「明治30年代の生まれなら機織りの経験者」なら、祖母は機織りをしていたことになる。
父が「家に保管していた」と話していたが、その道具は祖母や曾祖母が使っていたものだろう。
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機織り
「岡山県史 民俗1」 岡山県 昭和58年発行
大正頃までは、機織りは女の仕事であった。
各戸に機があって、女たちは晴着から普段着・仕事着はもちろん、
布団・蚊帳に前掛け・手拭いに至るまで、
一切の衣料を織り出したものである。
明治30年代までに生まれた女の人は、ほとんど機織りの経験者である。
秋の収穫がすむと、春の彼岸まで、寒い時期は明けても暮れても、
糸引きと機織りだった。
高機で、一日一反織るのは難しい。
どんな縞にするかで、どの糸が、いくらくらいいるか決まった。
その計算を縞算用といい、難しいものだった。
ええ綿と悪い綿により分けた。
ええのは糸にひき、
悪いのは布団綿にした。
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「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行
明治の初めまでに全県下地機から高機になった。
ついで南部の一部にはシャクリを高機にとりつけシャクリバタとした。
明治30年~40年に生まれた女の人は殆どハタ織の経験者である。
ハタオリ 福尾美夜
昔、綿を畑に植え、糸車でひいて糸にしてハタにあげて織っていた。
女は家中の布の製作者であった。
新しい着物には想像もつかない位の手間がかかり、
できた喜びも大きかった。
新しい着物の袖に手を通せるのは一生のうち、数える位しかなかったのである。
布の縞や絣は主婦の腕の見せどころでもあった。
綿は植えられなくなり、糸を購入して織ることになった。
何と労力の節約だったであろうか。
ついで晴着は購入することになり、ごつごつした手織りは普段着、仕事着になり、
不細工で低価値とみなされた。
今ではハタオリを知る人すら少ない。
地域により家により違うが、明治20年頃までは殆どの家にハタがあり、だいたいどこも織っていた。
高機(たかばた)といって腰をかけて織るハタになり三日で一反くらいはかかったという。
シャクリバタで紐をひけば自動的に杼(ひ・さい)が動いて一日一反織れた。
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
業歌(わざうた)
機織り唄
昔は、どの家でも機織りをしたもので、機の織れない娘は嫁のもらい手がなかった。
嫁入りゴを自分で糸を取り、自分で織り、仕立ててきたと話してくれたお婆さんにも何人か会った。
女の子は七歳ごろから糸引きを習い、十二、三歳で機にあがった。
地機から高織に改良されたのは明治中期ごろで、たいそう機織りが楽になったという。
一人前は一反を二日というのが相場で、一日一反織れが大変な手立ちであった。
哲西町
〽
うちの娘は機織り上手
神か仏か天神様か
そばにゃ飾りもしめてある
上にゃ鳥居も立ててある
織れや織れ織れ機織娘
負けてくれるな兄嫁様に
チャランタン チャランタン
美作町
〽
今日の一反チャンコロリ
昨日も一反チャンコロリ
向こうの紺屋へなげやって
紺屋さ紺屋さ染めてくれよ
染めてあげよう何色に
浅黄に駒形 紅鹿子紅鹿子
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
製糸唄
機織りは昭和初期までは、どの家でもやっていた。
糸車を使って綿の繊維から糸を引きだして、よりを掛けて糸を作った。
若い娘たちは一カ所に集まっていっしょに糸取りをした。
その方が楽しいし、能率があがり、技能も上達した。
勝央町
〽
七つ八から糸取り習うて
今じゃ糸屋の嫁となる
くるりくるりと回れや座繰り
早くたまれよ枠の糸
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「神島史誌」 神島協議会 昭和60年発行
ハタ織り
明治の初めごろまでのハタは地機、
次に改良されて高機となったが、
綿糸の輸入とともに国内の綿作がすたれ、
ハタオリも次第にすたれ、
戦後なくなった。
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