しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

はみ(蝮)を食べる

2024年02月29日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

はみは怖かった。
噛まれると死ぬとも言われていた。
だが怖いもの見たさに、
ハミがいると素通りせずに長い棒切れで叩いて遊んでいた。


その頃(小学生の頃)毎年、庭の軒先にハミを棒差しして干していた。
よく干したら、父が粉にして煎じて飲んでいた。
飲むと力がつくと父は言っていた。
後年、
実はそれは、
祖父の残りものであることを母から聞いて知った。


祖父は畑でつかまえたハミを、その場で皮を剥いで血を吸っていたそうだ。
血を吸ったハミを父に渡し、父は骨を煎じていたに過ぎなかった。
その話を母から聞いて・・・・間もなくして、
笠岡湾干拓地の農地でハミに遭遇した。


その時、小学4.5年生だった長男と畑にいて見つけた。
ハミは塒(とぐろ)を巻いてこっちを見つめていた。
長男に、
「動かずにハミをじっと見ていて」(←にらみ合うとハミはじっとしている。これも母から聞いていた)
と言って鍬を取りにいって、持ってきた。
そして鍬の先端の金属部分で
思いっ切り頭を叩いて一撃で殺した。
無事成功したが、そのことがあってから
長男は誘っても、二度と畑に来ないようになった。

 

・・


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行


はみ

はみ皮をはぎ、内臓を除き、身に味噌をつけて焼いて食べる。
干して保存しておき、焼いて食べてもよい。
 回復、強壮剤になる。

・・

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


栄養価の高い蛇

まむし
蛇は虫とはいえないが、よく食べられてきた。
味が最もよいのは縞蛇でよく燻製にして食べられる。
青大将は体が大きいが、肉はあまりうまくない。
しかしその卵はコロイド状で脂肪に富み、茹でて食べると実に美味である。
胎生の蝮は、薬用として親しまれている。
全国各地で生きている蛇を売る店があるが、そこで注文すれば蝮を粉末にした生薬として売ってくれる。
蝮の中では赤蝮が一番薬効が高いので価格が高い。
日本では蝮をインドネシアから輸入している。
これを使用した保健剤も出廻っており、私たちは知らない間にその恩恵を受けているのである。

・・・


「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行


ハミは捕らえると皮をむき、骨を干す。 
少し切って焼いて食べるとか、焼いた骨をすり鉢に入れてすって粉にして飲む。
薬になるという。
ハミは丸ごと焼酎漬けにする家もある。
サカオ (シマヘビ)という蛇も薬になるといって、干した骨を焦がして食べる人がある。

・・・

 

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レンコン

2024年02月29日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

家の食事に使う材料で、野菜の場合、それは全て自家用で作ったもの。
または近所の農家とトリカエで交換したもの。
お金を使っての野菜の食材はなかった。
それは、ほとんどすべての日本の農家にいえること。


ウチに蓮やレンコンはなかった。
どこかの農家からもらったのだろう、レンコンは比較的よく食卓にあがった。
食べるのは酢レンコンで、揚げたりはなかった。
だから、レンコンと言えば酸っぱいものという思いが強い。

 

 

(父の話)

レンコン

レンコンは植えたことがあるが、ええ白いのが成らんのじゃ。

「おきのた」や「ししゅうだ」に植えてみたけど、ドロの質が悪いんじゃ。
じゃけいできたやつが茶色なんじゃ。
茶色じゃ町の人は嫌うし、売れん。

真っ白ぅなりゃあええんじゃが。茂平にゃ土地が悪い。
茂平でも「大東田」の真ん中へんでは白いのができる。

この辺じゃ、引野に多かった。

2002年8月5日

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

蓮根
蓮根はハスの地下茎で、古く大陸から渡来した。
池、沼などに植えられ、水田の端で作ることもある。

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

レンコン(蓮根)
沼や田んぼの水の中で栽培され、
サラダ、酢漬け、煮る、焼く、蒸すなど料理次第でさまざまな食感が楽しめる。

 

 

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食用油・酢・ソース

2024年02月27日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

文部省唱歌「おぼろ月夜」は小学生が6年になると、すぐに習う歌。
作った人は”文部省”だったが、今は”作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一”に訂正されている。

小学生当時に好きな歌だったが、野辺一面に咲く菜の花は見たことが無い。
城見地区では、田んぼのゲシに雑草の感じで咲く程度の春の花だった。
ただし、季節感のある花だった。

 

(「去り行く笠岡 生まれ出ずる笠岡」 笠岡路上観察研究会 2023年発行)


菜種油は、江戸時代には灯油や食用油で使用されたようだが、
近代になっても高価だったのか?
家庭で油を使った料理はほとんどなかった。

調味料は塩・醤油・味噌。
油は少々、
酢は柑橘類代用、
ソースは稀、
ケチャップ・マヨネーズ・ドレッシング等は、見たこともなかった。

 

 

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

菜種
明治末期ごろが最盛期で、以後漸減し昭和50年ごろ消滅した。
笠岡市尾坂道万の水車集落は、備中ソウメンの一産地であるが、水車を利用して菜種の搾油をしているものもあった。
菜種油をとった糟(かす)は肥料にしたり飼料にもなった。

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


庶民は橙酢、柚、梅酢などを用いた。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。

 

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行

胡麻油と菜種油(白絞油)が主たる食用油である。 
菜種は自家用に広く栽培された。
自家で絞るのは面倒なので、油屋へ菜種を持って行って油と交換するか、菜種を売って油を三~五合ずつ買ってきた。
食用にしたほか、カワラケに灯心をいれて灯火にした。 
菜種油を自家で絞った家もある(新見市豊永・ 草間など)。 
菜種を釜で炒って粉にし、絞った。
一斗あれば一年中使えたという。
油粕は肥料にする。
荏胡麻を作っていたところがある(新見市豊永佐伏字有立津・草間字大原など)。 
菜種にかわる以前には多く作られていたであろう。
荏胡麻油は油紙や雨傘に塗る油料であるが、灯油として用いたし、食用に供されることもあった。
美作では、実を豆腐に入れて揚げ、ヒリューズにした。少量でも第二次大戦までは各家で作った。


酢は橙酢・柚子・梅酢などが用いられ、柿のズクシで自家製することもあった。

・・・


「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

食用油
菜種は自給用に栽培し、油屋で絞ってもらった。
ゴマ油は購入したり、自給用に栽培したゴマと交換した。
ゴマは炒ってひたしにかけるとか、ゴマ塩にする。
また、炒ったゴマをすり鉢ですって、味噌とともにチシャもみやキュウリもみにする。
ナスビやタマネ ギ・ゴボウ・カボチャ、そのほか葉菜などに、ごく少量のゴマ油を落として煮た。
年間における油料の使用 料は、極めて少なかった。

人工食酢は店で買ったが、カキ酢・ダイダイ酢・ユズ酢などを使うこともあった。
シブガキやカキの木から落ちたずくしなどで、カキ酢を作った。
ダイダイ酢は鮨に入れたり、酢の物に入 れた。
ユズ酢も使った。

 

・・・

 

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水菓子

2024年02月26日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

管理人は果物作りが盛んな、岡山県小田郡城見村茂平の農家に生まれた。
父母は桃を主に、葡萄・枇杷・イチジクを栽培し生計を立てていた。
米や麦、野菜類は作ってはいたが、自給用やトリカエ用で、売ることはなかった。

学校の教科書で、日本人は明治になって牛肉を食べ始めたと習ったが
ウチで牛肉を食べることはなかった。
食べる肉といえば、ウチではニワトリ、学校給食ではクジラだった。

父母が作っていた果物はいったい、
茂平で、そして日本で、いつごろから作られ、食べられていたのだろうか。

「五穀豊穣」を建国以来の国是としてきた日本では、意外と新しく明治中期の
祖父母や曾祖父母の頃から。

でもなぜ、リンゴや桃の果物が明治に始まったことをおしえないのだろう?

 

 

 

「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行


果樹の話

庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。
生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。

 

 


「江戸の食生活」  原田信夫 岩波書店  2003年発行


江戸食べ物事情

巨大都市江戸における果実の流通は、基本的には幕府への献上物の余りを水菓子問屋が市中に売りさばく、という形をとるもので、彼らは幕府への納人つまり納方を 務めていた。
これは原則的に魚類や青物も同じであったが、
果物のうち紀州蜜柑・甲州葡萄・立石柿の三種に関しては、一般の水菓子問屋とは別個に扱われた。
それぞれの品種に応じた特定の問屋仲間が、これに指定されており、慶応年間(1865~1868)には八組に編成されて、計181軒の水菓子屋を組織していたという。
こうした水菓子屋について、古くは貞享四(1687)年刊の『江戸鹿子』に、江戸市中や四谷付近の要所で果物が売られていたことがわかる。

 

 

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金田一耕助さん

2024年02月26日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市真備町岡田「大池ふるさと公園」

 

今では金田一耕助さんと言えば、日本全国知らぬ人もいないくらい有名だが、
あれは1976年(昭和51年)の角川映画「犬神家の一族」が宣伝費をかけてブームを作ってから。

 

 

 


それまでの「金田一さん」と言えば耕助さんでなく、三省堂の国語辞書で有名な金田一「京助」さん。
しかも、
当時は野球の金田正一(かねやん)投手が活躍していて、「金田一京助」博士は
「金田一 京助」ではなくて「金田 一京助」であると子供たちは信じていた。


吉備郡真備町岡田は横溝正史が疎開し、そこで名探偵・金田一耕助さんを執筆した。
横溝が疎開した岡田はその後、倉敷市のベッドタウン化して変貌が極まり、
同行した妻は、かつて岡田で働いていたのだが、何一つ思い出せなかった。

 

 

今はかつての面影を探すように「金田一耕助の小路」が整備されている。

 

撮影日・2024.2.25

 

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「野崎家塩業歴史館」を見学する

2024年02月17日 | 昭和26年~30年

場所・岡山県倉敷市児島味野「旧野崎家住宅」
行った日・2024.2.15


江戸時代に開発された新田では、瀬戸内地方は、
”入浜式塩田”と”綿作”が盛んであった。
綿作は綿花の輸入自由化で明治30年頃、突然に衰退し、
入浜式塩田は流下式化で昭和30年頃、一気に消滅した。

岡山県も海辺で東西に塩田が連なっていたが、特に有名なのが
江戸時代後期の児島半島の野﨑武左衛門で「塩田王」と呼ばれた。
現在旧宅は国の重要文化財で、邸内に「野崎家塩業歴史館」がある。

館内に入浜式塩田の製法が展示されてたので、備忘のため記事にした。

 

 

 

①沼井堀り

毎朝沼井堀りから始まる。

この仕事がいちばんきついといわれる。

 

 

②土振り

掘った砂をひろげる。

 

 

③浜引き

砂をかきまぜる。

 

 

 

④砂寄せ。

写真にも写るが、この仕事は女性が多い。

 

 

⑤すくい込み

集めた砂を沼井に入れる。

 

⑥はなえ

沼井に海水を注ぐ。

 

 

⑦かん水足踏みポンプ

沼井のかん水をかんごうに送る。

 

⑧平釜

かん水を煮詰める。塩の結晶をすくい取る。

 

 

⑨上荷船

できた塩を運搬する。

 

 

 

他にも多くの塩業に関する展示があり、たいへん勉強になった。

 

 

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「野崎家のお雛様展」を見る

2024年02月17日 | 令和元年~

場所・岡山県倉敷市児島味野「旧野崎家住宅」
行った日・2024.2.15

 

20年ぶりに「野崎家」の見物に訪れたら、雛飾りの展示会をしていた。

 

(国の重要文化財「旧野崎家住宅」

 

蔵の展示室に入ると、大富豪にしかありえないお雛様が並んでいた。

 

山陽新聞
2024.2.17

華やかな雛人形200点
旧野崎家住宅で展示

倉敷市児島味野の製塩業で財を成した旧家に伝わる人形や雛道具を集めた「野崎家のお雛様展」が開かれている。
気品あふれる「享保雛」など華やかな人形が来場者の目を楽しませている。
4月7日まで。 
明治期を中心とした約200点を展示している。
高さ約80センチの享保雛は、野崎家3代目の武吉郎 (1848~1925)に旧岡山藩主の池田家から贈られた逸品。

京都の名工が手がけたとされる洋装の大礼服をまとった「明治天皇雛」、
布で立体感を出した「押し絵雛」なども目を引く。
「見えっ張り雛」と呼ばれるひときわ長い袖に豪華な刺しゅうが施された古今雛や、明治時代の日本画家・土佐光武による三幅対の掛け軸「立雛図」などが飾られ、枯山水の庭園から鑑賞できる。 同住宅の宮崎健司学芸員は「歴史を刻んだお雛さまたちの姿をめでてもらいたい」と話 している。

 

これが「享保雛」。

 

 

これが「明治天皇雛」。

 

言葉も出ない、手も届かない逸品揃いだった。

 

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西山公のトイレ

2024年02月17日 | 江戸~明治

東映「水戸黄門」

 

西山公が住む西山荘のトイレは杉が使われていたそうだ。

杉の葉っぱは、酒屋さんの軒先の杉玉が知られているが、
鮮魚やおせち料理でも見る。
そしてトイレにも使用された↓が、
それは黄門様の西山荘限定だったのだろうか?
それとも高位の武家や大店の商家にも普及していたのだろうか?

 

(岡山県井原市・田中苑の「西山公」 2023.11.2)

・・・

「トイレの考古学」 大田区立郷土博物館 東京美術 平成9年発行

 スギ

植物との関係で忘れられないトイレに、徳川光圀が隠居した西山荘(茨城県常陸太田市)の小使用トイレがあります。 
ここでは、熨斗(のし)の形をした小便器が部屋の隅に備え付けられています。 
熨斗の形は上の方が直角になっていますが、この部分が部屋の角に合わせて置いてあるので、
便器を跨(また)いで用を足すことになりま す。 
そこで、周りに小便が跳ねると困るので、便器の中にスギの葉が敷いてあるのです。
 
このスギの葉は大変便利で、 
小便が跳ねないだけでなく、
用を足している時の音が聞こえなくなる、
匂いが消せると、
3つの利点があるのです。

・・・

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表町の時計台

2024年02月11日 | 無くなったもの

場所・岡山市北区表町三丁目
撤去工事・2024.2.20~2.23
撮影日・2016.8.6(うらじゃの日)

 

岡山の表町(おもてちょう)商店街にある時計台が無くなると夕方のテレビニュースで放送があった。
表町には北と南に、二つの時計台があり、今回報道されたのは「南の時計台」。

西大寺町と千日前が交わるところ、普段人通りの少ない表町南部の商店街。
新しい市民会館の「岡山芸術創造劇場ハレノワ」が2023年9月完成したので、
戦前の通りのにぎわいを復興させようと行政が力を入れている地区。
他にも市は、路面電車の路線延長を検討している。

 

 

・・・

山陽新聞記事 2024.2.10

「見守ってくれてありが とう」「ずっと忘れない」。
イベントスペースの整備に伴い、撤去が決まった 岡山市表町商店街南部の時計台。
半世紀以上の歴史に幕を下ろす地域のシンボルに感謝を伝えたいと、
市民メッセージカードを貼っている。
矢部久智組合理事長
「新たな場所に生まれ変わると前向きに撤去の日を迎えられるよう、みんな思いを寄せてほしい」としている。
遅くとも1960年代に設置されたとみられる。撤去工事は20日に始まる予定。

・・・

 

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星島二郎

2024年02月11日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市下津井吹上


星島二郎先生は岡山県内有数の大庄屋に生まれ、
東京帝大を卒業後法曹界はいり、その後政治家へ転じた。

戦前~戦中~戦後、およそ46年間衆議院議員を努めた。
その間、
昭和17年の”翼賛選挙”を非推薦で当選した。
昭和26年の”サンフランシス条約”で、日本の独立に立ち会った。
昭和33年に”衆議院議長”に就任した。
その風貌は”賢人”そのものだった。(風格ある顔写真の選挙ポスターが人気で、盗難するニュースもあった)

 

「ライシャワーの日本史」  エドウィン・O・ライシャワー 文芸春秋  1986年発行


1951年9月8日、平和条約がサンフランシスコで調印された。

48ヶ国が対日平和条約に署名したが、
日本に隣する二つの大国、中華人民共和国とソ連は、これに参加しなかった。
中国に次ぐ多数の人口をかかえるインドもまた、講和会議に欠席した。


平和条約によって、日本はこれらの地域の領土権をすべて放棄した。 
したがって平和条約は、日本の領土が本州、九州、四国、北海道の主要四島と、これに付属する島嶼に限られることを追認したことになる。
しかし平和条約は、どこの国の帰属とすべきか、それを特定しなかった。

また、いくつかの基本的な問題についても、明記しなかった。
たとえば賠償問題だが、 論議のないままに、あいまいな状態で残された。
朝鮮戦争が勃発してアメリカ地上軍の大部分が日本から朝鮮半島に移動した結果、
七万五千人の警察予備隊が創設された。
これはいわば、陸軍の卵のような性格のものであった。 

 

 

撮影日・2024.1.31

 

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