「とと道」というのは、吹屋が鉱山で栄えていた頃、
瀬戸内の漁港から、鮮魚を、籠に背負って(天秤棒で担いだという説もある)、夜通し走りリレー方式で翌朝、吹屋に届けた道。
詳細は不明だが、近年埋もれた道探しで報道されることがある。
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「美星町史 通説編」 美星町 昭和51年発行
「トトミチ」の仲仕歌
魚仲仕というのは、
漁港から消費地の問屋へ魚介類をかついで運んだ人たちの俗称である。
この仲仕が魚介類の産地である西浜、尾道、鞆、笠岡、下津井方面と
消費地である成羽、吹屋、新見、高梁方面の問屋との間を中継ぎで交替しながら品物を運送していたのである。
三山は、この仲仕の通る道筋にあり、しかも生産地と消費地の中間に位置していた。
この仲仕の仕事は吹屋銅山の盛衰と比例してさかえたり、おとろえたりといわれている。
明治後期には中継ぎ場には20~30人の仲仕が出入りしていた。
細い急坂をオウコ一つに魚をかついで行き来していたのである。
仲仕の日当賃金は一般の五倍以上の賃金であったといわれる。
中継場の仲仕問屋には仲仕が寝泊まりしており、
寝ていて荷の来るのを待っている者と、早く起きて荷を取りに行く者が、くじ引きで分けて仕事をしていた。
笠岡を夜の9時に出発し、夜道を通して歩きつづけ、夜明けの四時半ごろ宇戸谷に着いていたので、威勢のいい五~六人の魚仲士たちの歌が聞こえたものである。
秋の収穫後の稼ぎ仕事としてやることが多かった。
朝の九時に吹屋の町の問屋へ着く。
さらに新見には夕方の六時ごろには到着していたのである。
仲仕が運ぶ一荷の重さは、十貫から十二貫位で鮪が大なら4本、中なら6本と、ほぼ決まっていたようである。
この魚仲仕の仕事も大正末期までで姿を消した。
それは伯備線の開通で、運搬の役が終わったからである。
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仲仕歌
一、
魚仲仕はどこがようてほれた
尻の振りよろしく足軽さよ ヨーホー ヨイヨー
二、
足も軽いが お尻も黒い
お鍋のお尻が 顔負けだ ヨーホー ヨイヨー
三、
抱いて寝ようとすりゃ くるりとまわる
娘心が まだうせぬ ヨーホー ヨイヨー
四、
娘心は うせてはおるが
私しゃ お前のかかじゃない ヨーホー ヨイヨー
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(西浜=ようすな=笠岡市金浦)
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「真備町史」
トト道に関して
櫛田の繁栄
大正頃、松山街道は魚売りが肩に天秤棒をかついで玉島から高梁に向けて夜中にここを通過、何十人も通るにぎやかさ。
古人は肩の力と足の力とは今日の想像以上である。
もちろん玉島から櫛田に多くの魚も来た。
当時明治・大正にかけて飲み屋や旅館が軒を並べた。
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「成羽町史」
トト道
生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬舟で運ばれていた。
この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。
かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。
成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。
山の中の吹屋での最高のご馳走は海の魚、いわゆる「トト」であった。
したがって、吹屋へのこの道を「トト道」といった。
繁栄を極めた吹屋銅山の往時が偲ばれる。
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(吹屋)
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