しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

広島湾要塞・室浜砲台(宮島)

2021年01月31日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県廿日市市宮島町
訪問日・2016年10月20日   


日本三景・安芸の宮島。

いつも観光客であふれる。







宮島は呉や広島に近いため、日清日露戦争当時に要塞が築かれた。






「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
広島湾要塞・室浜砲台

広島に
1894年6月の山陽鉄道の開通を待って、日清戦争の大本営が置かれた。

帝国議会も開かれ、多数の軍隊が集結し、宇品港は兵站基地と化した。

日清戦争後に呉港は軍港となり、工廠を持つ海軍基地に整備しつつあって、朝鮮・中国侵略戦争の一大軍事基地となった。

そのため清国の艦隊が、わが国を襲ってくるとすれば玄界灘から関門海峡に入り広島・呉を襲うであろう、と
日清戦争直後に広島湾の大小多数の島々に砲台を築いた。
この砲台群を広島湾要塞と総称し、
要塞地帯法と軍機保護法にもとづき、最高刑死刑をもって立入禁止や情報収集を厳禁した。

広島湾要塞司令部を元宇治に、
重砲兵第4連隊本部を比治山に置いて、管理運営を統括した。








宮島には西に「室浜砲台」、東に「包ケ浦砲台」が築造された。




室浜砲台
広島湾の西、厳島の北西岸の中央よりやや南、海岸から約50m入った標高12mの低地に位置する。
スカ式9センチ速射カノン砲4門を、2門で1つの砲座として、右砲座の右前方には野砲の砲座も準備してあった。
また砲台の近くに付属諸施設が建てられた。









室浜砲台は水族館の前の道を、ひたすら西へ進めば迷うことなく行けるが、結構遠かった。疲れた。








現地看板
近代化遺産 室浜砲台

室浜砲台は明治31年着工、日露戦争宣戦布告(明治37年2月1日)の直前に備砲完了。
広島湾を取り巻く要塞の一環として作られた。

眼前の大野瀬戸が航行可能な小艦艇の防圧を想定されており、
1~2個小隊(50~60人)による戦闘態勢が取られた。

砲は4基の高性能フランス・シュナイダー社製の速射可農砲で、最大射程距離6850m。

これら砲台は、日露戦争終結までに実戦を経ることなく、やがて豊予・下関砲台等の完成により、
広島湾要塞はその役割を終え、大正15年廃止。
内務省に移管。
昭和38年広島大学理学部附属自然植物園の所管となる。









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広島湾要塞・三高山砲台跡

2021年01月31日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県江田島市沖美町 砲台山
訪問日・2013年1月16日

一つの島だが、なぜか三つの島に分離される江田島・西能美島・東能美島。

広島と広島湾を見下ろせる、西能美島の三高山(砲台山)。







三高山に、日露戦争に備え要塞が造られた。


「戦争遺跡の辞典」 柏書房 2002年発行
広島湾要塞・三高山堡塁砲台
西能美島の西部の最高所に、西の海面を制圧するため1901年竣工。
28センチ榴弾砲編成で、2門を1砲座とした3砲座である。
200m離れて、付属建物がある。











規模も大きく、保存状態もいい。
今は憩いの村になっている。







現地看板
三高山砲台跡の歴史

江田島市北西部に位置する三高山(401m)の北部に、ロシアとの国交が急を告げる明治31年2月を境に、
バルチック艦隊の入港を阻止するため、広島湾一帯の数ケ所をの一つとして、起工し2年の歳月を費やして完成しました。
播州煉瓦といわれる特殊な薬焼の煉瓦で造られた。

280ミリりゅう弾砲6門、90ミリ連射砲4門、90ミリ臼砲4門、弾薬庫4個、機械設備庫、大規模な巡回監視所、
その他の建物跡が残されています。
三高山砲台は、総面積が約6万坪あり、西日本最大規模とも伝えられ、近代土木技術を今日に伝えています。








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広島湾要塞・大空山砲台

2021年01月31日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市阿賀・広町
訪問日・2012.2.9


JR呉線の阿賀駅から大空山に登る。
途中に見える灰ケ峰。




「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
広島湾要塞・大空山砲台

呉軍港の背後山上に28cm砲りゅう弾砲2門を1座に据え、二砲座が石積の砲側弾薬庫を挟んだ形になっている。
北端には観測所、シェル型の石積弾薬本庫が道路わきにある。
兵器修理所や糧食支庫などの付属建物もあった。
現在は公園となり、監視所は展望台となっている。








存在感たっぷりの石造り倉庫跡。







「大空山公園」化され、保存と遊歩道が調和している。










要塞は大正15年に廃止されたが、
太平洋戦争では高射砲基地となったそうだ。






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大平山砲台跡地(下蒲刈)

2021年01月31日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市下蒲刈町 (下蒲刈島)大平山公園
訪問日・2009.2.12


下蒲刈(しもかまがり)のほぼ中央に大平山がある、標高275m。
その山頂付近に砲台が遺る。






砲台跡にある説明版。

建設には国民学校(小学校)の上級生も動員されている。
戦闘状況の表には呉防衛施設では1~2番目の発射数となっている。









公園入口の説明板には、

砲台跡

下蒲刈島の最高峰大平山には太平洋戦争当時、呉防空を目的として高射砲(2基4門)が据えられました。
たくさんの軍人が大平山砲台の守備に就いていましたが、その多くは後に戦地へと赴いていきました。
平成6年、下蒲刈町は大平山を公園として整備し地元の人たちの手によって桜の木が植樹されました。






発射数を誇るが、戦果を記されていないのがつらいところだ。





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軍国美談・一太郎やあい像

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・香川県仲多度郡多度津町   桃陵公園
訪問日・2014年4月2日

ここは香川県多度津町の桜の名所「桃陵公園」。


(後方は少林寺)





公園は小高い丘にあり多度津港が見える。
この港には日露戦争時に、ある若者の兵士と母親の話がある。






尋常小学校国語読本巻七
第十三 
一太郎やあい

日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
といひいひ、見送人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあらうか、腰に小さなふろしきづつみを結びつけてゐる、御用船をみつけると、
「一太郎やあい。其の船に乗ってゐるなら、鉄砲を上げろ。」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げたものがある。
おばあさんは又さけんだ。
「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。
聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いできたのださうだ。
郡長をはじめ、見送の人々はみんな泣いたといふことである。






いかにも創作された、というか創作され過ぎた感があるお話。

生前の父「作り話じゃ」と、ひとこと。







銅像は昭和6年に建ち、昭和16年に供出。翌年コンクリートで再建されたもの。







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軍神・広瀬中佐像

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・大分県竹田市
訪問日・2013年2月21日  

大分県竹田市の「武家屋敷通り」(歴史の道)、この道をまっすぐ進めば、「荒城の月」でも有名な岡城に着く。





豊後竹田3万石の城下町竹田からは、作曲家滝廉太郎や軍人の阿南陸相、それに軍神となった広瀬中佐がいる。




広瀬中佐は死んで神となり、歌にも教科書にもなった。


♪轟く砲音 飛来る弾丸
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び
杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや




生誕地の竹田には「広瀬神社」。


鳥居の前には、狛犬の代わりに中佐の胸像が載る。









戦前の東京名所だった、万世橋の広瀬像にも負けない堂々たる姿。
この中佐の銅像は戦時中に供出したので、戦後に二代目が建っている。




明治37年3月27日、日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫は、
その後多く生まれた”軍神”の第一号だったそうだ。






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ラッパ手・白神源次郎記念碑(船穂)

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県倉敷市船穂 高瀬通し
訪問日・2006.5.6


船穂(ふなお)には軍神二人の碑と像がある。


日本海海戦の英雄「東郷平八郎軍師」像。又串公民館の前にある。









もう一人の軍神は、白神源次郎。

「陸軍歩兵一等喇叭手白神源次郎紀念碑」。







白神源次郎記念碑
白神源次郎は,日清戦争に従軍していました。
明治二十七年七月、朝鮮成歓の役、安城の渡しの激戦中、敵弾が胸部を貫きましたが、なお屈せず進軍ラッパを吹き鳴らし続けました。
その余韻が消えると、ラッパを口にしたままで命が絶えました。
享年二十七歳
当時の新聞・雑誌には源次郎の勇壮な戦死を讃えた記事が,盛んに報道されました。
当時の検定教科書にも登場しました。
軍歌には「姓は白神で名は源次郎」と歌われ、国内はもとより広く海外にも伝えられました。
白神源次郎の墓はこの近くの出生地、字堅盤谷の丘の墓地にあります。
船穂町教育委員会




浅口郡船穂町(2005年に倉敷市に合併した)は木口小平の存在を無視している。
いつまでも船穂町出身の偉人であるようだ。
(誰にもほんとのことはわからないし、また誰も今は関心もないので)
それでいいかも。






”姓は白神(しらがみ)名は源次郎”の碑に立つと、高梁川の悠久の流れが眼前だ。




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ラッパ手・木口小平の碑(成羽)

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県高梁市成羽町成羽 小平園   
訪問日・2020年10月24日  



備中神楽の町、ほかにも高瀬舟や鉱山や陣屋町、桜や花火や美術館の町の高梁市成羽町。







成羽は戦前の小学校の終身の教科書に出る「木口小平」の出身地。
小平はラッパ手の兵士で日清戦争で戦死した。
その小平を顕彰した公園と石碑がある。





勇敢な戦死をしたラッパ手は二人いた。



つくられた英雄--ふたりのラッパ手の死

明治27年(1894)7月29日、宣戦布告の三日前安城の渡しで清国軍と激しい銃撃戦があり数名が戦死した。
近衛師団の一楽手が一つの挿話を耳にした。
ただちに同僚と軍歌をつくりあげた。
弾丸咽喉を貫けど 熱血気管に溢るれど 喇叭は放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
「安城の渡し」または「喇叭の響」と題されたこの軍歌は一世を風靡した。

9月4日、白神の盛大な葬儀が行われた。地元紙「中国民報」は一人息子を失った白髪の両親への義援金募集のキャンペーンを始めた。
ところが一年たった明治28年8月30日、読売新聞は「喇叭手は白神源次郎に非ずして木口小平なり」と報じた。
勇敢なる喇叭手は白神から木口にかわった。
やがて木口は「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と、小学校の修身の教科書に、国民的英雄として登場したのである。

二人とも貧しい農家の跡取り息子で白神は25才独身。木口は22才、入営する前に新妻と離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全うしているが、
木口の伝記には、「小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」とある。




小平園にある「壮烈喇叭手木口小平之碑」。




教科書に載る人は死に様も・生き様も、もっともらしくするために脚色が多い。
中にはすべて作り話のような人もいる。


小平の場合は、ラッパ手が二人いることに加えて。

教科書では クチカラ ハナシマセンデシタ 、小平園の説明では 手からラッパを離さず


妻は・・・離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全う。
伝記・・・小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」

必要以上に話を盛るのがすごい。



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舞鶴引揚記念館

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・ 京都府舞鶴市平  「舞鶴引揚館」
訪問日・2013.8.2


舞鶴引揚記念公園に行くと歌が流れている。





♪今日も暮れゆく・・・の「異国の丘」と、
♪母は来ました、今日も来た・・・の「岸壁の母」。










「記念館」に入ると、つらく、きびしいシベリアの捕虜生活の人形や資料や道具やなんやら展示。











ソ連から日本に引き揚げて、最初の一歩となった桟橋。








「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
舞鶴引揚記念館


東舞鶴湾の最東奥の丘に引揚記念館がつくられ、舞鶴湾を一望できる。
丘の麓には、多くの引揚者を迎えた平桟橋の一部が復元された。

「岸壁の母」の歌謡は、ここでの引揚風景を歌ったものである。
戦後舞鶴港には、約66万人、遺骨は1万数千人分が帰国した。


記念館の最大の特徴は、引揚だけの展示にある。
ソ連抑留の苦労と、引揚の様子がよくわかる。

記念館の展示には、ソ連抑留時に使用していた食器や衣料品など苦労の染み込んだ生活品、
またソ連での収容所や抑留所の模型があり、引揚者が当時所持として帰国時に持ち帰った物を蒐集した。

「大陸移民・満州開拓・大陸花嫁」たちのこと、
侵略や植民の歴史事実を後世の国民に正確に伝えることが目的とはなっていない。




記念館は捕虜と引揚の展示で、たしかに↑述べているように
侵略に関する展示はまったくない。

日本の記念館は、ココに限らず、どこの平和館も被害者ぶっている。


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ラッパ手・木口小平の像(浜田)

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・島根県浜田市  浜田城跡・護国神社
訪問日・2011年10月27日  

浜田城の雄姿。





その浜田城へ登城する。







山陰の浜田には、かつて聯隊があった。

「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社  2004年発行
浜田の歩兵第二十一連隊


この聯隊は「浜田か鯖江か村松か」と軍歌に唄われるほど有名な「田舎の連帯」だった。
だが強兵として知られた聯隊は郷土の誇りだった。







浜田城の本丸の、一番目立つ場所に銅像は建っている。


木口小平像。




木口小平

日清日露の戦争以降、新聞はこぞって忠勇美談を報じることで愛国心を鼓舞し戦意を煽った。
木口小平の話はとくに有名である。
後に終身の教科書で、
「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と賛美され、
長く愛国教育に活用され「征露丸」のマークにもなった。
岡山県人の彼は浜田に直接ゆかりはない。






ここで木口小平に出会うとは思っていなかった。
聯隊がある縁で像が建ったようだ。


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