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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

神仏分離①

2017年03月31日 | 江戸~明治
明治維新で御一新され、
昭和の敗戦でマッカサー指令から免れたものといえば「神社」が代表だろう。

維新前後の出来事は小説家も好んで書くが、作家に限らず歴史家もまた、少し腰がひいているように感じる。

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「神仏分離と倉敷」より転記する

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日本は、昭和20年まで政府に神祇官(じんぎかん)が置かれる神国だった。

自分たち(政府)の選んだ神を祭祀せよ。それ以外の聖なるものをすべて排除する、というのが神仏分離です。
「神」や「神社」以外は、すべて排除された。
即ち、権現や宮や明神は神仏の内容も考慮せず捨て置き、
仏教、陰陽道、修験道等々、弾圧破壊追放した。

慶応4年3月。
それまで全国ほとんの権現、明神、宮と呼ばれる「神社」の支配と管理を行ってきた僧侶(社僧)の復飾が命じられた。つまり、一方的に「神社」と規定し、そこから僧侶を排除した。
これによって一方的に「神社」と規定された所から、仏教的な要素はすべて排除しようとした。
「八幡大菩薩」は称号が仏教的であると「八幡大神」に改めるよう命じられた。

記紀神話や延喜式神名帳に記された神に歴代天皇や南北朝の功臣を加え、要するに神話的にあるいは歴史的に皇族と国家の功臣を神とし、底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃絶の対象とする。

①祭神の交替
②神社名の変更
③神主・宮司の新任

陰陽道は、宗教としては完全に廃絶された。天文と暦学は大学や海軍に移した。
修験道も弾圧された。熊野や羽黒山は神仏分離で大権現が神社管理になった。




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「父の野戦日誌」 徐州戦争④光山懸城に入城する

2017年03月24日 | 父の話
昭和13年9月20日~12月3日

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ぬかるみを歩く
2~3日の雨が降る。
本日も雨である。
急に激しくなってきた。
予定のとおり六時出発だ。
雨はますます降り、我々は身も濡れ、濡れ鼠のようになって、一路目的地へと進む。
足はぬかるみに倒れ、土は身体につく。「たいてい」の二の舞だ。
ますます激しい雨。休みつつすすむ。
6時30分に着く。
実に戦場ならではの光景。
○○にて

光山懸城に入城する
雨天の中、光山懸城に入城した。
信陽攻略の要所だ。
空爆の跡を見る。高層な健築物は無く、ただ外部の一部を残すのみ。
その他は整然として聳える○○堂、そして繁華街は昔をしのばせるおもかげは語っているようだ。
あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。
我等は降りつつ雨の中気合をいれつつ、戦闘の戦果を納めつつ意気洋々と入城した。
思えば徐州出発以来、いかなる雨天に悩まされつつ、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。
血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山懸へ入城するのだ。
その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
朋は、姉妹は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。
今は光山懸城に入城する。後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを誓って今日を休む。

9月25日
光山懸城内にて
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「父の野戦日誌」 徐州戦争③済南に着く

2017年03月23日 | 父の話
昭和13年5月12日~5月15日

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一路天津に向かう
タンクーより汽車に乗り、一路天津に向かう。
車窓に映る大陸の景。広漠たる平野だ。
まったくぞくぞくする地平線の各戦跡の車窓からの眺め。
我等は元気で天津駅に着いた。

天津
天津は平穏だ。
この土地が敵国の土地だろうか。
多くの兵士でいっぱいだ。
各機関は我が思うように運転している。
支邦特有のチャーチャンが多く、馬を見る。
午後7時天津を出発済南に向かう。
5月12日


黄河渡り済南へ
途中、同輩が苦心して得た○○駅、○○駅の戦跡を、車窓に眺めながら渡る。
トーチカや銃弾砲撃した跡を眺めつつ通過していく。
各駅は警備の兵が我々の汽車を守ってくれる。
日中は大変暖かくなってきた。
広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。
には日章旗と五色旗がひるがえっている。
農夫も点々と見られた。
子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。
午後6時30分。東洋の大河・黄河の鉄橋にとおりつめた。
その鉄橋は影なく破壊され、むしろなにを運ぶ・・・・


【父の談話】2001年8月6日
(破壊された黄河鉄橋では)船を繋いで、その上にレールを敷いとった。
爆破しっしもおて、鉄道があったのが。
船は浮きになるんで、その上に柱を繋ぃで、仮の鉄橋にしとった


・・・・・・静かに無事汽車は通過し、午後7時汽車は済南に着いた。


済南に着く
済南は山東の都だ。建設物が勇壮で、実に平穏だ。
しかし空爆のあと、砲爆の跡、銃撃の跡が見える。
ごうけんの戦跡の霊にて合掌する


赤柴部隊本部へ
遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。
しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。
戦車・装甲車の車輪の音。
自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。
本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。
自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。
各隊のものものしい警備。
顔、みな悲壮な決心がうかがわれる。
無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。
ああ戦場の為、柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。
実に物騒なところだ。
流弾が地上をかすめる。
兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。
いよいよ、第一戦だなあ、でも赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。
言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

赤柴部隊へ到着
自分は第二歩兵砲隊付だ。
ここにきて(同郷の)しのはらのぼるさんと会う。
彼は元気でいたが、実に転々の過去がある。
同郷の人と戦場で会う、出会う、語る。実に嬉しい。
個人のうかがいしれない感じである。
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「父の野戦日誌」 徐州戦争②大陸へ

2017年03月23日 | 父の話
(父の日誌・昭和13年5月7日~5月15日)

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軍都広島に着く
軍部のプラットホームに着く。
「ちゃのま旅館」に泊まる。
軍都広島の夜は実に美しい。
一夜を明かす。市内より午後二時、病院船千歳丸に乗り込む。

千歳丸に乗り込む
船は岸を離れた。
岸からも鳥の声も次第次第に遠のく。
春風は気持ちを良くし僕の笑顔をなぜ通る。
海上のすいきも、ああ船と共に進む。
波も僕らの眼線より消えていく。
遠く近くにとびかうかもめも、山河もこれが見納めかと思うと、さらば、おさらば母国よ。
s13・5・7日(千歳丸にて)


洋上にて
海峡にそって、ああ船はすべり目的地へ、目的地へと玄海灘をすすむ。
若者の○○は、なにものぞ。
洋上にでて、水平線上で夕陽を拝む。
さざなみのように実にうくくしい。
船は洋上の彼方へ彼方へと進んだ。
s13・5・10(洋上にて)


塘沽(タンクー)へ上陸
海上無事、タンクーへと上陸だ。
大陸第一歩の喚声やいかん。
我が先輩らが血を流して得た土地。
点在する民家も倒れ、砲撃の激しさを語っている。
ところどころに残る砲弾の跡。
だが支邦の人家は皆、土の壁だ。
もぐらか,蟻のありかのようだ。
要所要所のあんしょう(?)に銃間をつくった、
支邦保安隊の警察団のものものしい警備。

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「父の野戦日誌」 徐州戦争①

2017年03月22日 | 父の話
火野葦平と父は大陸で遭遇していた可能性がある。
「麦と兵隊」には無論比較外だが、
それでも
父が残した野戦日誌は、生の歴史を感じる事では、葦平文学と並ぶような気もする。



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江南の熱風は深く悠々、新アジアの動きは日一日と深刻を極めている。
いよいよ、壮士・先輩・諸賢のもとに至る日が来た。
(昭和13年)5月6日、待ちに待った出征の日は来た。

○○の声に送られつつ、懐かしい兵舎を後に戦友に別れを告げ自動車にて駅頭に向かう。
早朝より降る雨は矢の如く、僕らの出征を祝福するかのようにからりと晴れ、汽車はプラットホームを離れた。
時まさに岡山駅零時16分。
ああこれが最後だ。
歓送の音楽が耳に響く、これが彼女と最後の別れか。

汽車は一路南下しつつある。
なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。
1時30分。
御両親に最後の別れを告げ
故郷を後に一路汽車は進んだ。

福山駅で姉妹に会う。。
ああこれで最後。故郷よさらば。
ご両親よ健康。
姉妹よ健康に。


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とうやんの話

2017年03月21日 | 父の話
父の話・2003.8.31
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とうやんの話
(病棟跡に住むとうやんは年の瀬に城見の家々を回り恵みを受けていた)
あそこへ隔離病舎があって、村がしょうたけい番人がいった。
番人を長ぅしとったので、(病舎後も)そこへ住みついた。


茂平の写真屋
(黒船とも写真屋とも呼ばれていた)
夜灯のつーさんが同級生じゃった
大きいええカメラを持つとった。
(母屋の前の)道のほとりに店をもとった。
(自分の)結婚写真もそこに頼んどる。

城見の醤油屋
(大正4年頃の資料に、城見に醤油屋が二軒と載っている)
家で作るのは多いが、売りに出すほど作る人は?

油虫(ゴキブリ)
昔はおりゃあせなんだ。
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ツボキの話

2017年03月21日 | 父の話
父の話・2003.8.31

ツボキの話

便所からツボキへもっていって腐らす。
家のねきなら臭いけえ、たいがい家から離れたところにもっとった。
ウチには新涯へあった。
腐る時分に畑へ使ようた。

注記・ツボキは「肥溜め」または「野壺」が標準語



干しイチジク

白トウガキをうむし小屋へ、練炭と硫黄をいれる。
晩に火をつけて入れると朝には燃えてしもうとる。
7~8段にしてうむす
(次の日から)毎日天日で干す。
晩は重ねて夜はしもうて、朝また干す。
最初はちょっともんで、硬うなるほどよぅもんで。
11月で寒うなってくりゃあ(白い糖ぶんが)つきょうた。


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新聞紙の再利用

2017年03月21日 | 暮らし
新聞の家庭欄に新聞紙の再利用の記事があった。
それによると、掃除や台所で有効利用している。

管理人が子供の頃は・・記憶ぶん・・は下記の利用をしていた。

便所紙
弁当箱を包む
凧の脚
子供の日の兜(折り紙)
桃や枇杷の袋掛け

果物の袋掛けには更に購入していたので、廃品回収に出すことはなかったように思う。
今の新聞とはページ数が1/5程度で少なかった。


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茂平の雑魚

2017年03月21日 | 暮らし

漁師がくれるものは、物々交換とも言えた。

姉の話
2017.1.30

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ママカリ
売り物にならんものを持ってきてくりょうた。
その代表がママカリ。
焼く
唐揚げ
焼いたのを酢漬け
骨ごと食べれておいしかった。

イイダコ
ちーちーか(ちいちいいか)もよう食びょうた。

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茂平の季節行事

2017年03月21日 | 暮らし
姉の話
2017.1.30

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(茂平でもよその家は含まず)

行事

ひなまつり
ない

正月
餅つき

節分
豆をいって
豆まき。

入学卒業記念
なし

端午の節句
鯉のぼりを立てる。
門のところへコロコロまるいのを付けて。
竹竿を天気のいい日に立ちょうた。
風のある日は倒れそうになりょうた。
屋根にショウブを投げたり風呂に入れる。
かしわ餅をつくる。

七夕
竹をどっからかとってきて、それをこよりをくくって飾りょうた。
(夏休みの旧暦の7月7日に)海へ流しょうた。

お盆
灯篭を縁側に吊り下ぎょうた。
水棚を建て、
洗濯の棒にナスビやこをひっかきょうた。
おじいいちゃん(祖父)が
「あそこへ先祖さまが墓から帰ってくる」ようた。
幽霊が帰ってくる思ようた。
ナスや提灯目指して帰ってくるんかなあ思ようた。

彼岸
お盆が過ぎて、すぐ彼岸になりょうた。
彼岸の餅みたなものを、黄な粉をまぶしてお母さんがつくりょうた。
仏に祀りょうた。

重陽の節句
しらん。

七五三
してない

クリスマス
寝とったらお母さんが茶色の袋にお菓子を少し入れて置いてくりょうた。
起きてこっそり見ようた。
よその家にしているので、うちにもと思い小さな袋を折ってから入りょうた。
可哀そうななあ思ようた。

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家族の誕生会
なし

結婚記念日
なし

七五三
してない

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