笠岡で「かさこう」と言えば、「笠岡高校」と「笠岡工業高校」の二つある。
話の内容で”笠高”と、”笠工”とを聞き分ける。
慎重な人は”千鳥”と、”工業”と言葉を使い分ける。
岡山県で「くらこう」と言えば、倉工だったが、今は「倉敷工業」「倉敷高校」が並ぶ。
以前は「岡山日大」高校だったので、まぎらわしくなかったんだけど。
ちなみに倉敷の娘婿は倉敷高校を「くらしき」と呼んでいる。これはこれで意味する幅が広くて、聞く方も一寸悩む。
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ベビーブーマーとか団塊の世代と呼ばれる世代が、高校に入学する頃、
日本全国に高校や高専が新設されていった。
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「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会 創文社 平成三年発行
昭和38年をピークとする高校生急増と昭和41年からの急減の時期においては、
公私立及び私立相互間における募集定員調整の問題は私学関係者の最大関心事であった。
高校志願者急増に対し、文部省は昭和36年に高校生急増対策の全体計画を発表し、
昭和40年度において、昭和34年度より約112万増になると見込み、
公立で67万人、私立で43万人の増加となるとし、
私立では約120校に相当する学校の新設、課程増などによる9万人、
臨時学級増により18万人、一学級の定員増により16万人の増を図るものとした。
昭和36年2月、岡山県高等学校生徒定員協議会が設置され、
「公立高校への進学者数を70%、私学への進学者集をおよそ30%とする」、
とした建議書が提出された。
公私立分担の努力により、
急増期において進学率を上昇させながら乗り切ることができた。
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新設、移転、校名変更
昭和30年当時の私立高等学校は、
関西高校、
吉備高校、
山陽女子高校、
就実高校、
真備高校、
清心女子高校、
城北女子高校、
片山女子高校、
美作高校、
作陽女子高校、
津山基督教図書館高校、
淳和女子高校、
山陽高校、
金光学園の16校であった。
昭和35年から新設校が次々に誕生した。
昭和35年1月、西大寺市に西大寺女子高等学校が認可された。
同じく昭和35年1月福井学園により御津町に中国商業高等学校が設立された。
同校は昭和37年岡山市に移転し、岡山女子商業高校と改称、昭和40年に岡山日本大学高等学校と改称、普通科、商業化を設け、昭和41年倉敷市鳥羽に移転した。
現在の倉敷高校の前身である。
昭和37年には加計学園により岡山電機工業高等学校が設立された。
(昭和39年岡山理科大学附属高等学校と改称)
昭和44年には新見高等技芸学校に通信制の高校として新見女子高等学校が併設され、
昭和47年から定時制(昼間)となり、昭和50年には全日制に移行した。
昭和45年には川崎医科大学の開学と共に附属高等学校が設立された。
昭和51年には兵庫県姫路市の学校法人三木学園が中高一貫の英才教育を目指して赤磐郡熊山町に岡山白陵高等学校・中学校を設立した。
この間、
岡山市にあった片山女子高等学校は昭和32年本拠を倉敷市に移し、昭和48年には倉敷松翠高校と改称した。
城北女子高等学校は昭和37年岡山女子高等学校と改称し、
作陽女子高等学校は昭和38年に男女共学制とし作陽高等学校と改称し、
清心女子高等学校は昭和39年倉敷市の現校地に移転した。
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画像・2022.11.6 「高校駅伝・岡山県大会」 笠岡市走出 12月の全国大会も優勝した。