しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

関東大震災②日本史の汚点と復興

2023年09月01日 | 大正

国は「関東大震災の日」を「防災の日」と定め、災害対策をことこまかく国民に啓蒙している。
そんなことより、
東京一点集中の是正の方が大問題。
東京で35.000.000人の人が被災したら
全国民で助け合う限度を完全に超えている。
40~50年前から言われているが、ずーーーっと逆行し続けている。

 

・・・

 

汚点

「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書  2007年発行


報道と記憶
東京では新聞社が壊滅して新聞発行が不可能になる。
9月5日ころから、被害の範囲がおおよそつかめた。

虐殺事件
震災直後、流言が飛び交った。
「朝鮮人」に関するデマである。
早くも9月1日午後3時、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、
「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とデマがひろまったという。
東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごとに自衛団を結成し、朝鮮人とみなすや、持っていた竹槍や鳶口により虐殺した。
虐殺された朝鮮人は6.000人を越えると推定されている。
近年では軍隊による朝鮮人の虐殺があったこともあきらかにされている。
その他、
甘粕正彦らの憲兵隊による、大杉栄・伊藤野枝他の虐殺があったが、下手人追及の手は鈍かった。

雑業層と旦那衆
朝鮮人は日雇いや人足として単純労働に携わっていたが、彼らに職場を奪われるのではないかという、雑業層の不安が噴出した。
自衛団は、地域の旦那衆で、そこに出入りする職人・雇人だった。

 


・・・

「いのちと帝国日本14」小松裕著 小学館 2009年発行


震災の発生
マグニチュード7.9の直下型大地震が襲った。
お昼時であったので火を使っていた家庭が多く、あちらこちらから火の手が上がり、
若狭湾を進行中の台風にあおられ、またたくまに火災が広がっていった。
政府は、翌2日正午に戒厳令を施行した。
戒厳令は適用は「戦時」に限定されていた。
誰を「敵」と見なしてのことだったのだろうか。
つまり、政府関係者にとって主要な敵は朝鮮人であった。同時に「主義者」も敵と目された。
こうして関東一円に3689もの自衛団を組織した。


朝鮮人・中国人の虐殺
相次ぐ余震におびえていた民衆の中に、
朝鮮人が暴動をおこした、放火した、爆発物をもっている、井戸に毒薬を混ぜたなどの流言が発生した。
翌9月2日、うわさは爆発的に広まった。
官憲が大規模な伝播工作を行ったことは否定できない事実である。
軍隊による朝鮮人の大量殺害は、東京の下町、特に荒川以西に集中している。
この地域は第一次世界大戦後急速に工業化された地域で、労働者の多くは農家の次男・三男であった。
そこに朝鮮人が採用されるようになった。
各地の自衛団は、在郷軍人に指揮されながら通行人を厳しくチェックした。
判別は教育勅語や歴代天皇名、君が代、「15円50銭」、
15円50銭は濁音を調べた。


隠蔽工作
関東大震災下の朝鮮人・中国人虐殺は日本史の一大汚点である。
政府は真相究明を妨害したばかりか、朝鮮人による大逆事件を仕掛けた。
朝鮮人の被害を少なく、日本人の被害を多く宣伝する、関係者に口止めと隠蔽工作が始まった。
内務省は朝鮮人犠牲者数を231名。
朝鮮から来た金承学代表の同胞慰問団は、調査を進め6.661人が犠牲になったと発表した。
政府は自衛団に責任転嫁しようと大量検挙した。
翌年の皇太子結婚の恩赦で釈放された。

・・・

(関東大震災の瓦礫の埋立で出来た「山下公園」 2011.9.9)

 

・・・

復興


「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書  2007年発行


大地震と火災
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方を突如、大きな地震が襲った。
建物も崩壊したが、とくにその後の火災が大きな被害をもたらした。
1府6県、死者91.344人。そのうち火災によるものが75.953人。大半が火災であった。


後藤新平と帝都復興
山本権兵衛内閣(二次)の復興計画は、東京市長と満州都市開発の経験者である後藤新平内相により遂行された。
後藤が総裁となった「帝都復興院」には、有能な技術者が集められ、道路と公園、橋梁を中核に復興計画を推進した。
「昭和通り」「大正通り(現在の靖国通り)」を中心に52の幹線道路が東京駅を中心にした環状線や放射線の道路体系を伴い設置された。
道路は道幅を広くし舗装され、街路樹が植えられた。
丸ビルは1923年竣工した。
1930年帝都復興祭が開催された。

・・・

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関東大震災①岡山県小田郡版

2023年09月01日 | 大正

父が6歳の時、「関東大震災」があった。
遠く離れた岡山県小田郡城見村茂平でも揺れ、
家に近接する道にある常夜灯の宝珠が落ちて、家の庭に転がったそうだ。



(写真中央の常夜灯の宝珠が落ちて、庭まで転がった。当時塀はなかった)

 


下記は、当時の笠岡町の女学生が校内新聞に載せたもの。

・・・

「笠岡高校七十年史」千鳥12号

休暇もすんでいよいよ学校も始まり私らの気分もひきしまった9月1日、昼飯を済ませて姉と二階でお裁縫をしていると、
一寸地震がいった。
物おそれの姉は早くも下りた。
しばらくして地震は止んで姉も上ってきた。
翌朝日曜日なので内で勉強をしていると、べるを鳴らして号外号外と叫ぶ声が聞こえた。
しばらくすると父が号外を手にして奥においでになって東京の地震のことをお話になった。
皆の目は一様に父の方を見つめた。
私は仲良しの従妹がどうしているかと一番に頭に浮かんだ。
私はいくら田舎でも笠岡が大好きだ。
洪水の憂いもなし、気候もいい、笠岡辺が一番いい。
(千鳥12号 S子)

関東大震災の救援ようとしての何十反かのゆかた地をどんどん裁って立派に縫いあげて送りました。
広い講堂に行儀よく座って並び真剣そのものだった光景は今も眼に浮かんでまいります。
(I子教諭)

 

・・・


震度は(抜粋)
東京 6
大阪市 4
境港市 4
岡山市桑田町 2
広島市上八丁堀 2
島根県浜田 1
松山市 3
九州と北海道以外は揺れている。

・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正9年・尼港事件③北樺太を占領

2023年07月23日 | 大正

日本のシベリア出兵は無残な失敗に終わった。
尼港事件は、その中の事件で
それから四半世紀後に発生した、ソ連による日本兵のシベリア抑留の口実の一つにも利用された。

・・・

 

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書 

7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。
アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。


・・・

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 


1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。
1925年、北サハリン撤兵。
日本は各国間で孤立化を深めた。
侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。

・・・


尼港事件「平和をたずねて」 毎日新聞 2018年8月21日


日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。
尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。
連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。
在郷軍人会が水戸市内に建立した「尼港殉職者記念碑」に、次の記述がみられる。

《この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍で、情勢の悪化を憂い中央では増援の派遣を図ったが、結局積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。(略)》

戦死した兵士は、異例の2階級特進となったが、地元紙「茨木民友社」の長久保社長は軍部の責任を厳しく問うた。
1920年6月水戸市常盤公園で招魂祭が営まれたとき、田中義一陸相や上原参謀総長らが列席したことにふれ、長久保社長はこう論じた。
『これを以って見ても其の責任上遺族を慰撫する事に於いて如何に狼狽したかを窺知するするに足りるであろう』

続けて「勝田市史 近代・現代編1」は次のように書き留めている。
「領土さえ拡がれば国は繁栄するものと心得ている低能児」の軍閥と
この軍閥と手を結んだ原敬内閣とを、舌鋒鋭く批判する長久保こそ、無名の師にむなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった。

尼港事件の追悼碑は、全国に少なくとも6ヶ所ある。殉難者は軍人の水戸に対して、民間人は天草(熊本県)が多かった。
≪わが天草人にして、殉難せる者百十名の多きに達す。(略)悉く自力更生のため大陸に進出せる勇者なりき。然るに業中にして俄然凶手に斃る。人生の恨事、何者か之に過ぎん。嗚呼、悲しいかな≫
続けて、
≪然れども殉難者の一死は、あえて徒死にはあらざりき≫として、こう説明する。
≪国家に対して貢献せる所、決して少なからず。
即ち、国防上最も必要なる北樺太の利権は、ひっきょう殉難者の賜たるは勿論、帝国今日の大陸政策もまた、つとに諸君の雄図に胚胎(はいたい)せり≫
時代を映す碑文とはいえ、北サハリンの「保障占領」に「貢献」したといわれても、民間人の死者たちは当惑するのではなかろうか。

・・・・・・・


尼港事件で多くの戦死者を出した茨城県では、どのように記されているのだろう

・・・・・・・

「茨城県の歴史」 山川出版社 1997年発行


英・米など16ヶ国がチェコスロバキア軍の救済を掲げて、ソビエト政権打倒の軍隊をシベリアに派遣した。

日本も積極的に参加したが、大正9年2月に黒竜江口のニコライエフスク(尼)で、ソビエトのパルチザン兵士によって日本兵が殺害されるという尼港事件がおこった。
尼港を守備していたのは水戸第二連隊であった。
281人の戦死者を出し、県民に大きなショックを与え、深い傷あとを残すことになった。

シベリア出兵は、また、軍隊の食糧需要を狙った米穀商による米の買い占め・売り惜しみをうみ、米価が急騰する事態を招いた。
このため、大正7年8月には富山県の漁村から火を噴いた米騒動が全国各地をおそった。

・・・・

・・・

 

甘港事件「いのちと帝国日本・14」 小学館2009年発行 

結局、日本軍が沿海州から撤退を完了したのは1922年10月25日で、米騒動やデモクラシーの拡大という国内情勢を考えると、これ以上の駐留は不可能であった。

こうして、5年近くに及んだ日本軍の「シベリア出兵」は、世界中の批判のなかで、無惨な失敗に終わった。
居留民の保護を名目とした出兵が、逆に日本人に対する反感を増長し、現地での生活が困難になり、日本への引揚を余儀なくさせてしまう結果となったのである。

・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正9年・尼港事件②”尼港の惨劇”

2023年07月23日 | 大正

尼港の惨劇にたいし、日本は北樺太を占領した。
その対抗措置は米国や他国から不審な目でみられた。

・・・

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  

尼港事件


1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。

・・・・

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 

1920(大正9)年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。


・・・・

・・・・


「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行


赤衛軍は、大正9年3月12日までに武装解除して降伏するよう強い要求を申し込んできた。
日本軍は領事ならびに居留民と協議したが、
武装解除して敵に降伏することは帝国軍人として絶対できないから、
要求期日の前夜に夜襲を決行して、
敵の首領を倒し、政治犯として投獄されているロシア人有力者を救出して日本軍の味方にすれば、尼港の治安も回復できるとう結論に達した。
石川大隊長は敵の宿舎を襲撃したが、逆にわが軍を包囲され、失敗した。
降伏し、武装を解除されて投獄した。
これよりさき避難民が氷上を北樺太に避難してきて、
はじめて内地に伝わり日本政府も事態の重大さに驚いた。

日本政府は在留民の保護と権益確保のため、
大正9年4月北部沿海州派遣軍を尼港に派遣した。
大正9年4月30日岡山の山砲兵第二聯隊に出動命令が出た。
5月17日岡山を出発、宇品から北上、いよいよ尼港に向かったが
船を沈め、日本軍のそ上を妨害して逃走したので、
大隊は黒竜江の村に上陸、休養をとることになった。

一方多門大佐の指揮する支隊は尼港を挟撃する態勢をととのえた。
そこで敵は尼港を放棄することに決し、
5月24日投獄者全員を縛り、桟橋附近に連れ出して惨殺し、
死体は全部黒竜江に投げ込んだ。
そうしてわが軍の進撃の近いことを知ったバルチザンは、
6月3日全市に放火して逃亡してしまった。

尼港は事件前、5万の人口を有する黒竜江唯一の良港で相当繫栄しており、
在留同胞は4百余名、軍人を合すると7百余名が在留していたが、
その全部が惨殺され、
わが軍が占領した時はわずかに支那人の妾となった4.5名の者がいたのみであった

・・・

 

 

・・・

 

「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正9年・尼港事件①事件前

2023年07月22日 | 大正

日本とロシア(やソ連)は、江戸時代末期から、
(共存共栄の途ではなく)自国の利益だけで、争ったり仲良くしてきた。

 

大正時代、ロシア帝国が崩壊してゆく過程で、
その弱みにつけこんだ日本はウラル山脈まで影響国家をつくる野望に燃えたが、
わずか1~2年で崩れ、
ニコライエフスク(尼港)では、住民と軍人と領事館の人たち、全員が虐殺された。
日本人を殺したのはロシア赤軍の他に中国人、それに多くの日本人がいた。
この日本人は国籍が日本の朝鮮の人たちだった。

・・

 


・・・


尼港事件


尼港事件「いのちと帝国日本・14」 小学館 2009年発行


駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(尼港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。
1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が放たれ尼港は焦土と化し、600名を超す日本人が犠牲になった。

事件の直後、7月10日に出版された溝口白羊著「尼港事変 国辱記」は、陸軍332名、海軍44名の戦死者を掲げ、国家的大屈辱であるとした。
巻末に慰問のための綴じ込み葉書を付けたこの本は8月5日で10版を数えた。
国内の新聞は野蛮な過激派を批判する一大キャンペーンをはった。
だが事件の背景には、魚をごっそり獲ってしまう反感など、反日感情が存在していた。

いっぽう極東ロシアに住むロシア人に反中央、反モスクワの意識が強かったのも事実である。
日本軍はそうした一部の人びとの期待にこたえる形で「極東共和国」の樹立を画策したのであった。

 

・・・

「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行
 
尼港事件と岡山山砲隊の出動

尼港事件は北部沿海州のニコライエフスクで起こった事件で、
第一次世界大戦の結果帝政ロシアが、共産主義の革命により崩壊して、
過激な赤衛軍と穏健な白衛軍の一部が尼港で衝突した際、
同地に駐留していた歩兵一個大隊が白衛軍を援助して戦い、
戦況は日本軍の不利となった。

・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陽明丸とシベリア出兵②当時のロシア 「軍国日本の興亡」より

2022年12月22日 | 大正

猪木正道先生は、当時の状況をどのように書いているのだろうか?

・・・

 

(山県有朋像)



中公新書 「軍国日本の興亡」 猪木正道 1995年



(1914年)
ヨーロッパ列強が世界大戦に突入した時、大隈内閣の加藤高明外相は、日英同盟を口実にドイツと戦争する心組だった。

英国大使より援助を求められ、渡りに船と喜び、翌8月7日「英国の請求に応じ、ドイツと開戦する」と英国に申し入れた。
しかし英国は8月11日、日本の申し入れを正式に謝絶した。
日本は対独戦争の方針を改めず、8月23日最後通牒を発した。
8月27日久留米の第18師団が青島攻略を命ぜられた。
日本軍が青島へ進撃する際、山東鉄道を押収したので、中国は日本に抗議した。
日本は中国に対し翌年1月「21ヶ条の要求」をつきつけた。

(1917年)
11月、ソビエト政府の成立を宣言。翌年3月ドイツと単独講和を結ぶ。
ソビエトは首都ペトログラードで勝利したのであって、ロシア全土を制圧したのではなかった。
危険な共産党政権を双葉のうちに打倒しようと、英国、フランスなどは軍隊を派遣して武力干渉を開始した。
ロシア国内では反革命派もいたるところで立ち上がり、ロシアは1921年末まで、外国からの武力干渉と内乱に悩まされた。

(1918年)

英仏両国は日本に対してしきりにシベリアへの出兵を要請してきた。
シベリアで苦戦しているチェコ軍を救援するためである。
寺内首相は元老山県有朋に警告されて出兵に賛成しなかった。

山県は4月24日に次の警告を発している。
「今日本がシベリアに出兵して、はたして勝利を達しうる成算ありや。
戦線は拡張し、深く露国に侵入する必要を感ずる。
現在にしても、米穀の不足を感じ、非常の高値を出している。
これが出兵などという場合になりて、はたして食物の供給に差し支えなきや」

元老が明治維新以来の苦しい経験により、対外関係ではきわめて慎重であったのに対して、新世代に属する外相は概して強硬であった。

7月、米国は日本に、チェコ軍救援のため共同出兵を提案した。
山県や原敬のような出兵反対論者も、共同ならば異存はないということになった。
8月、日・米・加・伊・英が派遣した。
翌1920年9月まで、チェコ軍救援は達成された。

(1920年)
1月米国は撤兵を通告してきた。
日本は、撤兵の機会を逸し、パルチザンと呼ばれた現地民のゲリラ活動に悩まされた。

(1921年)
5月25日~27日、尼港虐殺事件が起こっている。

(1922年)
6月12日、加藤友三郎内閣が成立して撤兵に決し、10月完全に撤兵することができた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


シベリア出兵によって、多い時には7万3000の大軍がシベリアに駐屯し、10億の戦費も無駄使いに終わった。
日本以外にもソビエト・ロシアに武力干渉した国は少なくないが、一番長く居座って、国際的に悪評を受けたのは日本であった。

 

 

画像・2022.12.19 山口県萩市

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田郡新山村の農作物

2022年08月01日 | 大正

木山捷平が見た桃畑は、桃栽培が頂点の時代で、おそらく現代人が想像できない見事な光景を見ていたことになる。

大正4年の栽培本数は、昭和20年にはおよそ1/10まで減ってしまった。

戦後の新山は「桃」よりも「柿」の印象がずっと強い。

・・・



「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

木山捷平は明治37年、岡山県小田郡新山村山口に生まれた。
新山村は山陽本線笠岡駅から北へ約10キロ、尾坂川という小さな川を挟む山あいに開けた戸数450,人口2.300の農村であった。
当時の村人にとっては、笠岡は「米を売りに行ったり、肥料や日用品を買いに行ったり」する町であって、子供にとっては「一つの夢の国であった」(尋三の春)のである。

捷平は往時の村を回想して、
「私が幼い時分、私たちの村は中国第一の桃の村と称せられた。
陽春四月が来ると、村は桃の花で埋まった。
切目山、坊山、長尾山、天神山と、村の田圃をめぐった山とは名ばかりの丘は、
ことごとく桃の花で包まれた。
しかし、桃の花が春の空でむせんでいたのはもうぼんぼり色の昔になってしまった。
今では私たちの村に桃の木はほとんどなくなった。
桃をぶち切っては梅を植え、
梅をほりかえしては桑にかえ、麦を撒く。
そんなことを繰り返しながら、村人はあえぎにあえぎ、もがきにもがいている。」
(『野』昭和4年5月)と述べている。
まさしく疲弊していく農村、貧苦にあえぐ農民たちの現実の姿を直視するのである。

・・・


「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

(新山の五花園)

 


文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。

本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。他。

 

・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高瀬舟

2022年05月12日 | 大正
岡山県三大河川の高梁川・旭川・吉井川には、どの川にも高瀬舟が運航していた。
鉄道の開通に合わせるように姿を消した。


(柵原ふれあい鉱山公園 2022.4.6)

↑の説明碑、
高瀬舟(たかせぶね)

柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。



・・・・・・・・・・・・・

目で見る岡山の昭和

高梁川を遡る高瀬舟
帆を揚げ、地を這うように引き綱を引いて河を遡っていた高瀬舟が、
伯備線の開通でその姿を消した。

(目で見る岡山の昭和)



・・・・・・・・・・・



(加茂町誌)

高瀬舟

「加茂町史」

古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。

高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。

・・・・・・・・

「旭町史」
高瀬舟の運行

旭町からの高瀬舟は一日あれば岡山に着いた。
水の少ない時は途中で一泊することもあった。
岡山に着いた高瀬舟は兵団で荷上げをする。
鶴見橋西詰から土手を500mばかり北に行ったところにありオタビと呼ばれる大きな船着き場があった。
最盛期には100隻近く係留されていたという。

岡山からの帰りは、旭町まで3、4泊を要した。
逆水に舟を引き上げねばならないからであるが、流れの速い難所や、数多くあるかんがい用の井堰の航行に難渋したからである。
高瀬舟は大体一日に4、5里しかのぼれなかった。

高瀬舟の操船
オーブネという高瀬舟には、
オオサシ、ナカノリ、カジトリとよばれる船頭が三人いる。
オオサシは親方船頭ともいい、ミザオ(竹棹)をもって舳先にたち、カジトリに指示しながら操船する。
カジトリとナカノリは、コセンドウ(小船頭)、ツナヒキセンドウ(綱曳船頭)ともいわれ、高瀬舟に綱をつけて引き上げる仕事をする。
下りの時は、カジトリは蛇をとるが、ナカノリは雑用する以外仕事はない。
高瀬舟は、7,8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰の所で舟を引き上げるための共同作業をしなければならないからだ。
川べりは曳船をするのに都合のよいように、細い道をつけてきれいにされていた。
浅瀬にかかって綱で引っ張れないと;きは、瀬持穴にセモチ棒をさしこみ、高瀬舟を担ぎ上げなければならなかった。

高瀬舟の生活
高瀬舟は、晩までに積荷を終えて、朝早く出て行くのがふつうであった。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜、塩干物、調味料なども用意され、石のクドで炊事をした。
冬には炬燵までも持ち込まれ、風呂はなかったが、川岸の宿場で銭湯に入った。
船頭は、フナダマ様や金毘羅様を信仰した。
遭難事故は増水時の下り舟に多かった。
難所には金毘羅様を祀り安全を祈った。
川岸にはいくつもの安宿があった。
岡山の中島遊郭で散財をしたり、金川でどんちゃん騒ぎをして、すってんてんになって帰ってくることもあった。

高瀬舟の積荷
時代によっていろいろ変わって行きましたが、
通常、往きは
煙草、木綿、こんにゃく、薪炭、勝栗、「たたら」などを積みました。
帰りは
塩、石油、種油、紙、密柑、陶器、ガラス、砂糖が主なものでした。

種類
貨物のみを大舟、
客と荷物を積むのを日舟(ひせん)、
日舟は荷物が主で、金毘羅参り等が利用し、帰りは福渡まで汽車で帰り、それから舟で帰るという利用法がよくされていました。

積荷加減
水量によって積み方も変えてゆき、下りには前の方に積む方がよちされていました。

舟は通常長さ8間(15m)、幅8尺(2.5m)、
船頭は三人乗り込み、それぞれが麻紐85尋(155m)を一本づつ持ち乗り込みます。
舟の就航は一回5~8日で、一週間に一度。


昭和3年(1928)、伯備線の全線開通

・・・・・・・・・・



鉄道に追われた高瀬舟



「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行


今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。


舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。


高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。


鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。


・・・・



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『主婦』の誕生  ~雑誌「主婦の友」~

2022年03月08日 | 大正
母は・・・日本中で半分を占める・・・農業・家事・母だった。
職業欄があれば「農業」と記したであろう。

「主婦」とは呼べない、呼ばない。
「主婦」とは町に住む、上流家庭の奥様をそう呼んだようだ。

・・・・

良家でなく、普通の庶民の子女が「主婦」になる方法は、属国の満州で生活すれば可能だった。

・・・・





・・・・
「ニッポンの主婦100年の食卓」  主婦の友社  2017年発行


『主婦』の誕生


大正時代以前の日本には、
今でいう「主婦」は存在しませんでした。
女性は男性といっしょに農作業や家業をし、
男性が休んでいる間に、食事を作り洗濯をしました。

雑誌『主婦の友』が創刊されたのは大正6年でした。
女学校に通う「ハイカラさん」も急増し、若い女性たちは読書を楽しみ、新しい知識を求めたのです。
しかし当時、テレビはもちろんラジオもなく、
新聞や雑誌は男性目線の記事ばかり。
『主婦の友』の誕生は、新しい女性層「主婦」誕生の瞬間でもあったのです。

石川武美(主婦之友社初代社長)は、
「結婚して子どもが生まれたら、知りたいこと、教わりたいたいことは山ほどあるはず。
主婦たちの切実な要望にこたえたい」と創刊の思いを語っています。

言葉通り、記事の内容は教育的で、
「女性とは、妻とは、母とはかくあるべき」という
良妻賢母記事が多く見られました。

一方で「主婦の体験記」的手記もひそかな人気でした。
「処女の誇りを失って結婚したための煩悶」
「娼妓の悲惨な生活の訴え」
などの記事のせいで、
良風美俗に反すると発禁処分になったことも。

硬軟の記事をとりまぜて
「主婦とは、夫を支え、家計を切り盛りし、子どもを賢く育て、
洋服や食事を丁寧に手作りする存在」だと訴えた。

雑誌の人気に並走するように『主婦』という言葉は社会に定着していったのです



・・・・

何といって良人(おっと)を呼ぶか
夫=「あなた」が上流階級



本誌は名流の奥様方にお願ひして、お家庭で実行しておいでになるところをお伺ひいたしました。

文学博士夫人・前田朝子
家庭で夫を呼ぶときは『アナタ』と言ひます。
他(た)に向かっては『主人』と申してゐます。

女学校々長夫人・宮田多賀子
子どもができた今は『父様』(とうさま)と申して居ります。

宗教家夫人・松村君代子
夫に向かって呼ぶときは『あなた』です。
他人に向かって語る時は『たく』です。

女学校教頭夫人・三輪田秀子
家庭に於いては『アナタ』と申します。
他に対しては『宅の主人』と申します。

家庭学校々長・留岡きく子
家庭に於いて夫を呼ぶときは『アナタ』。
他に向かって夫のことを話すときは『主人』。





・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宦官最後の日

2022年02月19日 | 大正
中国の宦官制度は、日本でいえば大正13年までつづいた。


・・・・・

(Wikipedia)
宦官

1924(大正13)年の馮玉祥のクーデターで宣統帝とともに宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなった。
このとき追放されたのは、宦官2000人と女官200人と伝えられる。


・・・・・

「歴史よもやま話」  池島信平 文春文庫 1982年発行 

宦官最後の日

・・
三田村泰助
明治42年生。立命館大教授。清朝史が専門。
橋川時雄
明治27年生。大正2年、中国に渡り、北京在30年。文学博士。
・・

(橋川)
宣統帝が出宮されたあと、午後5時近くでした。
宦官がゾロゾロ紫禁城の北にある玄武門から出てきました。
70人くらいいましたね。
それがいかにも女がしくしく泣くように、細い声で泣きじゃくりながら夕日をあびて出て行く。
一つの歴史のけじめですね。
もうこれで宦官はおしまいで、秦・漢以来4千年、宦官が今や歴史から姿を消す瞬間ですね。

(池島)
宦官になるには、男の象徴を全部取ってしまうわけですね。あるいは一部分ですか。
(三田村)
半分くらいのも、根元から取るのもある。
しかし陰嚢のほうは、全部取るのが原則らしいです。それでなければ子供ができますから。
古い時代は完全去勢だったから、わりに死亡率が多いので、のちに不完全にとどめるのがあったようです。

(池島)
宦官は小便などどうしてたしていたのでしょうか。
(橋川)
いや、もう女のものと同じですよ。
いつごろ切ったと言うたら、15・16だという。



(三田村)
いきさつはお聞きになりましたか。
(橋川)
第一は皇帝の側に居れる。
それから宦官で出世した人があるから。
うまいものを食べて、ぜいたくもできる。
大事なことは、誰に手術してもらうかということです。
それをまず決めてもらう。命がけで、出世にも関係することですから。
その人ならよいというところで、その意思を決定する。
親も少しばかりお金を貰える。
その金が必要なんで子を宦官にする。


(橋川)
手術して一両日かで、仮死状態からさめて、小便が出るのです。
そこで大きなお祝いをするわけです。
切除した代物は煮えたぎった油で揚げ、小さな壷に密封する。
大切に保存し、宦官が死んだときは必ず棺に納められる。
(橋川)
死ぬ人の率は少しだと聞きました。
(三田村)
昔は、死亡率50~60%であったように覚えています。

(橋川)
宦官だとは、顔を見ればすぐわかるのです。
私の屋敷に老ボーイがいて、宦官は怖いから、決して話しかけてはいかん、ひどい目にあうからと忠告してくれました。


(橋川)
はじめ清朝は宦官を置かない方針だった。
(三田村)
ツングース族には宦官はなかった。
中国では漢民族、トルコ、古代ペルシャ、バビロン、アッシニア、古代エジプト。
蒙古にはありませね。
後宮が成立しないところには。宦官の必要はありません。
宣統帝、今の溥儀も、多い時で三千人。
皇帝をほんとうに守ってくれるのは、宦官しかないのです。
だから宦官が指揮権を持つようになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・



♪時は1900年 55日の北京城
肉弾相打つ 義和団事件
連合軍を向こうに回し 決戦挑む暴動の輩
フランス イギリス イタリア ロシア
さらに加えて精鋭日本 華の北京 いまや死の街
ボンボンボンボン・・・・





70mm映画「北京の55日」、
女帝のまわりに宦官が見える。
この義和団事件(北清事変)の24年後、宦官は無くなった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする