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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館 20087年発行
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「占領地域の確保」
日本軍は、1938年武漢・広東作戦を実施した後、
占領地確保に重点を置いた持久戦態勢への転換を図った。
12月2日、大本営は
「占領地域を確保」し、「残存抗日勢力の制圧衰亡に勉る」にあるとし、
北支那方面軍司令官に対して、
「現に占領しある北支那地方の確保安定に任すへし」と命じた。
こうした日本軍の華北占領地確保に挑んだのは国民党の軍隊ではなく、共産党系の軍隊であった。
日中戦争開始後、中国では国民党と共産党の抗日民族統一戦線形成が実現し
(第二次国共合作)
1937年8月22日、華北方面の共産党軍すなわち紅軍は、国民革命軍第八路軍に改編された。
八路軍は日本占領地域の後方に抗日根拠地を形成する方針を取り、
日本軍支配地域を蝕むように形成されていった。
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日本支配下の諸相
北平(北京)
1937年(昭和12)8月8日日本軍が北平(1938年北京と改称)に入場式をおこなった。
無血占領となった。
しかし以後日本が敗戦を迎えた45年8月までの丸8年間、北京は日本軍官の支配下に置かれ、
その下で住民は艱難辛苦を舐め尽くさねばならなかった。
軍・官憲による抗日勢力の掃討・弾圧に表れた。
八路軍兵士や抗日・反日分子として捕らえられた者には拷問を加えるのが常であったが、その行きつく先はほとんどが虐殺であった。
高官から末端まで権力にものをいわせた収賄が横行したが、
理不尽とはわかっていても袖の下で、身内の生命を救い出したり、生業を維持した。
動員
天津・済南・徐州・南京・武漢・広州等、
日本軍が都市を陥落させるたびに、北京市民は「歓呼拍手して感謝」させられた。
日本軍入城が伝わると、北京市民は動員され、慶祝会や提灯行列に参加させられた。
アジア・太平洋戦争に突入後は東南アジアの各都市が陥落するたびに同様の動員がおこなわれた。
飢餓
北京では、日本軍の封鎖により周辺地域から搬入がままならず
日本軍の穀物備蓄や、投機的な穀物買い占めや、干ばつなどで、
米は十数倍になり41年頃には店頭から姿を消した。
戦争末期には大部分がトウモロコシの皮や芯・どんぐり・もみがら・糠の類になっていった。
もはや人間の食糧とは言い難いものであった。
北京の中国人は飢餓状態、あちこちの街角に飢餓者が横たわるありさまとなった。
「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館 20087年発行
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