管理人の通った城見小学校・金浦中学校は、ほとんどの親が農業・漁業の家で、
転校して来る生徒、去る生徒といえば、お巡りさんの子どもくらいだった。
そのお巡りさんも笠岡市から笠岡市への転任だが、当時は当然のこととして転校していた。
自分の記憶では9年間で、同級生に限れば転校生は2人いただけ。2人とも親がお巡りさんだった。
つまり小中学校の9年間の同級生全員に「故郷」があり、全員が「故郷」とは「笠岡」だった。
転校生とは漫画や読み物に登場する人物のことだった。
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大阪府高槻市に住むおば(父の弟の妻)が、「これが最後」と言いながら故郷の笠岡を訪問した。
高齢のおばには、従弟妹がつきそいで同行した。
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従弟妹の話 (2024.11.21)
おじとおばは笠岡市出身だが、その子たちは大阪で生まれ、親の転勤で転校を繰り返した。
従弟
僕は小学校と中学校で、大阪と名古屋と東京と、6回引っ越しして5回転校した。
だから故郷がない。
「ふるさと」という、言葉にあこがれる。
僕の故郷はどこなんだろう?
就職後に、商談や飲食の席で、「出身は?」ということが会話になることがよくある。
東京にいる時は「大阪です」と答え、
大阪にいる時は「東京です」と答えていた。
すると、
大阪ですと言えば・・・「発音にクセがないね」といわれ、
東京ですと言えば・・・「その割には(東京弁が)なめらかでないね」といわれた。
そのことは、生粋な江戸っ子の妻からも言われる。
ふるさとを持っている人がうらやましい。
それで、無理にでも自分の心の中での”ふるさと”をつくった。
それは、東京の世田谷。
その理由は、世田谷では唯一庭がついた家だった。
他はすべて県営住宅のようなアパート、土地があるなしの違いは大きかった。
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従妹
転校は好きだった。
「次の学校ではどんな自分を演じようかな?」
転校のたびにわくわくしていた。
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従妹の話は新鮮だった。
その学校にいる期間は平均2年の、期間限定。
自分のことを知る人は誰もいない中に入っていく。
”演じる”可能な条件がそろってはいるが、それは言われて気が付いた。
転校生にはそういう楽しみもあったんだな、
逆に、現実にあわせた悲しい楽しみだったのかもしれないが。
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昭和期の後半(昭和40.50.60年代)はさんちゃん農業となり、
新卒の農業は、弁護士の合格者数よりも少なくなった。
転校生も、すっかり普通の光景となり
現在は、外国人の小学生も地方都市でも、普通に見る光景となっている。