昭和30年代の城見に、
文盲の人たちは何人もいた。
その当時の城見小学校では「運動会」と「学芸会」のプログラムを全家庭に配布していた。
校長先生は全児童の前で、
「読めない方もおられるので、読むのを頼まれたら、必ず読んであげること」
と訓辞していた。
小学生が在学していない家に配って歩いていたが、
上級生からの言い伝えで、どの家がその人であるか知っていた。
すぐ近所のおばあさんも、文盲の人だった。
そのおばあさんは母に、
「子どもの時、マンの悪いことが重なっておきた」と話していたそうだ。
ほとんどの家庭が貧しかった時代に、さらに「マンが悪い」ことがあった家庭の子どもが、
不幸にも満足に学校に行けなかった。
そういう気の毒なおじいさん・おばあさんであることは、子ども心に自然と認識していた。
・・・
・・・
「学校の歴史第2巻小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
明治33年小学校令が大幅に改正された。
尋常小学校はこれを四年に統一し、三年制を認めないこととした。
高等小学校は従来通り二年、三年または四年とした。
この改正によって義務教育は四年となり、全国民に共通な四年の基礎教育の課程が成立したのである。
さらに二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することを奨励し、近い将来、義務教育年限を六年に延長することに備えることとした。
義務教育については、「学制」以来徴収されていた授業料を尋常小学校では徴収しないことを原則とし、
さらに就学の始期及び終期を学年と関連づけて明確にするとともに、
義務教育と児童労働の関係についても、学齢児童を雇備する者は雇傭によって就学を妨げることはできないこととした。
小学校の学年・学期についても、
学年は4月1日に始まり翌年3月31日に終わり、
小学校の4月の一斉入学、
進級・卒業も一斉に行うと法制化した。
学級編制については、小学校の規模を12学級以下に制限し、
また1学級定員も尋常小学校で70人以下、
高等小学校では60人以下と定めるなど小学校の形態を整備したのである。
明治の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。
尋常科・高等科併置の小学校は、明治33年から40年までの間に二倍を越える増加を示した。
こうした小学校の設置状況を基盤に、明治40年、尋常小学校を六年制に延長した。
・・・
「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
A. 第1期 (最初)の国定教科書
最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。
・・・