笠岡市の威徳寺は古刹で、”いも代官”井戸平左衛門のお墓がある事でも知られている。
有名な音楽家・長田暁二さんは威徳寺の出身だが、
2024年11月4日、94歳で亡くなられた。
新聞に12月開催のお別れの会の告知記事が載っている。
笠岡市出身・長田さんのことを忘れないためにも、ページにして残す。
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下町の太陽
書名・世界と日本の愛唱歌・抒情歌事典
著者・長田暁二(ながたぎょうじ)
発行所・ヤマハミュージックメディア
発行・2015年
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著者紹介
おさだぎょうじ
長田 暁二 (音楽文化研究家)
1930年3月19日 岡山県笠岡市生まれ。
駒沢大学英文科卒。
キングレコードの童謡担当ディレクターを振り出しに、ポリドール学芸部長、 徳間音楽工業常務取を経てフリーに。
とくに日本の歌の歴史的研究では権威的存在。
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昭和37(1962)年の春、キングレコードの童謡担当ディレクターだった私は、社命により歌謡曲をも兼任することになりました。 キングレコード創立30周年の事業として、歌える映画スターのスカウトと育成が、私の初仕事になりました。
というのも当時、
テイチクは石原裕次郎の「銀座の恋の物語」、
コロムビアは小林旭の「北帰行」
ビクターは吉永小百合の「寒い朝」、
ポリドールは赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでる」といった具合に、
映画スターの歌が次々ヒットして、 それぞれのレコード会社の台所を潤していたからです。
ところが私の在籍したキングは、 歌う映画スターの持ち駒も実績もゼロで、
〈キングでは歌う映画スターは絶対に育たない〉といったありが たくないジンクスのようなものが、
映画会社の間で定評になっていました。
そこで私は、松竹少女歌劇出身、36年「斑女」でデビュー、
「ふりむいた花嫁』など花嫁シリーズで活躍中の倍賞千恵子にターゲットをしぼりました。
童謡係だった私は、彼女が子供のころからポリドールで「ひばりの赤ちゃん」のレコードを出し、
松竹少女歌劇も首席で卒業、
NHKに出演して「さくら貝の歌」 「あざみの歌」などの抒情歌を歌いこなす抜群の歌唱力があることを知っていました。
数ヶ月間、彼女に密着し、池袋東口の一杯飲み屋「田舎家」で、やっと倍賞父娘のOKを取りつけました。
レコード5社との激しい争奪戦の末、ついにキングが契約したのです。
9月に発売されたデビュー曲は、彼女の気さくな庶民性を生かした「下町の太陽」で、
多くのプロ歌手を尻目に、日本レコード大賞でいきなり新人賞を受賞しました。
デビュー曲の作詞を依頼した横井弘は、 初めて彼女を見た印象が、
〈女優さんらしくなく、下町の横丁から下駄をはいてカラコロと出てくるような、
素朴で、 明るい感じのお嬢さんだったので、 「下町の太陽」のようなイメージを抱いた〉と言います。
当時、下町を歌のタイトルに使うのはタブー視されていましたが、
“太陽”をつけたことで、親しみやすく明るい、人情味あふれる庶民の街というイメ ージになりました。
横井の抒情的な歌詞も、大衆の支持を受ける一因になりました。
江口浩司の曲は、倍賞の清潔で明るいいい面をひきだす心温まるもので、きれいな旋律と彼女の透明な声が見事に融合しました。
この曲のヒットで、「下町の太陽」は倍賞千恵子のキャッチフレーズのようになったのです。
このヒットを受けて映画化されたとき、山田洋次が初めて倍賞と組んで監督しました。
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「下町の太陽」 作詞・横井弘
下町の空に 輝く太陽は
よろこびと 悲しみ写す ガラス窓
心のいたむ その朝は
足音しみる 橋の上
あゝ太陽に 呼びかける
下町の恋を 育てた太陽は
縁日に二人で分けた 丸い飴
口さえきけず 別れては
祭りの午後の なつかしく
あゝ太陽に 涙ぐむ
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昭和37年レコード大賞は「いつでも夢を」。
映画もレコードも大ヒットした。
その後、歌った橋幸夫も吉永小百合も国民的歌手・スターになった。
その年の新人賞は、
「下町の太陽」の倍賞千恵子、
「ブンガチャ節」「泪船」の北島三郎だった。
新人賞の二人もまた国民的歌手・スターとなった。
こうしてみると、昭和37年くらいから日本そのものが登り龍になっていった。
映画も歌も、そして経済も暮らしも、成長と明かるさしかなかった。
昭和39年に東京オリンピック。♪はぁー4年経ったら
昭和45年には大阪万博。♪こんにちわぁ
そして昭和46年、管理人は社会人としてスタートした。