しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昆虫を食べる

2024年03月31日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。
母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。
飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。


下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。
カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。
いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。

 

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


動物性食品としての昆虫

現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。
しかしかつて 虫は貴重な動物性蛋白源であった。
世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギ ニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。
特に焼畑耕作の端境期には、虫は欠くことができない食料である。
日本は全国的には昆虫食が盛んであるとはいえないが、地域によっては虫がよく食べられていた。 
大正8年(1919)、農商務省農事試験場の調査によると、全道府県のうち宮城・富山・大阪・香 川など四府県を除いて昆虫が食用にされていた。
食用昆虫の数をみると、長野県が17種で最も多く、山口県 (12種)、山梨県(10種)、山形県・愛媛県(以下各8種)、福島県・埼玉県・奈良県・福島県(以下各7種)がこれに次いでいる。


いなご

全国的に食べられていた昆虫に、蝗がある。
稲作の害虫である蝗は、全国の水田に棲息していた。
つくだに
昆虫の中では見た目にもよいので、よく佃煮にして食べられてきた。
第二次大戦後、殺虫剤の大量消費とともに、蝗はほとんど姿を消したが、農薬の投下の抑制とともに復活した。

タニシ
田蝶は水田に棲む淡水性の巻き貝である。
貝殻をとって佃煮にして食べられたが、弾力があって実にうまい。
しかし、第二次大戦後、農薬が使われるようになってから、 田螺は水田から姿を消した。

さかな
沢蟹は淡水性の蟹で、水の清い渓流の礫の間に棲んでいる。
この沢蟹を天ぷらにしたり、あるいは 油で空揚げにして、酒の肴にしている。

・・・・


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行その3


養蚕は蚕の飼料になる桑の栽培を行ない、桑の実を収穫して蚕に与えて成長させる生業である。
蚕の幼虫は、黙々と桑の葉を食べて大きくなり、30~40日間で五齢を迎え、糸をはいて繭をつくる。
その直前の蚕は体の内部まで透き通って見えるが、それは繭殻をつくる蛋白質である。
伊那市では上簇間近い蚕を缶詰にして売っている。
見た目は姿、形ともに不気味だが、栄養の点では 蛋白質に富む高級食品である。

残った蛹は鯉などの飼料や肥料にされる。
しかし蛋白質や脂肪が多いので、缶詰にしても売られている。

カマキリ
カマキリの種類は多いが、蝗と同じようにして食べられる。 
薬用としては幼児の癖やリューマチの鎮痛剤などにも用いられている。

かえる
昆虫ではないが、両棲類の蛙も古くから食べられてきた。
香川県讃岐平野の溜池ではアメリカから 導入した食用蛙が飼われている。 
日本の在来種で一番うまいのは赤蛙で、鮭のような味がし、刺身にして食べられている。
これもまた子供の痔の薬としても用いられている。

 

・・・

長野伊那谷Web


国民的昆虫食「イナゴ」


日本の昆虫食の中で、もっともポピュラーな虫といえば「イナゴ」。
昆虫食にあまり馴染みのない人でも、
「イナゴだけは食べたことがある」「子どもの頃食べた」「おばあちゃんの家で食べた」などと話す人もいます。
1919年に昆虫学者、三宅恒方氏がまとめた報告書によると、イナゴは国民の50%以上が食べていたとされ、
いわば国民的昆虫食でした。
当時はイナゴだけでなく、蜂の子・カイコのサナギ・カミキリムシ・タガメなど55種類の昆虫が食べられていたとされています。
(出典:「食用及薬用昆虫に関する調査」三宅恒方)

・・・

 

 

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間食・副食

2024年03月31日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

間食と副食の区分がよくわからないが、
主食の補助としてみると
イモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。

「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。
たまに「おやき」をした。
「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、
甘みがなくサッカリンをいれた。
稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。

 

・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

間食


店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。
子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。
一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。
氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅にして少し固まった時点で薄くへいで(はいで)長方形に切り、 干したものである。
砂糖で味付けしたもの、胡麻の入ったもの、豆板といってたくさんの豆が入ったものもあったが、
焼いたときに膨れやすくするため重曹を入れていた。
また、あられは餅を賽の目に切ったものである。
少し時間にゆとりがあれば、大豆や黒豆と糯米を煎ってぎょうせんにからめたり、おねり(主食の項 参照)も作った。
また、家の庭先や近くの野山にある桑の実、グミ、ユスラ、イタドリなども子供たちのおやつで、友達と遊びながら食べるのは楽しいものであった。
大人たちの間食といえば、大正十年ごろまでは沢庵を摘まみながら番茶を飲み、一息ついていた。
ソラ豆ができれば塩ゆでにして田圃へ持っていき、おやつにした。


「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


副食

農家、商家を問わず、日常食の副食は四季折々の野菜類や豆類、
町内でとれる淡水魚、行商に来る魚屋から購入する小魚類が主体で、あくまでも地元で自給できる食材料が中心であった。
そして、「ばっかり食」という言葉に代表されるように、収穫時には同じ材料が毎回の食事に登場した。
忙しい田仕事の合間に作られるおかずは、手間のかからないものばかりであった。

 

・・・

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

炒り粉 
炒り粉と呼んでいるが、麦コガシ・ハッタイコともいう。
裸麦をほうろくで炒って粉にしたものを茶碗に入れ、塩または砂糖を加えて、熱湯あるいは水を注いで箸でかきま
ぜて食べるる。

流し焼き
小麦粉を鍋または鉢に入れて水でかくか、砂糖を加えてかきまぜ、 ほうろくに流して蒸して食べる。

 

 

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"千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

2024年03月30日 | 令和元年~

行った日・2024年3月30日
行った所・岡山県笠岡市北木島町


東京から長男が帰省している。
会話にお笑い芸人”千鳥”のことが出たので、
千鳥・大悟の生まれた丸岩に親子で行ってみることにした。

 

 

北木島港に向かう、三洋汽船。

 

 

 

 

北木島港から丸岩に向かう。

外浅海(そとあざみ)の海岸。

 

 

 

ここが丸岩。

千鳥・大悟の生まれ育った海辺の村。

(丸岩)

 

 

 

正面に千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木小学校。(現在は統合して使用されていない)

(大浦)

 

 

 

千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木中学校。

残念ながら2~3年前に廃校になった。

(大浦)

 

 

 

北木島を代表する産業だった石材業。丁場と丁場湖が点在して残る。

”石の島”として日本遺産に認定されている。

(千ノ浜)

 

今日は、風もない穏やかな天気の一日だった。
少し期待していた、桜の開花は、本土よりも遅かった。

それにしても、千鳥、そして大悟は、毎日2~3本にテレビ出演。
笠岡市が誕生して以来、最大の有名人となった。

 

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柿を食べる

2024年03月30日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

秋に実が成るのに、なんで「冬柿」というのだろう?
と不思議に思っていたが、
それは「冬柿」ではなくて「富有柿(ふゆうがき)」だった。

非常に残念ながら、家に富有柿の木は無かった。

田舎の自給生活の村は、野菜や果物は、”トリカエ”で日常生活が成り立っていた。
それで、近所の柿農家から富有柿がウチにくるのだが、
それを待つのが苦しいくらい、もらった時はうれしかった。


家に「渋柿」はあった。
大きな西条柿の木が一本あった。
竹の竿で枝を折って収穫し、皮をむいで、吊るし柿にしていた。
吊るし柿は、冬になると白い砂糖がふきでるが、それを待てなかった。
吊るして日が経つと渋みが消えて、甘くなった。
毎年、吊るした縄から何個かを食べた。
あの甘い西条柿はほんとに美味かった。

 

(岡山県小田郡矢掛町小田・山ノ上 2017.12.17)

「江戸の食生活」  原田信夫 岩波書店  2003年発行

江戸食物事情・果実のたのしみ
日本の果実
日本原産とされる果実は、ニホンナシニホングリ・カキなどで、かつては今日の果物のことを水菓子と称していた。
古代も奈良時代になると、「延喜式』には「菓子」として
梨子・桃子 柑子(蜜 の一種)・小柑子(金柑)・柿子・橘子・大棗・郁子(木通)・覆盆子(苺)・胡桃子(胡桃)・柚子・枇 杷・李子・栗子・椎子・菱子・揚梅・甘葛煎などが記されている。

中世に入ると、南北朝期の『庭訓往来」の「菓子」の項には、
生栗・搗栗・串柿・熟柿・干棗・ 花梨子・榛樵・麭・田鳥子・覆盆子・百合草が挙げられており、諸国の名産に「宰府栗」が見える。
栗のような木の実類を除けば、もっとも中世人に親しまれていた果実は、柿の類であったものと思われる。

江戸食
ここでは柿が圧倒的に多く、次が梨で桃と梅が続き、苺がかなり各地で生産されていた様子を知ることができる。
このうち柿は、干し柿とすれば季節を越えて保存が利きれて、 広く人々に親しまれたことによるものであろう。
また蜜柑は気候との関係から、生産地に自然の制約が大きかった。

 



「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

日本に原生していただろうといわれている。

 

聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行


つるし柿
渋柿はつるし柿にして、冬のおやつにする。 
皮むきは夜なべ仕事で、 へたを切る者、皮をむく者、縄にはせる者と手分けして、家族みんなでやる。
一たれ(六尺ほどの 縄一連)に50個ほどつけて、軒下につるして干すが、200たれくらいはつくる。
乾いてほとり(周囲)が固くなったら、一個ずつ指でつまんでやわらかくする。
これを二回くり返す。
最後に、びぼうき(机をとった稲穂の先でつくるほうき)でなで、そうめん箱やみかん箱にそば殻かわらを敷いて詰めておくと、白い粉がふいてくる。
正月には年玉として、子どもに二個ずつ配る。
お客さんには、湯飲みへ一個入れ、番茶か熱湯をかけて出す。 
小さくて皮がむけない柿は、輪切りにして干す。
中部台地の東南のはずれ菅野村では、串柿づくりが盛んで、「外でにこにこ、なかむつまじく」といって、両端に 二個、中に六個になるように、竹串にさして干す。お正月の縁起ものとして鏡もちに飾る。

「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行

干柿

小田字土井原は海抜200メートル前後の所にあり、副業として、この地方では干柿づくりが古くから盛んである。
畑のあちこちに柿が植えてあり、十月末からどの農家も干柿づくりを始める。
種類は西条、オカン、大玉、タマンボウなどでその中でも西条がいちばん多い。
高原上だけでは柿が少ないので、 小田、吉備郡一帯まで買いに行っていた。
皮むきを「けずり」といって、鎌を腰にさして固定し、柿をぐるぐる回して、手際よく仕上げられる。
十二月中旬になると、「手入れ」といって、半乾きの柿を一つずつ手でもんで、屋内で乾燥する。
すると、きれい に粉をふく。旧正月に出荷していたが、今では新正月に出している。
歳末のころになると、NHKテレビの天気予報番組の背景写真に、この地方の干柿スダレが毎年のように紹介され ているので、見られた人も多いと思う。

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嫁菓子をもらう

2024年03月29日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

「嫁どりがある」
それを聞けば、茂平の子どもたちの心は踊った。

 

【嫁菓子】
嫁菓子が楽しみじゃった。
ただでお菓子をもらえるから。

 

 

(おじさん=父の弟の嫁どり=昭和31年)

嫁どりは大きな娯楽だった。

 

 

【嫁どり】
嫁どりがあると言えば、楽しみなのは、

①「嫁菓子」をもらえる、
②「花嫁」を見れる。
③「嫁入り道具」が見れる。

 

①一番の楽しみは「嫁菓子」。
嫁菓子は紙袋に2~3箱のお菓子が入っている。
茂平の子どもは、お菓子を食べることはめったにない。

②花嫁を見れる。
頭にカツラを乗せ、白塗りで、しかも下を向いて歩く花嫁の顔は、皆同じ。
しかし、「花嫁衣裳」の女性を見る。
普段、農夫しか見ない茂平の子供にとっては大きな娯楽だった。

③「嫁入り道具」を見る。
これは正直、関心はなかった。
自転車やミシンやタンス類を見ても感じることは何もなかった。

 

大正時代のはじめ頃

(母に聞いた話)

母の父母=管理人の祖父母の結婚

 


祖父母の結婚式に嫁菓子を、近所の子どもたちに配ったが
子どもたちはもらっても帰ろうとしなかった。

嫁菓子をもらっても不満顔だったそうだ。


「取り子・取より嫁じゃけえ、二袋もらわにゃあいけん」
と言ったそうだ。
その事を母は笑い話として話した。


祖父母は、取子取嫁(とりことりよめ )だった。
おおかたの場合は、先にどちらかが養子になり、結婚によって二人そろうが、
祖父母の場合は結婚と同時に、二人養家には入った。

この珍しいことの訳を95才まで生きた母に聞く機会はあったが、
不思議とも、珍しいこととも思ってなかったので聞かず、ついに知ることはできなかった。

・・・

 

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子供の間食

2024年03月29日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

イモ・あられ・豆は、ほぼ年中あった。

果物
一家の生計を立てるものが、果物であったので、
その傷もの・変形ものが夏の間食になった。
・・・桃・葡萄・スイカ・ナシ瓜・枇杷・サトウキビ・ナンバ・イチジク・柿・ミカン・・・。

野山のもの
ビービー・シーシー・さるきん・野イチゴ・ナツメ・ニッケ・

川・池のもの
トーチカ

海のもの
ツブ・ドンガメ

家のもの
おやき・ハッタイコ・

買うもの
飴玉・アイスキャンデー・ニッケ紙・

買えなかったもの
ミルキー・・・不二家のペコちゃん・ポコちゃん。あれを食べるのは、憧れだったな。
チョコレート・・・中学か高校生になって初めて食べた。(チューインガムのロッテがチョコレートを作りだした頃)


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。

 

「北川の民俗」 北川の昔を訪ねる会 令和4年発行


子どもの頃の食べもの
おやつとしての果物など

昭和30年頃の果物については、大変に多い。 
大抵の家には、 お菓子になる植物が植えてあるのだ。 
子供も大人も食べる。 
桃、ビワ、 サトウキビ。 
サトウキビとは、砂糖を絞るための植物。 
この茎を10 センチぐらいに切って、口に入れて噛んで汁を吸う。 甘いのである。 
イチジク、ザクロ、甘柿、グミ(ビービと言っていた)、ユスラ梅、 桑の実(桑イチゴともいう)、ナツメ。
野には、アケビの実、とか山ブドウが。 
近くの人から梅雨の頃、スモモを貰っていた。

 

 

「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行

こどものオヤツ
豆類が多く、ソラマメ、ダイズのいりまめ、あげまめ。
砂糖というのは、玄米またはもち米と大豆のいったも 砂糖(Fブザトウ)で固めたものである。
山野のものとして、アサダ、ダイビ、アケミ 山ナスなどを採った。

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

子供の間食

春には、グイビ(ナワシログミ)やユスラ(ユスラウメ)ノイチゴ(ダイイチゴ・ナワシロイチゴ)・キイチゴ・マスイチゴ(カクミノスノキ)・シャッポン(イタドリ)・シイトー(スイバ・シイナ・ギシギシ)のとう・スモモ・ズンベー(ズンバエ)といって、ノボセ(チガヤ)の穂などを食べる。
ズンベーの白い地下茎をカンゾウだといって噛んだ。
竹の皮を三角形に包み、なかに梅漬けのシソを入れ、角から吸う。
カッコウといった。
炒った大豆やソラ豆・アラレ・カキ餅なども間食であった。
大豆とアラレ、または大豆とアラレと干し飯を一緒に炒ることもある。
また、砂糖をまぶすこともあった。

夏には、ビービー(ナッグミ)の実・サトウキビ・スイカ・マクワウリ・ヒンの実などである。

秋には、ヤマブドウ・ヤマナスビ(ナツハゼ)・アサドリ(アサダレ・アキグミ) ・カキカキのずくし・ミ カン・キンカン・アケビ・ガラビ(エビズル)・桑の実などを食べ、松の幹にできたこぶに出る甘い樹液を蜜といい、ササですくいとってなめた。
松ビービー(マツグミ)といって、松の木に寄生しているヤドリギの赤い実を食べたり、青い実はよく噛んで、口の中でトリモチ状に伸ばしたり、ふくらませたりして楽しんだ。
集落に一本程度あったニッケイの根を掘って、根を噛んだり、葉柄も噛むことがあった。
ゆでたクリや 蒸したサツマイモなども間食であった。
風呂をわかすと、しばしば焼き芋にした。
サツマイモの皮をとって輪切りにしてほうろくに並べ、少量の塩をふりかけ、鍋蓋でおおい焼く。
芋せんべいといった。

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醤油を作る

2024年03月28日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和32年前後まで、家で醤油を作っていた。
土間に置いていたその木製の機械からは醤油がポットリポットリと落ちていた。
それは茂平のどこの家も同じだった。

 

(母の話)

醤油つくりの話


麹つくりがたいへんじゃった。めんどうなんじゃ。
小麦を植え、大豆を植え。
麹を作り。

彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。
長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。

その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。
唐臼で搗きょうた。

実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。
おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。

どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。
途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。


醤油を搾る
麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。
辛ぃ醤油ができるんじゃ。

二番醤油
せいからまだ、おばあさんはもったいない言ぅて塩を(更に)混ぜて二番醤油ゆうのをつくりょうた。
一回使ぅた麹を、それをもう一回使う。塩と水を足して。


(父の話)
麹は作る人によって上手なウチがあった。

一番醤油は味がええ。
二番醤油は辛いばあじゃった。味がねぃ。


2002年5月26日

 

 

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。

 

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

醬油 
自家製醤油を手醬油といった。
まれに作った家がある。 
第二次世界大戦中や終戦直後には、作る家が増えた。
原料は、大豆と小麦・塩である。
麺のもとは買って来て麹作りをし、四斗樽に仕込む。 
仕込みをしてしばらくすると、樽に籠を入れ、諸味をすくっておかずにした。
また、常に入れている籠にたまっ醤油は、調味料として使った。 
もろみ
醤油袋に諸味を入れ、フネに石の重しで絞った。
絞った醤油は釜に入れて炊く。
一番醬油である。
絞りかすの諸味は、樽にかえし水を入れ、塩を加える。
しばらくの間発酵させ、フネで絞る。 
二番醤油である。 
比較的早くから、醤油屋といって醸造屋ができたので、たいていは醤油屋で買った。
初めは一升徳利を持って行って、醤油を入れてもらった。
後には、醤油を入れた五升樽を持って来てくれるようになり、一斗樽 を持って来るようにもなった。
一升瓶が使われるようになってからは、一升買いをするようにもなるが、一斗樽の時代がなお続いた。

 

 

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


笠岡市吉田での醤油の作り方は、醤油一斗作るのに、小麦一升・大豆一升水五升・塩五升である。
仕込みをして、しばらくすると、樽に竹簀をいれておいて、汁杓子ですくって調味料として使い、
諸味(諸味噌)はおかずにする。
たびたび櫂をいれてかきまぜる。
黴がきたり、虫がわくからである。
よく溶けたころ、醤油絞り袋にいれてフネで絞り、それを釜で炊いて食用の醤油とする。
醬油絞りは二番醬油まで絞る。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

醤油
家でつくる醤油を手醤油といい、寒い時期につくる。
夏につくると虫になる(虫がわく)。
大豆一斗五升、小麦一斗五升、塩一斗、で仕込む。
一年たち、一夏越すと、もろみの表面に透明な液がでてくる。
こうなったら、もろみをしぼり、一番醬油をとる。 
家ではしっかりしぼれないので、もう一度塩水を入れて、 二番醤油をとる。 
しぼった醤油は焼酎がめに入れて、たもいたもい(大事に大事に残すように)食べる。 
しぼる前の もろみの中に竹を立て、いるだけかたくちにすくって使うこともある。
もろみはそのままか、ときにはいりこを炒って混ぜ、ごはんのおかずにすることもある。


・・・

醤油は、初夏から初秋にかけてつくる。
大豆と小麦を一 斗五升ずつ使う。
大豆は一晩水がしをしてやわらかく炊くが、味噌豆ほどにはやわらかくなくてもよい。 
小麦は炒り、石臼で荒くひき割る。
四つ割りくらいになったものや粉になったものがあるくらいにする。
この大豆と小麦で、醤油のもとになる醤油こうじをつくる。
味噌こうじと同じように、土間に青草を六、七すくらいの厚さに重ね、その上にむしろを二枚ほど重ねて敷く。 
むしろの上にひき割った小麦の半分くらいを平らに広げ、 
その上に水気を切って人肌より少し高めの温度に冷ました大豆を広げる。
さらにその上に、残りの小麦と種こうじを混ぜて広げる。
むしろの両端を持ってよく混ぜ、種こうじがまんべんなくゆきわたるようにする。
よく混ぜたら、むしろのまん中に盛り、上からもむしろをかけて熱がくるようにする。
手入れは味噌こうじとだいたい同じだが、少し時間をかけて、こうじが黄色くなるま でねかせる。 
こうじができたら、塩一斗五升に水三斗の塩湯を煮たてて入れ、一石桶に仕込む。
仕込んでからは、かいで毎日混ぜる。
大豆と小麦を合わせて三斗の実物(材料)から六斗の醤油がとれる。
一番醤油を三斗、また塩湯を入れて二番醤油を三斗とる。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行
醤油
昔は家で作ったと言われるが、明治生まれの人でも作った経験はなく、醤油屋から購入した。 
一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

日本独特の調味料、醬油


現在日本人が日常用いている醤油は、日本独特の調味料である。
大豆、小麦から醬油麹をつくり、食塩と水を加えて発酵させたものを指す。
このような醬油が普及するのは、江戸時代になってからで、それまでの醤油の素材や醸造法には紆余曲折があった。

大豆を煮るか蒸し、ほぼ同量の大麦もしくは小麦を砕き、両者を混ぜて麴をつくり、これに塩を加えて醪にし、
時折り攪拌して発酵・熟成させた醬油は、室町時代から始まった。
このころから江戸初期にかけて、企業による醬油生産が
紀州の湯浅、京都、和泉の堺、播州の龍野、下総の野田・銚子などで発展した。
江戸前期における醬油は堺・大坂など上方産の方が上質で「下り醤油」といわれて、江戸市場をも独占していた。
後期になると関東物の質が向上して「江戸紫」といわれるように、関東産で占めるに至った 。
 一八世紀後半、野田で茂木家や高梨家などが創業するが、両家はキッコーマンの前身である。
野田・銚子に多くの醤油企業が立地するのは、利根川と江戸川の水運で原料・製品の輸送の便がよかったことがあげられる。

 

「江戸の食生活」  原田信夫 岩波書店  2003年発行

しょうゆ

近世前期までは、江戸でもほとんどが、関西からのいわゆる下り醤油が使われていたが、
紀州の醤油醸造技術を採り入れた銚子をはじめ、
野田・土浦・成田・下館・川越など、関 東周辺からの醤油で、江戸の食膳が賄われるようになったのである。
このことは、江戸を中心とした関東周辺の農村が、新たな経済構造に組み込まれたことを意味する。
また全国各地からの名産物が、西廻航路や東廻航路によって船で江戸へと運ばれ、さまざまな海産物や調味料も出回っていた。
ただ江戸の食生活を支える日常的な野菜・根菜類は、こうした地回り経済圏から供給されていた。

「日本食物史」  江原・石川・東四柳  吉川弘文館 2009年発行

醤油の生産と流通 
日本の調味料として古くから発展した味噌に加えて、醤油が登場するのは、中世のことで、
湯浅醤油(和歌山県有田郡湯浅町)が知られるが、大規模に製造されるようになるのは江戸時代のこと。
味噌が各家で製造されることが多かったのに対し、醤油製造は酒造業と並び、発酵工業として発達した。
醤油の起源としては、醤を絞ったものとする説と味噌からにじみ出るたまりを集めたとする説がある。

文政期前後の料理書からは、醤油が調味料として盛んに登場するようになる。
刺身にも、わさび醤油が登場し、かば焼きに山椒醤油、魚の醤油付け焼きなど各種料理の調味として醤油が一般化していった。

 

 

 

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2024花見の季節が始まった

2024年03月27日 | 令和元年~

場所・岡山県笠岡市(個人邸宅)
撮影日時・2024年3月27日


笠岡の桜も、早いのは見ごろになった。

 


今年の桜は、
「城跡と桜」
「鉄道と桜」
「川と桜」
を主に、花見を楽しみたいと思っている。

その季節になってきた。楽しみだ。

 

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味噌を作る

2024年03月26日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

農村の家の味噌汁は、「汁」であり「おかず」だった。
汁よりも「具」が主役だった。
イモや団子やアサリや河豚や麩や、いろんな野菜も入っていた。

味噌汁を作るのは母であり、
味噌を作るのは父母で、
麹を作るのは母、
大豆を作り、米を作るのも父母だった。
味噌作りで購入品は塩だけ。

味噌作りの日は天気のいい日で、
餅を搗くのと同じように、父母は木臼で味噌をつくった。

 

 

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

味噌
味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。


「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

調味料

味噌は手作りであったが、醤油、酢、塩、砂糖、油など味噌以外のものは購入した。
また、だしの材料となる煮干しは年中切らしたことはなく、普段のおかずの味付けは、味噌と醤油が中心であった。

味噌

米味噌と麦味噌の両方が作られていたが、終戦後の農地改革で米が比較的自由に使えるようになってから、だんだんと米味噌中心になった。
寒に作った方がカビが生えないといって、味噌作りは主に冬の仕事であった。
庭が上がったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。
米味噌には、小米を使うことが多かった。
まず、米か裸麦を蒸し、麹の素を混ぜ紙袋に入れた。
藁で編んだおひ つに入れてコタツに入れたり、風呂の湯を沸かし、蓋の上へおいて温度を上げ、麹を作った。
また、青草のある時期には、刈り取った青草の上に筵を敷き、
蒸した米を広げて上に筵をかけて家の中の風が当たらないところに置き、
青草の発酵熱を利用して麹を作ったこともあったという。

麺は味噌の花とも呼ばれた。カビがここまでという時に塩を混ぜ、カビがこれ以上生えるのを止めた。
次に味噌用の五升も入る平釜で大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。
麹と豆と塩は同じ量だけ三つ山にして混ぜた。
昔は腐らないように塩は 三合塩でからい味噌であったが、今は一合から一合五勺程度である。
一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。
大きなしゃもじでしっかり詰め込み、風が当たらないように新聞紙で覆い蓋をした。
三年味噌といって 三年経ったものから食べていったが、三ヵ月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。
味噌がなくなった家ではまだ花のにおいがするころから食べた。
味噌搗きは一日がかりであったが、日が経つにつれだんだん甘みが増し、家で作った味噌が一番おいしい。
高度経済成長期以後、各家での味噌作りはだんだんと廃れていった。

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

日常のおかず
味噌 

かつては味噌で味付けをすることが多く、また、おかずでもあったので、重要な調味料であり、保存食であった。
原料は、大豆と裸麦の麹・塩である。

いっちょう(一畳)台の上へ莚を二枚敷く。
そこに蒸した裸麦を移し広げる。タネといって麹菌を加えてまぜる。
上へ筵をかけてねかせる。
大豆を風呂または釜で煮て、からうすでついてつぶす。 
これに裸麦の麴をまぜる。
両手でもみほぐしながらまぜ、味噌樽に仕込む。
 一年に一回、春秋の彼岸ごろにつく家が多い。
気温の上から、麴をねかせる(発酵)のに骨が折れない。
60日味噌といって、味噌の仕込みをして60日たつと食べられるというが、一年たって食べ る。
味噌つきをして三年経過したものを三年味噌といい、三年味噌はおいしいという。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

味噌
味噌は、毎日つくる味噌汁に欠かせない。 
そのほか、あえものに使ったり、いりみそ(味味噌)をつくったり、漬物と一緒に焼いたりと、なくてはならないものである。
家族でつくる家が多い。
味噌も醤油も買って食べる人はいない。
毎年仕込むので、味噌倉には三、四本の味噌樽が並んでいる。 
長くおくほどよい味になるといわれ、三年から四年おいて、あめ色になったものを自慢する。
醤油も毎年仕込み、一番醬油、二番醬油としぼる。 
醤油 の実も、ふだんよくごはんに添えて食べる。

 

 

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


味噌の原料は大豆で、中国山地では米、吉備高原では大麦、南部地方では裸麦の麹を用いた。
笠岡市吉田では、裸麦を甑で蒸したものをネサシてハナ(麹)を作る。
ハナ作りは納屋の土間に青草を敷いて、その上に蓆を敷き、蓆に大豆・裸麦・ハナのモトをまぜてネサセル。
青草のクミ(発酵)の熱を利用する。
大豆は平釜で煮る。
大豆の煮え具合は親指と小指でつぶしてみて、よくつぶれたらよい。
塩の割合は、三合塩といって 裸麦のハナ一升に対して塩を三合いれる。

ハナは大麦のほか、大麦に小麦粉をまぜるとか、小麦だけでハナを作ることもあった。
ハナも自家でネカシていたので、春・秋の彼岸ごろに作れば温度をかけなくてもネルので楽である。
秋の収穫後とか、十二月下旬の正月用の餅搗きのあと搗くことが多い。 
寒水で搗くと、味噌が痛まなくてよいということもある。
寒い時期にハナをネカセルのはむつかしい。 
ハナは蓆にいれ、炬燵でネカセタという。
南部地方では味噌は六〇日味噌といって、六〇日すると食べ始め、
だいたい誕生(一年) 味噌を食べ、翌年また新しい味噌を作る。
たいていの家に四斗樽二本を用意していて、一年で一本食べ終わると、
もう一本の樽のを食べ、空いた樽に新しい味噌を搗く。
かつて、味付けは醤油よりも味噌の方が多かったので、重要な調味料であった。
飯にそえておかずとし、また、焼き魚などつけて食べる。
「味噌がくさる」とかいって、味噌にまつわる縁起は多い。

 

「江戸の町くらし図鑑」 江戸人文研究会  廣済堂 2018年発行


味噌。発酵食品の大関。

昭和の頃、《塩分は健康の敵》 とばかりに嫌われ、塩分の多い味噌も醤油も漬け物も、悪者にされましたが、
平成になって塩分が単純に高血圧の原因だということが誤りだと、医学的に証明されました。
古来の知恵を見てみましても、味噌が身体に良いことが、いろいろと書かれています。

江戸前期の『本朝食鑑』では特に味噌の効能が語られます。
一:味噌は昔から朝夕に食べ、粗食の補助食である。
二:味噌は一日もなくてはならない食品である。
三:大豆の甘さや温かさは、気を穏やかにして、血を生かし百薬の毒を消す。
四:麹の甘みと温かさは胃のつかえを取り、消化を助け、詰まりを正す。
五:元気をつけて、血の巡りをよくする。
六: 髪を黒くし。肌を潤す。

江戸中期の『養生訓』でも、「味噌の成分は身体に優しく、胃腸の動きを補う」と、これもまた肯定的に書かれています。 
そればかりか、国立がんセンターの研究では、味噌を毎日飲む人は50%も、
胃がん、心筋梗塞、肝硬変になる確率が低く、
厚生労働省は毎日三杯ずつ飲む人は乳がんの発生率が40%減少するとしています。

また、高血圧防止に役立つペプチドが含まれ、血圧を下げる効果もございます。
さらに、放射能による康被害を抑える効果も、見出されています。

 

 

 

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醤(ひしお)

2024年03月26日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

大冝に「ひしお」作りの上手な人がいて、秋になると「ひしお」を売って歩いていた。
買った「ひしお」はおいしかった。
全体、家で食べるものは自給品が原則だったが、
(家で作ったり、穫れたりするものよりも)
買って食べるものは、みな美味しく感じた。

その季節は秋刀魚(サンマ)と重なり、
サンマを七輪で焼いては、醤(ひしお)を付けて食べていた。
ひしおとサンマは、ほんに相性のいい食べ物だった。

 


成人になって、小さなスナックに行くようになった。
酒(カクテル)はジントニックとかマンハッタンを注文し、
つまみは「もろきゅー」を注文していた。

「もろきゅー」とは、ひしおと胡瓜で、一番手頃(安い)なつまみだった。

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


速成味噌である。
笠岡市吉田では裸麦を甑で蒸してハナを作り、塩、水をいれてかき混ぜる。
蚕豆を入れると香ばしくておいしい。
おかずにする。焼魚につけて食べる。

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

醤(ひしお)
裸麦で麹を作り、甕に裸麦の麹五升と炒った大豆・塩二合を加え、水を入れてかきまぜる。
麦飯につけておかずにしたり、焼き魚などにつけて食べる。
焼いたママカリや、塩漬けしたナスビやキュウリを甕のなかに入れた。

 

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

醤(ひしお)

夏に作るものであった。 
小麦を蒸して麹を作ったり、醤麹を買ってきて、煎って臼で 挽いた大豆やエンドウ豆と塩を混ぜ、瓶に入れて寝かした。
縁側などに出し日光に当てると、ブツブツといって発酵した。
早く発酵させるために毎日混ぜたが、これは子供の仕事であった。
出来上がるとナスや瓜、キュウリの漬物などを入れた。
また、焼き魚に乗せて食べた。
すぐに食べたので、貯蔵するほどはなかった。

 

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

ひしお味噌
ひしお味噌は秋のはじめごろ仕込み、どこの家でも軒先にかめを置いて、毎日陽光に当てながらつくる。
瀬戸内の 温暖な秋晴れの日々、太陽の恵みをいっぱいに受けてつくるなめ味噌の一種である。
この地方では、年中、毎回の食 事にほとんど欠かさず供される重要なおかずである。

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行

ひしお
醤味噌ともいい、麦を甑で蒸してハナ(麹)を作り、ハナ二升に対して塩を二合加え、
甕に入れ、水は適当に入れて、かきまぜて発酵させる。
小麦や蚕豆(そらまめ)・エンドウは炒って挽き割ったものを入れる。
蚕豆を入れると、一層甘く、炒って入れると香ばしい。
一度に作る量は一斗甕に一杯程度で、なくなれば作り、年中作るが、主に暑い季節に作った。
麦飯につけて食べたり、焼き魚などにつけて食べる。

 

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