しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

映画館の看板屋さん

2019年12月30日 | 昭和36年~40年
映画館の看板屋さん

高校の時、通学路に映画の看板屋があった。
毎朝その看板屋の前を通っていた。
その当時、笠岡に映画館は(島を除き)、大和座・笠岡セントラル劇場・笠岡中央劇場・金星劇場の4館があった。
上映中の映画は、町の何か所にポスターを設置し、毎週ポスターを貼り変えていた。当時は上映は一週間と決まっていた。
看板屋さんが作るのはポスターを見て主人公などを描いて、それを映画館の入場券売り場の上・映画館の出入り口の上に掲げるものだった。
以上は、笠岡だけでなくほぼ全国共通。

映画の衰退で映画館は休館で、看板屋さんは廃業したと思う。
なにしろ、全国の映画館が休館の頃は、日本経済が全盛期を迎える時と重なるので、仕事に不自由はなかった。

一度、笠岡の看板屋さんの話を聞いてみたいと思っていたが、叶わないので本から転記させてもらう。

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「日本懐かし映画館大全」2017年 辰巳出版発行より転記。
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映画全盛期を支えた”映画看板絵師”という仕事

最盛期の頃は、水戸のほとんどの映画館の看板を描いていました。
一番多いときは11館。
忙しくて、映画の券はもらえるんですけど、見にいけなかったです。
大きな看板を持っていくのは大変なので、何枚かに分けて作っていました。
映画看板の構図は、ポスターを見た途端にすぐ頭に浮かびます。
ここへ主役を入れ、わき役はここへ、題はここへ。
難しいのは人の肌色ですね。
人間の肌に近いイメージの色をだしたい。
看板絵は真剣勝負です。
一度描き始めたら、途中描きなおしはできない。
役者も、必ず似させて描く。顔が似てなきゃ商売にならない。
でも、
大勢の人の目に留まるものだから、本当にやりがいがありました。


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後月郡芳井町の暮らし

2019年12月29日 | 暮らし
これは後月郡芳井町宇戸川の昭和10年代のこと。

2019年12月22日、義母の話

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提灯切り(ちょうちんぎり)

春先に筍といっしょに煮物にして食びょうた。
大根を提灯切して竿に干しょうた。
独特の切り方で、
表と裏に二へん切る。
片方は垂直に輪切りして、こんどはひっくり返し半分はななめにして切りょうた。
ほしたら提灯みたいになりょうた。
薄い・厚いがないように包丁がはいっとる。


松根油

30年からうえ経った古い松の根っこには油がいっぱいある。
根が深いけぇ。そこから油をとりょうた。
昭和18年か20年頃はしきりに使わりょうた。
その油が何に使われたかは知らないが、工業用の油に使うようた。


奉安殿

(後月郡芳井小学校には)
分校が、宇戸川と河合と天神と三つあった。
4年まで分校で勉強して、5年生から本校へいきょうた。
宇戸川分校に奉安殿はなかった。本校だけ。
奉安殿の思い出はあんまりない。
後日同級生らと話したが、うちらの学校は、その前でお辞儀をするとか、そんな記憶がない。
式の時には、いつも校長先生が白い手袋をして舞台にあがり
教頭先生からうやうやしく「教育勅語」が入った三宝から手にとり読んでくださりょうた。。



とうふ汁(豆腐汁)

冠婚葬祭、特に葬式の時はお膳につきものじゃった。
ごはんと、とうふ汁と、こうのもの。
今でいう味噌汁でなく、
アブラアゲだけ入れて、あとは青いものをちょっといれたもの。
普通は味噌汁、
ゴボウや野菜を入れておかずを入れて
具のひとつじゃった
とうふ汁とは呼ばなんだ。
豆腐は、
各地区に豆腐屋ゆうもんはあった。
さはんじに食びょうた。
朝早ようから作りょうたんで、お鍋をもっていっちゃあ買ようた。
自転車で売って歩くようになった。
そうこうしょうたら、スーパーができて、小売りはしないようになった。


生魚

お刺身は、「好きな人はお父さんが町へ行っての帰りに買ぅてきた」というんはあったが。
ごく一般は、お客をするときに大きい魚を買うてきてさばいてお刺身を作りょうた。
お祭り、正月、お盆。年に三回ほど。
春さわら。
正月にはブリ。
お祭りはさわら
年に3べんは、どんなうちでもそうしょうた
つなし
このしろ
いづし・・・まんまを詰みょうた。
ままかりは寿司
このしろが多かった。お祭りがほとんどじゃった。
祭りがおもじゃった。


こんにゃく

灰汁(あく)を、蕎麦柄を燃やして水に搗けて凝固剤にしょうた。
こんにゃく芋は、
ゆでで、つぶして、大きい入れ物の中に中にいれて、少しづつソバの灰汁をいれてこにょうた。そうしたら大きぅなりょうた。
伸ばすときに、大きい入れ物に入れて灰汁をいれて、
伸ばしようが少ないと固くなったり、伸ばしすぎるとやわくなる。
そして茹でて作りょうた。

こんにゃく糊。
こんにゃく糊は知らんが、
こんにゃく芋は持ちが悪いんで、切ったこんにゃくを乾燥させて、粉にして、そりょうをこんにゃくに使ようるのは聞いたことがある。


♪母さんんのあかぎれ痛い 生みそをすりこむ、・・・それ、ほんと?

あきぎれには薬があった。軟膏があった。
(管理人の時代はワセリンが、ヒビの薬だった)


DDT

DDTは畳の下へ粉を振ったのは覚えとるが、頭にふった記憶はない。
子どものときは、よそから貰ぅて繁殖したのはあった。


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後月郡芳井町の行事

2019年12月10日 | 暮らし

これは後月郡芳井町宇戸川の昭和10年代のこと。

2019年12月8日、義母の話


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1月
 
正月
元旦に学校に行くと、校長先生がおもむろに教育勅語を取り出して読み上げる。
たった、それだけの儀式。
ミカンを二個もろうて帰りょうた。
羽子板は?そんな高尚なものはしてない。

新年
7日までに本家・分家にお餅をもっていって、雑煮をよばれて帰りょうた。


1月11日 鍬染め
三鍬耕やしょうた。


とんど
じぶんかた、めいめいでしょうた。


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2月

旧正月
お餅を搗いて、お雑煮にして食びょうたいうだけじゃ。
それでも搗く餅の数は旧正月の方が多かった。
親類の行き来は”新”になっとった。

節分
行事らしいことは覚えてない。


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3月

桃の節句(ひな祭り)
旧の4月3日頃じゃった。
ヨモギを摘んで、各家庭でヨモギ団子を作って、菱餅にしとった。
正月の時に作っとったアラレをいってお雛様にお供えして、子供にお接待しとった。



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4月

郷社の祭り。
4月4日、
井原の”郷社”に子供も大人もこぞって行ってお参りしょうた。


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5月

子どもの日
ちまきや柏餅をいっぱい作って、
百姓はお腹がすくけい、3時、3時に毎日おやつに食びょうた。
こいのぼり
その年に生まれた子のところに、親の元から送ってきょうた。
しょうぶ湯
親が風呂に入れて、いらしてくりょうた。

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6月



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7月

7月7日 七夕
井戸掃除。
飲料水、源泉が湧くところを水替えしょうた。
バケツで水を汲み替ようた。
竹で飾ったのは、きれいな溝川にもっていって、きれいに洗って笹の葉と飾りの短冊を流しょうた。
竹は干して使ようた。


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8月

お盆
本家や分家、おうどんを三束もっていって、おうどんをいただいて帰りょうた。
盆踊り
みんな浴衣を着て、うちわを持って、踊らにゃ損いって踊りょうた。
夏の楽しみであった。

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9月

地神祭
(秋分の日に近い戊の日)
地神(じじん)さまは地域の人がお経をあげて、豆やこ焼いてお接待しようた。子供たちも、それをいただく様にお参りしようた。
私の家には地神はなかったので、聞いとる話じゃ。


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10月


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11月

村祭り
神社総代がお宮によって、今年のお祭りはどのようにしょうかと、
当番組が神楽や宮司さんへの接待をまかなようた。
宵祭りに神楽が毎年ありょうた。
おお祭りが11月23日で、22日の晩に「宵神楽」がありょうた。
10時から備中神楽を八幡さまの境内に出店が五軒くらいありょうた。
饅頭焼く店・・薄皮饅頭、するめいか、ごおぶえ・・・ぷーと音がする、刀やこ、子供が喜ぶようなものを町からやってきょうた。
子どもは多い人で五銭、それで三つ買ようた。2~3件は買えた。

お月さんの「かぼちゃ汁」
井原の向町に「お月さん」という「お月堂」。
小さな神様があった。
そこへ、大根でも、かぼちゃでも、ニンジンでもなんでもいい持っていって汁をいただきょうた。
今でも向町の北山へ向いたところにある。
歩いて、子供から、娘さん、お年寄りまで行きょうた。

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12月
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