(元・高島小学校) 2012.4.8 笠岡市高島
「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行
高島国民学校
昭和11年5月 電灯が点ぜられた。ラジオの設置。
8月 帝国大学名誉教授黒板博士神武天皇聖跡調査のため来校。
昭和13年7月 神武天皇聖跡調査のため文部省より保安課長来校。
昭和14年9月 毎月1日を興亜奉公日と定められた。
昭和15年4月 ご真影を奉戴した。
6月 二宮金次郎の石像建設竣工、直ちに除幕式を挙行。
昭和16年4月 学生改革により「高島国民学校」と校名を変更した。
昭和19年4月 高等科を設置した。
昭和22年3月 学生改革により「国民学校」が廃止され、初等科6学年まで小学校に、
高等科を中学校に改められた。
4月 学生改革により「高島小学校」と校名を変更した。
おもいで
昭和21年度卒業生 Y男
昭和16年4月、男は黒土・高須・王泊から12人。女は1人、差出から1人。
計14人が国民学校1年生として入学した。
まもなく大東亜戦争がはじまり、先輩たちはどんどん戦地へ召集され、残されたものは、婦人と老人ばかり。
毎朝早く起こされ、先輩たちと神社参拝をし、武運長久を祈り、
冬は乾布摩擦をし、ズボン一枚でわっしょいわっしょいと走って帰った。
靴はなく素足か草履履きであった。
ならった歌は軍歌ばかり。
芋ほりをし、麦蒔きをし、麦刈りをして農繁期には学校は休みになり、お手伝いをしたものだった。
4.5年頃には開墾もどんどんやらされ、少しでも農産物をとみんなと一生けんめいだった。
そのため、野山から草刈り競争、堆肥をつくり、ドングリを広い、校庭で炭を焼き、防空壕堀りをし、ヒマシ油作り、思えば労働の連続だった。
百町の畑、末子の開墾畑、米子はことの他空しゅうの最中の開墾だった。
一列で下校中B29の飛来は、幼心にも戦争のきびしさを肌身に感じつつ精いっぱい働いたようだ。
複式授業だったので予復習はいつも夜学へ行ったものだ。
だれかが教えてくれた。
また、教育勅語を暗記させられたり、複式授業だから上級生の勉強も知らず知らずのうちに覚えた。
当時は正教員も少なく、代用教員が教えたりしており、質問をして困らせたこともあった。
学芸会や運動会、校庭での肉弾戦などさまざま楽しい思い出です。
5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。
当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。
5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。
受験を目指して勉強している時、学校は6.3.3制になり、私たちは、この年から義務教育の新制中学で、神島外中学校に行くことになった。