しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「誘蛾灯」は、初めて見た蛍光灯

2023年04月19日 | 初めてのこと

6月の楽しみは蛍狩りだった。
暗くなると、竹ぼうきを持って田んぼ方面に出かけた。
かまんどうの南側、砂川土手ふきんに蛍は多かった。

砂川の”しんやん”の近くに誘蛾灯があった。
ぼっけぃ明るかった。電球とは輝く光がちがった。白く光っていた。
蛍光灯の下には四角形の器に水・薬品・油が混ざって、その中に蛾をはじめ昆虫や虫の死体が浮かんでいた。

独特の匂いがしていた。
茂平ではもう一ヶ所、西ノ谷にも誘蛾灯があったような気がする。

中学生になって、父が勉強机に置く蛍光灯スタンドを買ってくれた。
それが、我が家では蛍光灯の第一号だった。

・・・


「福山市引野町誌」 ぎょうせい  昭和61年発行 

メイ虫
昭和15年農村電化の誘蛾灯(蛍光灯)が普及した。
山峡のカンテラで、二化メイ虫(=ドウ虫=蛾)を駆除した。


・・・

「北川の民俗」 北川の昔を訪ねる会 2022年発行

誘蛾灯

戦後の昭和20年代の後半頃、誘蛾灯というものが作られた。
田んぼの多い所で電線の届きやすいところに小さな電柱を建て、蛍光灯を一灯つける。
其の下に水が入る四角の木の箱で作ったものを台の上に置き、
蛍光灯で田んぼに来る虫や蛾など集め、水に落とし殺すものである。
虫たちは逃げられないし、早く死ぬように工夫がしてあった。
暗くなったら誘蛾灯をつけ、明るくなったら消す手間があった。

 

 

・・・・

 

 

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初めてトルコ風呂に行く

2020年12月24日 | 初めてのこと
初めてトルコ風呂に行く


トルコ風呂は学生では入れなかった。
お金が高いので。

卒業して社会人になって、トルコ風呂に行った。
広島市の薬研堀はトルコ風呂街だった。
トルコ風呂が20~30店並んでいた。

お店に入ると料金を払い待合室へ行く。
待合室には男性が3~5名ほどいる。
同じ会社の人がいないことをまず確認する。
この部屋で待つ間というのが長く、かつまたぐっちょん(居心地)が非常に悪い。
目的が目的だから。

やっと自分の番になる。
女性が三つ指をついて「どうぞ」と言われて、二人いっしょに待合室を出る。

せまい通路を歩いて個室に入る。
個室は和室で、女性は脱いだ着物をドアの窓を隠すように吊る。
男性がイスに座ると洗う、マットでも泡で洗う。

「おスぺ」というのが人気があった。
人気があったが、料金も高かった。
13.000円くらいしていた。

給料の手取りが30.000円程度だったから、月に一度しかいけない。
でも、行ったことを職場でわいわい言い合い楽しめる時代だった。



 
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初めて銭湯に行く

2020年12月24日 | 初めてのこと
初めて銭湯に行く


四国の松山市の学生寮に入って2~3日目、「銭湯へ行こう」という話になった。
その時、「せんとう」という言葉を知らなかった。

なんだろう「せんとう」って?
話の様子から風呂屋のようだった。

寮生3~4人いっしょに、歩いて風呂屋に行った。
のれんをくぐると番台に料金を置く。

入浴料は24円だった。
その当時、松山市の路面電車の料金が25円だった。電車賃より1円安かった。

入ってからは、人がすることを見て真似をした。
服を脱ぐ。
浴室に入る。
身体に湯をかける。
浴槽に浸かる。
浴室から出ると、ラムネや牛乳を飲む人もいる。
服を着る。
帰る。
こうゆう感じだった。

松山市には銭湯が多かった。
2年生になって、ちょっと大きな銭湯にも行くようになった。
大きな銭湯は3~4円ほど料金が高かったが、浴槽は大きく、何かと設備もよかった。

3年生になるころは、道後温泉に行くようになった。
道後温泉は料金が40円した。
2階の広間でくつろぐ料金は200円だった。
そのランクよりも上の風呂に入ることもあった。
贅沢とはいえ、道後温泉の料金は安かった。

松山市は田舎町だったが、銭湯と温泉には恵まれたところだった。


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注文と同時に目の前に出る”牛丼”

2020年12月04日 | 初めてのこと
注文と同時に目の前に出る”牛丼”


東京には高校生の時「修学旅行」で行ったことがある。
それから8年後、二度目の東京は「社員教育」に出席で行った。

研修場所は、代々木の東京オリンピック選手村の宿泊施設だった。
その前日の日曜日に東京に行き、学生時代の友人Tくんと会った。

Tくんは、まず小腹にと新橋駅前の食堂に案内してくれた。
席に座って、Tくんが注文を口にすると、その瞬間に料理が出てきた。

この早さにはびっくりした!

Tくんは、東京はどこでも注文したら料理が出るのは早いが、「ここは特別早い」と言った。
その時は「牛丼」と「おしんこ」が出た。

Tくんは、この店は東京ではチェーン店が多いとおしてくれた。
その店の名は「吉野家」で、
以後、その名を新聞などで見るようになった。


・・・・・


注文して、だいぶんたってから出る”牛丼”


吉野家は関東から関西へ進出し、店舗数は増えた。
同業者も増えた。
今はコンビニ店と同じように全国どこの町にも、牛丼店がある。

昨日(2020.12.3)井原市の或る牛丼店に入った。
牛丼を注文しても、なかなか商品が出てこなかった。

自分の中に牛丼は出るの早いという思いがあったので「遅いな」と、思う頃に出た。

このスピードに新橋駅前でカルチャーショックを受けたのを思いだし、逆カルチャーショックを受けた。

(時代は変わるし、お店のメニューも増えていて、ある面当然の待ち時間であって、
このお店を非難している訳ではありません)

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電話をかける

2020年11月27日 | 初めてのこと
電話をかける

高校生になって、名簿表(とでも呼ぶ)氏名・住所を書いた一覧表に電話番号を書く人が何人かいた。
その時、驚き、また高校生になった事を実感もした。
電話を書いた人はお金持ちと、親が商店の人だった。
中学生までの名簿には電話番号は無かった。それが普通だった。思いもしなかった。


高校を卒業する春休み、解放的な3月
友人から電話のかけ方をおしえてもらった。
仁王堂の本屋の前に公衆電話があった。
傍らにいる友の言うように、右手の人差し指でダイヤルを何度か回した。
そしたら呼び出し音がして・・・相手が出た。


その頃、坂本九の「明日があるさ」という歌が流行った。
あの歌と気持ちはよく似ていた。
♪  思いきってダイヤルを
   ふるえる指で回したよ
   ベルがなるよ ベルがなるよ
   出るまで待てぬ僕
   明日がある 明日がある 明日があるさ



・・・・・・・・・・


笠岡市政だより  1957年(昭和32年)3月25日

公衆電話

電電公社では次の場所に公衆電話を設置して、皆さんのご便利を図っております。
せいぜいご利用ください。


笠岡 市内各郵便局
駅構内 笠岡駅販売店
駅前 金藤商店
西本町 電報電話局
住吉 大西商店
大久保 小寺商店
くじば 桑田商店
伏越 田林商店
高島 高島小学校
用之江 城見農協
吉浜 金浦農協
吉浜 高橋商店
生江浜 松浦商店


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オール読物「追跡者」

2017年05月31日 | 初めてのこと
オール読物の2017年6月号に笠岡を舞台にした小説が載っている。

江戸時代末期の笠岡を小説家は、活気ある町と人の出来事として記述している。 


以下「オール読物」潮待ちの宿・追跡者(伊東潤)より部分転記する。


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潮待ちの宿

笠岡の春は、瀬戸内海の潮風と共にやってくる。
潮の香りが街中まで漂ってくると、はるか沖合に真鯛の群れが到来する。それを狙って「鯛しばり網漁」の漁船が漕ぎ出し、時には一度の漁で、千尾以上の真鯛を獲ってきた。
とくに、笠岡から四里半ほど南にある真鍋島の辺りは好漁場で鞆ノ津の船団と張り合うように漁を行っていた。

漁船が真鯛を満載して帰還すると、笠岡の町のそこかしこから笑い声が聞こえてくる。漁師たちは、陽気に戯れ言を言い合い、子供たちのはしゃぐ声が、港の活気をさらに高める。

愛宕宮は応神山の中腹にある社で、その参道が急峻なため、誰もが伏すように登ったことから、この辺りに伏越という地名が付いたという。

愛宕宮からは瀬戸内海が一望の下に見渡せた。一面に広がる海は縮緬模様のように見える。
菅笠の武士が「眞に絶景だな」とつぶやく。
「長岡藩の河井継之助と申す。ここと違って雪深い地だ」


愛宕宮から真なべ屋のある笠神社方面へとつづく道は、遊女街の伏越小路から続いているため、遊女たちがよく歩いている。
朝の遊女たちは、夜の艶やかな着物と異なり、掃除や洗い物をするための前垂れに手拭いをかぶっている。

安政6年、備中松山藩の山田方谷の許に赴き、藩政改革の実際を学んできた。「笠岡から大坂に向かう船便があると聞き、ここまで来たのだ」

「おかみさん、長岡というのは越後国にあるそうですね。小寺塾で習いました」
小寺塾とは、かつて敬業館と呼ばれ、西国で一、二を争う経学の名門だったが、今では諸藩に藩校ができたため塾長の名を取って小寺塾と改め、寺小屋のようなものになっていた。

翌日、継之助が散歩をしたいというので観音鼻に連れていくことにした。
真なべ屋のある伏越の西には、古城山と呼ばれる低い丘が海までせり出している。その南端の崖下は観音鼻と呼ばれ美しい磯が広がっていた。
観音鼻の絶壁には、見事な姿の松が断崖にしがみつくように繁茂し、海に目を転じると、木之子島と呼ばれる小さな岩礁が、独特の風情を醸し出している。
継之助は「よきところだ」と言っては感嘆しきりである。

真なべ屋から大仙院までは、おかげ街道を通るのが最短距離だが、陣屋の前を通るが嫌なので、
街中の小路や路地を伝っていくことにした。大仙院に着いた志鶴は、その象徴の赤い鐘楼門をくぐった。




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福山駅前の信号機【昭和36年】

2017年01月16日 | 初めてのこと
子供の頃、町といえば「笠岡」または「福山」を指した。
町が大きいので福山に行く方が多かった。

ある年の事、駅前の道を渡ろうとしたら「信号機」が付いていた。

信号機の事は知識としては知っていたが、見るのは初めてだった。
赤・青・黄の3色で、青なら渡れることも勉強して知っていた。

ところが、実際に信号機を前にしたら前に行っていいのか、だめなのかわからない。
というのは、例えば(当たり前のことだが)前を見れば赤、横を目れば青。
そのことが管理人にとって、二重信号に見えてしまった。汗・汗・汗。。。。。の状態となった。

思案に暮れて、結局は多数の人の後ろをついて渡った。
次にその信号を渡ろうとしたときは信号の見方が理解できてすんなりと渡れた(これも当然のことではある)。

福山駅前の信号機は昭和36年に付いたそうだ。忘れられない冷や汗だった。

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ついでに福山駅舎の喫茶店でのこと。

小学校の3年か4年の頃、祖父と福山に行った時、福山駅構内で祖父の知人に会った。
知人の方が駅舎にある喫茶店に入り、コーヒーを注文してくれた。
管理人はコーヒーを飲んだことがなく、しかも
店の中で、テーブルのうえに、皿にカップとサジがあった。
どうやって飲めばいいのか、さっぱりわからなかった。
ここでも汗・汗・汗。。。。
結局サジでコーヒーをすくい、音を出しながら飲んだような記憶がある。
今思い出しても、汗がでる。

駅舎の喫茶店は福山城の天守閣が建つ頃、撤去されたような気がする。
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