しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

もとやんの藁草履

2023年07月31日 | 暮らし

もとやんは茂平の漁師で、
漁業とわらじを編むのを業としていた。

普通の茂平の漁師は、半農半漁で、
収入も労働時間も、
ほぼ漁業半分、農業半分で生活していた。

もとやんは農業をせずに毎日、稲わらで草鞋を編んでいた。
もとやんは無口な男で、浜にいるときも無口だった。
自宅で草鞋を編むでいる時も、もちろん無口だった。

 

 

子供たちも、もとやんを不思議な感じで見ていた。
もとやんは、中年だったが、独身の身の様子だった。
その当時、独身で一人家族の家は珍しかった。

もとやんとは年に一度話す機会があった。
それが城見小学校の運動会の前の日。
5円玉を持ってもとやんの家に入る。
そこには、もとやんが黙々と手と足を使って藁仕事をしている。
家の土壁には、もとやんが作った草鞋が紐に結んで何足も壁中に吊ってあった。
そこで、もとやんと何か話したはずだが記憶がない。
たぶん、気に入った草鞋を手にして、黙ったまま、お金をもとやんの手のひらに渡したのだろう。
翌日、もとやんが編んだ草鞋を履いて運動会の競走に出場した。

小学校を卒業するころ、
もとやんは苫無の海岸で死んだ。
もとやんが死んだのは子供たちの大きな話題になったが、
すぐに過去のことになっていった。

もとやんは、
茂平の子どもたちに愛されたわけでも、嫌われたわけでもないが、
黙々とした漁師姿と稲わら仕事は、茂平の一つの昭和の風景だったことには、間違いない。

 

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日本唯一かな? ”二宮尊徳像”

2023年07月31日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市芳井町吉井  芳井体育館駐車場


芳井町の町中心の中学校跡地に銅像が建っている。
ところが、この像には銘板もなく、説明板もなく、台座に刻したものもなく・・・、



銅像近くでゲートボールの老人に尋ねても、誰一人その名も功績も知らず
井原市の資料館館等で聞いてもわからず。

誰も知らない像が、公共地に建つ、という珍事になっている。





頭にちょんまげ、羽織袴、腰には小刀。江戸時代末期の商家か農家の大旦那さんで、地域にために尽くした人の感じがする像。





なにげなく見ていた本に「緒方研堂」の記述があった。
たぶん、研堂ではないだろうか?



「岡山人じゃが2011」 岡山ペンクラブ 吉備人出版 2011年発行  

井原生まれ、幕末の蘭方医
緒方研堂(緒方竹虎の祖父)をもっと理解しよう

赤井克己

大坂・適塾創始者緒方洪庵(1810~1863)は著名な蘭学者。
一方、同時期の蘭方医、井原生まれの緒方研堂(1814~1871)は、
洪庵と義兄弟の契りを結ぶほど肝胆相照らす仲。
適塾運営に協力するとともに医学振興に尽くしたが、PR不測のせいか事跡が語られることは少ない。
著名な政治家緒方竹虎の祖父であることも知る人はほとんどいない。
今年は研堂没後140年、知られざる備中出身蘭方医緒方研堂の生涯について。

研堂は文化11年備中国後月郡簗瀬村に生まれた。姓名は大戸郁蔵である。
江戸末期、この簗瀬地区は研堂、その師山鳴大年、養子の弘斎らの蘭学者を輩出した。

天保9年(1838)洪庵が適塾を開くと入門。
刑場での解剖、種痘、ロシア船の通訳も務めた。
このため洪庵の信頼は大きく、義兄弟として緒方姓を名乗ることを許され、研堂と号した。


(以後略)

・・・・・・

 

緒方研堂であろうと思っていたが、自信がないので投稿を保留していた。
ところが、「緒方研堂」でなく「二宮尊徳」の像であることが判明した。

 

・・・

「精研 六十年の歩み」 岡山県立精研高校 平成7年発行

尊徳像の前で

・・・

日本中には、学校に金次郎像、学校その他に尊徳像や報徳像が建っている。
でも、この姿(羽織・袴)の像は極めて珍しい。
ひょっとしたら日本唯一かも?

 


撮影日・2021年3月27日

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リーデンローズに松竹大歌舞伎を観にいく

2023年07月28日 | 令和元年~

日時・2023年7月28日 14:00~16:15
場所・広島県福山市・リーデンローズ
名称・松竹大歌舞伎 福山公演

 

福山市のリーデンローズ、今日は恒例の”松竹大歌舞伎福山公演”の日。

 

 

今年は、「鬼一法眼三略巻・菊畑」と「土蜘蛛」。

 

 

 

チケットを提示して入場。

 

 

 

”菊畑”は咲き誇る菊畑が舞台と思ってたが、予想に反して菊の本数は少なかった。

 

 

 

「土蜘蛛」は迫力があった。

土蜘蛛と源頼光の四天王の戦いは万雷の拍手で終わった。

 

 

4時過ぎに「午後の部」の歌舞伎は終わった。18:30から「夜の部」がある。

明日(2023.7.29)は岡山市民会館で、まったく同じ歌舞伎公演がある。(「備前おかやま松竹大歌舞伎」)

 

 

 

スマホに熱中症の「警戒アラート」が、ここ2~3日何度も鳴る。

毎日快晴、毎日真夏日、毎日38~39度。

 

暑いので終わるとすぐにおうちに帰った。

楽しい歌舞伎鑑賞ができた。

 

・・・・

会場の観客数は少なかった。歌舞伎界は客を逆なでするようなニュースが多い。ファンが引いているのを感じる。

2023・7月 菊之助の浮気と土下座事件。
2023・6月 猿之助の自殺未遂、両親の心中。
2022・市川中車の銀座セクハラ
2022・市川団十郎襲名したが、盛りあがりなし。

大相撲といっしょで、完全に時代から取り残されている。
本気で改革しないといっきに衰退してしまうような気がする。

・・・・

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さんこう(おかやま山陽高校)が甲子園出場決定

2023年07月25日 | 令和元年~

 

2023夏の甲子園に、
生石(おんじ)の山陽高校が甲子園出場を決めた。

 

 

 

日時・2023.7.25 倉敷マスカットスタジアム・高校野球岡山大会決勝戦
TV放送・NHK岡山

 

 

”さんこう”のクラブ活動は、野球・ボクシング・空手・ゴルフが特に知られている。

 

今日は倉敷商業と高校野球予選の決勝戦。
接戦だったが、見事に優勝。

 

(倉商応援団)

 


野球部OBでは元ロッテオリオンズの仁科時成投手(かねやん時代のアンダースロー)や、
ソフトバンクホークスの藤井皓哉投手が有名。

 

目指せ甲子園初勝利!

 

 

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大正9年・尼港事件③北樺太を占領

2023年07月23日 | 大正

日本のシベリア出兵は無残な失敗に終わった。
尼港事件は、その中の事件で
それから四半世紀後に発生した、ソ連による日本兵のシベリア抑留の口実の一つにも利用された。

・・・

 

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書 

7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。
アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。


・・・

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 


1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。
1925年、北サハリン撤兵。
日本は各国間で孤立化を深めた。
侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。

・・・


尼港事件「平和をたずねて」 毎日新聞 2018年8月21日


日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。
尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。
連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。
在郷軍人会が水戸市内に建立した「尼港殉職者記念碑」に、次の記述がみられる。

《この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍で、情勢の悪化を憂い中央では増援の派遣を図ったが、結局積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。(略)》

戦死した兵士は、異例の2階級特進となったが、地元紙「茨木民友社」の長久保社長は軍部の責任を厳しく問うた。
1920年6月水戸市常盤公園で招魂祭が営まれたとき、田中義一陸相や上原参謀総長らが列席したことにふれ、長久保社長はこう論じた。
『これを以って見ても其の責任上遺族を慰撫する事に於いて如何に狼狽したかを窺知するするに足りるであろう』

続けて「勝田市史 近代・現代編1」は次のように書き留めている。
「領土さえ拡がれば国は繁栄するものと心得ている低能児」の軍閥と
この軍閥と手を結んだ原敬内閣とを、舌鋒鋭く批判する長久保こそ、無名の師にむなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった。

尼港事件の追悼碑は、全国に少なくとも6ヶ所ある。殉難者は軍人の水戸に対して、民間人は天草(熊本県)が多かった。
≪わが天草人にして、殉難せる者百十名の多きに達す。(略)悉く自力更生のため大陸に進出せる勇者なりき。然るに業中にして俄然凶手に斃る。人生の恨事、何者か之に過ぎん。嗚呼、悲しいかな≫
続けて、
≪然れども殉難者の一死は、あえて徒死にはあらざりき≫として、こう説明する。
≪国家に対して貢献せる所、決して少なからず。
即ち、国防上最も必要なる北樺太の利権は、ひっきょう殉難者の賜たるは勿論、帝国今日の大陸政策もまた、つとに諸君の雄図に胚胎(はいたい)せり≫
時代を映す碑文とはいえ、北サハリンの「保障占領」に「貢献」したといわれても、民間人の死者たちは当惑するのではなかろうか。

・・・・・・・


尼港事件で多くの戦死者を出した茨城県では、どのように記されているのだろう

・・・・・・・

「茨城県の歴史」 山川出版社 1997年発行


英・米など16ヶ国がチェコスロバキア軍の救済を掲げて、ソビエト政権打倒の軍隊をシベリアに派遣した。

日本も積極的に参加したが、大正9年2月に黒竜江口のニコライエフスク(尼)で、ソビエトのパルチザン兵士によって日本兵が殺害されるという尼港事件がおこった。
尼港を守備していたのは水戸第二連隊であった。
281人の戦死者を出し、県民に大きなショックを与え、深い傷あとを残すことになった。

シベリア出兵は、また、軍隊の食糧需要を狙った米穀商による米の買い占め・売り惜しみをうみ、米価が急騰する事態を招いた。
このため、大正7年8月には富山県の漁村から火を噴いた米騒動が全国各地をおそった。

・・・・

・・・

 

甘港事件「いのちと帝国日本・14」 小学館2009年発行 

結局、日本軍が沿海州から撤退を完了したのは1922年10月25日で、米騒動やデモクラシーの拡大という国内情勢を考えると、これ以上の駐留は不可能であった。

こうして、5年近くに及んだ日本軍の「シベリア出兵」は、世界中の批判のなかで、無惨な失敗に終わった。
居留民の保護を名目とした出兵が、逆に日本人に対する反感を増長し、現地での生活が困難になり、日本への引揚を余儀なくさせてしまう結果となったのである。

・・・・

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大正9年・尼港事件②”尼港の惨劇”

2023年07月23日 | 大正

尼港の惨劇にたいし、日本は北樺太を占領した。
その対抗措置は米国や他国から不審な目でみられた。

・・・

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  

尼港事件


1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。

・・・・

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 

1920(大正9)年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。


・・・・

・・・・


「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行


赤衛軍は、大正9年3月12日までに武装解除して降伏するよう強い要求を申し込んできた。
日本軍は領事ならびに居留民と協議したが、
武装解除して敵に降伏することは帝国軍人として絶対できないから、
要求期日の前夜に夜襲を決行して、
敵の首領を倒し、政治犯として投獄されているロシア人有力者を救出して日本軍の味方にすれば、尼港の治安も回復できるとう結論に達した。
石川大隊長は敵の宿舎を襲撃したが、逆にわが軍を包囲され、失敗した。
降伏し、武装を解除されて投獄した。
これよりさき避難民が氷上を北樺太に避難してきて、
はじめて内地に伝わり日本政府も事態の重大さに驚いた。

日本政府は在留民の保護と権益確保のため、
大正9年4月北部沿海州派遣軍を尼港に派遣した。
大正9年4月30日岡山の山砲兵第二聯隊に出動命令が出た。
5月17日岡山を出発、宇品から北上、いよいよ尼港に向かったが
船を沈め、日本軍のそ上を妨害して逃走したので、
大隊は黒竜江の村に上陸、休養をとることになった。

一方多門大佐の指揮する支隊は尼港を挟撃する態勢をととのえた。
そこで敵は尼港を放棄することに決し、
5月24日投獄者全員を縛り、桟橋附近に連れ出して惨殺し、
死体は全部黒竜江に投げ込んだ。
そうしてわが軍の進撃の近いことを知ったバルチザンは、
6月3日全市に放火して逃亡してしまった。

尼港は事件前、5万の人口を有する黒竜江唯一の良港で相当繫栄しており、
在留同胞は4百余名、軍人を合すると7百余名が在留していたが、
その全部が惨殺され、
わが軍が占領した時はわずかに支那人の妾となった4.5名の者がいたのみであった

・・・

 

 

・・・

 

「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

・・・

 

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大正9年・尼港事件①事件前

2023年07月22日 | 大正

日本とロシア(やソ連)は、江戸時代末期から、
(共存共栄の途ではなく)自国の利益だけで、争ったり仲良くしてきた。

 

大正時代、ロシア帝国が崩壊してゆく過程で、
その弱みにつけこんだ日本はウラル山脈まで影響国家をつくる野望に燃えたが、
わずか1~2年で崩れ、
ニコライエフスク(尼港)では、住民と軍人と領事館の人たち、全員が虐殺された。
日本人を殺したのはロシア赤軍の他に中国人、それに多くの日本人がいた。
この日本人は国籍が日本の朝鮮の人たちだった。

・・

 


・・・


尼港事件


尼港事件「いのちと帝国日本・14」 小学館 2009年発行


駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(尼港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。
1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が放たれ尼港は焦土と化し、600名を超す日本人が犠牲になった。

事件の直後、7月10日に出版された溝口白羊著「尼港事変 国辱記」は、陸軍332名、海軍44名の戦死者を掲げ、国家的大屈辱であるとした。
巻末に慰問のための綴じ込み葉書を付けたこの本は8月5日で10版を数えた。
国内の新聞は野蛮な過激派を批判する一大キャンペーンをはった。
だが事件の背景には、魚をごっそり獲ってしまう反感など、反日感情が存在していた。

いっぽう極東ロシアに住むロシア人に反中央、反モスクワの意識が強かったのも事実である。
日本軍はそうした一部の人びとの期待にこたえる形で「極東共和国」の樹立を画策したのであった。

 

・・・

「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行
 
尼港事件と岡山山砲隊の出動

尼港事件は北部沿海州のニコライエフスクで起こった事件で、
第一次世界大戦の結果帝政ロシアが、共産主義の革命により崩壊して、
過激な赤衛軍と穏健な白衛軍の一部が尼港で衝突した際、
同地に駐留していた歩兵一個大隊が白衛軍を援助して戦い、
戦況は日本軍の不利となった。

・・・

 

 

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最上稲荷の注連縄

2023年07月19日 | 無くなったもの

場所・岡山県 岡山市北区高松 「最上稲荷山妙教寺」 
廃止日時・2021年12月13日
撮影日・2018年1月1日

 

 

岡山県の初詣数が長年NO1の”最上稲荷”。

また、岡山県内では
”日本三大稲荷”とも信じられている。

 

 

2023.6.17にお参りすると、
なんと、神社本殿に注連縄がなかった。


しらべてみると、
2021年12月13日に注連縄は終了したそうだ。

 

【最上稲荷山妙教寺HP】

2021.12.16
お知らせ
大注連縄の飾り付けが終了しました

大勢の参拝者をお迎えしてきた大注連縄ですが、本年をもってその役目を終えることとなりました。
平成6年末より初お目見えの大注連縄は、平成9年に職員が初めて製作に携わり、平成10年より2年に1度掛け替えられました。
平成30年に掛け替えられたものが13代目となり、通常ならば昨年末に掛け替えられる予定でしたが、コロナ禍の影響から製作が難しく延期となっていました。
本年も製作が検討されましたが、維持が困難との判断から、12月13日に僧侶による「大注連縄閉眼式」が執行された後、職員の手により本殿から地上へと降ろされました。
すがすがしい稲の緑色を重視するため2年に1度という間隔で掛け替えが行われていましたので、丸3年信徒をお迎えした大注連縄は、安堵の思いで横たわったように見えました。
しばらくは見慣れない光景かと存じますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

・・・

現在の最上稲荷

(撮影日・2023.6.17)

・・・・

 

 

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アキタ珈琲店

2023年07月19日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市五番町 
閉店日・2023年3月31日
撮影日・2017年9月12日  

 

喫茶店の「アキタ」が閉店したそうだ。

いつも前を車で通ったり、歩いたりしているが気が付かなかった。

 

 

一昨日(2023.7.17)の山陽新聞投稿欄に、

笠岡高校の卒業生が同窓会を開催した記事があり、読むとお店が3月31日に閉店とのことだった。

 

いい雰囲気のお店だっただけに残念だ。

 

 

笠岡に限らないが、
一昔前に”純喫茶”と呼ばれていた感じのお店が絶滅している。
待ち合わせ・商談・モーニング・さぼり・・・いろいろ利用した。
会話にもどの店がいい、という話がよく出ていたが、すっかり昔話となった。

 

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大松食堂

2023年07月19日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市六番町   (県庁内 大松食堂) 
閉店日時・2021年頃
撮影日・2017年9月8日  

 

笠岡市図書館に行き、午前と午後をまたぐときは、
すぐ近くにある岡山県井笠事務所の職員食堂「大松食堂」に昼食に行っていた。

 

 

定食や一品ものなどのメニューもあったが、
笠岡ラーメンを注文することが多かった。

値段は500円、麺も出汁も鶏肉もよかった。
食堂の雰囲気もよかった。

 

 

コロナ禍の時、店長さんの高齢化等の理由で店を閉じられた。

 

 

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