しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

靖国神社

2023年08月15日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・東京都
訪問日・2011.9.9


靖国神社(Wikipedia)

靖国神社は、東京都千代田区九段北にある神社。
慶応4年(1868年)以降、戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きが各地で起きた。
それらを背景に明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。
全国にある護国神社と深い関わりがある。









戦時歌謡の「九段の母」では、


上野駅から九段まで
かってしらないじれったさ
杖をたよりに一日がかり
せがれきたぞや会いにきた

上野駅から九段坂まで、徒歩で4kmほどある。
「せがれ」が22才とすれば、「九段の母」は44、45才前後。
今では、信じられないが、その年齢で
「杖をたより」「一日がかり」が当時の標準だったのだろう・・・な。







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長崎平和公園

2023年08月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・長崎県長崎市  平和公園
訪問日・2012年5月10日   












「歴史の現場」 毎日新聞  2000年発行

忘れられぬ感触
火が収まった爆心地に翌10日、午前11時ごろ忘れられない光景が幾つかある。
一つは、6~7才の子供だった。
親から教えられていたのであろう、目と耳を両手で押さえた姿勢のまま死んでいた。
市街電車は木製で、鉄の車輪だけ残し、燃えていた。
数十人の乗客は折り重なるようにして死んでいた。
「もう戦争に負けてもいい。
こんな目に遭うなら奴隷になっても、まだましだ」と思った。
背中から、
自分たちの犠牲を無駄にしないでくれと、
絶えず死者の声が蘇ってくるようにも思えるのだ。




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名古屋・陸軍第三師団

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・愛知県名古屋市中区  特別史跡「名古屋城跡」  
訪問日・2018.9.15

 

明治維新により、戦目的だったお城は、当然のことのように、戦争目的の軍がお城を引き継いだ。
尾張名古屋の名古屋城には陸軍第三師団と歩兵六聯隊が置かれた。

現在は師団司令部の煉瓦塀だけが300mほど残っている。



「愛知県の歴史」 塚本・新井著 山川出版社 昭和45年発行

昭和20年5月14日の朝から440機のB29が来襲して、低空から焼夷弾の雨を降らせた。
名古屋市民がほこりとしてきた名古屋城の天守閣は、猛火のなかで2時間も燃えつづけたあと、くずれおちた。
昭和19年、130万をこえた市の人口は、空襲と疎開で50万前後まで減った。





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広島大本営

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・広島県広島市中区基町  
訪問日・2016年3月31日  

 

日清戦争当時(明治27・28年)、広島市の広島城跡の陸軍第五師団に大本営が置かれた。
広島の大本営は2年間で終了したが、
第五師団は昭和20年8月15日まで存続した。
宇品港と一体化した軍都として広島は大いに栄えていた。

 

・・・


中国軍管区司令部跡
Wikipedia
中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、大日本帝国陸軍中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。旧陸軍の防空作戦室は全国に6ヶ所あったことはわかっており、ここは現存唯一のものになる。広島市への原子爆弾投下の第一報を外電した場所であり、現存する被爆建物の一つ。国史跡広島城址公園内にあり本丸を囲む内堀の石垣付近に位置し、広島護国神社境内隣にある。半地下式鉄筋コンクリート平屋造。入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。

歩兵第十一連隊 跡
池田勇人の像の南側の木陰にある歩兵第十一連隊の跡です。広島城の内堀の東側の広大な場所、現在の裁判所や合同庁舎をすべて含むこの連隊の敷地でした。
明治初旬の萩の乱から始まって、西南戦争、日清戦争、シベリア出兵、日中戦争などに出兵し、太平洋戦争においてはマレー作戦に参加しています。日本近代の主な戦争において重要な役割を果たしました。そういった歴史が書かれている。
歩兵第十一連隊の門柱。東から撮影したもので、奥に見えるのは広島城本丸の石垣で、手前は内堀です

広島陸軍幼年学校 跡
「明治維新」後、「広島城」には陸軍の「第五師団」が置かれ「日清戦争」の最中である1894(明治27)年9月には、軍を指揮する「大本営」が、東京から前線に近い広島に移された。明治天皇も広島に滞在し、一時、広島は日本の首都機能を果たしていた。1894(明治27)年10月に開催された「第7回帝国議会」は「広島臨時仮議事堂」で開催されている。








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「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

第5師団
昭和12年7月7日、盧溝橋の日中両軍が衝突後、
第9旅団(歩兵11聯隊・広島、歩兵41聯隊・福山)が出動。
長城戦に参加。済南・徐州・広東・ノモンハン・ベトナム他にわたる戦闘や警備に従事した。
特に被害の大きかったのは、昭和14年のノモンハン事件である。
広島で編成された歩兵71聯隊の死傷率は94%に達し、全参加部隊中の最高率を示し、事実上全滅の状況であった。

太平洋戦争がはじまるとマレー半島に上陸した。
昭和17年2月からの「華僑粛清」では、日本側が認めただけでも5.000人。
地元では4~5万人が虐殺されたといわれている。

この後、第5師団の部隊は、終戦まで豪北(ソロモン・ニューギニア)方面、
ジャワ島・ミンダナオ島・レイテ島などを転戦した。

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佐世保鎮守府

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・長崎県佐世保市 
訪問日・2012年5月12日  


「日本の遺跡と遺産⑦戦争遺跡」 岩崎書店 2009年発行

佐世保を造船の町として大きく発展させた鎮守府と海軍工廠
佐世保鎮守府関連遺跡


鎮守府というのは、日本の海を4つの海域に分け、
それぞれの海域警護のために置かれた海軍の重要な機関です。
九州方面の海軍根拠地として佐世保に鎮守府が置かれたのは1889年(明治32)のことでした。
1903年には大きな造船所を持つ海軍工廠もつくられ、佐世保は軍港であるとともに、
日本屈指の造船都市となりました。

現在も市内には、軍港時代のレンガ倉庫群、鉄筋コンクリート造りの司令部の建物、レンガ造りの弾薬庫群、海軍工廠のドッグやクレーン、
20か所あまりの工場建築物群などが残されています。






海軍の少年兵(予科練生)だったおじは、四ある鎮守府を、それぞれ
「よこちん」「つるちん」「くれちん」「させちん」と呼んでいた。

佐世保鎮守府は九州の他、朝鮮半島にある要港・鎮海も管轄区域。
有名な電文「チンタツサセニコイ」は、鎮海を発ち佐世保に行く兵が妻に送った電報。

 







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舞鶴鎮守府(赤煉瓦倉庫群)

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・京都府舞鶴市 「舞鶴赤れんがパーク」
訪問日・2013.8.12

旧大日本帝国海軍「舞鶴鎮守府」跡。
舞鶴鎮守府は1901年開庁、
その後ワシントン軍縮条約で1923年要港へ格下げ、
1939年鎮守府に復活した。
1945年、敗戦により廃止。

戦後は海上自衛隊や公園として使用されている。
赤レンガは保存と見栄えが良く、映画やテレビに登場する。

シベリア拘留者の引揚で有名な舞鶴港は、ここから数キロ離れている。










「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

国道27号線沿いに赤煉瓦倉庫群がある。
これらは舞鶴鎮守府の軍需品等の保管倉庫として、
1900(明治33)年~1921(大正10)年までに建てられたものである。
1904年には、軍港引き込み線が開通し、倉庫内まで線路を引き込み、物資の運搬にあたった。


舞鶴の赤煉瓦造物は114例あり、
そのうち赤煉瓦倉庫は12棟、
うち10棟は現役で使用され、2棟はれんが博物館、市政記念館で保存活用されている。






「日本の遺跡と遺産⑦戦争遺跡」 岩崎書店 2009年発行

舞鶴市立赤れんが博物館
日本海の警備と防衛を任務とした鎮守府と軍港の施設群
舞鶴鎮守府関連施設

舞鶴鎮守府は、ロシア海軍に対抗するための日本海側の軍事拠点として、
1901年(明治34)に設置されました。
1903年には舞鶴海軍工廠が開設されました。
日本が日露戦争に勝利すると、しだいに重要性が低下していきました。
1923年(大正12)にワシントン海軍軍縮条約により、鎮守府から要港部に格下げされました。
同時に海軍工廠も工作部に格下げとなりました。
昭和にはいり、軍事力増強が活発化するとともに、1936年工作部は工廠に昇格し、
19389年には要港部もふたたび鎮守府に格上げされました。

現在も舞鶴市に残る鎮守府関連の建物と現状は、
①旧舞鶴海軍工廠
②12棟の赤レンガ造りの倉庫群
③旧兵器廠魚形水雷庫
④旧雑品庫ならびに損兵器庫
⑤旧弾丸庫並小銃庫
⑥旧海軍機関学校大講堂

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「ひめゆりの塔」

2023年06月23日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・沖縄県糸満市  「ひめゆりの塔」
訪問日・2012年12月18日 


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行

1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸した。
日本側の軍民あわせて170.000人近くの命を奪った凄惨なものとなり、
6月23日、牛島満司令官が自決して戦闘は終結した。











「ひめゆり平和祈念資料館」

ひめゆり学徒隊の生存者たちの思いは、
生きたい、生きたいと思いながら死んでいった同級生たちの思いを代弁したいといういうことにあった。
語るに語れない悔恨の思い出であり、
祖国防衛に燃えて闘ったという誇りなどなかった。
生存した彼女たちの多くは、戦後教壇に立ち、平和の尊さを子供たちに伝えることに努力してきた。
物言えぬ同級生たちに代わり戦争の悲惨を直接語り伝えようと努力を傾ける姿には何時も敬服せざるを得ない。
しかし、もうその時間もそう長くはないだろう。
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房2002年発行







喜屋武岬、「平和の礎」




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伝・鴨方高射砲跡

2023年05月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・岡山県浅口市鴨方町鴨山
訪問日・2023年3月20日


鴨方の鴨神社の宮山山頂は広場になっている。
この広場には頑丈なコンクリート構造物が遺っている。

 

 

「高射砲の陣地があった、という人もいるがほほんとうかどうかはわからない」そうだ。


その隣には忠魂碑が建つ。
この忠魂碑は昭和28年に建立したものだが、
戦前も、この地に忠魂碑があったそうで、
その忠魂碑は今も地中に眠ったまま。

 

 

 


山頂広場には濃い色の桜が咲く。
「陽光桜」という桜で、
愛媛県の青年学校の教師をしていた人が、生徒の冥福を祈って、私財を投げ打ち日本全国に植樹したそうだ。

たしかに、青年学校からの出征者は、やりすぎの感が強い。

 

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帝国海軍「晴嵐特攻隊」訓練基地

2023年05月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・岡山県笠岡市北木島町楠
訪問日・2015年9月19日  


”青嵐”は大戦末期に開発された水上飛行機。
特攻機になったが、その理由が「死ぬため」というのが、当時の軍人の精神構造を示している。

 

・・・

「北木を語る」 元気ユニオンin北木 平成8年発行

1944(昭和19)
松原海岸が、帝国海軍「晴嵐特攻隊」訓練基地となる。
隊員は、大門や宅間の航空隊に所属しており、楠地区や大浦地区の旅館や民家を徴用して分宿し、複葉機や特攻機で急降下訓練等をしていた。
豊浦・大浦が、米軍機の機銃掃射を受け、油輸送船員1名死亡しています。
また大浦湾に機雷70個が投下され、民家を直撃したと伝えられています。

 

・・・

(Wikipedia)

晴嵐 

晴嵐(せいらん)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。
伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機。

試製晴嵐改 (南山)
晴嵐及び南山は合わせて28機が製造された。
計画段階では36機以上生産予定だったが訓練用の機体すら確保できず、空技廠から零式小型水上機2機を借りて六三一空隊員の訓練をおこなった。
搭乗員からは「オモチャみたいな飛行機で訓練するのか」と不満が出た。

1945年1月、有泉司令は魚雷によるパナマ運河攻撃の研究を命じた。
4月25日、士官に対し第一潜水隊全艦・晴嵐10機(雷撃2、爆撃8)によるパナマ運河夜間攻撃計画が公表された。
この段階では通常攻撃だったが、福永飛行長は「飛行機総特攻の時に晴嵐部隊だけ通常攻撃はありえない。全機特攻」と主張し、
投下器から爆弾が落ちないよう工作を命じた。
結局、全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった。 
しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となった。


「晴嵐」が特攻に出撃することはなかった。
晴嵐は、エンジン始動状態、翼を折りたたんだまま無人で射出され、洋上廃棄された。
有泉司令は自決した。

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旧陸軍第十七師団司令部衛兵所

2022年11月23日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・岡山県岡山市北区津島 岡山大学構内
訪問日・2022.11.13 

 

岡山大学は聯隊跡地を、そっくり転地利用しているので、今も構内はひろく、
そして旧陸軍施設も点在している。

この旧陸軍第十七師団司令部衛兵所は現在、岡山大学情報展示室として利用され、
学生・市民に常時公開されている。

 

 


岡山大学情報展示室
(旧陸軍第十七師団司令部衛兵所)

明治44年(1911)建築。
木造平屋建、瓦葺、40m2の旧司令部衛兵所である。
外部はほぼ当時のままである。
外部巾木はタイル貼り。
柱は面取りがしてある。
戦争遺跡の遺構としてその価値を有している。

登録有形文化財・文化庁

 

 

 

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