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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

行商人・金光町

2020年06月30日 | 市町村史
金光町に来ないが、茂平に来ていた行商人を思う浮かべると

鍬と鎌の行商人
”かまかいなー”の小父さん。「鎌を買いなー」と弁慶の七つ道具よろしく、全身に鍬と鎌を付けていた。
鞆から来ていると聞いてた。

屑鉄商人
道に落ちた釘などを集めて、小父さんがくると売っていた。手にした天秤ばかりで計量し、5円ほどもらっていたような気がする。



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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行


農山村の多くは、道も悪くて日用品を買うにも歩いて一日がかりの仕事になるところもあった。
この不便さを補ってくれたのが行商である。

魚売り、昆布売り、小間物売り、塩売り、油売り、金魚売りと季節に応じて行商が来ていた。

玉島や笠岡から来ていた小間物売りは七段の引き出し付きの箱を天秤で担ぎ、草履履きで「ご用はありませんか」
と各家を回っていた。

昆布、わかめ、あらめなどを籠に入れて、頭上に載せ女性が売りに来ていた。北木島方面から来ていた。

薬売りは、富山、総社から来ていた。
大風呂敷に包んで背負ってきていた。
年に1~2回得意先を回り、薬袋の交換、補充と集金をしていた。
子供への土産に紙風船をくれた。

塩売りは、
秋の漬物をするころ、黒崎の人が魚籠に塩を入れ、天秤棒で担いで売りに来ていた。
升で計って売っていた。

海苔売りは、
毎年春と秋、島根や鳥取から来ていた。若い女性が絣の着物に手甲、脚絆姿で風呂敷に海苔を包み背負ってやってきた。


行商の他、職人もたくさん回ってきた。
鋳掛屋、
桶屋、
羅宇屋、
石屋、
時計や洋傘の修理屋。


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行商人・大津野村野々浜

2020年06月30日 | 市町村史
行商人が来るのは楽しかった。
たいていが徒歩で、天秤棒か風呂敷を背負っていた。

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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行より転記



福山や尾道から大きな荷を背負ったおばさんらが汽車に乗り、大門駅で降りては村内を売りに歩く。
持ってくるのは干物やいりこ、鮮魚、野菜とかだ。
引野や用之江の方からは呉服屋や雑貨屋が来る。
行商人たちの荷の運び方は、自転車に積む者、籠に入れて背負う者、てんびん棒に下げる者など様々だった。

この頃は行商人から買う方が多く、町に買い物に行く機会は少なかった。
百姓の仕事が忙しい中で、汽車賃まで使って町に買い物に出るのはたいぎだが、行商人なら居ながらにして買える。

行商人は、一軒一軒たずねていた。
どこの家も良いお得意だし、その頃は家がまばらで大声をあげてもあまり意味がない。
ただアイスクリームだけは鉄の笛をピリピリ鳴らしながら、自転車に旗を立てて売りに来たし、横尾飴も横笛を吹きながら売りに来た。


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満蒙開拓団③浩良大島開拓団

2020年06月30日 | 昭和11年~15年
笠岡市史には「浩良大島開拓団」は昭和20年8月23日、博多に上陸。
と記されているが、
いかにいっても、8月14日に佳木斯を出発し8月23日博多上陸は無理がある。博多は昭和21年だろうか?

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「笠岡市史第三巻」平成8年 ぎょうせい発行


零細な農地と、低い生産性の苦悩で村長は
「もっと多くの農業生産によって国家にご奉公せねばならぬ。
急々にも300戸分村を満州に行うの要あり」
昭和15年11月、分村決議をした。

昭和16年1月16日、先遣部隊20名が満州東北部ソ連国境に近い佳木斯(じゃむす・ちゃむす)の北西に位置する所に出発した。







昭和16年4月1日、
「第十次浩良大島開拓団」とした。
先遣隊20名は8名に減じた。

昭和19年5月5日、国民学校ができた。生徒数高等科までで9人。
赤痢が大流行した。
後続の団員募集は、寄島・里庄・鴨方にまで募集した。

昭和20年8月ソ連の参戦により17才から45才までの男性は、根こそぎ動員された。
8月14日から避難を始めた。
団長はハルピンに拉致され、取り残された老人婦女子は、幼児のハシカ、死亡続出と苦難を克服しながら南下して、
新京に着いたとたん発疹チブスが流行し、長い長い苦難の道程を経て、8月23日博多に上陸。大島村に帰着した。

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満蒙開拓団②阜新芳井開拓団団長

2020年06月30日 | 昭和11年~15年
「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集 ぎょうせい 平成3年発行 より転記。

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元阜新芳井開拓団団長 山本隆之

第十三次阜新芳井開拓団の概要
満蒙開拓団は昭和7年を第一次とし終戦の昭和20年第十四次をもって終末を告げた。
芳井分村開拓団は昭和19年2月現地入植から、昭和20年8月15日終戦、収容所の生活を経て
昭和21年5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、昭和21年6月2日芳井町に帰り、
満洲開拓団としての集団生活は解かれたのである。

昭和17年夏、
1・芳井村分村が町会で分村移住が議決された。
2・入植地も決定、開拓地400町歩確保、200世帯の分村開拓団を編成する。
3・募集は芳井町を中心に、後月郡内から希望者を募集。
4・できるだけ中堅青年および家族で結団する。
5・本年中に、一部入植するのが国との約束になっている。
6・その他

幹部5人を決定
幹部訓練に茨城県内原の満蒙開拓幹部訓練所へ行く。
家族の生活、入植のこと、団の編成等々
気候風土、人情道徳、言語、習慣、食生活に至るまで未知の世界である。
我が開拓団は農業開拓団である。作目・農耕方式そのすべてが第一歩であるだけに、
不安と疑問の多い渡満となった。

紀元節の入植式
昭和19年2月11日、形ばかりの入植式を挙行した。
五族協和の先兵となり、安住の楽土満州国の平和のために、第二の故郷満洲に骨を埋める覚悟で
開拓の大事業に挺身しようと語り合った。

満洲開拓 心得帳
1・日本民族であるという誇りを持ち大和魂の精神を失ってはいけない。
2・生命を尊び死を怖れず皇国のために殉じる覚悟を忘れてはいけない。
3・異郷の地での開拓であるから他民族と仲よく協調しなければならない。
4・他人に親切にする。楽は人に譲り苦は自分で引き受けるように努める。
5・規律を重んじ命令に従い、我が任務は責任をもって遂行すること。


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池の水、全部抜く①

2020年06月30日 | 農業(農作物・家畜)




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岡山県中央町誌(民俗編)


コイトリ


一般には「コイトリ」あるいは「フナトリ」という。
最後の水やりは9月中旬で、
秋に池が干上がった後、3年に一度くらい「コイトリ」をした。
池の修理とヘドロ取りを兼ねるものであった。
フナはこの地域の貴重なタンパク源で、しかも「無塩」であった。
当時、
行商人から買うのは塩サバや塩アジの干物などであり、生ものを食べる機会は少なく貴重であった。
フナはザルに入れて干したり、内臓をとって串刺しして炭火で焼き、干物にした。
コイは泥臭く、泥をはかせてから料理をした。
タニシは身をとって佃煮にして食べた。
エビもおいしかった。

コイの放流
6月に田植えをした後,一反当たり2cmくらいの稚ゴイを100匹ほど放流する。
田の「水落とし」をする9月中旬には、20~30cmに育ったコイが田の溝に集まる。
一反あたり30匹が育つ。
育てたコイは池に放流され2~3年かけて大きくなる。

ウナギ
ウナギを追いかけ掴み採りする姿が面白くて見物に来る人も多かった。
池の土手は見物客でいっぱいになった。

お祭り騒ぎであり、地区をあげての行事となった。

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金光町史では毎年の行事のように書かれている。
茂平でいえば「イナとり」と似ている部分が多い。

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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行



溜め池と漁撈

金光町は、備中ひでりに対応するために灌漑用の溜め池が多く築かれた。
溜め池の築造者はいずれも地元の庄屋である。



横池
秋の稲刈り前に溜池を干して魚とりをする。
水の少なくなった溜め池で魚を突いたり、魚をたたき切ったり、網ですくって補採する。
魚取りに使うテダマ網にも大小があり、大きいのは径70~80センチ、柄の長さ1.5m、網目30目ぐらい、自製の場合が多い。
魚とりには、昔は触れ(通知・しらせ)を出していたが、現在はクチコミで、金光町近在の人が集まってくる。
町民各自が漁具を持ってくる。
池水を抜く9月上旬には溜め池から流れ出る溝川に網を張ったり、溝川にドジョウ網を設置して、池から出てくる魚を捕る。
魚とりの触れには、期日・料金なで決められている。
池の世話役が胴元になる。

枡池
魚とりをウオトリ、イオトリなどという。
コイ、フナ、ウナギ、雷魚、カメなどをテダマ網、ウナギカキなどでとる。
どじょう籠、ウナギ籠も池に沈める。

金地池
世話役をつくり、世話役を胴元という。
魚とりには入札をし、入漁料をとって許可をしていた。
当日には、テダマ網、ウナギカキを持ってフナ。コイなどをとる。

中池
池干しではウナギ、コイ、フナ雷魚などをとる。
池を干すには地主の許可をもらい、魚取りをする。
とった魚を地主のところに持っていくと、池の水換え賃、池干し料金として地区民に金を渡してくれていた。
溜め池は8月10日ごろまでは水をためて、9月中旬には池水を抜いていた。
ちょと照り込み、溜池の水が少なくなるころ、魚とりをする。
網はテダマ網、三角網、投網などである。
網は夏の農閑期に手入れをしておく。
柿渋で網を染めるのも、この時期である。網を染めるのは山柿である。
溜め池の水は命水(いのちみず)といって大切にしていた。
魚とりの当日には、近在の農民が溜め池のところに集まり、
始まる時間を待ちわびる光景がみられた。


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岡山空襲75年・父の話

2020年06月29日 | 父の話
当時父は軍隊へ三度目のご奉公中で、本土決戦の要員か、岡山陸軍病院に詰めていた。
子供が1.5人いた。(0.5人は母のお腹にいた)

今日は岡山空襲75年で、語り継ぐことの報道がなされている。
このブログにも、その1ページを添えよう。


昭和20年6月29日の未明、岡山市は空襲で焦土に。死者1700人余。

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(父・昭和20年茂平の実家にて)



父の話・2000年12月3日



茂平の実家に帰った時に空襲が

空襲の時は、茂平に帰っていた。
茂平に帰ったその日岡山空襲があった。
すぐ帰れ(多分電報だろう)というので
すぐニギリメシを作って、リュックを背負い汽車に乗った。
汽車で帰ったが倉敷からさきは汽車は動いてなく。あるいて陸軍病院までいった。
おじいちゃんは運が得かった。
死んだ看護婦もいるし、兵舎は焼けてしもうた。残ったのは(自分が持って帰っていた)カバンだけじゃた。
満がエエ。



西川の死体

西川には多くの死体が浮いていた。
脚にはきゃ半をまいたままの状態の人もいた。
熱いので川に飛び込んだのと、飛び込んではみたが煙と酸欠とで窒息・酸欠・呼吸困難みたいなので死んだ。
外傷はだからない人が多い。
それと若いひとは元気なのでとにかく安全なほうへかけって逃げる。
死体は年寄りが多かった。
陸軍病院に老人の軍医さんがいた。中尉じゃった。軍医さんが空襲後帰ってこないので探しに行った。
軍医さんには玉野造船所に息子さんがいっていた。その夜は偶然息子さんが帰ってい(たのだろう)て、
息子さんと同じ場所で死んでいた。
本当にかわいそうであった。
(息子さんが偶然帰っていて、父とともに死んだ。また息子さんだけなら逃げれたであろう。)
(死体を)焼いて遺骨を持って帰った。
そしたらまた飛行機がきた。撃ってくるか思ようたが撃たんまま帰った。(空襲後の成果の)偵察じゃった。
アメリカはそうやって発表しょうた。(日本の発表はいいかげんなが)




(戦争遺跡・西川の「田町橋」・2019.8.4)





奉還町は焼かれずに

天満屋や銀行の鉄骨が残っていた。
燃えたのは鉄道より南。
おじいちゃんが岡山に帰った時はまだ燃ようた。
奉還町だけが焼けてなかった。
駅より南が(町の)主じゃったけど、奉還町と番町は焼けとらん。
ミッションスクールがある。あれが、あるけいじゃけい(アメリカは)焼かなんだゆうてようた。
スクールミッションが、清心女子大があるけい。
駅から前はみな焼けとった。




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米騒動⑧米騒動100年

2020年06月29日 | 大正
「米騒動100年」北日本新聞社編集局 2018年発行 



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おかかの叫び

鍋割月(なべわりづき)
かつて富山県東部の漁師町の人々は、夏をそう呼んだ。
魚もほとんど揚がらない。
からっぽの鍋を火にかけると割れてしまう。
田畑を持たないその日暮らしの漁師にとって、一番苦しい時期だった。
「夏は命が涸れる。餓死は当時、身近にあるものだった」。

・・・

以前から、この時期に米価が高騰すると、県東部では漁師一家をはじめとして下層社会の女性たちを中心に、米の安売りや、積み出し停止要求が幾度となく起きていた。
いずれも哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかった。
ところが「高岡新報」が報じて以降、全国に米騒動情報をリードした。

・・・

明治後期になると、都市人口の増加や、農村にまで米穀消費が拡大したことにより、日本米の供給が需要に追い付かなくなってきた。
その結果、米価は頻繁に上昇するようになり、その都度安価な海外の米穀が、困窮する庶民の代用食として持ち込まれてきた。
まず、ジャポニカ米に属する朝鮮米が持ち込まれ、限界に達したときは外米が輸入されていたのである。


・・・

江戸時代、在米が減り米価が高くなると加賀藩が「津留(つどめ)」(移出禁止)を命じたこともあり、女性たちは「正当」だと信じていた。

当時の男たちは「騒動は女たちが勝手にやっているもの」と捉え傍観していたようにも見える。

・・・

背景の一つに、制限選挙制度がある。
当時は、有権者は全人口の1~2%。
このため、四民平等となっても、政治を「お上のもの」の考えが根強く残った。
1920年代には男子普通選挙制度が成立し、米騒動がいかに日本の大きな転換点であったかがわかる。


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米騒動⑦岩波新書

2020年06月29日 | 大正
「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書 2007年発行 



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1918年(大正7)夏に、
富山県西水橋町、東水橋町、滑川町、魚津町など日本海沿岸の人口一万数千人の中小都市に暮らす女性たちが、
船で積み出される米の阻止を図り、集団で役場や詰所に押し掛けた。
男性たちは、
北海道や樺太に遠洋漁業に出かけており、女性が行動の担い手になった。
女性たちの動きを地元の『高岡新報』が伝え、さらに『大阪朝日新聞』「大阪毎日新聞』が、高岡新報による「女一揆」として報じた。

発火点
夏場の端境期で米が品薄であった。
シベリア出兵のため米の買い占め、売り惜しみがなされた。
「物価騰貴」「生活難」という言葉が、雑誌や新聞に飛び交った。
大戦景気で一定の向上が見られたときに、生活の下降が余儀なくされる。

連鎖反応
8月8日、岡山県落合町で米の移出禁止と廉売りの町民大会を開催。
その騒動は岡山県全体に拡大した。
近畿地方は、
大阪では8月11日、
天王寺公会堂で市民大会。演説の後、人々は「雪崩を打って、府庁に行け行け」と通りを行進。
日本橋に至り「付近の米屋を襲いて25銭の量り売りを始め、近隣の嬶連は、バケツや飯櫃を携えて店頭に集まり、雑踏を極めたり」(8月12日東京日日新聞)
また、
公会堂が満員のため入れなかった人びとは、露天演説を始め三千人で付近の米屋を襲ったという。
その後、さらに拡大し、市内各所で米屋が襲われ、
「大阪全市殆ど壊滅状態」(8月14日大阪日日新聞)といわれる状態となる。
神戸では、
鈴木商店が「石油缶」に火を放ち、焼き討ちしてしまう。
東京でも、
8月13日日比谷公園に数百人が集まり騒動を起こしている。



全国化
米騒動の発生件数が最大となるのは8月13日であった。
一道三府38県、
49市217町231村と29炭鉱。
九州中国では、炭鉱の暴動。
宇部では賃金増を要求して暴動。
「4.000人集合して、米商他を襲い、署を破壊、電話線を切り、炭鉱事務所・住宅等に放火、遊郭を襲い灰燼に帰せしめたり」(東京日日新聞8月19日)
また、被差別民も参加した。
津市では、主要な担い手を被差別の人々が占め、和歌山県内でも参加が指摘される。
このことは、ことさら被差別の行動を言い立て、裁判で彼らに厳しい刑を科す理由ともなった。


語る人々
日本弁護士協会の太田資時は、
①米価高騰と政府の不備による、生活不安。
②鉱夫の暴動、小作人の余憤。
③被差別の境遇上の不満。
を挙げた。
米屋の打ちこわしが目的でなく、「一升25銭で売れ」という要求を出した。行動に統制が取れていた。
石橋湛山は、
政治的危機を画するもの、とした。
星島二郎は、
政治問題・社会問題・思想問題・その他、種々なる意味が含まれている。

騒動鎮圧
寺内内閣は、緊急輸入した「外米」や白米の廉売で民心をなだめようとした。
寄付金を利用して救済も行う。天皇家はじめ、財閥、富豪が応じた。
鎮圧には警察のみならず軍隊が出動し、122ヶ所100.0000人に及んだ。
25.000人が検挙され、7.786人が起訴された。
死刑2人、無期懲役12人。
逮捕者は職工・日雇い・職人・商人、中流以下の広範な参加者があった。
米騒動は民衆の力を見せつけることとなり、統治でも転機をつくり出す。
寺内内閣を辞任に追い込むこととなった。

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米騒動⑥小田郡笠岡町その4

2020年06月29日 | 大正

「笠岡史談第14号」昭和50年 木下タイプ発行 より転記



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米騒動余聞


笠岡の米騒動では篠井米店襲撃が知られているが、それより前、騒ぎ立てる民衆は、仁王堂・遍照寺の大師堂の前に何百人となく集合していた。
米屋の暴利をつき、あそこへ行け!の野次の中で、土岐其らが演説していた。
それ行け、という声で出陣、
まず篠井店に行き、閉めていた入口を大八車で勢いをつけてやぶった。
それから駅前の寺岡米問屋へ行ったが、米が無かったので、駅前・陸橋近くの内海米店へ向かった。
ここで割り木を投げて入り込み、米をばらまいた。
次に真入川筋の村上店に行ったが、うどん・米少々しかなく、話がついてあばれず、安売りですんだ。
西浜の仲仕は笠岡町東の店々が得意先なので、大したことはしなかった。
(芝勢氏談)





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米騒動⑤小田郡笠岡町その3

2020年06月28日 | 大正
「笠岡史談第13号」昭和50年 木下タイプ発行 より転記

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(県警の禁止令で)
では、その新聞に載らなかった事実を、古老に聞いてみよう。

安那氏(77才)
私が21才の時でした。
西本町の篠井米店に、大勢押しかけているという事で、私も見物に行きました。
笠岡でもいつかは騒動があるだろうと、半ば期待のようなものがあったのでしょう。
今から思えば篠井さんも気の毒でした。
ちょうど悪い時に、立派な家を新築したばかりで、群衆のねそみも強かったのかも知れません。
檜の分厚い雨戸を閉めている処へ、二、三人が石を抱えて来て、ドカンドカンと投げつけて、何枚か壊してしまいました。
見物人がだんだん増えて二百人にもなりましたでしょうか。
時の笠岡警察署長が、白服にアゴ紐掛けた巡査を連れて駆けつけてきましたが、専ら低姿勢で、
皆さんお静かに、お静かに願います、と必死で押さえようとしていました。
日頃”天神”と称するヤクザがいて、その晩、群衆の代表なような形で上がり込み、平身低頭している篠井さんに威丈高になって、文句を言っていました。
腕まくりして群衆に向かい、”お前らの気に入るようにしてやるから待っとれいょ”と肩をそびやかせていたので、覚えています。

小見山氏(77才)
私は敷紡に勤めだしたばかりでした。
昼前だと思うが、
「米騒動だ」というので、正門の前に出てみると、駅の東、陸橋の下の辺に、田中という米屋があって、ワァワァと人声がする。
店の中には、沖仲仕のバンジーと称する豪傑がいて、土間にある箱の中から桶にすくっては、表の道路へバァーと振り撒く。
見物人は手を叩くもの、もっとやれいとけしかけるもの、中には女の人なぞが、チョコチョコ走ってきては、米を拾って逃げていく者もある。
どきどきして見ていました。

・・・

天神を軽薄と呼ぶなかれ、彼には体面や保身を思う利己心がないのである。
我が身のことを忘れて乗り出してゆく侠気がある。
壮士に価する。

バンジーは浜仲仕、祭りの時、船神輿の先導をやり、もどせ、もどせで評判の悪い店先や軒を引掛けてこわした。
叡山の荒法師の痛快さがある。

篠井米店襲撃の翌日、警察の要請で消防団が召集されようとしたが、ここに一人の反対者がいた。
古田という纏持ちで、召集に頑として応じない。
「米が高くて困る我々が、何で高くなることを喜ぶ連中の番をしれやらねばならんのだ」。
幸か不幸か、その晩何事もなかった。


笠岡町からは起訴者は1名、
天神が起訴され懲役5年だった。


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