しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

機織り唄

2023年02月28日 | 民謡

「明治30年代の生まれなら機織りの経験者」なら、祖母は機織りをしていたことになる。

父が「家に保管していた」と話していたが、その道具は祖母や曾祖母が使っていたものだろう。

 

・・・

機織り

「岡山県史 民俗1」 岡山県 昭和58年発行

 

大正頃までは、機織りは女の仕事であった。
各戸に機があって、女たちは晴着から普段着・仕事着はもちろん、
布団・蚊帳に前掛け・手拭いに至るまで、
一切の衣料を織り出したものである。
明治30年代までに生まれた女の人は、ほとんど機織りの経験者である。
秋の収穫がすむと、春の彼岸まで、寒い時期は明けても暮れても、
糸引きと機織りだった。

高機で、一日一反織るのは難しい。
どんな縞にするかで、どの糸が、いくらくらいいるか決まった。
その計算を縞算用といい、難しいものだった。

ええ綿と悪い綿により分けた。
ええのは糸にひき、
悪いのは布団綿にした。

 

・・・・

 


「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行
明治の初めまでに全県下地機から高機になった。
ついで南部の一部にはシャクリを高機にとりつけシャクリバタとした。
明治30年~40年に生まれた女の人は殆どハタ織の経験者である。

 

ハタオリ  福尾美夜

昔、綿を畑に植え、糸車でひいて糸にしてハタにあげて織っていた。
女は家中の布の製作者であった。
新しい着物には想像もつかない位の手間がかかり、
できた喜びも大きかった。
新しい着物の袖に手を通せるのは一生のうち、数える位しかなかったのである。
布の縞や絣は主婦の腕の見せどころでもあった。

綿は植えられなくなり、糸を購入して織ることになった。
何と労力の節約だったであろうか。
ついで晴着は購入することになり、ごつごつした手織りは普段着、仕事着になり、
不細工で低価値とみなされた。
今ではハタオリを知る人すら少ない。
地域により家により違うが、明治20年頃までは殆どの家にハタがあり、だいたいどこも織っていた。
高機(たかばた)といって腰をかけて織るハタになり三日で一反くらいはかかったという。
シャクリバタで紐をひけば自動的に杼(ひ・さい)が動いて一日一反織れた。


・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

業歌(わざうた)

機織り唄

昔は、どの家でも機織りをしたもので、機の織れない娘は嫁のもらい手がなかった。

嫁入りゴを自分で糸を取り、自分で織り、仕立ててきたと話してくれたお婆さんにも何人か会った。

女の子は七歳ごろから糸引きを習い、十二、三歳で機にあがった。

地機から高織に改良されたのは明治中期ごろで、たいそう機織りが楽になったという。

一人前は一反を二日というのが相場で、一日一反織れが大変な手立ちであった。

 

哲西町

うちの娘は機織り上手

神か仏か天神様か

そばにゃ飾りもしめてある

上にゃ鳥居も立ててある

織れや織れ織れ機織娘

負けてくれるな兄嫁様に

チャランタン チャランタン

 

美作町

今日の一反チャンコロリ

昨日も一反チャンコロリ

向こうの紺屋へなげやって

紺屋さ紺屋さ染めてくれよ

 

染めてあげよう何色に

浅黄に駒形 紅鹿子紅鹿子

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

製糸唄

機織りは昭和初期までは、どの家でもやっていた。

糸車を使って綿の繊維から糸を引きだして、よりを掛けて糸を作った。

若い娘たちは一カ所に集まっていっしょに糸取りをした。

その方が楽しいし、能率があがり、技能も上達した。

 

勝央町

七つ八から糸取り習うて

今じゃ糸屋の嫁となる

くるりくるりと回れや座繰り

早くたまれよ枠の糸

 

・・・・

「神島史誌」  神島協議会 昭和60年発行


ハタ織り
明治の初めごろまでのハタは地機、
次に改良されて高機となったが、
綿糸の輸入とともに国内の綿作がすたれ、
ハタオリも次第にすたれ、
戦後なくなった。

・・・

 

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そうめん掛け場唄

2023年02月28日 | 民謡

素麺の三大産地は「播州」「奈良」「小豆島」だが、

近辺では小坂(鴨方)尾坂(笠岡)矢掛の三カ所が三大産地といわれている。

管理人は自称・素麺道1級だが、食べるのは、いつも地元の素麺と決まっている。

 

 

・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

素麺

製粉
この地方では小麦粉を製造するために水車が利用された。
最盛期の明治末ごろには、
杉谷川沿いに60カ所あまりが階段状に並び、
コットン、コットンと音をたてて稼働していた。
近隣からも製粉にしてもらう人々が、小麦を持って来ていた。
大正2年電気を動力とする自家製粉へ変化した。
昭和38年以降は、自家製粉の小麦粉から、大手製粉会社の小麦粉を使用し現在に至っている。


素麺作り

素麺作りは、12月から3月まで行われる。
以前は、4月1日からは杉谷川の用水を農業用水として利用するため、
この期日は厳しく守られていた。
素麺作りをする人の朝は早い。
朝の5時ごろから始まる。
なかたて・こね・いたび・ほそめ・こなし・こびき・門干し・小割り・結束と、
作業は連続して行われる。
素麺は天候に左右されやすく、
雨が降りそうになれば門干している素麺を納屋に入れ、
なかだては天気を考えながら食塩水を調合するなど、
気苦労の絶えない仕事である。

 

・・・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

そうめん掛け場唄

小麦ができ、粉をひく水車が利用できたこと、冬場に晴天の日が多い—

こういう好条件が矢掛町・鴨方町・笠岡市を中心とした地域に、

手延べそうめん作りを発達させた。

昭和15、16年ごろは最盛期で150軒もあった。

 

鴨方町

何の因果で そうめん職習うた

せめて朝まで寝る職に

掛けても掛けても 柴灯の量(かさ)減らぬ

誰が持て来て入れるのか

誰も持て来て入れるじゃないが

お手がにぶけりゃ減りません

 

矢掛町

アー歌い出したぞ

アーそうめん屋のちょんが

朝の寝声で細々と

アーそうめんなさらにゃ

アーほかに職はないか

せめて朝まで寝る職に

 

・・・・

 

撮影日・2013.4.16 (浅口市鴨方町)

 

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池普請団地子唄

2023年02月27日 | 民謡

昭和14年の西日本大旱ばつで、翌昭和15年には
多くのため池が新たに造られた。
笠岡市では新山の奥山池の作業者から直接聞いたことがあるが、
野々浜の森池の話と内容がほぼ同じだった。

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

池普請団地子唄

第二次大戦後まではほとんど手による作業で、機械は使われず

池を築く—堤防を築くのは人海戦術で行われた。

土を固める作業—築堤の中心作業であるが、

これは団地子(だんじこ)と呼ばれる女性の力によった。

溜め池作りは冬の仕事で、

赤い腰巻、赤だすきの腰からげ、

頭は手拭であねさんかぶり、手甲掛けという姿の団地子が、

音頭取りが上下に動かすザイヒあわせて囃しながら杵を打つ作業が続けられる。

10~30人くらいまでが一つの集団となって作業する。

 

ショコ踏み唄

朝も早よからよー コーラショ

弁当箱下げて

工事通いのいきのよさ

ショコイヨイショ

ホーイホイ

 

・・・・

 

「野々浜むかし語り」 野々浜公民館  1991年発行

森池

森池の造成は、昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人ぐらいの地元の者が、朝の8時から晩の5時まで働く。
成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、
つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、
土を積んではつき固め、また土を積む、という作業を繰り返して段々に築いていく。

 

この地固めには、松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固めた。
これには柄の4本ある二人用もある。
また「亥の子」も地固めに使った。
これは丸い石に鉄の輪をはめてそれに紐をつけ、紐を一斉に引っ張ると石は上がり、
緩めると落下するという仕組みだ。
15.16本も紐のついた亥の子をその当時3つも4つも使っていた。

・・・

 

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青春歌謡映画は楽しい「絶唱」

2023年02月24日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和41年日活映画「絶唱」

 

 

 

 

 

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智頭宿

2023年02月24日 | 【史跡】を訪ねる

智頭町を訪れた。
今も”智頭往来”の面影を残し、山々に囲まれ、千代川が流れる町。

 

(備前橋から見る千代川)

 

 

 

(備前街道では雪かきをしていた)

 

 

・・・

 

「鳥取県の歴史」 山中寿夫  山川出版社 昭和45年発行 

智頭宿

藩主の参勤交代の道筋で、智頭往来の要点でもあった智頭町は、
鳥取を出発した藩主の宿泊地となったところで、本陣がおかれていた。
馬や人足を用意しておく規定であったが、
冬季積雪のため交通路がふさがれたときには、
智頭町に駐在していた代官の命令で、百姓をあつめて雪をかきのぞき、
道をあけることになっていた。
また智頭は、備前街道の分岐点で、交通上の要所であったから、
商内市が月に6回、五・十の日にひらかれていた。

 

・・・

 

(智頭往来、このような大きな商家が並ぶ)

 

 

(「西河克己映画記念館」)

 

西河克己監督は名作「絶唱」を始め、数々の日活青春映画を残している。

 

 

撮影日・2023.2.21

 

 

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木山捷平

2023年02月24日 | 昭和21年~25年

近くに住むおば(父の妹)と、木山捷平は共通部分がある。

戦時中に満州に行き、戦後の満州で生死をさまよったこと。

 

・・・・


「木山捷平の世界」 定金恒次 岡山文庫  平成4年発行

渡満
昭和19年12月28日満州国の首都新京へ着任。
日本国内よりははるかに自由気ままな新天地での生活を味わう。
翌、昭和20年8月12日現地召集を受けて即日入隊。
その後、昭和21年7月14日引き揚げの途に着くまでの約一年間、
生死の間をさまよいながら難民生活を続ける。
文字通り極限状態の生活であった。
みさお夫人によれば、捷平は
「敗戦後の長春での一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた。」
と語ったという。

飢えて死に 凍えて死なん日もあらん されど我は人は殺さじ

 

 

帰国
昭和21年8月23日
引揚船から佐世保に上陸した捷平は、翌日夜郷里笠岡にたどり着く。
みさお夫人は次のように記している。
笠岡駅の出口で私は降りて出る人を待った。
リュックを背負った真っ黒い顔の小男が、ゆっくり降りて㑏ち止まっていた。
それが捷平であった。
「お帰りなさい」
「飯はあるか、酒はあるか」
これが出迎えた妻への第一声であった。
駅前の宿屋に一泊の約束をしておいた、玄関へ入った。
「酒をどしどしたのむぜ」
といいながら握り飯を食べた。
佐世保を出てからまだ飯を食べていないことを私に告げた。

・・・

おばは逃げまどう中、一子を亡くした。
生きて笠岡に帰ってきたが、
「それからがまた、たいへんじゃった」と話した。

捷平さんが言う、”満州での一年間の生活は、百年を生きたほど”
で、おばの年齢をいうと、
もうすぐ、おばは200歳になる。

 

撮影日・2023.2.20

 

 

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大砂塵

2023年02月22日 | 令和元年~

砂丘を歩いていたら大砂塵に出遭った。
ぼのすごい量の砂と風が身体に吹きつけた。
その後で、鳥取砂丘では初めて「風紋」を見ることができた。

 

 

 


※”ジャニーギター”で有名な西部劇とは関係ありません。

 

 

撮影日・2023年2月21日 (鳥取県)

 

 

 

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笠岡港小唄

2023年02月20日 | 民謡


個人的な思いを言えば、
”笠岡港小唄”が、
いちばん笠岡らしさを感じる。

えヽ 可愛い笠岡 忘らりょか


特にあの部分がいい。

 

 

・・・・

 

「笠岡港小唄」 

山田定男作詞

西條八十補作

平川英夫作編曲

唄 久保幸江 鶴田六郎

コロンビアオーケストラ

三味線 豊吉

 

一、

明日は出船と うち明けられて

つのる思いの 浜千鳥

乙女十八 涙を染めて

花も散ります 古城山

えヽ 可愛い笠岡 忘らりょか サ

 

二、

海の銀座は 日本にひとつ

一度おいでよ 涼み船

島の娘の 小粋な踊り

月に眺めて 島めぐり

えヽ 可愛い笠岡 忘らりょか サ

 

三、

恋のとも網 すげなくきって

君は出てゆく 時雨舟

休石には 名残りを惜しみ

秋の燕もとまるのに

えヽ 可愛い笠岡 忘らりょか サ

四、

景色うつくし 人情は優し

のびる笠岡 よい港

泊るひと夜が つい妻なれば

浮気ゃさせぬと むかい船

えヽ 可愛い笠岡 忘らりょか サ

 

・・・

 

撮影日・2014.4.6

 

 

 

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ヤットーサノサ

2023年02月19日 | 民謡

 

笠岡市用之江の盆踊り歌。

・・・・


「城見のあゆみ」 城見地区まちづくり協議会 2017年発行 

ヤットーサノサ

用之江地区で古くから継承され、
決まった歌詞はなく時勢に合わせた音頭で楽しく踊ります。
現在歌われている音頭の歌詞の一部を紹介します。
この音頭は、備後地方で発祥し、その流れをくんでいるといわれています。

 

 


口説く文句は 何よと聞けば ドッコイショ
用之江盆唄 歴史でまいろ

わしが生まれた用之江村は ドッコイショ
瀬戸内はるか 山里で

しや 備中小田郡と呼ばれ ドッコイショ
備後福山と お国の境

畑耕し 田んぼを耕し ドッコイショ
いも 麦 お米 果物つくり

貧しい中にも 絆があって ドッコイショ
向こう三軒ヤレ 両となり

じいもばあさんも 子どもも交じり ドッコイショ
秋は豊作ヤレ 氏子の祭り

 

・・・

 

 

撮影日・2018年3月31日(場所・用之江)

 

 

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笠岡市生江浜から、バスに2回乗り、船に2回乗って、笠岡市片島の祖父母宅に行く

2023年02月18日 | 昭和31年~35年

笠岡市民会館で「笠岡市美術展」が2/17~2/19で開催中。
会場で旧知のJさんに会った。
Jさんは古写真を見ながら次のような話をした。

 

赤い矢印が神島⇔片島渡船)

 

「母親は片島から生江浜に嫁に来ていた。
それで夏休みなど片島に何度も遊びに行っている。

生江浜の家から歩いて吉浜土手に行く、
吉浜土手からバスに乗って笠岡駅に行く、
笠岡駅からバスに乗って横島フェリー乗場に行く、
横島フェリー乗場からフェリーに乗って神島フェリー乗場に行く、
神島フェリー乗場から歩いて神島渡船場へ行く、
神島渡船場から渡し船に乗って片島渡船場に行く。
片島渡船場でお祖母ちゃんが出迎えしてくれた。

楽しみは、お祖父さんが魚の美味いのを食べさせてくれた。
夏休みでは、必ず(島の北側の)海水浴場に行っていた。」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

徒歩以外に、船便2回、バス便2回で

ずいぶん遠回りに感じられるが、時代背景の想いの方が強い。

なにより当時は山や峠を一つ二つは越えないと目的地に行けないケースが多かった。

片島へは、それがない。

(現在生江浜から片島まで、車で5分で行ける)

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

赤い矢印が生江浜⇔金崎渡船)

渡船のこと

神島⇔片島
船は片島で待っていれば、手を振って、声をあげれば、漕いてきていた。
船は神島・片島のどちらかで待っていた。
一人でも乗る人がいれば対応していた。
(廃止する前くらい)手漕ぎからエンジンが付いた船になっていた。


生江浜⇔金崎
廃止になるまでぎっちらぎっちら手漕ぎだった。
生江浜から金崎に行く客でバスに乗る人がいれば、船頭さんに知らせる。
船からバスが見えるので、船頭さんは旗を振ると、バスは船が着くまで待ってくれていた。

・・・・・

その他
大相撲のこと
(大相撲金浦小学校場所のこと)
あったゆうのは聞いとるが、ワシが小学校の1.2年生のときじゃって、見に行ってない。
笠岡の西ノ浜ではしょうたなあ。
今のホリディのふきん。
半分海か葦かゴミ捨てか、という場所じゃった。
そこへはサーカスもきょうたなあ。

・・・・

 

 

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