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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

神島見崎の暮らし

2016年07月30日 | 暮らし
神島のIさん(終戦時少学5年)の話・2006.3.10


半農半漁が多かった。
勤め人は歩いてカミシマ化成に行く、山を越えて。
見崎には公務員の人はおらん。出るには多いけど、寺間は公務員が多い。
船乗り、
これは4・5人おった。
内海航路の人。船主じゃなく船員。

半農半漁
見崎には昔は27軒くらいあった。
オヤジは半農半漁じゃった。
ヘータイ行って戻ってのう。
おふくろは(内浦の)高からきとる
近いのが多い。外(神島以外)いうのは縁がないけえなあ。
漁業は定置網じゃった。
それと、あさりがある。
アサリは売りょうた。
綱を張ってここはドコここはドコいうて場所を決めとった。
種を買うてきて巻きょうた。
毎年、(掘る)場所を変えとった。
網にはチヌのおおあじ。
大きなチヌが獲りょうた。
牡蠣の養殖。その沖はものすごう深くなっとる。

御手洗池
御手洗池は遊び場じゃ。
あそこは水温も高いし、波もないし。
今は脚が足りるけど、まんなかは深かった。
荒らしたから浅ぉなった。、
海側は海水浴場じゃった。
オヤジが言ようたが、「フカで出るゆうて止めてしもうた。」
(海水浴客が)ようけい来とったらしい。
アノ島は陸つづきになりょうた。潮が半分ひいたらし陸つづきになる。
そこへ木でつくった橋をかけとった。
飛行機がきたのでばっさり切った。レールをひいたので木を切った。

神島開墾団
(昭和40・50年代。神島寺間に「みたにつたまつ氏」という笠岡市議会議員がいた。氏は市議会副議長を務めたあと引退した。氏は終戦後「神島開墾団」の団長をされていた。)
福浦からうえにあがったとこ、栂の丸に行く道にあった。
10人ばあおった。
周兵衛庵にあがる道、あのへんにも5軒くらいあった。
復員でかえった人が家族難・食料難で行った。
道をつくる、まず日当で食える。
みかんは皮が硬い、やっぱり土地が悪い。
いま。
カーブしたとこの一軒ある人はまだやっとる。
(開墾でなく)別荘でたてた人の家もある。
職がないので臨時のお巡りさんいう時がり、お巡りさんの家もある。
電機・水道を引いて、
住めるゆうだけの家をつくっとる。


戦後の食料難の時
(戦後の食料難の時)靴をもってきたり、着るものを持ってきとった。
交換するのに。
それでも、
(見崎も)それどころじゃねえ、食料難じゃった。
(親といっしょに漁をして)浜へ船がかえると、ざーーとみんな寄ってきょうた。他所のもんにまでやられん。
じゃこ。や、ねぷと、
あんなもんまで・・・。
つくれー、つうれー、ゆうて。さつまいもでも味じゃあなく、おおけえ、これがええ。
芋を買う人も来とった。
福山の飴工場。福山の港のしまったとこにある
そこからは工場のニオイがとどく。ええにおいが届くんじゃ。

稲作
畑も小さかったが稲をつくるとこもちいさかった。
稲は牛が引けんようなとこでも、稲を作りょうた。
大新、いまのナビックランド。
見崎の人は持っておる人はすくなかった。
福浦の人が多かった。
うちの田んぼはいちばん上にあった。ちいさい池があり、
収穫したらかついで降ろす。
子供なりに担いで下ろす。
浜に下ろし、そこから船に背負うて乗す。
それで外側を廻り見崎に帰っていた。

自給生活
(見崎では)みんなで潮を焚いてつくりょうた。濃い濃い塩を焚いて、
自家製じゃ。
塩田は神島荘のとこ。
笹に潮を掛きょうた。人力じゃった。
塩田、養殖、もがい・・それから自動車。
ひろいところじゃけえいろいろしょうた。
カブトガニ博物館のとこは県の漁業試験場じゃった。

ひしおつくり。
貧乏人の味噌
美味うなったらのうなる、
「美味くなるまでまてん」一年もおいとかれん。

神島天神祭り
徳島に千歳楽を作りにいった。
見崎だけもってなかった。
竹で達磨みこしをつくってもろうた。
寺間はが多いのでもっとった、高も福浦も持っとった。
(神輿のかつぎ人は)帰えってくれる人がおるんで、かつぐ人はおる。
寺間も最近船でやりだした。
寺間は人も多いし楽なもんじゃ。
それに統制がええ、見崎のもんは暴れもんばあじゃ。わあわあ言うばあじゃ。
寺間はかつぐとこを決め取る、そこへははいれん。転げたりせんようにはっきり決めとる。
神島では寺間が歴史がいちばん古い。
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神島見崎の通学・渡船・遍路道

2016年07月30日 | 暮らし
神島のIさん(終戦時少学5年)の話・2006.3.10


通学の道
小学校には山を越えて、遍路道を歩きょうた。
寺間までは(海辺の道の)石垣が低うて、すぐ浸かっとった。それで遍路道を行きょうた。
(通学の)遍路道はこわかった。木が繁ってトンネルのように暗うなっとった。
同級生は二人いた。
隣には7人いた。
寺間からは道があった。
寺間からは海辺の道を歩きょうた。
福浦からは山側、汁方も。
神島荘のとこへ出て、中村でまた狭くなり池のほとりに出て、それで学校が見える。
学校には走りなが行きょうた。
上級生が走らすんじゃ。「走れー!」ゆうて。
それで40分もあれば行きょうた。


瀬戸の渡し
中学じゃったら自転車で通学しとった。
(笠岡東中)中学は三叉路のとこ、いま公民館がある。あのころは回りに田んぼがあった。
そこへ自転車で通うとった。
高校もそうじゃった、自転車。
どこへ行くにも「渡し」を通って行っとった。
潮が速いけえ50mほど流されとった。せぼうなったところが巻くけえ。


車を見る
車をはじめて見たのは進駐軍じゃった。
見崎には道はないので、海からやってきた。
海岸線を走ってきた。
次に見たのは、
それから何年かしてから。
外浦から先生が診察に来た。
その時は三輪車じゃった。
先生の車は(道が狭いので)池に突っ込んだ。
それで皆して揚げた。
次に来た人もやっぱし突っ込んだ、そのときも皆で揚げた。


渡海船(とーかい)
どういう字を書くんじゃろう「トーカイ」ゆう船が笠岡に行とった。
「とーかい、とーかい」ゆうて呼びょうた。
それが二ハイあった。囲いをしてなあ、今の漁船くらいなのに屋根をして。
見崎・寺間・高を廻ってくれてそれから笠岡に行っとった。
トーカイは直接福山に行くのもあった。
(トーカイに乗るのは)行商をするのが多かった。
(積む荷は)魚を市場に持って行きょうた。
それで朝早い。
(子供の)僕らが乗ることはなかった。
子供は仕事の手伝いはするが、笠岡に遊びに行くゆうことはなかった、今のように。
祭りはあるし、海に向かって石なげはするし。そりゃあ楽しい。
(わざわざ町に行くもでもない)


お遍路
札所の場所はむかしと変わらん。
昔は(お参りの人が)すごう多かった。
もてなしは「おせったい」。
せんべいや甘酒を出しょうた。
最近はバスではんぶんまわる。団体が多い。
むかしとは、そりゃあ減っとる。
奥から来ん。
そりゃ、「まえだ」も「たにや」もお遍路さんの宿じゃけえ。外浦の5・6
軒もそうじゃ。
外からまわって、外浦で一泊して、それから(内浦見崎を)まわって帰るのが奥の人じゃ。
その時分は見崎もお遍路さんでにぎやかじゃった。
(接待は)ただじゃのうて、今でいう100円か200円置いて帰りょうた。
それで、まかなようた。ええ時代じゃった。はっはっは(笑い)
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神島見崎の空襲

2016年07月30日 | 昭和20年(終戦まで)
神島のIさん(終戦時少学5年)の話・2006.3.10

大津野飛行場から飛行機がきていた。
砂浜(御手洗池)の木を切って、
海辺からレールを(山に向かって)引いとった。
飛行機を格納しとった。
20機くらいはおった。

艦載機がおりてきたときにゃこわかった。東から来とった。
2~3回は来たじゃろう。
いちど、
一機だけ来たことがある。
僕の頭のうえにきた、
「うわあーーー、きたきた。」ゆうてすぐ、船の下へかくれた。
池のほとりには瓦を2~3枚抜かれてた家がある。

「空襲警報はつれい」
サイレンが鳴ったら、山に隠れて空を見ようた。
そうゆう時は授業はねえ。これで今日は学校に行かんでもええ思ようた。


水島
水島が攻撃されるのは学校から見ようた。
下から撃つけど、飛行機まで届かんゆうのが見ようた。


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漢口攻略戦・漢口から石家荘へ

2016年07月29日 | 父の話
談・2000.7.2

南京から浦口へ行き、平漢線で石家荘へ行った。

石家荘では
ええこともしとる。
町から町へ道路を造る。
現地人を雇って、牛をもってきてローラーを引いてもろうた。
土地代は出さず、人と牛には金を払うて。
そうゆう道を町から町への道を残してきた。今も使うとるはずじゃ。
(それまでの中国の道は)土地から低い処へ道があった。
それは雨が降ったら、川になる。


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「岡山県郷土部隊史」より

※昭和14年(1939年)
師団は11月29日漢口に着き、翌30日鴨井丸・黒姫丸等4隻に乗船下航し、12月5日南京に着き浦口より徐州を経由して12月11日石家荘に着く。北支についた各部隊はそれぞれ、石家荘を中心として南北の各主要都市に分散して守備につく。昭和14年にはいって第一期粛清作戦を四次に分けて行い、第二期粛清作戦を行う。8月11日復員下令をうけ、9月下旬から石家荘付近に集合し、10月初旬青島を出発して10月中旬晴れの郷土に帰還した。
  
xxxxxxxxxxxxxx

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漢口攻略戦・大別山を越える

2016年07月28日 | 父の話

談・2000.7.2

よお歩いた。
みな歩いた。
歩くばあじゃった。

漢口までは皆歩いて行った。

岡山、鳥取、部隊部隊は違う道を行った。


ワシらの部隊は漢口でのうて信陽が主じゃ。

信陽の時は犠牲がようけい出た。
二大隊は大隊長以下がやられた。
助けにいけなんだ。
八中隊は全滅してしもうた。

大別山は、向こうが攻撃してきた。
逃げもできん地形のとこで攻撃された。
生きとるもんはわずかじゃった。
戦闘能力もなんもねぇ。青白い顔をしておった。
全滅じゃった。
上から大砲で撃ってくる。
こっちは機関銃で撃つ。
鉄砲じゃない、砲で撃たれてふっ飛んだ。
(攻撃後)敵は引いてしもうた、
上におった日本人は逃げずに(にげれず)やられぱっぱなしじゃった。

戦争は作戦が主じゃ。
道は開けとる、逃げ道を開けとかないと(日本軍、支邦軍とも)犠牲が出る。

らんぶう(欄封か?)から信陽へ歩いた。
信陽が落城して、大別山を越して、漢口じゃ。

11月か?12月か?漢口に着いた。

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徐州会戦

2016年07月28日 | 父の話

父は徐州会戦の最中に現地軍に到着した。昭和13年5月15日。


談・2000.7.2


宇品から、塘沽。天津に行った。
塘沽は遠浅じゃった。
天津からは汽車で(本隊へ)行った。

黄河
大河では(河川敷で)南京豆のようなものを作りょうた。
水がくれば(作物はおじゃん)しょうがない

13年の5月、
斎南から歩いた。

微山湖を渡った。

攻撃は、
城壁を取るまでが戦争じゃ。
徐州を中心に町があり、町の回りを砦がある。
城壁があり、大きな門が四つある。
大砲を撃ってぶちめぐ、
城壁をぶちめいでから城門から入りょうた。
この方の城とはぜんぜん違う。

(敵軍は)しまいには足を鎖でくくって機関銃と弾をおいとる。
逃げれん。
そりゃあ可哀想なんじゃ。白旗も降れん、死ぬまで撃つしあかない。
いっちゃん可哀想だ。

ぶちめいだ城門から兵は入りょうた。
馬に乗った偉いんが写真ように門から入る。



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家の新築

2016年07月26日 | 父の話


昭和35年、家を新築した。
麦藁屋根の古い家を壊す、その場所に瓦屋根の家を新築する。
大勢の茂平の人たちの手助けがあったが、
今になって思えば
最後の“村社会“を見たような気がする。


談・2000.6.25


家の新築

壊す
組(銅山)のもんが壊した。
村中の元気なもんが壊した。
壁の土は畑にもっていった。

大工と左官
棟梁、
左官(しゃかん)も茂平。

柱は(母の出所の)賀山で切って製材してもってかえった。
四角にして、トラックで。
大けぇ長いのは馬でひいて帰った

他の木は
(所有する)尾越の山の木を切って、

引くのは福山(の業者に)たのんで、大工はカンナで仕上ぎょうた。

若いもんがドロをあげ瓦をあげ、左官のてごをした。
瓦の計算も工事も左官がしょうた。

ドロはお宮の山土と堂面からとった。
屋根はお宮の、
壁は堂面のを使ぉた。

テゴをする人は
酒を飲ませてメシを食わすだけ。

大工と左官は日当。

建具屋は(棟梁でなく)ワシが頼みょうた。



≪それから10年ほど後の事》

庭は
隣のお姉さんの弟の“あらさん”がしてくれた。
あらさんが大けえ池の庭を造った。石を積んできて、堀をこしらえてた。

※昭和45年前後、日本の農家から庭(かど)が消えていった。その頃
家には電話、カラーテレビ、車が普及し生活様式は激変していた。

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城見の漁業・農業

2016年07月26日 | 父の話
談・2000.6.25


漁師

(鋼管や笠岡湾干拓で)
漁師は百姓の専門になった。
(茂平の漁師は元から、漁業100%でなく半農半漁だった)

農地の少ない家もあったが、既に子供は(サラリーマンとして)勤みょうた。
それで食うに困る家はなかった。

漁業補償金で投機として吉浜などの土地を買うた人も何人かいた。
茂平では売ってくれる土地がない。

(漁家でない住民が採るものは)
ツブやアサリや大貝(おおがい)くらいじゃ。
シャコもちいとおった。



養蚕
茂平には・・・・なかった(戦前戦後)
大冝や用之江のものは作りょうた。



葉煙草
茂平はすくなかった。尾越のIさんが水落の方に畑をもっとった。



藺草
茂平はない(きっぱり)
用之江も大冝もない。



井戸
浅い深いの違いはあるがどの家にも井戸があった。
てっつぁん方の(近くの)井戸は共同井戸じゃ。



池の水抜き
池には世話係がおったんじゃ。
じいちゃん(管理人の祖父)は大池と尾越池の世話役をしょうた。
大池が主じゃ。
大池はおきの田まで。
尾越池はまあさんが主じゃ。

(田植えの後では)9月に要るので、それまでは抜かんようにしょうた。溜みょうた。
水がなければ穂がでんの。

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関東大震災、常夜灯の擬宝珠が落ちる

2016年07月26日 | 父の話

談・2000.10.30

関東大震災、常夜灯の擬宝珠が落ちる

大正12年、小学校へあがる時分じゃ。
ワシが六つ、七つ。覚えとる。
常夜灯(やとうさん)の擬宝珠がうちの庭に飛んできた。
まだ道が狭かった。
庭に落ちるほど揺れたんど。
(擬宝珠から下の部分は大丈夫だった)



ドイツの飛行船・ツェッペリン伯号

ツェッペリン伯号が日本に来たゆうのは(ニュースとして)知っとる。
日独親善でやってきた。



昭和天皇御大典

あったようだが・・・パンでももろうて戻ったんじゃろう?



エノケン・アチャコ

有名じゃった。



おこし

小学校の時、嫁入り前の裁縫をしょうるんは(高等科の女性のことか?)はいとらん。
(当然1~6年生の女子は、全員おこし)



双葉山69連勝

(69連勝でストップは)知らなかったが、軍に利用さりょうるのは感じとった。
※当時、父は野戦中。



極東軍事裁判

(国民はぎりぎりの生活で)無関心のようではあったが、
そうゆう、・・・大勢の死んだ人・・・がいるがゆうことは、(軍や政治家のトップに対して)いい感情をもっていなかった。
(※父の話は憤懣声になった)


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茂平の駄菓子屋

2016年07月26日 | 父の話

談・2000.10.30


茂平の駄菓子屋

浜にひとつあった、おばあさんがしとった。
かんさん方にあった。あきらさん方の東、下に降りたとこじゃ。
番屋。
鉄砲玉、芋ようかん、酒やこ売りょうた。



肉食

馬肉を自転車で売りにきょうた。ちいとしわい。
吉田からおっさんが時々売りにきょうた。
(肉は他に)うさぎを殺して食ようた。



家にある電化製品

ラジオと電球



郵便屋

今もいっしょじゃ。自転車に乗って配りょうた。



おやつ

芋や、豆。
コメをぱっちんはじかせたやつ、ぽんポン菓子。
芋が主。



子供の祭り

5銭から10銭ほど小遣をもらようた。
鉄砲玉や飴玉を買うて食ようた。
何ばあ買えんが、自分で買えるゆう気持ちのもんじゃ。
お粗末なもんでも買うて喜びょうた。
親が子供に小遣を出すゆうのは他に(祭り以外)なかった。



少年倶楽部

冒険だんきち、冒険が主じゃ。
親が買ぅてくりょうた。
ねだれて買ぅてもらようた。

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