明治維新後に、日本人が肉食や洋食や果物や野菜を食べ始めたが、
なぜか教科書では果物と野菜が抜けている。
主食ではないからだろうか?
戦時中には栽培を制限もされた。
現代では誰もが食べている、大切な果物と野菜の歴史を、
教科書や史書にも載せてほしいものだ。
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「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書 2011年発行
果物
わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、
キイチゴ(木苺)などだけで、
弥生時代になって、
モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。
縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。
中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、
菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。
現代ではデザートとしての食事の一部分を占め、菓子とは違った役割をもっている。
古代ローマでは果物は嗜好品ではなく、食膳の重要な食品で、肉、魚、野菜などと同列の扱いであった。
20世紀には果汁の利用がアメリカで盛んになり、缶詰、瓶詰、紙パック詰が大量生産されている。
香水、石鹸、化粧品、芳香剤にアロマが利用される。
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「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行
果樹の話
庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。
生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。
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果物と野菜
果物は、樹木(果樹)になる果実のことです。
メロンやイチゴは草(草木)になるので、農業上は野菜に分類されます。
「日本の農業4」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
果物
桃
今の栽培桃は中国の天津水蜜桃などを明治になって改良したものである。
笠岡市広浜の庄屋・渡辺淳一郎は明治6年に樽屋桃を栽培、のち上海水蜜桃の栽培を始めた。
彼が岡山県における始祖である。
岡山県熊山町弥生の篤農家・大久保重五郎が昭和2年に大久保即ち水蜜桃を、明治33年に白桃を発見している。
葡萄
日本には12世紀に中国から渡来した葡萄を甲州で繁殖させたのが甲州葡萄だといわれている。
大粒な優良な葡萄は明治以降の出現である。
岡山市津高の篤農家・山内善男、大森熊太郎両氏は明治19年に硝子室を建設し、北アフリカ産のマスカット・オブ・アレキサンドリアの栽培を始めた。
柿
日本に原生していただろうといわれている。
梨
日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。
ミカン
種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。
イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。
枇杷
日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。
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リンゴ
明治初年西洋リンゴが導入され、各地で栽培されるようになり、品種改良によって多くの優れた品種が生み出された。
「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書 2011年発行
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「岡山の果物」 三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行
松浦岩蔵氏の葡萄経営
松浦岩蔵氏は明治2年城見村大冝に生まれ、
明治29年頃日清戦争除隊後全家を携えて転居。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍したが、
名を辱めぬ体躯と精神力の持ち主で、
かねて新渡戸稲造博士を崇拝し、その著書中に
「人間は一生を通じて地球の表面に痕跡を遺すことに務めよ」
にいたく共鳴して開拓を決意したのであった。
在隊中深夜人知れず農書を携え、除隊後国繁に移籍。
細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約二町歩を開墾。
葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇の御登極の際、
葡萄献納の光栄に浴した。
園の一側に枇杷を移植して、潮風害防ぐ。
労力節減のため葡萄棚を高めた。
明治28年海岸に荷揚げ場を構築して、果物の集荷はほとんど舟艇を駆使して、
帰路必ず福山・笠岡・金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命成りとし、
選定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造技術を設け、加里給源として重用し、
当代すでに全面施肥、腐植の重要性を身をもって垂範していた。
床下を利用して貯蔵庫を作り、邸内空地は葡萄をもって埋め、小川の上に鶏舎を建てて塀を兼ね、除虫菊栽培の端緒を拓き勧説に務め、
犬をもって園番に任ぜしめ、用便に当たっては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、
その透徹した経営構造と実行力に衆人等しく驚嘆するところである。
また氏は生前、
もしこの事業成功の暁は全財産を四分し、
一は学校、一は旦那寺へ、一は青年団等の団体に提供し、
残りの一をもって一家を支えるのだ、とさえもらしていたと伝えられる。
昭和11年、大隅義一氏は果物月刊誌上に
「私の見た園芸界の傑物故松浦岩蔵君」と題して、
「千軍万馬の中を馳駆した英傑も病魔の強敵に勝つあたわず、
悲風凄然、偉業を遺して巨星墜つ、大正十四年十月十四日、享年五十有七、
実に本県園芸界にとって取返しのつかぬ大損失である」と述べている。
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(父の話)
茂平・国繁「不老園」のこと
「不老園」が果物をつくりょうた。
あの頃は,みんな果物をつくりょうらなんだ。
梨をつくりょうた。
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個人が主作りょうた。
市場に出すのに名前が要った。
戦争まで続いた。戦後は番号みたいなのになった。
長いこと茂平では「不老園」が果物の代表じゃった。
「西渓園」が干しいちじくをはじめた。
農園は30なんぼあってもだしょうらん名前だけのもあった。
大正~昭和初期の頃
2001年7月14日
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「岡山の果物」 三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行
隣保共同組織の結成
桃および梨を中核とする果樹栽培の意欲は年とともに高まり、
生産も逐年増大して地場消費、近郊消費での需要がこれに伴わず、
明治30年ごろから阪神など県外に市場を求めた。
本県果樹栽培の殆どが農家の副業で、僅々1~2反歩に充たぬ経営でも、
それぞれ園名を採用したことは奇異とさえ感じられるが、
当時としては一たび市場で商品を競う場合、何園、何印の呼称表示は取り扱いの便宜上からも必緊であった。
かく個人間の競争時代を経て、産地間の競争に移り、やがて生産府県の競争段階を迎えた。
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