しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「満州育ちのぼくが考える」

2018年10月06日 | 昭和16年~19年
2018年10月2日の山陽新聞文化欄に下記の記事が載った。
「満州育ちのぼくが考える」山田洋次

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山田洋次 1931年生まれ。旧満州で育つ。(映画監督)

1930年代の終わり、8歳のぼくが初めて見た日本の印象は今も鮮明である。
港や町の通りに人がいっぱいいる。
「あの人たちはみんな日本人?」
波止場をよくみると大きな麻袋を背負ったり、半裸の姿で思い大八車を引いたりする人たちがいる。
「あの働いている人たちも日本人なの?」
決まっているじゃないの、という母の返事が不思議でならなかった。
この体験は満州育ちの子供たちなら誰でも身に覚えがあるはずだ。

垢で汚れた服装で重い労働をするのは中国人で、彼らを使役し、彼らの引く人力車に、傲然と背をそらせて乗っているのが日本人、というのが当時のぼくたちの常識だった。

中国人に対する理由のない民族な差別、そして労働を卑しいとする誤った価値観。
満州に育った日本の少年少女の多くは、この二重の差別意識を当然のことのように抱いていた。
満州の思い出に懐かしさを込めながらもどこかに罪の感覚、差別意識に伴う出来事の数々(馬車で運賃の支払い時に不満を言われたのが気に入らなくて日本人の乗客が素手で馭者(ぎょしゃ)を殴りつける、というような場面を見たことがあるし、それは別に珍しいことではなかった。)を覚えているから、満州育ちのわれわれは大声であの頃の懐かしさを語り合うことをしない。
ぼくたち引揚者の原罪意識とでもいうのだろうか。

今、日本の観光地はどこの国か、と思うほど中国人でにぎわっている。
その中の何人かでいい、あなた方の両親や祖父母母は今から70年、80年前に日本という国とどう関わったか、どんな印象を持っているかというようなことを、じっくりと話してみたいと切実にぼくは思う。
日本と中国の友好はそんなところから始まるのではないだろうか。

コメント
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