しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

銭形平次捕物控  (東京都神田明神)

2024年05月31日 | 旅と文学

”捕物帳”はどんな話もジャンルとしておもしろかった。
最初は映画。明神下の銭形平次(長谷川一夫)や、黒門町の伝七(高田浩吉)。
次にラジオ。松島トモ子の捕物帳。
大人になって小説。平次、半七、佐七、伝七、その他。

テレビでも、番組名に平次、半七、佐七、伝七の親分名が付いた。
なかでも、テレビの長寿番組としても知られのが、「銭形平次」
主役は大川橋蔵。舟木一夫の主題歌もよかった。
東映の時代劇スターだった橋蔵の代表作となった。

 

 

・・・

旅の場所・東京都千代田区外神田 神田明神
旅の日・2022年7月10日
書名・「銭形平次捕物控」
著者・野村胡堂 文春文庫 2014年発行

・・・

 

BS12チャンネル 2024.3.2

 

金色の処女


「平次、折入っての頼みだ。 引受けてくれるか」
銭形の平次は、相手の真意を測り兼ねて、そっと顔を上げました。
二十四、五の苦み走った好い男、藍微塵の狭い袷に膝小僧を押し隠して、弥造に馴れた手をソッと前に揃えます。


「一つ間違えば、御奉行朝倉石見守様は申すに及ばず、御老中方にとっても腹切り道具だ。
押付けがましいが平次、命を投げ出すつもりでやってみてはくれまいか」
と言うのは、南町奉行与力の筆頭笹野新三郎、奉行朝倉石見守の知恵嚢と言われた程の人物ですが、不思議に高貴な人品骨柄です。
「頼むも頼まないもございません。先代から御恩になった旦那様の大事とあれば、平次の命なんざ物の数でもございません。 
どうぞ御遠慮なく仰しゃって下さいまし」
敷居の中へいざり入る平次、それをさし招くように座布団を滑り落ちた新三郎は、
「上様には、また雑司が谷のお鷹狩を仰せ出された」
「エッ」
「先頃、雑司が谷お鷹狩の節の騒ぎは、お前も聞いたであろう」
「薄々は存じております」
それは平次も聴き知っておりました。
三代将軍家光公が、雑司が谷鬼子母神のあたりで御鷹を放たれた時、
何処からともなく飛んで来た一本の征矢が、危うく家光公の肩先をかすめ、三つ葉葵の定紋を打った陣笠の裏金に滑って、眼前三歩のところに落ちたという話。

 

それっ、と立ちどころに手配しましたが、曲者の行方は更にわかりません。
後で調べてみると、鷹の羽を矧いだ箆深の真矢で、白磨き二寸あまりの矢尻には、松前のアイヌが使うという『トリカブト』の毒が塗ってあったということです。 
「その曲者も召捕らぬうちに、上様には再度雑司が谷のお鷹野を仰せ出された。
御老中は申すに及ばず、お側の衆からもいろいろ諫言を申上げたが、上様日頃の御気性で、
一旦仰せ出された上は金輪際変替は遊ばされぬ。
そこで御老中方から、朝倉石見守様へ直々のお頼みで、是が非でもお鷹野の当日までに、上様を遠矢にかけた曲者を探し出せとのお言葉だ。なんとか良い工夫はあるまいか」
一代の才子笹野新三郎も、思案に余って岡っ引風情の平次に縋り付いたのです。
「よく仰しゃって下さいました。御用聞冥利、この平次が手一杯にお引受け申しましょう」

 

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「平家物語」扇の的  (香川県屋島)

2024年05月31日 | 旅と文学

屋島はかつて、四国を代表する観光名所だったが、近年は陰りがある。
台地状の半島は源平時代は島で、現在もその名残りを容易に想像できる。

 

屋島の展望台「談古嶺」から源平古戦場を望む。
正面が五剣山(八栗寺)で、談古嶺と五剣山の間が古戦場。
屋島の標高は、約300m。


では、山を下って古戦場へ下りて行きます。

 

 

・・・


旅の場所・高松市屋島中町
旅の日・2013年9月6日 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

・・・

 

屋島古戦場に着いた。

 

早春の日はすでに傾いて、屋島の第一日目はあとわずかで暮れようとしている。
源平両軍とも、負傷者の治療や戦死者の死骸のあとかたづけにいそがしい。
沖の平家の船からも、陸の源氏の陣からも、細い数条の煙がゆるやかに立ち登っている。
これは夕食のしたくをする煙と見える。

その時、沖の方から小舟が一そう、陸を目がけて漕ぎ寄せて来た。
たった一そうだから、いくさいどむ舟とは見られない。
陸から八十メートルほどの所まで来ると、舟は横向きになった。 
乗っているのは三人で、
ひとりは老武者、
ひとりは梶取り、
他のひとりは若く美しい女である。 
年のころ十八、九ででもあろうか。
内裏に仕えている侍女とみえて、柳色の五衣に真っ紅な袴をはいている。
戦場で女性を見るのは珍しいので、源氏の兵たちはいっせいに彼女に注目する。 
さらによく見ると、舟の真ん中に一本のさおを立て、その先端に開いた扇をはさんである。
地の真ん中に、白い日が描かれた話である。
かの美しい侍女はその扇の下に立って、こちらをしきりに招いている。

 

 


大将軍義経は、
「あれは何か。」と聞いてみた。
「あの扇を弓で射よ、というのでしょう。」
「だれがよいか。」
「下野の国の住人、那須与一宗高がよろしいでしょう。小兵ではございますが、なかなかの手きと聞いております。」
「では与一を呼べ。」

那須与一宗高は、大将軍の前に呼ばれ、何度も辞退したのだが、
「この義経の命令が聞かれぬとあらば、はやはや鎌倉へ帰るがよい。」
と義経に言われ、ついに決心してその場を立った。

那須与一は、太くたくましい黒馬に乗り、弓を取りなおして、水際に向かって歩ませる。
その 後ろ姿にも、決死の覚悟がうかがわれる。
もしこれを射損じたなら、その場で腹かき切って死ぬつもりでいる。
陸からでは距離が少し遠いので、与一は十メートルほど海の中へ馬を乗り入れた。
磯打つ波もやや高い。
その高い波に舟はゆり漂うので、扇の的も定まらない。
沖には平家が船をいちめんに並べ、陸には源氏が馬のくつわを並べて、かたずをのんで見守っている。
那須与一はしばらく目をふさぎ、心もち手を合わせるようにして、神に祈りをこめた。


「なむ八幡大菩薩、那須湯泉大明神、なにとぞ、あの扇の真ん中を射させて下されませ。 
万が一 これを射損じましたなら、この場で弓を折り自害して、二度と故郷へは帰りませぬ。
いま一度私を本国へ返して下さる気なら、どうかこの矢をはずさせて下さるな。」
そう祈りをこめて目をあけると、心なしか風も少し弱まり、扇のゆれも静まったように思われ
与一は背中に負うたえびらから、かぶら矢を一本抜き取り、それを弓につがえて引きしぼった。

 

 

 

すると小さな扇が大きく見えてきた。
指が開き、矢は弓の弦を離れた。ひゅーっという、かぶら矢独特の音が、屋島の海に長鳴りし的て、真っすぐに扇を目がけて飛んでゆき、要より三センチほど上を、ひいふっと射切ったではないか。
扇はいったん空高く舞い上がり、やがて夕日を受けて、紅の蝶のように、ひらひらと海面へ舞い落ちてきた。


「ああ、みごと!」
「おお、やったぞ!」
沖では平家が船ばたをたたき、陸では源氏がえびらをたたいて、しばしは感嘆の声が鳴りやま ない。

 

 

・・・

「扇の的」の話はあまりに有名なので、
与一にこじつけて”全国与一サミット”というのがある。

五剣山中腹にある「石の民俗資料館」前には、手のひらの記念碑がある。
2001年の第1回「与一サミット」の開催記念で、
高松市
井原市
大田原市
五箇荘町
庵治町
牟礼町
の3市長3町長の手形。

 

与一サミットは、いつまでつづいたのか知らないが、のんきな時代があったものだ。

 

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「太平記」児島高徳      (岡山県院庄) 

2024年05月29日 | 旅と文学

”ご当地ソング”というのがある。
北島さぶちゃんやデューク・エイセスが多く歌った。
戦前には大正・昭和初期に”新民謡”が流行した。
他にも、童謡の「赤い靴」や「鞠と殿様」も、ご当地ソングにはいる。

作州・院庄を舞台にした「忠義桜」は戦前、岡山県を代表する歌の一つだったが、
敗戦によって、日本が神の国でなくなると、神を歌った「忠義桜」も唱和される事が無くなった。
今はかすかに、記念碑的な歌として残っている。


戦前の全国の女学校で人気、それも岡山県では特に人気の歌であった、
というような事を母は話していたが、
レコードが発売されたのは昭和16年。既に母は女学校を卒業している。

 

忠義桜

桜ほろ散る院庄   
遠き昔を偲ぶれば   
幹を削りて高徳が   
書いた至誠の詩(うた)がたみ

 天莫空勾践 時非無茫蠡
(~天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず~)

 

・・・


旅の場所・岡山県津山市神戸・作楽神社(院庄館跡)
旅の日・2008.4.20
書名・太平記
原作者・未詳
現代訳・「太平記」 永井路子  文春文庫 1990年発行

 

・・・

 

 

 

児島高德

当時備前国に、児島備後三郎高徳という者がいた。 
後醍醐がまだ笠置にいたころ、同調して地元で義兵を挙げたが、目的を達しないうちに笠置も落城し、楠正成も自害したという噂が伝わってきたので、落胆してそのまま行動を中止していたところ、
後醍醐が隠岐へ移されると聞き、裏切る気づかいのない、信頼できる一族たちだけを呼び集め、評定。
「道の途中の難所に待ちうけて、隙を狙ってことを起そう」
と、備前と播磨の境の舟坂山の嶺にかくれて、行列の通過を今か今かと待っていた。
ところが、いつまで待っても行列が通らない。
後醍醐を警固する武士たちは、山陽道を通らずに、播磨の今宿から山陰道に入る道をとったので、
高徳の計画は、目算がはずれてしまったということがわかった。

そこで高徳たちは、
「では、美作の杉坂こそ、もってこいの深山だ。そこで待ち奉ろう」
と三石の山から斜めに道なき道を突切って杉坂に急行したが、着いてみると、行列ははやくも院庄に入られたという話。

ついに力及ばず、一行は散り散りに別れることになったが、
高徳は、せめて自分たちの心だけでもお耳に入れたいと思い、身をやつしてひそかに帝に近づく機会を窺ったが、その折もなかなかこなかった。
そこで、後醍醐の宿の庭にあった桜の大木の幹を削りとって、そこに大きな文字で一句の詩を書きつけた。

天よ勾践を見殺しにしたもうな
いずれは忠臣范蠡の現われんものを

警固の武士達は翌朝これを見つけ、
「いかなる者が、なんと書いたのか」
と騒ぎになったが、誰もその意を読みとることができなかった。
その騒ぎが後醍醐の耳にも達し、たちまちその意を悟った後醍醐は、快げに微笑んだが、
警固の武士達はそこに含められた故事や詩の意味もわからず、その行為の主を深く詮索することもなかった。

 

・・・


児島高徳は、戦前も存在を疑問視されていたが、戦後はその論争すらない。
岡山県倉敷市児島林にある五流尊瀧院は、現在も多くの修験僧がいて、高徳はそこの山伏一団の総称ではなかったか?
という記事が地元紙に出ることもある。

・・・

 

 

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かぐや姫 (広島県竹原市)

2024年05月28日 | 旅と文学

おとぎ話の人物は、自称を含め縁の地は多い。
桃太郎さんは岡山・広島・香川に特に多い。
浦島太郎さんは日本全国、北から南まで数え切れず。
「かぐや姫」もまた、日本中に縁の地が多い。

広島県竹原市は「かぐや姫」の縁の町の一つ。
では、「竹原」と「かぐや姫」が何の関係があるのか?
といえば、それがよく分からない。
どうも”竹”原と、”竹から生れた”姫をこじつけたに過ぎないようだ。

 

 

旅の場所・広島県竹原市本町(竹原重伝建保存地区)
旅の日・2014.5.4 「たけ祭」 
書名・竹取物語
原作者・不明
現代訳・「日本の古典3・竹取物語・伊勢物語」 世界文化社  1974年発行

 


 

・・・

かぐや姫と竹取の翁


いまではもう遠い昔のこと。
竹取の翁とよばれる人があった。野や山にはいって竹を取っては、さまざまなことに使っていた。
竹取の翁のいつも取りにゆく竹の中に、根元の光る竹が一本あった。
あやしく思って寄ってみると、中が光っている。
見ると三寸(約一〇センチ)ほどの人が、たいそう愛らしい様子ではいっていた。

 

 

その愛らしいことといったら限りがない。
まことに幼いので、竹籠に入れて養育する。
竹取を生業としている竹取の翁は、この子を見つけてから後に竹を取ると、節を隔てた空洞ごとに黄金のある竹を見つけることが重なった。
翁はだんだん豊かになってゆく。

この幼児は、育てるうちに、みるみる大きく立派になった。
三か月ほどのうちに、人としてほどよい姿になったので、髪上げなどの儀をと考えて、 女のあかしの裳着の式を行った。
それからは帳の内から 外にだすこともなく、大切に養った。
この児の顔かたちの気高さ美しさは、世にまたとない。輝きわたる美しさに、家の内は暗い所を失って、光が満ちあふれた。


この児がすっかり成人したので、名をつけさせた。
「なよ竹のかぐや姫」とつけた。
この披露に三日を通しての宴を催した。 
歌舞管絃その他、さまざまな遊びをしてもてなした。
男たちをもだれかれなく招き集めて、たいそう豪勢な事だった。


・・・


さて、かぐや姫の姿形が、世にたぐいなくすぐれていることを御門がおききになって、
「よく見てまいるように」とおっしゃいましたので、伺うと、嫗はかぐや姫に、
「さあ早く、御門の御使いにおあいなさいませ」と言うと、かぐや姫は、
「とくべつにすぐれて美しい顔形ではございません。それなのにどうしてお目にかかれましょうか」と言う。
あおうとする気配はさらさらない。


「残念でございますが、この幼い者は強情者でございまして、おあいしそうにはございません」と申しあげる。

侍は、「必ず拝見してくるようにとの仰せがございました。
国王のご命令を、たしかにこの世に住んでおいでになる人が、お受けにならずにいらっしゃることができましょうか」
わけのわからない事をなさってはいけません」と、語調するどく言ったので、これを聞いたかぐや姫は、
なおさら納得するはずもない。「国王のご命令を背いたといって責められるのなら、早く私を殺してくださいませ」と言う。

 

 


かぐや姫は成人後、常にのように”わけのわからない事をなさって”いて、
悪く言えば異常で、わがまま。良く言えば妥協しない、筋を通す。
子どもの頃に紙芝居や絵本で見た、かわいらしい「かぐや姫」とは、たいそうな差を感じる。

 

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エデンの海     (広島県忠海町)

2024年05月26日 | 旅と文学

忠海高校出身の友人Kくんには、
忠海の決まった自慢話があった。

一つは学校のOB自慢、池田勇人首相とNHK政治討論会の司会者・唐島基智三さん。
二つは「エデンの海」があり、鶴田浩二が映画ロケで来て馬で走った。

たしかに首相を輩出した学校は、滅多にあるものではない。
鶴田浩二が馬に乗って街を走るロケがあったことも、大いに自慢できる。


忠海の街は、前に瀬戸内海、後ろに白滝山・黒滝山がそびえ、風光明媚な呉線沿いの湊町。
市役所のある竹原も、重伝建の町並み、洋酒のニッカ、塩田跡など見どころが多い。

・・・

「エデンの海」は、小説の内容や時代背景が「青い山脈」と似ている。
何度も映画化されるのも、また似ている。

女学生たちが敗戦によって「学徒動員」や「竹槍訓練」から解放され、
次にマッカサーによって「女性が開放」された。
その時代を非常によく現した作品と思う。

・・・

 

代理当直でその夜舎監室にとまった青年教師南条は、十時半の尾道上りの巡航船の笛を夢うつつに聞いてま
たひと眠りしたとき、
耳もとにささやく生徒の声に目をさました。
「先生、どろぼうがはいったんです」
白シャツでねていた南条は、そこにあっただれかのレインコートをひっかけて忍び足に急いだ。
早くも黒い影は塀ぞいに走りかけた。
どろぼうではないと直覚し「待て!」と呼んで懐中電燈を背中に浴びせかけると、
立ちどまってこちらを向いたのは南条の受持、三年生東組の清水巴だった。

 

 

舎監室の八十燭光の下で、巴の顔は淡化粧でもしているのかと思われるほどかがやいて見えた。
まぶしそうに細めた睫の表情が無類である。

「わたし、本当に好きな人は、先生です」
またたきもしない。
かえって南条の眼がたじろいだ。

 

 

旅の場所・広島県竹原市忠海町
旅の日・2006.9.26
作品名・エデンの海
作者・若杉慧
発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」 学習研究社 昭和53年発行

 

 

 

明るい太陽、海の反射、段々畠にみのるレモン、オレンジ、「制服の処女」の群れ――
独身の男教師は採用した例がないというこの南国の海の女学校に、南条は破格の足音を立てて登場したのである。
彼の新生活ははじまった。
彼の口ずさむ歌は音楽教師の正課よりもすみやかにひろがり、町の写真屋では彼の手札型が彼の知らぬまにブロマイドのように焼き増しされていた。 
いたるところの樹木に彼の名がほられた。

 

 

 

馬と少女はトンネルの中からたちまち明るい陽光の中におどり出た。
あまりにも不意な『コロンバ』の出現。
絹ポプのブラウスにもんぺ草履ばき、ひらりと飛びのって裸と裸の接触、馬人一体。
自然の二つの生きものが脈搏そろえた美しさであった。 

 

 

 

南条は岩群の先端に立って遠く目をやった。
生と死を抱蔵し、あらゆる生命の流動をひそめて海は沈黙していた。
悲しみも、よろこびも、生の恐怖もまたその希望も、一つの沈黙に溶けて揺れうごいていた。
彼の身内にもそれに呼応するものを感ずるのだけれども、何の言葉で呼んでいいかわからなかった。

(エデンの海)

 

 

 

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野菊の墓 (東京都矢切の渡し)

2024年05月25日 | 旅と文学

中学生の頃、”学習雑誌”があった。
旺文社の「中学〇年生コース」
小学館の「中学〇年生の友」
女性用にはさらに「女学生の友」。
そういう学習誌に「野菊の墓」はよく載っていた。

「まさおさん」と「たみさん」の話は、中学生の年代にぴったりのお話だった。
金浦中学校では、各教室にラジオが置いてあり
「名作」をラジオ放送する時、教室で全員聴いていた。
そのなかに、もちろん「野菊の墓」もあった。
悲しい純愛の物語だった。

 

旅の場所・東京都葛飾区柴又
旅の日・2018年8月7日 
作品名・野菊の墓
作者・伊藤佐千夫
発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」 学習研究社 昭和53年発行

 

映画「野菊の如き君なりき」

 

後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。
幼いわけとは思うが何分にも忘れることができない。
もう十年余も過ぎ去った昔のことであるから、こまかい事実は多くは覚えていないけれど、心持だけは今なお昨日のごとく、そのときのことを考えてると、まったく当時の心持に立ち返って、涙がとめどなくわくのである。

 

 


僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村といってる所。
矢切の斎藤といえば、この界隈での旧家で、屋敷の西側に一丈五六尺もまわるような椎の樹が四、五本重なり合って立っている。


僕はちょっとわき物を置いて、 野菊の花を一握り採った。
民子は一町ほど先へ行ってから、気がついてふり返るやいなや、あれっと叫んでかけ戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないっだって僕が行くも のを......」
「まァ政夫さんは何をしていたの。私びっくりして
・・・・・・まァきれいな野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・・・」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・ 道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菜を顔に押しあててうれしがった。ふたりは歩きだす。

「政夫さん・・・・・・私野菊のようだってどうしてですか」
「さァどうしてということはないけど、民さんは何か野菊のようなふうだからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって......」
「僕大好きさ」

 

 


よそから見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣きがおと見苦しくもあったであろうけれど、
ふたりの身にとっては、真にあわれに悲しき別れであった。
互いに手を取って後来を語ることもできず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、
泣きの涙も人目をはばかり、一言の言葉もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。
無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、五町と下らぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。

 

 

 

 

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「平家物語」一の谷  (兵庫県神戸市)

2024年05月24日 | 旅と文学

「鵯越の逆落とし」は、平家物語を知る以前
小学校にあがる前後ごろから知っていた。
近所の年上の子が話すのを何度も聞いていた。

その後、パッチンや絵本や漫画にも鵯越の勇ましい義経の姿が出てきた。
「鵯越」といえば義経。
「逆落とし」といえば義経。
ついでに言えば当時、「脳天逆落とし」といえば鉄人ルーテーズだった。

平家打倒の若き英雄、源義経を代表するものは
一の谷の”鵯越の逆落とし”、壇ノ浦での”八艘飛び”
少年たちの話題になるのは、この二つの義経だった。

 

旅の場所・兵庫県神戸市中央区下山手通   生田神社 
旅の日・2021年11月4日   
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

 

 

義経は武蔵坊弁慶に命じて、この山の案内者を探しに行かせた。
まもなく弁慶はひとりの老人をつれてきた。
聞けばこの山の狩人だという。
義経はさっそく尋ねる。
「狩人なら、この山の道はよく知っているであろうな。」
「細道小道まで存じております。」
「しからば尋ねるが、ここから平家の城、 一の谷へ落とそうと思うが、いかがであろう。」
「めっそうもない。 三十丈(一丈は約三〇三メートル)の谷、十五丈の岩場などという所を、人がたやすく通ることはなりません。
その上、城の内では、落とし穴を掘り、菱などを植えて、待ちかまえておりましょう。 
馬などはとても通ることはできますまい。」
狩人は手を振って、こう答える。

「さて、そこは鹿は通るかな。」
「はい、鹿は通ります。草の深い所を求めて、北の鹿は南へ、南の鹿は北へと通ります。」
このとき義経はにっこり笑い、左右の部下をかえりみて、
「鹿も四つ脚、馬も四つ脚。鹿の通る所を、馬の通れぬはずはない。われらにとっては馬場にひとしいぞ。」


「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

 


義経以下の三十騎、「えい、、えい」という掛け声もろとも、一気にこの岩場をすべり落としていった。
おおかた人間わざとは見えず、鬼神のしわざと思われた。


ここに畠山次郎重忠は、他の武者たちが落とすのを横目に見て、ひとり馬から降りた。
そうして馬の手と腹帯をより合わせ、それで大きな馬を十文字にからげて鎧の上に背負い、檻の木の枝を一本抜いて杖に突き、ずしりずしりと岩の間を降りていった。
「いつもはこの馬の世話になっておるのだ。この坂で馬を傷つけてはなるまい。きょうは馬をいたわってやろうぞ。」
そう言って、彼は馬を背負って降りたのだ。
畠山は坂東一の大力とは聞いていたが、あの大きな馬を背負うとは、なんというすごいばか力であろう。
東国の荒武者たちもこれを見ては、舌を巻いて驚いた。

 

 

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砂の器  (島根県亀嵩)

2024年05月21日 | 旅と文学

松下電器の松下幸之助さんが毎年、日本の納税額NO1を続けていた頃、
作家部門のそれは松本清張さんだった。

清張さんが書く推理小説はどれも皆、売れに売れ、読まれ、映画化もされた。
清張さんは何かの本の中で、
「小説よりも、映画の方が出来がいい作品が二つある」
と語っていた。
二つは覚えてないが、一つの方は「砂の器」だった。

「砂の器」は本も売れ、映画も日本中の話題になるほど大ヒットした。
奥出雲のズーズー弁も全国に知られるようになった。
街角に立つ、「砂の器」映画ポスターが物悲しく、人々の興味をそそった。

 

 


亀嵩駅(かめだけ)

今西栄太郎は、
「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」
今西はうれしさを押さえて言った。
今度は、出雲から「亀」の字を探すのである。…すると、途中で、思わず息をのんだ。
「亀嵩」とあるではないか。

今西栄太郎は、署長の好意で出してくれたジープに乗って亀嵩に向かった。
道は絶えず線路に沿っている。
両方から谷が迫って、ほとんど田畑というものはなかった。
そのせいか、ところどころに見かける部落は貧しそうだった。
出雲三成の駅から四キロも行くと、亀嵩の駅になる。

・・・

旅の場所・島根県仁多郡奥出雲町郡  
旅の日・2020.10.28
書名・砂の器
原作者・松本清張
発行・新潮文庫 昭和48年

 ・・・

 


今西栄太郎は、長いこと考えこんだ。
彼の目には、初夏の亀嵩街道が映っている。
ある暑い日、この街道を親子連れの遍路乞食があるいてきた。
父親は全身に膿を出し、
この不幸な親子を見かけた三木駐在巡査は本人に説いて、岡山県の慈光園に入院の 手続きを取った。
連れていた男の子は七歳であった。
三木巡査はその子を保護していた。
だが、父親とともに放浪生活をしていたその子は、巡査の世話になじめなかった。
ある日、彼は、 突然脱走した。
七つの子は、垢と埃にまみれながら、中国山脈の脊梁を南に越えた。彼は、それから二つの道のどれかをとった。

一つは、広島県の北境の比婆郡に出ることだ。
一つは、備後落合から作州津山に抜けて岡山に出ることだ。
その男の子はどの道を歩いていったのだろうか。
――いや、その子は、中国山脈を越えなくてもいい。彼は父親といっしょに来た方角へ、一人で引き返したかもしれない。
それは宍道に出て、安来、米子と歩いていく のだ。さらに、そこから、鳥取の方へいったかもしれない。
浮浪児の取った放浪の道は、こうした三つが定できる。だが、いずれの道を取ったとしても、彼が大阪に出たであろうことは事実だ。
浮浪児は、大阪で、ある人間に拾われた。
拾った人間は、この子をどのように育てたか。

 

 

次に今西栄太郎が立ちあがった。
「ここに本浦秀夫という男がございます。
秀夫は、昭和六年九月二十三日生まれであります。
その父本浦千代吉は、原籍地、石川県江沼郡××村でありまして、中年にしてライが発病し、妻マサと離婚しました。

本浦千代吉は、発病以後、流浪の旅をつづけておりましたが、
おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます。
本浦千代吉は、昭和十三年に、当時七歳であった長男秀夫をつれ、島根県仁多郡仁多町字亀嵩付近に到達したのでありました。
このとき、亀嵩駐在所に三木謙一という 親切な巡査がおりました。
同巡査は、まことに、立派な警察官でありまして、今でも、同巡査の善行は、同地方で語りぐさとなって伝えられてお ります」

三木巡査の親切にもかかわらず、亀嵩を脱走いたしまして、一人で、いずこともなく去っていきました。
これが、そもそも今度の悲劇的な事件の発端であります............」

 

 

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二十四の瞳  (香川県小豆島)

2024年05月21日 | 旅と文学

小説「二十四の瞳」は、文学作品として有名だが、それよりも
日本映画史上を代表する名画として「映画史」に残る作品。


映画の脚本は、ほぼ原作通り。
小説を映画のために変えてなく、映画でも原作を味わえる。
小豆島や瀬戸内海の風景が美しい。

 


小石先生

十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。 
昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、
対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。
小学校の生徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの本村の小学校へかようのである。 

 

 

 

旅の場所・香川県小豆島町田浦「 二十四の瞳映画村」  
旅の日・2007.5.3 
書名・二十四の瞳
原作者・壷井栄
発行・岩波文庫 2018年発行

 

 

泣きみそ先生

近年、村の柿の木も、栗の木も、熟れるまで実がなっていたことがなかった。 
みんな待ちきれなかったのだ。
子どもらはいつも野に出て、茅花をたべ、いたどりをたべ、すいばをかじった。
土のついたさつまをなまでたべた。
みんな回虫がいるらしく、顔色がわるかった。
病気になっても村に医者はいなかった。
よくきく薬もなかった。
医者も薬も戦争にいっていたのだ。
村の善法寺さんまでが出征して留守だった。

・・・

今日、「二十四の瞳」の大石先生の長女の死を読んでいたら、
茂平の同い年の女の子「やえちゃん」のことを思い出した。

 

やえちゃんの家とは少し離れていたが、畑が隣どうしだった。
笹舟を作って、川に流して、どちらの舟が長く流れるか競争してあそんだ。

やえちゃんと遊んで三日も経たない時、
「やえちゃんが死んだ」と聞かされた。
やえちゃんは畑で生のナスビをかじって食べたそうだ。
それが悪くて、赤痢か何かの伝染病になってすぐに死んだ。
自分が、やえちゃんの死を知った時には、
既に話は(死体を)「焼くのが大変だった」に移っていた。
当時は伝染病の死者だけが焼かれた。
茂平の海岸の、一番東の端が「焼き場」で、そこで骨になった。

 

 

ある晴れた日に


「はい、一本松の写真!」
となりの吉次は驚きでいった。
「ちっとは見えるんかいや、ソンキ。」
「目玉がないんじゃで、キッチン。
それでもな、この写真は見えるんじゃ。
な、ほら、 まん中のこれが先生じゃろ。
先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。
マッちゃんが左の小指を一本にぎり残して、手をくんどる。それから――。」
磯吉は確信をもって、そのならんでいる級友のひとりひとりを、人さし指でおさえる。

 

 

 

 

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「ふくやま大道芸」を見に「福山ばら祭2024」に行く  2024.5.18

2024年05月20日 | 令和元年~

名称・第57回 福山ばら祭2024
場所・広島県福山市中心部
行った日・2024.5.18

 

 

今年の「ばら祭」は5/18・5/19で、天気のいい方の5/18に見に行った。
目的は「2024ふくやま大道芸」で、福山市街地中心部の17~18ヶ所が会場。
そのうち15ヶ所を見て回った。

今年も楽しいパフォーマンスを見ることが出来た。

 

 

天気が良すぎて、真夏日となった。
熱中症にならないよう、予定を変えて、早めに笠岡に帰った。


そのため予定していた「ばら公園」と「緑町公園」には行かなかった。

 

 

 

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