門人の露通が敦賀まで迎えにきた。
二人は大垣へ向かった。
大垣では曾良をはじめ、多くの門人が芭蕉の到着を待っていた。
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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行
いよいよ〝奥の細道"の旅も、最後である。
大垣には古くからの門弟たちが、多勢あったし、何度か訪れた土地でもあった。
大垣へきて、やっとこの長途の旅も、終着駅についたという感じで、ほっと一息ついたのだ。
もちろん芭蕉の生涯が旅なのだし、ここを立って、さらに伊勢の御遷宮を見に行こうと計画しているのだから、
旅が終わったというわけではない。
だが、細道の紀行文は、ここらで打ち止めにするのが適当だと思ったのだ。
敦賀をいつ発って、どういうコースをたどって、何日に大垣についたのか、いっさいわからない。
大垣には、前川荊口その他大垣藩士のなかに門弟が多かった。
わらじを脱いだのは、元藩士で剃髪していた如行の家だ。
芭蕉の来着をきき伝えて、越人・路通などもやってきたし、
九月三日には、伊勢の長島から曾良もやってきた。
急に芭蕉の身辺は、にぎやかになった。
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旅の場所・岐阜県大垣市
旅の日・2012年12月2日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎 筑摩書房 2022年発行
芭蕉が大垣に到着すると、ひと足さきに帰っていた曾良が伊勢から駆けつけ、
大垣在住の友人・谷木因 (廻船問屋)らが出迎えた。
大垣は戸田氏十万石の城下町である。
関ヶ原の合戦では大垣城は西軍の拠点となり、難攻不落の名城だった。
関ヶ原の戦功で大名となった徳川譜代の戸田家が寛永十二年(一六三五)に入り、以後二百三十年以上、安定した治世を続けた。
大垣の町を水門川が流れている。
城の北と西の外濠を兼ねていたが、船町港を経て南に流れ揖斐川につながり、美濃の産物を伊勢湾に運んだ。
大垣に着いた芭蕉を迎えたのは、木因をはじめ、大垣で最初に門人となった近藤如行。
大垣藩士で江戸勤番中に芭蕉、曾良と親交のあった前川、
大垣藩士で三人の子とともに芭薫の弟子となった荊口その息子たち、
尾張の越人、左柳・残香・斜嶺・怒風といった大垣の俳人たちであった。
如行宅にわらじを脱いだ芭蕉は、旅の疲れを癒しつつ、弟子村宅を訪れ、歌仙を巻いた。
敦賀と大垣は細長い日本列島の胴(ウエス ト)をきゅっと絞った地点である。
ウエストの臍が関ヶ原で、情報が集まる。
如水(戸田利胤。家老次席)の下屋敷にも招かれた。
『ほそ道』最終章に、
「曾良も伊勢より来て、越人も馬をとばして如行の家に集まった。
親しい人が日夜やってきて、蘇生のものにあうがごとく......」
とある。
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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行
大垣 おおがき
路通もこの港まで出迎えて、美濃の国へと伴った。
駒に助けられて、大垣の庄に入れば、一足先に帰った曾良も伊勢から来合せ、
越人も馬を飛ばせて、如行の家にみな集まった。
前川子・荊口父子、その他親しい人たちが 日夜訪ねて来て、生きかえった者に逢うかのように、
悦んだり、いたわったりしてくれた。
旅のもの憂さもまだ抜けないうちに、九月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと思い立ち、
また舟に乗って、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
(蛤のフタとミではないが、送る人と行く人とふたみに分れて、私は伊勢の二見を見に行くのだ。
折から秋も行こうとしている。)
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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎 筑摩書房 2022年発行
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
『ほそ道』むすびの句。
江戸を出発するとき、「行春や鳥啼魚の目は泪」と詠んで、よう やく大垣に到着したのは八月二十一日ごろであった。
旅の最初が「行春や......」だから終わりは「行秋ぞ」と対応させている。
全行程二四○○キロ、百五十日間の旅であった。
蛤を鍋の湯に入れて炊くと、固くとじた蛤の殻がゆるやかにふわりと開く。
そんな感じで、蛤がふたつに別れゆくように、われわれ(芭蕉と曾良)も二見ヶ浦のほうへ別れていく秋だなあ。
伊勢名産の蛤を、二見ヶ浦の枕ことばとして使い、蛤が貝とカラとふたつに別れるところから「別れ」につなげている。
ふたみは、「二見」と「ふた身」であり、さらに蛤の貝とかけている仕掛けの多い句だ。
『おくのほそ道』の稿が完成するのは、この旅が終わってから五年後(元禄七年)で、
その定稿は能書家素龍が清書し、芭蕉は『おくのほそ道』の書名だけ自署した。
素龍本は故郷の伊賀上野にいる兄(松尾半左衛門)への手土産であった。
同年、芭蕉没後、遺言によって去来に譲られた。
蛤は兄の大好物であり、芭蕉はそういった配慮も忘れない。
句と俳文を駆使した東北漫遊俳句旅のスタイルになっている。
出板されたのは芭蕉没後八年(元禄15年(1702)であった。
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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行
何日か大垣に滞在してのち、九月六日に芭蕉は伊勢へ出立した。
十日の御遷宮に間に合おうというのだ。
水門川の船着場のほとりの、木因の家でごちそうになり、木因の世話で、午前八時ごろ舟に乗った。
同行は曾良・路通。
越人は船着場で別れ、荊口ほか一人は三里ほど送った。
この句は、このときの留別の句である。
桑名や二見ヶ浦の縁で蛤を出し、「蛤の二見」と枕詞のように使った。
「二見」はまた「蛇の蓋・身」にかけている。
「二見にわかれ」は、行く者と帰る者と二手に別れるという意味をこめ、
季節はちょうど「行く秋」に当っ ているのだ。
古い技巧の縁語や艦識を使っていて、新鮮な感銘のある句ではないが、時にのぞんでの即興の吟のとしては、
人人にある感銘を与えたであろう。
一大決心で遂行した大旅行を終わった者から見れば、今度はほんの小旅行であり、
行く者にも送る者にも、悲壮な感情はまったくない。
その気持が、おのずから句の調子の軽やかさとなって現われているのである。
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大垣で「奥の細道」は終わる。
長い旅も、映画のラストシーンに似てめでたく締めている。
読む方も気持ちよく本を閉じることができる。
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