人間が出来るわざか」と賞賛する。
死を強要する作戦だったのでなく、参加者たちはそもそも生還など眼中になかったというのである。
「殉忠無比の攻撃精神は、実に帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せしるもの」と結ばれている。
気なるのは、5隻と公表されていた潜航艇の数に、まったく言及していない点である。


九軍神一捕虜

海軍省は大本営発表と同時に「九勇士」の名前を発表している。
生前の階級別にみると
大尉1、中尉2、少尉1、一等兵曹2、二等兵曹3で、
将校が4名、下士官が5名である。
当時の日本で軍人が捕虜になることは、たいへんな不名誉なことであった。自決してくれることを願ったかもしれないが、生き延びて戦後帰国している。(平成11年死亡)
しかし輝かしい九軍神と屈辱的な一捕虜という組み合わせは、絶対に認められない事態である。
このため特殊潜航艇の形態はぼかされたままで、軍神たちの生い立ちや出撃直前の様子といった事柄の方に焦点が当てられてゆく。
3月6日の夜のラジオで海軍大佐が九軍神の詳細を話した。
冷静沈着に出撃、さらに辞世の句『靖国で会ふ嬉しさや今日の空』が紹介された。
強調されたのは、
「自己のより幸福な生活を追求する人生観という米英軍人気質」との戦いで、
「一死奉公の尽忠に燃える大精神」
「戦の神」は、大東亜戦争後の世界永遠の「平和の神」となると展望されている。


戦争理念

東京日日新聞 1942.3.7
「勝敗を定めたるは兵器の優劣に非ずして兵士愛国心の厚薄如何にあり」
菊池寛
楠木正成から明治の軍神までと比較し、
「長時間に亘って死を覚悟は、ちょっと真似のできない本当に尊い気持。
この壮烈さに匹敵する勇士はを過去に求めることは困難だ」
吉川英治
「古今のいかなる純忠にくらべても比すべきものなし」
「勇士を生んだ母なる人々にも掌を合わせたい心地がします」
百年後までを見通すと
「世界人から平和の軍神として仰がれる日がある」だろうという。


偉大なる母たち

朝日新聞 1942.3.12
小楠公の母、吉田松陰の母,乃木将軍の母らと同じように「この母人の大いなる尽忠、愛国の血」が育てた。
「暁から楮の皮剥ぎ」「笈を背に力仕事」「夫を説き伏せ中学へ」「星空に痩田を耕作」といった見出しが並んでいる。
子供のために全部を無条件に捧げつくす。
軍人が国家のために捧げつくすのと、いささかも変わりない。
「自分の子供」だからでなく「国の子供、陛下の子供」なのだ。

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歌謡界の王者 美空ひばりが来井

2020年08月25日 | 昭和41年~50年

ニュー井原新聞・縮小版 昭和47年11月1日


歌謡界の王者 美空ひばりが来井
賑やか晩秋の興行街






百年に一人出るか出ないかといわれる、不世出の天才歌手、
戦後二十数年間、常に歌謡界のトップにすわり続けてきた大御所、
近来益々その貫録に重みをつけてきた世紀のアイドル、
美空ひばりの豪華歌謡ショーが、愈々来月7日(木曜日)井原市民会館でふたあけする。






普通の場合、前座を若手歌手、万才などで半分の時間を費やしかんじんのご本尊の出演は約半分だが、
ひばりの場合、前座は実弟一人だけ。
殆ど一人で歌いまくる二時間余の大熱演で、早くも爆発的人気が起こっている。
公演は昼二時、夜六時の二回だが、前売り券は飛ぶような売れ行きをみせている。
井原市地方での公演は将来二度と不可能と思われる。


また11月11日には、現代日本浪曲界の超一流を集めた、豪華浪曲大会が井原市民会館で行われる。



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大松ママさんバレーボール教室

2020年08月25日 | 昭和51年~64年
1964東京オリンピックでの、”東洋の魔女”を率いて金メダルの”鬼の大松”監督は大スターとなり
「俺についてこい」の本はベストセラーになり、ハナ肇が主演の映画にもなった。

その人気により自民党で参院選挙に出馬、当選と落選。
その扱いぶりはNHKのど自慢の、宮田輝アナとまったく同じ。
使い捨て。

最後は井原市のママさんバレーの際、死亡した。まだ57才だった。


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ニュー井原新聞・縮小版 昭和53年11月11日


大松ママさんバレーボール教室を開催

岡山県家庭婦人バレーボール連盟では、昭和53年11月23日精研高校体育館で、
大松ママさんバレーボール教室を開催する。
講師は、元東京オリンピック日本女子監督の大松博文氏で、
ほかに補助講師として全国家庭婦人バレーボール連盟理事長ほか数名があたる。
受講チームは、井原さくらA、B、井原ママ同好会、高屋ママ、出部ママ、美星ママの六チーム、72人。
講習時間は10時から16時まで。


※管理人記・11月23日夜倒れ、翌24日に亡くなった。

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ボール井原

2020年08月24日 | 昭和41年~50年

ニュー井原新聞・縮小版 昭和45年3月11日


「ボール井原」が発足


株式会社「ボール井原」の設立総会は、昭和45年3月9日井原商工会議所会議室で開かれた。
同会社は遊技場、ボーリング場、食堂喫茶の業務を行う。

井笠鉄道井原駅舎跡に建設される、井笠バスのターミナル二階に、ボーリング場「ボール井原」を開設する。
ボール井原は、約400坪の二階一面に18レーンのボーリング設備を施す。

最近では、商店にお顧客に対するサービスにまでとりいれられるほど、
折角招待した顧客を福山、笠岡方面にまで連れ出さねばならぬという。
一人でも多くの客を集め、多く売りたいという商店街の悲願の現象を見せてきており、
こういった観点からみるとき「ボール井原」の出現は甚大な顧客の吸引力となるばかりか、勤労者、青年・婦人、
また一般市民にとっても、清潔で明るい、健康と娯楽のセンターになることが確実視せられている。





写真はボール井原の完成予想図であるが、正面は現在の駅前通りで、階下約400坪の半分がバス発着場、半分がボール井原駐車場。
鉄道は近い将来廃止の予定だが、廃止が決まるまでは駅舎もこの中に入る。


なお井笠鉄道では、引き続いてこの建物の北側に、現在の井原駅前通りに向けてショッピングセンターの建設を計画しており、両三年を出ずして面目を一新、
岡山市における”天満屋付近”を想はすいん賑の日も間近いわけである。

◎資本金4.000万円(井笠鉄道と地元有志の折半出資)


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井笠鉄道の廃線問題

2020年08月24日 | 昭和41年~50年
井笠鉄道の鉄道事業は、昭和46年3月31日で終えた。


(2016.3.27 笠岡市山口・井笠鉄道祭にて)

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和44年11月11日




井笠鉄道の廃線問題
全体では会社に同情的


井原市議会では、去る昭和44年9月29日井笠鉄道株式会社から、笠岡井原間鉄道の全面廃止について賛同方の申し入れがあったことについて11月5日全員協議会を招集。
井笠鉄道から関藤社長、北村専務、高浦常務ら会社首脳の出席を求め、第一回の話し合いを行った。
関藤社長から、最近の鉄道はバス、乗用車に顧客を奪われ、過去5年間の累積赤字は1億5千万円に達している。

一時はバスの収益によって鉄道の赤字を補填できたこともあったが、近ごろではこれも不可能な状況になった。
ついては笠岡井原間を廃止したいが、廃止と同時に井原笠岡(小田西経由)の運行系統を新設する。木之子、宮の端経由の井原笠岡線を新設する。
バス部門の拡充強化によって、これまで鉄道利用の沿線住民の不便解消に努める旨確約したといわれる。

年間3000万円になんなんとする赤字を背負い込んでいる会社側には、各議員とも等しく同情の声が強い。
強い反対運動をしている木之子地区住民の、ある程度の納得いく対案が示されれば、廃止に賛成はやむなしのようだ。


なお、井笠鉄道は大正2年に開業。
井原、笠岡、矢掛、神辺をつなぐ37キロの沿線地域の、産業、文化、福祉の招来に至大な寄与をしたが、
時代の趨勢には勝てず、昭和42年3月31日には矢掛、神辺線を廃止している。



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奥出雲たたら

2020年08月24日 | 令和元年~
奥出雲の「たたら」跡や「田部家」には、是非とも一度訪れたいと思っていた。
今回三瓶山に行くことになり、それを利用して現在は島根県雲南市吉田町の「たたら・田部家」に立ち寄った。

(訪問日・2020年8月19日)

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(田部家土蔵群)



奥出雲たたらの道を往く「歴史と旅」秋田書店 昭和59年12月号


明治になるまで出雲地方の鉄の生産量は全国の30%を占めていた。

豊かな財力で出雲御三家と称される絲原家、桜井家、田部家の歴代当主は出雲の山奥に文化の花を咲かせていた。





江戸時代の初期には千石船を何隻も所有し、安来港から大坂方面に販売し巨利を得ていた。
江戸中期からの松江藩統制下に入っても、鉄師筆頭頭の地位を占めている。






一つのたたらを経営するには木炭をつくる山林3.300ヘクタールが必要だという。
最盛期の田部家にはたたら7~8ヶ所あったというから、
田部家が日本一の山林王と呼ばれるのもうなずける。




田部家の中心になっていた菅谷高館(すがやたたら)は、吉田町の中心から4キロほど北に行った山間にある。
これは現存する高館としては全国で唯一のものだ。

高館ばかりでなく、元小屋(事務所)、米倉、鉄倉、炭小屋、長屋(従業員住居)など、
いわゆる山内(さんない)と呼ばれる高館を中心とした集落構造を今に残している貴重な遺跡だ。
高館は国の重要民俗資料に指定されており、かつての米倉には、大量のたたら用具が保存されている。
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井笠ボーリングセンターが開場

2020年08月23日 | 昭和41年~50年
井笠ボーリングセンターには2~3度行ったことがある。

大ブームの年が1971年(昭和46年)で、日本中のボーリング場の多くはブームが去る時に竣工した。
井笠ボーリング場は数少ない、良い時にオープンしたボーリング場だ。

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和43年9月21日


井笠ボーリングセンターが愈々開場

期待される健全娯楽の殿堂


(写真は2004.11.7)





井笠鉄道では、かねてから旧本社址(跨線橋西側)にボーリングセンターを建設中であったが、
9月15日同センターに加藤知事を始め地元笠岡・井原両市のほか、周辺郡一帯の各界層の関係者300余名を招いて、
これの開業披露式を盛大に挙行した。

式は、松本井笠鉄道総務課長の司会で始まり、徳田専務の開会の辞、関藤社長のあいさつがあって、小野笠岡市長、木村参議、伊藤県議、石津岡山県ボーリング場協会長らの祝辞のほか、
佐藤総理や、橋本、加藤県選出国会議員た多数の祝電が読み上げられた。
次いで関藤社長がテープ切断のあと、中央レーンでボールの投げ始めを行い、壮厳ななかで、然も和やかに儀式をおこなった。

同ボーリングセンターは、一階をバスの発着場、二階三階に各10レーンのボーリング場を設けているが、
ほかに喫茶コナー、ミーティングルームなど、至れりつくせりの施設を完備しており、超近代的な外観内容は、県西部地域における健全娯楽の、文字通りセンターとしての機能を果たすものと、多大の期待をもって迎えられている。

営業時間は10時~23時 (土日祝日9時~24時)
入場料は、だいたい150円から250円、外に貸し靴券50円、予約料300円となっている。
このほか井笠ボーリングセンター友の会に入会すると、数々の特典がある。
建設費は約2億円、年中無休。




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