「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。
(9)
次に来るものは議員の総選挙である。
昭和34年3月8日投票、即日開票。投票率91.9%。
笠岡派9人全員当選、矢掛派7人当選・2人落選。振り分けは笠岡派60%矢掛派40%の圧倒的勝利で終わった。
笠岡合併に反対する矢掛派は、攻撃目標を村長僕一人にしぼって手を打ち出してきた。
3月28日、僕の解職に賛否を求める投票の日が4月17日と決まった。
両陣営秘術をつくしての攻防の火ぶたが切って落とされた。
(10)
昭和34年4月17日投票が行われた。
賛成862
反対917
無効50
よって、村長の解職請求は否認された。
翌日、朝日新聞は次のような記事を載せた。
県は投票が大差でないので、矢掛合併の勧告を変える気配は見られない。
県は笠岡市に「合併は県に協力して」と働きかけをしているようである。
このような県の態度に県議会筋は批判的な態度をみせている。
(11)
昭和34年6月8日、県議会にて岡山県総務部長は「知事勧告は変えぬ」との弁明を新聞紙上でみた。
7月18日の北川村議会で笠岡市への編入合併期日を昭和35年1月1日の議案が出され8:6で可決された。
すると、新聞折り込みビラで「笠岡市合併は実現しない。無だな議決をなんのためにするのか」とあった。
矢掛町は7月30日、「全町挙げて矢掛・小田・北川3ヶ町村の合併を推進する」決議をした。
8月27日、県議会で地方課長は「北川村は激しい対立があるが、小田町・矢掛町は勧告を歓迎している」
8月31日、北川村内の矢掛合併派は矢掛・小田両町の協力を得て、220人バス3台をつらねて陳情に乗り込んだ。
(12)
昭和34年9月12日、
合併問題で県審議員が5人来村した。
川上農協中央会長、中島県議、巽RSK専務、花岡岡山市議会議長、妹尾県協議会長だ。
中島「北川村が笠岡に行く場合、小田町と共に行く事をどう思うか?」
村長「小田町と共に笠岡と合併するのは好ましい。ただし小田が矢掛にいっしょにと誘われても北川はしない」
中島「北川の笠岡合併を妨げるものは何か」
村長「二つある。一つは県の矢掛合併勧告である、もう一つは矢掛・小田の連合で物心両面から北川村への内政干渉である」
確かな筋の情報に寄れば、矢掛町は「小田だけの受け入れはしない、勧告通り小田・北川同時編入合併」と高姿勢。
(13)
昭和34年11月25日、
「村内情勢緩和の為に」村長退陣論が北川村・笠岡市から出る。
村内から第二のムシロ旗、半鐘事件を避け、円滑な村民感情のため村長辞職を決意した。
管理人記・昭和35年(1960年)4月1日に北川村は笠岡市に編入合併した。
ボタンの掛け違い、タイミングのずれなどが次々に起こり、最後は村長の辞職で落着した。
村長の手記に異議・異論の関係者もいるだろうが、早い段階で最高当事者が書き残した事は非常に意義があると思う。
これだけの事件を今、語る人もない。