場所・高知県安芸市井ノ口甲 岩崎彌太郎生家
三菱財閥を創設した岩崎彌太郎生家は、高知市から室戸岬へ向かって約40kmの安芸市にある。
周辺はのどかな田園風景で、生家は農家と侍を合わせた”郷士”の造りになっている。
岩崎彌太郎像
「あき物語」 安芸観光情報センター・安芸市
三菱グループの基礎を築いた異才
慶応3年(1867)、長崎に設立した土佐商会で腕をふるった彌太郎は、
廃藩置県の後に大阪に出、明治6年三菱商会を設立。
以後、明治経済界を席巻する活躍をし「東洋の海上王」と呼ばれるようにもなった。
彌太郎の曾祖父・彌治衛門が建てた家で、
当時の中農の標準的な家。
土蔵の鬼瓦には岩崎家の紋であり三菱のマークの原型といわれる「三階菱」がある。
また、庭の石組は少年・彌太郎が天下雄飛を託し、日本列島を模したものだといわれている。
「教養人の日本史4」 池田・佐々木共著 社会思想社 昭和42年発行
新会社・日本郵船
岩崎弥太郎は土佐の郷士の出身である。
土佐藩の参政であった後藤象二郎に見込まれたのが、実業界に手を染めるきっかけとなった。
廃藩置県で、これまで経営をまかされていた九十九商会を、ただも同然の値段で払い下げられ、
それをもとでに、
運漕業・製糸・製茶・樟脳など多方面の経営に手をのばすようになった。
岩崎は、最初から、権力者と結びつき、その保護をうまく引き出すのに、独特の才能を発揮した。
まず政府財政の責任者大隈重信と結んだ。
明治7年(1874)の台湾遠征は、兵隊と軍需品の輸送を一手に引き受けたのである。
この時えた膨大な利益をもとに、彼は明治8年(1875)に三菱会社をつくり上げた。
その頃、政府は海運業者に補助金を出すことにしていた。
岩崎がこれを利用したのはいうまでもない。
しかも彼は、それを海運業に投資するよりも、高島炭鉱んど鉱山の買い占めや、
日本最初の保険会社、東京海上火災保険の設立などにふり向けた。
やがて需要が高まるはずの事業を、あらかじめ独占しておこうとしたのである。
折からはじまった西南戦争でまた大利益をあげた。
明治14年政変で大隈が政府を追われると、三菱に反感を持つ官僚や資本家が、対抗策に出た。
渋沢栄一・益田孝らが共同運輸会社をおこしたのである。
猛烈な競争がはじまった。
三菱は赤字を出し、弥太郎は心労のため死んだ。
弟弥之助が後を継いだ。
明治18年(1885)、三菱・共同運輸が出資し日本郵船株式会社をつくることになった。
日本の海運業はこの会社が独占した。
撮影日・2022.10.26