神島のIさん(終戦時少学5年)の話・2006.3.10
半農半漁が多かった。
勤め人は歩いてカミシマ化成に行く、山を越えて。
見崎には公務員の人はおらん。出るには多いけど、寺間は公務員が多い。
船乗り、
これは4・5人おった。
内海航路の人。船主じゃなく船員。
半農半漁
見崎には昔は27軒くらいあった。
オヤジは半農半漁じゃった。
ヘータイ行って戻ってのう。
おふくろは(内浦の)高からきとる
近いのが多い。外(神島以外)いうのは縁がないけえなあ。
漁業は定置網じゃった。
それと、あさりがある。
アサリは売りょうた。
綱を張ってここはドコここはドコいうて場所を決めとった。
種を買うてきて巻きょうた。
毎年、(掘る)場所を変えとった。
網にはチヌのおおあじ。
大きなチヌが獲りょうた。
牡蠣の養殖。その沖はものすごう深くなっとる。
御手洗池
御手洗池は遊び場じゃ。
あそこは水温も高いし、波もないし。
今は脚が足りるけど、まんなかは深かった。
荒らしたから浅ぉなった。、
海側は海水浴場じゃった。
オヤジが言ようたが、「フカで出るゆうて止めてしもうた。」
(海水浴客が)ようけい来とったらしい。
アノ島は陸つづきになりょうた。潮が半分ひいたらし陸つづきになる。
そこへ木でつくった橋をかけとった。
飛行機がきたのでばっさり切った。レールをひいたので木を切った。
神島開墾団
(昭和40・50年代。神島寺間に「みたにつたまつ氏」という笠岡市議会議員がいた。氏は市議会副議長を務めたあと引退した。氏は終戦後「神島開墾団」の団長をされていた。)
福浦からうえにあがったとこ、栂の丸に行く道にあった。
10人ばあおった。
周兵衛庵にあがる道、あのへんにも5軒くらいあった。
復員でかえった人が家族難・食料難で行った。
道をつくる、まず日当で食える。
みかんは皮が硬い、やっぱり土地が悪い。
いま。
カーブしたとこの一軒ある人はまだやっとる。
(開墾でなく)別荘でたてた人の家もある。
職がないので臨時のお巡りさんいう時がり、お巡りさんの家もある。
電機・水道を引いて、
住めるゆうだけの家をつくっとる。
戦後の食料難の時
(戦後の食料難の時)靴をもってきたり、着るものを持ってきとった。
交換するのに。
それでも、
(見崎も)それどころじゃねえ、食料難じゃった。
(親といっしょに漁をして)浜へ船がかえると、ざーーとみんな寄ってきょうた。他所のもんにまでやられん。
じゃこ。や、ねぷと、
あんなもんまで・・・。
つくれー、つうれー、ゆうて。さつまいもでも味じゃあなく、おおけえ、これがええ。
芋を買う人も来とった。
福山の飴工場。福山の港のしまったとこにある
そこからは工場のニオイがとどく。ええにおいが届くんじゃ。
稲作
畑も小さかったが稲をつくるとこもちいさかった。
稲は牛が引けんようなとこでも、稲を作りょうた。
大新、いまのナビックランド。
見崎の人は持っておる人はすくなかった。
福浦の人が多かった。
うちの田んぼはいちばん上にあった。ちいさい池があり、
収穫したらかついで降ろす。
子供なりに担いで下ろす。
浜に下ろし、そこから船に背負うて乗す。
それで外側を廻り見崎に帰っていた。
自給生活
(見崎では)みんなで潮を焚いてつくりょうた。濃い濃い塩を焚いて、
自家製じゃ。
塩田は神島荘のとこ。
笹に潮を掛きょうた。人力じゃった。
塩田、養殖、もがい・・それから自動車。
ひろいところじゃけえいろいろしょうた。
カブトガニ博物館のとこは県の漁業試験場じゃった。
ひしおつくり。
貧乏人の味噌
美味うなったらのうなる、
「美味くなるまでまてん」一年もおいとかれん。
神島天神祭り
徳島に千歳楽を作りにいった。
見崎だけもってなかった。
竹で達磨みこしをつくってもろうた。
寺間はが多いのでもっとった、高も福浦も持っとった。
(神輿のかつぎ人は)帰えってくれる人がおるんで、かつぐ人はおる。
寺間も最近船でやりだした。
寺間は人も多いし楽なもんじゃ。
それに統制がええ、見崎のもんは暴れもんばあじゃ。わあわあ言うばあじゃ。
寺間はかつぐとこを決め取る、そこへははいれん。転げたりせんようにはっきり決めとる。
神島では寺間が歴史がいちばん古い。
半農半漁が多かった。
勤め人は歩いてカミシマ化成に行く、山を越えて。
見崎には公務員の人はおらん。出るには多いけど、寺間は公務員が多い。
船乗り、
これは4・5人おった。
内海航路の人。船主じゃなく船員。
半農半漁
見崎には昔は27軒くらいあった。
オヤジは半農半漁じゃった。
ヘータイ行って戻ってのう。
おふくろは(内浦の)高からきとる
近いのが多い。外(神島以外)いうのは縁がないけえなあ。
漁業は定置網じゃった。
それと、あさりがある。
アサリは売りょうた。
綱を張ってここはドコここはドコいうて場所を決めとった。
種を買うてきて巻きょうた。
毎年、(掘る)場所を変えとった。
網にはチヌのおおあじ。
大きなチヌが獲りょうた。
牡蠣の養殖。その沖はものすごう深くなっとる。
御手洗池
御手洗池は遊び場じゃ。
あそこは水温も高いし、波もないし。
今は脚が足りるけど、まんなかは深かった。
荒らしたから浅ぉなった。、
海側は海水浴場じゃった。
オヤジが言ようたが、「フカで出るゆうて止めてしもうた。」
(海水浴客が)ようけい来とったらしい。
アノ島は陸つづきになりょうた。潮が半分ひいたらし陸つづきになる。
そこへ木でつくった橋をかけとった。
飛行機がきたのでばっさり切った。レールをひいたので木を切った。
神島開墾団
(昭和40・50年代。神島寺間に「みたにつたまつ氏」という笠岡市議会議員がいた。氏は市議会副議長を務めたあと引退した。氏は終戦後「神島開墾団」の団長をされていた。)
福浦からうえにあがったとこ、栂の丸に行く道にあった。
10人ばあおった。
周兵衛庵にあがる道、あのへんにも5軒くらいあった。
復員でかえった人が家族難・食料難で行った。
道をつくる、まず日当で食える。
みかんは皮が硬い、やっぱり土地が悪い。
いま。
カーブしたとこの一軒ある人はまだやっとる。
(開墾でなく)別荘でたてた人の家もある。
職がないので臨時のお巡りさんいう時がり、お巡りさんの家もある。
電機・水道を引いて、
住めるゆうだけの家をつくっとる。
戦後の食料難の時
(戦後の食料難の時)靴をもってきたり、着るものを持ってきとった。
交換するのに。
それでも、
(見崎も)それどころじゃねえ、食料難じゃった。
(親といっしょに漁をして)浜へ船がかえると、ざーーとみんな寄ってきょうた。他所のもんにまでやられん。
じゃこ。や、ねぷと、
あんなもんまで・・・。
つくれー、つうれー、ゆうて。さつまいもでも味じゃあなく、おおけえ、これがええ。
芋を買う人も来とった。
福山の飴工場。福山の港のしまったとこにある
そこからは工場のニオイがとどく。ええにおいが届くんじゃ。
稲作
畑も小さかったが稲をつくるとこもちいさかった。
稲は牛が引けんようなとこでも、稲を作りょうた。
大新、いまのナビックランド。
見崎の人は持っておる人はすくなかった。
福浦の人が多かった。
うちの田んぼはいちばん上にあった。ちいさい池があり、
収穫したらかついで降ろす。
子供なりに担いで下ろす。
浜に下ろし、そこから船に背負うて乗す。
それで外側を廻り見崎に帰っていた。
自給生活
(見崎では)みんなで潮を焚いてつくりょうた。濃い濃い塩を焚いて、
自家製じゃ。
塩田は神島荘のとこ。
笹に潮を掛きょうた。人力じゃった。
塩田、養殖、もがい・・それから自動車。
ひろいところじゃけえいろいろしょうた。
カブトガニ博物館のとこは県の漁業試験場じゃった。
ひしおつくり。
貧乏人の味噌
美味うなったらのうなる、
「美味くなるまでまてん」一年もおいとかれん。
神島天神祭り
徳島に千歳楽を作りにいった。
見崎だけもってなかった。
竹で達磨みこしをつくってもろうた。
寺間はが多いのでもっとった、高も福浦も持っとった。
(神輿のかつぎ人は)帰えってくれる人がおるんで、かつぐ人はおる。
寺間も最近船でやりだした。
寺間は人も多いし楽なもんじゃ。
それに統制がええ、見崎のもんは暴れもんばあじゃ。わあわあ言うばあじゃ。
寺間はかつぐとこを決め取る、そこへははいれん。転げたりせんようにはっきり決めとる。
神島では寺間が歴史がいちばん古い。