婦人の公民権獲得の運動は、魁の人たちは世の人から、たいへん冷ややかな目でみられていたであろう。その中で活動した。
戦前・戦中・戦後に代議士を務めた星島二郎さんは、婦人運動に理解が深かった。
首相にまでなった犬養木堂さんは、婦人運動については名が出てこない。江戸時代に育ったのが原因か、それとも多岐にわたる政治活動で、婦人問題まで入り込めなかったのであろうか。
(戦前~戦後、婦人の地位向上に尽力した星島二郎(第一次吉田内閣時の写真)商工大臣、後列一番背の高い人。その右に田中耕太郎文相、更に右に和田博雄農相)
「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編 山陽新聞社 2000発行
岡山の婦人参政権獲得運動
岡山県特別高等警察課の調査資料によると、
1922年(大正11)4月の治安警察法改正に際し、これを記念して岡山市内の劇場で中国民報社主催のもとに、阪神から婦人弁士を招いて坂本鶴子(代議士の義妹)らの出演により、婦人参政問題を議論したことがある。
1926年(大正15)9月に婦人参政権獲得同盟(会長河口愛子、顧問安達内相婦人、鳩山一郎夫人)の岡山支部が発足し、
東京から会長らを招いて岡山、西大寺、倉敷の各地で演説会を開き、一部世人から軽蔑と嘲笑をうけながらも「婦人解放」の呼び掛けを開始した。
以来、支部長坂本鶴子、横山正江らを中心に月2回の婦人問題研究会やお茶の会を開き、パンフレットやビラをつくって宣伝につとめ、
各地に遊説して女性の自覚を促し、総選挙に際しては星島二郎、鶴見祐輔ら婦選に理解のある候補者の応援演説に駆け付け、議会に対して本部とともに請願書を提出するなど、熱心に運動を続けてきた。
1929年には岡山県会に公娼廃止建議案を提出、通過の瀬戸際まで行っている。
1929年4月現在の支部員は60数名。
婦人公民権は本年5月10日衆議院で可決されたが、13日貴族院の審議未了で実現しなかった。
「戦前昭和の社会」 井上寿一 講談社現代新書 2011年発行
「婦人」の登場
『家の光』の発行部数は、「婦人」の地位向上と連動していた。
これには大きな理由がある。
戦前における女性解放運動は農村の無学な女性たちがその歴史的な前提条件を築いていたからである。
農家の女子は一家の衣食の世話を引き受けてすることは勿論、田畠の仕事をする、一家の会計も多くは主婦の任ずるところだ。
この論考は、日本の主要な輸出品である綿糸や絹織物の生産がもっぱら女性の「勤勉労働」によるものであることに注意を喚起する。
「日本国は日本の男子は我が婦女に対して深い感謝を表すべきである」。
要するに農村においては、女性が男性と対等の労働力だったのだ。
そこから男女間の社会的地位の平準化が進んでいく。
「働く婦人」
男子普通選挙制度が確立する。
つぎは女性参政権ということになった。
まず政友会が「婦人選挙法案」を持ち出す。
ついで民政党も地方レベルでの「婦人参政権」で対抗する。
欧米の主要国で女性参政権がないのはフランスとイタリアだけであり、
日本においても女性参政権は時間の問題に過ぎなかった。
問題は選挙権の付与にふさわしい「社会からの敬意に答えようとする」女性になれるかだった。
農村の女性は身近な生活実感レベルからの男女同権をめざし、
参政権には漸進主義的な態度をとっている。
たとえば『家の光』昭和7年7月号には、
「参政権よりももっと大事な問題は、家庭内でもっと自由を与えられ、
女といえば奴隷のようにされる境涯を脱出したいのです」
着物を仕立て直し、機を織り、養蚕がだめならクルミの栽培で借金を返す。
福神漬けを茶菓子の代用とし、夜なべ仕事で得たわずかな額ではあっても貯金をする。
恐慌化の農村を支えていたのは女性たちだった。
恐慌が促す社会進出
参政権といった政治的な地位向上よりもさきに、女性の経済的な地位向上が進んでいた。
助産婦、女優、看護婦、女給はもとより
美容師、裁縫師、タイピスト、電話交換手、会計、車掌、教員、事務員、飛行家、医師、そして巡査までにも、
どしどしと領域を広め男の領域をも侵略しつつある。
なぜこうなったか。
恐慌が女性の社会進出を促した。
夫の収入を補うためにやむなく仕事に就く。それが事実として、女性の地位向上をもたらすことになった。
同じ1931(昭和6)年、満州事変が勃発した。
国防婦人会が誕生し、「エプロン」(割烹着)が制服になり軍部の支援を受けた。
主な活動は出征兵士の見送りなど、停滞期が訪れた。
戦前・戦中・戦後に代議士を務めた星島二郎さんは、婦人運動に理解が深かった。
首相にまでなった犬養木堂さんは、婦人運動については名が出てこない。江戸時代に育ったのが原因か、それとも多岐にわたる政治活動で、婦人問題まで入り込めなかったのであろうか。
(戦前~戦後、婦人の地位向上に尽力した星島二郎(第一次吉田内閣時の写真)商工大臣、後列一番背の高い人。その右に田中耕太郎文相、更に右に和田博雄農相)
「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編 山陽新聞社 2000発行
岡山の婦人参政権獲得運動
岡山県特別高等警察課の調査資料によると、
1922年(大正11)4月の治安警察法改正に際し、これを記念して岡山市内の劇場で中国民報社主催のもとに、阪神から婦人弁士を招いて坂本鶴子(代議士の義妹)らの出演により、婦人参政問題を議論したことがある。
1926年(大正15)9月に婦人参政権獲得同盟(会長河口愛子、顧問安達内相婦人、鳩山一郎夫人)の岡山支部が発足し、
東京から会長らを招いて岡山、西大寺、倉敷の各地で演説会を開き、一部世人から軽蔑と嘲笑をうけながらも「婦人解放」の呼び掛けを開始した。
以来、支部長坂本鶴子、横山正江らを中心に月2回の婦人問題研究会やお茶の会を開き、パンフレットやビラをつくって宣伝につとめ、
各地に遊説して女性の自覚を促し、総選挙に際しては星島二郎、鶴見祐輔ら婦選に理解のある候補者の応援演説に駆け付け、議会に対して本部とともに請願書を提出するなど、熱心に運動を続けてきた。
1929年には岡山県会に公娼廃止建議案を提出、通過の瀬戸際まで行っている。
1929年4月現在の支部員は60数名。
婦人公民権は本年5月10日衆議院で可決されたが、13日貴族院の審議未了で実現しなかった。
「戦前昭和の社会」 井上寿一 講談社現代新書 2011年発行
「婦人」の登場
『家の光』の発行部数は、「婦人」の地位向上と連動していた。
これには大きな理由がある。
戦前における女性解放運動は農村の無学な女性たちがその歴史的な前提条件を築いていたからである。
農家の女子は一家の衣食の世話を引き受けてすることは勿論、田畠の仕事をする、一家の会計も多くは主婦の任ずるところだ。
この論考は、日本の主要な輸出品である綿糸や絹織物の生産がもっぱら女性の「勤勉労働」によるものであることに注意を喚起する。
「日本国は日本の男子は我が婦女に対して深い感謝を表すべきである」。
要するに農村においては、女性が男性と対等の労働力だったのだ。
そこから男女間の社会的地位の平準化が進んでいく。
「働く婦人」
男子普通選挙制度が確立する。
つぎは女性参政権ということになった。
まず政友会が「婦人選挙法案」を持ち出す。
ついで民政党も地方レベルでの「婦人参政権」で対抗する。
欧米の主要国で女性参政権がないのはフランスとイタリアだけであり、
日本においても女性参政権は時間の問題に過ぎなかった。
問題は選挙権の付与にふさわしい「社会からの敬意に答えようとする」女性になれるかだった。
農村の女性は身近な生活実感レベルからの男女同権をめざし、
参政権には漸進主義的な態度をとっている。
たとえば『家の光』昭和7年7月号には、
「参政権よりももっと大事な問題は、家庭内でもっと自由を与えられ、
女といえば奴隷のようにされる境涯を脱出したいのです」
着物を仕立て直し、機を織り、養蚕がだめならクルミの栽培で借金を返す。
福神漬けを茶菓子の代用とし、夜なべ仕事で得たわずかな額ではあっても貯金をする。
恐慌化の農村を支えていたのは女性たちだった。
恐慌が促す社会進出
参政権といった政治的な地位向上よりもさきに、女性の経済的な地位向上が進んでいた。
助産婦、女優、看護婦、女給はもとより
美容師、裁縫師、タイピスト、電話交換手、会計、車掌、教員、事務員、飛行家、医師、そして巡査までにも、
どしどしと領域を広め男の領域をも侵略しつつある。
なぜこうなったか。
恐慌が女性の社会進出を促した。
夫の収入を補うためにやむなく仕事に就く。それが事実として、女性の地位向上をもたらすことになった。
同じ1931(昭和6)年、満州事変が勃発した。
国防婦人会が誕生し、「エプロン」(割烹着)が制服になり軍部の支援を受けた。
主な活動は出征兵士の見送りなど、停滞期が訪れた。