「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書 2007年発行
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1918年(大正7)夏に、
富山県西水橋町、東水橋町、滑川町、魚津町など日本海沿岸の人口一万数千人の中小都市に暮らす女性たちが、
船で積み出される米の阻止を図り、集団で役場や詰所に押し掛けた。
男性たちは、
北海道や樺太に遠洋漁業に出かけており、女性が行動の担い手になった。
女性たちの動きを地元の『高岡新報』が伝え、さらに『大阪朝日新聞』「大阪毎日新聞』が、高岡新報による「女一揆」として報じた。
発火点
夏場の端境期で米が品薄であった。
シベリア出兵のため米の買い占め、売り惜しみがなされた。
「物価騰貴」「生活難」という言葉が、雑誌や新聞に飛び交った。
大戦景気で一定の向上が見られたときに、生活の下降が余儀なくされる。
連鎖反応
8月8日、岡山県落合町で米の移出禁止と廉売りの町民大会を開催。
その騒動は岡山県全体に拡大した。
近畿地方は、
大阪では8月11日、
天王寺公会堂で市民大会。演説の後、人々は「雪崩を打って、府庁に行け行け」と通りを行進。
日本橋に至り「付近の米屋を襲いて25銭の量り売りを始め、近隣の嬶連は、バケツや飯櫃を携えて店頭に集まり、雑踏を極めたり」(8月12日東京日日新聞)
また、
公会堂が満員のため入れなかった人びとは、露天演説を始め三千人で付近の米屋を襲ったという。
その後、さらに拡大し、市内各所で米屋が襲われ、
「大阪全市殆ど壊滅状態」(8月14日大阪日日新聞)といわれる状態となる。
神戸では、
鈴木商店が「石油缶」に火を放ち、焼き討ちしてしまう。
東京でも、
8月13日日比谷公園に数百人が集まり騒動を起こしている。
全国化
米騒動の発生件数が最大となるのは8月13日であった。
一道三府38県、
49市217町231村と29炭鉱。
九州中国では、炭鉱の暴動。
宇部では賃金増を要求して暴動。
「4.000人集合して、米商他を襲い、署を破壊、電話線を切り、炭鉱事務所・住宅等に放火、遊郭を襲い灰燼に帰せしめたり」(東京日日新聞8月19日)
また、被差別民も参加した。
津市では、主要な担い手を被差別の人々が占め、和歌山県内でも参加が指摘される。
このことは、ことさら被差別の行動を言い立て、裁判で彼らに厳しい刑を科す理由ともなった。
語る人々
日本弁護士協会の太田資時は、
①米価高騰と政府の不備による、生活不安。
②鉱夫の暴動、小作人の余憤。
③被差別の境遇上の不満。
を挙げた。
米屋の打ちこわしが目的でなく、「一升25銭で売れ」という要求を出した。行動に統制が取れていた。
石橋湛山は、
政治的危機を画するもの、とした。
星島二郎は、
政治問題・社会問題・思想問題・その他、種々なる意味が含まれている。
騒動鎮圧
寺内内閣は、緊急輸入した「外米」や白米の廉売で民心をなだめようとした。
寄付金を利用して救済も行う。天皇家はじめ、財閥、富豪が応じた。
鎮圧には警察のみならず軍隊が出動し、122ヶ所100.0000人に及んだ。
25.000人が検挙され、7.786人が起訴された。
死刑2人、無期懲役12人。
逮捕者は職工・日雇い・職人・商人、中流以下の広範な参加者があった。
米騒動は民衆の力を見せつけることとなり、統治でも転機をつくり出す。
寺内内閣を辞任に追い込むこととなった。