しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (悲劇の序幕)

2023年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争は、
現在のウクライナ戦争に似ている。

相手を弱国とみて、一方的に進攻する。
世界中で、日本国民だけが、”正義の皇軍”であると信じていた。

・・・


「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行

盧溝橋事件

1937年7月7日、盧溝橋で、
日本の天津駐屯軍の小部隊が演習中に中国軍の小部隊と衝突した。
これを「盧溝橋事件」という。
最初の一発が、日中両軍のどちらかによるものかは、いまだ明らかでない。
7月11日現地で停戦協定が結ばれた。
・・・
ところが、
同じ7月11日、東京では五師団の兵力を中国に派遣することが閣議で決定された。
参謀本部作戦課長は
「千載一遇の好機だからこの際やったほうがいい」、
参謀本部支邦課長は
「上陸せんでよいから、塘沽附近まで船を回して行けば、それで北京とか天津はもうまいるであろう」
と述べたという。
拡大派も中国との全面戦争を希望したわけではなく、
出兵という武力の威圧によって中国は屈伏するものと楽観視したわけである。

・・・

最後の関頭

中国では、反日・抗日の声が高まった。
1937年7月17日、
蒋介石は有名な「最後の関頭演説」を行っている。
「たとい弱国たりとはいえ、
もし不幸にして最後の関頭にたちいたるならば、
われわれがなすべきことはただ一つ。
即ち、
わが国民の最期の一滴までも傾倒して、
国家の存立のため抵抗し、抗争すべきである」。

ここで日本は、
西安事件に際し国民党と共産党の妥協を想起すべきであった。
残念ながら日本には、
国民党と共産党との抗日統一戦線を予測する能力に欠けていた。
また、
中国を相手にする戦争に深入れすれば、
米英両国を敵に回す惧れが大きいのに、気がつかなかった。
こうして、日本は
盧溝橋事件という些細な出先の揉め事をきっかけとして、
中国との全面戦争に深入りすることになった。

・・・

盧溝橋

・・・


「教養人の日本史」 藤井松一 現代教養文庫  昭和42年発行

悲劇の序幕

昭和12年7月7日夜、
北平(北京)郊外の豊台に駐屯していた日本陸軍の一個中隊が夜間演習に出動し、
芦溝橋の西北に向かった。
この当時、義和団事件議定書の条項により北平郊外には
日英仏伊四か国の軍隊が駐屯しており、
これらの軍隊は、戦闘以外の演習を自由に行うことができた。
しかし前年以来の緊張した状況の中で、
しかも中国軍が駐屯する芦溝橋のまぢかで演習を行うことは、
事件を引き起こす可能性を十分にはらむものであった。

その夜10時半、実弾射撃が加えられ、点呼すると兵一名が行方不明になっていた。
その日現地の牟田口聯隊は芦溝橋、竜王廟を占領し、
9日から11日までの交渉で停戦協定が成立した。

しかるに内地では9日、杉山陸相は三個師団の派兵を提案、
11日夕刻五相会議で認め、派兵声明を行った。
現地で停戦交渉が成立したにもかかわらず、
内閣が派兵とその理由を声明したことは、
日本政府が戦争をたくらんでいるという印象を内外、
とくに中国につよく印象づけた。

7月28日早朝から日本軍はいっせいに総攻撃を開始し、
宋哲元軍を北平周辺から一掃した。
8月14日、日本政府は
「支那軍の暴戻を膺懲し、 (暴支膺懲・ぼうしようちょう)
以て南京政府の反省を促す為、
今や断固たる措置をとるにやむなきに至った」
との強硬声明を発した。

以後、日本の大陸侵略戦争はまる8年間の長きにわたってつづけられていくのである。

・・・

盧溝橋

・・・

画像は、

「NHK歴史への招待㉑」より借用

 

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県郷土部隊~護国の人柱~)

2023年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

護国の人柱

「岡山県史」

『合同新聞』は、
「独流鎮の華 仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」
「あゝ○○大尉、我が赤柴部隊に鳴る勇猛果断」と大きく報道。
そこでは、岡山市の留守宅を訪れると、夫人はさすがに武人の妻らしく、
「かねて覚悟してゐました、
お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい」
と、少しも取り乱すことなく言葉少なに語ったという。
この後も、一貫するワン・パターンの記事が載せられ、
銃後の国民の本音はそうした建前に押し流されていくことになる。

 

・・・

 

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行


支那事変

昭和11年12月に起きた西安事件は、それまで対立抗争を続けてきた国共両党を合作に導き、
抗日意識を全国的に統一させた。

こうした情勢の下に、昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。
7月11日、内地から三個師団(第五・第六・第十)が考えられていて、
我が歩兵第十聯隊もそのとき運命が決せられていたのである。

従来日本の武力の前に支那は屈っしていた。
派兵の目的も、伏在的にそうした威圧の奏効を考えてのことであったが、
もはや支那はそうはいかなかった。
9月2日「北支事変」の名称を「支那事変」と改称し、全面的な日支戦争の開始を政府は確認した。

 

・・・

(「歴史街道2021年9月号)

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

大本営徐州会戦を決す
徐州会戦の戦機は愈々熟し、その包囲網は狭べられた。
しかし敵の逃げ足は早く、四方から迫った我が軍は、もぬけのからの徐州城へ突入していった。
5月19日徐州城西門に日章旗を掲げ、翌20日入場式が挙行された。

徐州会戦後、近衛首相は閣僚を更迭し、
政戦両略に通じる我が郷土出身の宇垣一成大将に外相就任を懇請するとともに、
第五師団長板垣征四郎中将を陸相に起用した。

だが、その後、
興亜院新設問題に端を発し宇垣外相は辞任した。
かくして戦争は継続され、ますます拡大されていった。


・・・

漢口作戦

漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。
漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。
我軍の作戦進路は四路に分かれ、
我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。
8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。
8月28日、師団は六安を占領した。
道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。

第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、
8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、
当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、
落伍者多く喝病患者また発生、
マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。

・・・

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県内)

2023年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

第二次世界大戦の始まりは、
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻といわれる。
大東亜戦争と呼んだ戦争は、
1941年(昭和16年)12月8日のハワイ・マレー沖海戦。
日中戦争の始まりは、
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件。(旧日支事変、旧北支事変、旧支那事変)

令和の現代からみると、
日本が戦争状態になったのは
国家総動員態勢となり、国家・国民が戦争体制に組み込まれた、
「盧溝橋事件」と思える。
”神州不滅”という狂乱国家の始まりは、今から86年前の今日。

 

・・・・


「美星町史」 美星町 昭和51年発行


戦争の泥沼へ


昭和12年7月、日本はついに中国への全面戦争に突入し、動員令がしきりに下命されて軍隊は続々と中国大陸へ向けて出勤したのである。
岡山に駐屯する歩兵第十聯隊、工兵第十聯隊にも7月27日、動員が下され、
8月上旬華北へ向けて出発した。
そして赤柴隊など郷土部隊の奮戦ぶりが報ぜられた。
出征後月余にして町内出身兵士の戦死が報ぜられ、
また続々と発せられる召集令状により郷土を出発する出征兵士の数も日増しに増加して、
村民の複雑な緊張感は急に高まっていった。

村では出征兵士に送る「千人針」をもとめる婦人、
また武運長久を祈る八社または百社参拝の群が多く見られた。

日中戦争勃発とともに政府は「挙国一致、尽忠報国」「堅忍持久」を標語とする
国民精神総動員運動を展開し、
その実践事項としては奉公精神の涵養、銃後の援護の強化持続、経済政策に順応する生活の建て直し、資源の愛護などで、
ことに神社参拝や隣保団結、納税貯蓄、勤倹力行などが強調され、
国民一人一人の生活は抑制されていった。

この運動は次第に強化されて昭和14年11月には部落会、隣組の末端組織を作り、
それぞれ常会を設けて全国民を戦争体制の中に入れ、国策に協力するよう強く推進されたのである。
この頃から服装も男子は巻脚絆、女子は筒袖にモンペが常用になった。

・・・

「岡山県郷土部隊史」昭和44年発行

・・・

「早島の歴史2」 早島町史編集委員会  1998年発行


昭和の幕開けは全国的な御大典祝賀行事で始まった。
しかし、そのお祭りムードの裏で戦争への準備も着々と進み、満州事変・上海事変を経て昭和12年には日中の全面戦争へと突入した。
そして昭和16年の真珠湾攻撃によって日本は世界を相手に戦争を行うこととなった。


昭和12年7月の盧溝橋事件を機に日中全面戦争にいった。
そして、人々の生活も軍事最優先とされた。
こうした時代の中で、早島からも数多くの人々が戦地へ赴いた。
早島町出征軍人後援会(会長=町長)は町や家族の近況などを掲載した『早島新報』を発行した。

男たちの多くが出征した後、地域や家庭の守りは女たちの役割となった。
そして、彼女たちは愛国婦人会・連合婦人会・大日本国防婦人会などの婦人団体に組織された。
婦人会員の実行すべき申し合わせ事項として、
一、非常時の国家に報いるために、はたまた一家の更生のために一層勤労努力致しましょう。
二、経済の組織化計画化を図り、之が実行を期しましょう。
三、分に応じ社会奉仕をしましょう。
四、経済生活と道徳生活を一致させましょう。

その下に数項目からなる細かな目標を定めている。
ととえば、
子女の教育に留意し御国に役立つ善良な第二の国民をつくろうとか、
非常時を自覚し一日のうち一時間長く働こうとか、
宅地を利用して野菜や鶏・兎を育てようとか、
日常生活の細部にわたって目標が掲げられていた。


昭和12年8月、大日本国防婦人会都窪郡早島町分会が組織された。
宣誓決議には

本町よりも勇士を多数戦場に送っていることは、ひそかに誇りとし歓びとするところでありまして、
本町民たるもの挙町一致、
常に皇軍の武運長久を祈り、不断に銃後の務に欠くることなきを念ひ、努力を続ける次第であります。

その後、三つの婦人団体は昭和17年全国的に統合され「大日本婦人会」として再発足した。
早島町でも、モンペ服装にて国防訓練に貯蓄に援護に会員一同団結して活動する会員数1779名の早島支部が発足した。


昭和12年8月、政府は全ての国民を戦争に協力させるために国民精神総動員実施要項を策定した。
早島町でもこれを受けて、10月13日から一週間を強調月間とし、
各戸ごとに国旗を掲揚して、
13日・時局生活の碑、
14日・出動将兵への感謝の日、
15日、非常時経済の日、
16日、銃後の守りの日、
17日、神社参詣殉国勇士を讃える日、
18日、勤労報国の日、
19日、非常時心身鍛錬の日、
と定め、行事の励行に努めさせた。

思想防衛団
また、思想統制も強化され昭和13年10月には「早島町思想防衛団」が組織された。
共産主義や反国家思想による銃後錯乱に備えるものであった。
団長は町長、副団長には助役と小学校長が就任した。
町内を16の班に分けそれぞれに班長を置いた。
その活動は思想動向の調査にあり、人々は心の中まで監視されるようになった。

・・・

 

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「父の野戦日記」⑮凱旋

2023年05月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

師団は8月11日復員下令に接し、
第百十師団と警備を交代、
聯隊は9月下旬にかけて石家荘付近に集結、
9月28・29両日にわたって石家荘駅で乗車。
京漢、津浦を経て10月3,4日青島着。
10月6日から8日にかけて日洋丸ほか3隻の輸送船で故国への凱旋の途につき、
10月8日から14日にかけて宇品港上陸、
熱狂的歓呼の声に迎えられて、即日それぞれなつかしの屯営に帰着し、
10月17日岡山市公会堂に於いて事変間聯隊戦没者の合同慰霊祭を執行ののち、
10月20日第一次召集解除、25日平時編成歩兵第十聯隊が編成せられ、
引続き毛利末広大佐が新歩兵第十聯隊長に任じ、ここに全く復員を完結した。

 

・・・

【父の野戦日誌】

開封にて


夜汽車にて昔の大都・開封に着いた。
雄大なる建築物も、昔をしのぶ如く天を覆う。
無数の小塔が建つ。

民家からは煙がたち、吾等朝食をとる。
一帯は、塩田を見る。

本日は吾が八幡神社の祭りだ。

車中にて
昭和14年(1939)10月1日

・・・

【父の野戦日誌】

青島にて


建ち並ぶ西洋建築。
大国租界は青き緑風。
実に風景明媚な所だ。街道の緑樹は秋風になびき、戦地の跡も何物も認めず、ただ内地のような感じがした。

自動車にて病院へ行く。内地以上に設備は完備されている。
国防婦人会、学校生徒のかいがいしい奉仕の姿に、病者たちも嬉々として全快におもむいていくだろう。

海岸に出る。○○艦の勇姿、青島湾を圧している。頼もしき限りなし。
日章旗等軍旗が海上にたなびき、躍進日本の姿が目に映ずる。わが国の威力が輝いているようだ。

米国兵の水兵の姿、じつにはでやか。ちょうど芝居に出る水兵のようだ。
その姿は輝き、人形のような感じがした。

大道を闊歩する外国人の姿、緑の街路樹に立ち並ぶ洋風の家に
一層の精気を増す。

薫り高き良き眺め、保養地としては第一番だろう。実に美しい。

初めて見る、また最後の眺めかもしれない。明日は出発の日だ。今宵が支邦大陸での最後の夜だ。
今は消灯のラッパが響いている。友も床につく。電灯も消える。

上陸以来一年六ヶ月。
過ぎた戦場の思い出が夢のようにほとばしる。
昭和14年(1939)10月7日夜九時三十分。

・・・

(父の話)2001年9月2日

チンタオはけっこうなとこじゃ。それじゃけい書いとるんじゃった。なんやかんや完備されとった。

・・・・

【父の野戦日誌】

 

青島にて・その2


国際良港都市、青島港をながめつつ船は海上をすべる。
鴎の群れが飛ぶ。

艦上の水蒸気も海の彼方へ消えた。
港湾の出入りの船はみな我が国だ。外国の船は○○艦のみ。

昭和14年(1939)10月8日午後二時

・・・

【父の野戦日誌】

支邦大陸よさらば

昨年五月、勇躍支邦大陸の戦線に参加。
火を噴く徐州殲滅戦に参加、

炎熱の戦闘に、討伐に。
黄河決戦、濁流と戦い
雨天になやまされつつ
信用攻撃、大別の剣さな山を越え漢口攻略戦。

悪風をつく平和の為に、日本平和の新秩序建設の為に、東洋永遠の平和の為に。
一億一心。軍務まい進。


今日は○○艦に乗り、青島港を出港しつつある。
岸壁に立ち並ぶ兵、日章旗を眺めつつ、轟々と音は三度鳴る。
エンジンの音と共にいついしか自分は甲板上に立つ。
遥か去らんとする青島を、いや支邦大陸を眺めていた。

青き瓦、煙突。広壮な建物くっきりと天に聳えて、保養地青島は一層はなやか。
船はは静かにブイを離れた。

小型の日章旗が人の波を跡にする。
おお、支邦大陸よいざさらば。

昭和14年(1939)10月8日

・・・

【父の野戦日誌】

青島沖

船は進む海上の彼方へ彼方へ。
湾内に浮かぶ艦船も過ぎ、波を蹴る。

東方の青い半島には高き砲台が湾上を睨んでいるのが見える。高き日章旗が森林の中に聳えている。

青島を次第に遠のく。船は一路目的地へ、目的地へ。青き海上をすべって行く。
南風顔をなぜながら、希望に輝く若人達よ元気に。

昭和14年(1939)10月8日

・・・

【父の野戦日誌】

六時三十分。全く大陸の姿は見えない。
黄海

薄き船上のもや、水平線の彼方より丸き太陽が出る。
船は突き進む。明日は玄海灘であろう。

海上に浮かぶクラゲ・魚群が目に入る。
船は一路東へ、東へと進む。
実に平静な波だ。
10月9日朝八時。黄海海上にて。

・・・

【父の野戦日誌】

斎州島沖

洋上の彼方へ彼方へと白波を蹴り進む。
小さきうねり、船もかすかに動く。

水平線の彼方に島が目に映ずる。
朝鮮島だろう。

水魚がはなつ黒き海、清き漣のしぶき。

戦友の十八番の浪花節を聞く。
対馬沖を通過する

松だ。松だ。なつかしい。
家・丘の姿もなつかしい。見事だ。
青き山、白き灯台。
内地へ近づきつつあるのだ。


船は一路関門へ、関門へとつづく。

昭和14年(1939)10月10日 午後三時30分。対馬沖にて。

・・・

【父の野戦日誌】

万歳の声


あくれば11日夜。
故郷の島が見える。思わず拍手喝采。

日本の工業地帯だけあり数十本の煙突が高く突出して見える。実にめざまじい様子の感がした。
九州北部の工業都市、夜も黒鉛を吐く。

12日。
船はいよいよ関門海峡通過だ。
陸地より”万歳、バンザイ”の連呼の声。
しかし、うなだれつつ感謝するのみだ。
船は次第に通過して内海へと進む。

内海の白帆の漁船も何処へかすべっている。
本日は内海で夜を明かすのだ。

昭和14年10月12日

・・・

広島市宇品(六管桟橋=陸軍桟橋)

・・・

 

【父の野戦日誌】

宇品へ上陸

 

九時三十分より検問実施。
内地の土地。

重き足を引きずり、一歩一歩歩くとき、しみじみ戦友のことが思われる。亡き戦友のことが実に寂しい。
亡き戦友の事を思い感慨無量。さみしい限りなし。・凱旋に一目・・・・


作戦の為の一時帰還だろう。
しかし内地の土はなつかしい。

10月13日一時三十分。

いよいよ本邦の土を踏んだのだ。
午前八時、れんぱ船に乗る。
乗船して陸地に向かう。
一歩なつかしの土を踏みしめる。
実に感無量のものがある。

一歩一歩大地を踏みしめて宇品へ上陸、兵舎へ向かう。
間道は、女生徒・婦人会・格団体から歓呼して迎えられ。

しかし、として、ただただうなだれつつ答えるのみ。
何のしゃべることも、感激の涙もでない。

実にくやしい、口にはつくりえない感じだ。
ああ我は凱旋日だ、帰還だ、一時帰還だ。


昭和14年10月13日午前9時。

・・・

(宇品港の「陸軍桟橋記念歌碑」)

・・・

(父の話)2001年9月2日

「宇品からは船に変わりに外地出征する人がいた。それで一時帰還じゃろうと、思うとった。」

・・・・

(歌碑の裏面の説明文)

陸軍桟橋記念歌碑
1998年(平成十年)十二月

石積の突堤が沖に向かっていた。
広島市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。
そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、
兵らはその突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、
遠い大陸と島の戦場に送り出されるのが例となっていた。
彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。
わたしたちは平和のために、
ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。

・・・

 

世界平和のため、2023年5月19日~22日”G7広島サミット”が開催される。

「陸軍桟橋」から、G7の会場「グランドプリンスホテル広島」を見る。

 

撮影日・2016.11.2 

・・・

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「父の野戦日記」⑭京漢沿線警備

2023年05月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行


爾後聯隊は、9ヶ月間にわたってこの共産八路軍のゲリラ作戦に呼応して東奔西走、
討伐に次ぐ討伐を以てし、席のあたたまる間もなかった。
共産八路軍は諜報活動に秀で、
我軍が急襲するや一夜にして遁走し、
また我が嘘を衝いて攻撃を加えてきた。
而も軍規正しく、遁走に当っても遺棄死体一つ残していなかった。
最も始末におえぬ敵と四六時中相対したことになる。

 

・・・

 

(石家荘・きょろくの床屋の子と。父=右端)

 

・・・


【父の野戦日誌】

きょろくにて昭和14年(1939)6月27日夜11時

 

夜の月

一日戦塵にまみれし身体を風呂にて流し。

露天風呂だ。
美しい月と星をながめつつ身体を流す。
一日の疲れも吹き飛んで気持ち良い。

僕等にとっても月は美しい、この月も故郷の山河に輝いているのだ。

内地の両親の求めで突進していくのだと思うと、なんだか懐かしい。

寂しい気持ちもさらっと忘れてくる。

戦友眠りにつく頃、俺の今の気持ちを伝えて暮れと一点の曇り無き空を見る。
懐かしい郷里の事がそろそろと、脳裏に浮かんでくる。


彼等もまた決して無心ではないではあろう。

幾千年の間、人類の過去、盛衰を彼等もみな知り尽くしている。


突然夜の静寂を貫く銃声は、敵奇襲かと銃を取り外を睨む。

月は輝く銃声に、月陰あわく人の波。
いざ来たれり、いざ撃たん。
吾等の腕は鉄血の、御国にささげたこの身体。

銃身の彼方に、ただこうこうと輝いている人の陰。
戦友たちの話し声。


(父の話)2001年8月15日

ドラム缶の中で風呂にしょうた。
下は熱いので下に板を敷いて入りょうた。
横も当たれば熱い。

・・・

(父の話)
支那の正月

正月は旧正月のこと。
が兵隊に正月はない。というのも戦闘がない時はいつも休みじゃから。
北支にいる時は警備だけじゃったけぇ。
旧正月には雑煮のようなものを売っていた。
中共軍が来る、来ているという情報があるとき以外はだいたいのんびりとしていた。

談・2000・12・10
・・・
(父の話)

ペーの話

休みの日は何もすることはない。
ものを買って食べたりするかペー屋にするか。
ぺー屋は・・・淫売。
何処へ行っても(ぺー屋は)出来きょうた。
金をつかうゆうても、それくらいしか無かった。
ペーにも相場があって日本人は3円、朝鮮人は2円、支邦人は1円でほかに、ころび、これは支那人で自分でしているひとだで50銭から70銭。で、日本語も話せん。朝鮮人はだいたい(日本語が)話せた。
日本人はオバーで年増、20代が多く、朝鮮人は若かった。
いたるところにそういう(女郎部屋みたいな)ところは設けられていた。

談・2000・4・30

・・・

(「赤柴・毛利部隊写真集」 合同新聞=山陽新聞前身の慰問団)

笑顔の女性が3人いる。記者の雰囲気はなく、いったい新聞社が何をする慰問団で、前線でどんな慰問をしたのだろう)

 

・・・・

(石家荘)「岡山県史」

・・・

 

 

 

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「父の野戦日記」⑬北支転進

2023年05月12日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

「歩兵第十聯隊史」  


昭和13年12月、陸軍中央部では、漢口、広東の攻略後は、軍事作戦に一段階を画し、
特に重大な必要のないかぎり占領地を拡大せず、
もっぱら安定確保につとめる治安地域と、
抗日勢力の壊滅を目的とする作戦地域とにわけて施策する方針を決定した。

 

・・・

(北支で、父)

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行


北支転進

昭和14年1月上旬それぞれ分散駐屯地へ向かったが、
当面の敵は共産八路軍で、
敵は我が占領地の点と線を寸断すべく、徹底的なゲリラ戦に出、
駐屯地に向かう各隊は早くも執拗な敵の妨害に遭遇した。

 

・・・


【父の野戦日誌】

昭和14年6月9日

波は月風、砕けば砕け。
僕は浮世の渡り鳥。

今日は軍人ままならぬ身。
御国のためのご奉公。

今日は討伐。敵の矢玉もなんのその。
僕の命はただ、誰が知る。
護国にささげたこの身体。
明日は遅番、敵の陣。夜は月に見守られ一人たたずむこの大地。
星は輝く幾星霜、故郷はるかにながむれば、なぜか乱れる天の川。

・・・

(父の話・2001年8月15日)

あのほうが茂平の方かのう、ゆうて空を見ょうた。
わかりゃあせん、ほうかのう、思ぃながら見ょうた。そわぁなもんじゃ。

・・・・・


【父の野戦日誌】

昭和14年6月8日

城見小学校へ

若葉香る楽天地。緑風香る校庭に、
学び舎の窓に平和の光り満ち溢れ。
ああ聖戦も幾星霜。

丈夫の
ああ恩師よ○○よ、
なぜか忘れぬ学び舎と、故郷を遥かながむれば
故郷の山河に輝く月も、揚子江上に輝かん。
ああ戦場より故郷の空へ。


「ねいしん」より母校へ6月8日

管理人記・他に茂平銅山婦人会あてと、家族あての手紙下書きがある。

・・・

日の丸を手に持って皇軍を歓迎する石家荘付近の人々。

(「赤柴・毛利部隊写真集」)

・・・

 

 

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「父の野戦日記」⑫漢口の防御態勢

2023年05月09日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)2001年8月15日

(敵陣地は)租界地を利用して攻撃できんように、ええようにできとった。
蒋介石軍は、火をつけてにげるんじゃけぃ、ぼっこう燃ようた。

 

・・・・

 

娯楽の時、佐野周二軍曹(毎日新聞「一億人の昭和史」)

 

・・・

 

【父の野戦日記】

漢口防御の支那軍

第三国の援助無くしては出来なかったであろう、揚子江岸の防備を見た。
英租界、前には支那軍の陣地、その前に銃岸じつにものものししい。
前は陣地、その後ろは英国の国旗がひるがえっている。
攻撃したくても、攻撃できない。
食糧は外国からの援助、防護は指導があったものかもしれない、混ざっていたかもしれない。
それでも我皇軍の前には落城か! 蒋介石の直系軍の遁走。 
漢都とはいえ見よ皇軍の蹂躙の跡、支邦人家の惨状も格別なり。 
家・屋根・壁、集落焼け落ち、ただ残るのはレンガ、焼け石ばかり。
その間、我が軍が警備・復活を見つめている。 
外国の国旗は判然とひるがえっている。
我砲撃の、爆撃の成果だ。
陸戦隊の警備、陸軍の警備。
その中央には軽気球が上棟高く北風に吹かれている。
海上の警備艇、我軍艦が江上をにらみ海上をはしりまわっている。
ああ、我皇軍の揚子江は如何。


昭和13年12月3日

・・・

(父の話)

白米を食べる
家の長屋のようなところに白米が、真っ白ぃ。なんぼうでもある。
大別山を越ようた時にゃ(食べるものが)無いんで、よそのを盗って食ようたが。
漢口に来ればなんぼうでもある。
おおけい街じゃけぃ、倉庫の中は白米がそのままじゃ。積んである。
せえつぅ、今度はこっちが食わねばしょうがねぃ。
なかににゃ、食いすぎてピーピーになったのもようけいおる。
大別山の時にゃ、そりゃ食いもんがのおて、食べてないけいのぅ。


談・2001年8月14日

 

・・・

 


作家・林芙美子はペンの戦士として漢口の前線に行き、従軍記『戦線』を書いた。
それは大ベストセラーになった。

抗戦する支那兵を捕えたら兵隊のこんな会話をきいたことがあります。
「いっそ火焙りにしてやりたいくらいだ」
「馬鹿、日本男子らしく一刀のもとに斬り捨てろ、それでなかったら銃殺だ」
捕らえられた中国兵は実に堂々たる一刀のもとに、何の苦悶もなくさっと逝ってしまいました。
部隊長の話では「味方の戦死者は5名、負傷者は81名です」
そして敵の損害は約7万。
丘の上や畑の中に算を乱して正規兵の死体が点々と転がっていた。
その支那兵の死体は一つの物体にしか見えず、
城内に這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。
沿道の死体は累々たるものであった。
しかも我軍勢は、沢山の土民や捕虜を雑役に使っております。
この戦場の美しさ・・・。


「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行


・・・・・・・・・・・

身を守る日章旗(毎日新聞「一億人の昭和史」)

 

・・・

「歩兵第十聯隊史」


聯隊は、8月下旬以来、百日に亘る漢口攻略作戦に従事し、
昭和13年10月27日漢口陥落後も、武漢大平原を彷徨する負敵を追い、
11月28日、29日、30日漸く漢口に入城した。
休む間もなく第十師団は京漢線の警備に任ず、北支転進が下令され、
各隊それぞれ翌日には輸送船「かもめ丸」ほかに乗船、
南京、浦口を経て、鉄道輸送により北支京漢沿線へ向かった。

 

・・・

 

北支転進

漢口より揚子江を下り、北支京漢線沿線へ

(「赤柴・毛利部隊写真集」)

 

・・・

 

 

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「父の野戦日記」⑪武漢攻略戦・漢口入城

2023年05月09日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

武漢攻略は10月26日に終わったことになっている。

しかし父の部隊は12月2日に入城。武漢は燃えていた。

(聯隊史は11月28~30日となっている↓)

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

聯隊は、8月下旬以来、百日に亘る漢口攻略作戦に従事し、
昭和13年10月27日漢口陥落後も、武漢大平原を彷徨する負敵を追い、
11月28日、29日、30日漸く漢口に入城した。

・・・・

 

【父の野戦日記】

激戦なまぐさき漢口にて
あの丘この森。 堂々たる陣地の集落。 防備実に驚くべきことだ。
銃砲の塚などなかなか良くできている。
これもソ連・米国・英国の援助なくしてなにができるものかとも思う。
ああしかし、堅陣も吾が皇軍の前にはいかんともせん。 攻撃数日にて陥落か?


昭和13年12月2日

・・・・

【父の野戦日記】

上陸以来、一路漢口へ、漢口へと血の出るような進軍行軍。 出発以来5日目に漢口城に入城できた。
漢口へ上陸へした。
その間支那大陸の帝都 漢口・武昌・漢陽、武漢三鎮。 
揚子江が流れ政務・行政・軍事・交通・経済・外務の中心地たるや、その建物もまた雄大かつ壮大だ。
しかし高く聳える高層の上に、日章旗がひるがえる光景は実に美しい。
この日章旗をあおぎ見るとき、共に皇軍の一員として無事入城できたことは実に嬉しい。
しかし戦火なかばにして倒れ、多くの鬼と化した戦友の英霊に対して忠心より哀悼の意を表す。


12月2日(漢口にて)

 

・・・

 

(「赤柴・毛利部隊写真集」 武漢入城)

 

・・・

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行

徐州攻略

1938年春、華北と華中の結節点ともいえる要衝、江蘇省徐州に中国軍50~60万人が集結した。
しかし日本軍(6個師団余り約20万人)は中国軍をほとんど補促することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。

武漢攻略

大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、
その攻略が戦争終結に結びつくと期待されたのである。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1.000キロほど揚子江をさかのぼったところにあった。
重慶を攻撃するためには航空機による爆撃しかなく、
そのためにも武漢の攻撃は必要とされたのである。
30万人の兵力を投入して8月22日に発動された武漢作戦は、
10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
武漢を攻略したものの、中国軍主力は退却しており目的は果たせなかった。
日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事動員力は限界に達しつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大していったのである。

・・・

武漢作戦

(Wikipedia)

日本軍が漢口に突入したとき、市内はいたるところで火災が発生しもうもうたる黒煙に覆われていた。
撤退した中国軍が放火したのである。
一部の中国軍は残っていたが主力の姿は既になく中国軍殲滅は果たせなかった。
また武漢三鎮を占領して戦争解決の糸口をつかもうという期待も、国民政府の重慶移転でむなしく消え去ってしまった。

・・・

(「歴史街道」2021・9月号)

 

・・・


「近代日本戦争史・第三編」  奥村房雄 東京堂 平成7年発行

日本内地では昭和13年10月27日午後6時半、
「武漢三鎮を完全に占領せり」との勝報が発表された。
すると日本全国にサイレンが鳴り響き、国民は祝賀に湧いた。
翌10月28日東京の目抜き通りは旗行列で埋まり、その人出は50万人と推定された。
29日も早朝から旗行列。
夜は雨にもかかわらず、提灯行列が行われた。

・・・

 

 

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「父の野戦日記」⑩大別山 ~色あせる顔、死人の如く~

2022年08月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】


昨日の疲れも何時の間にやら本日も行軍。
一路漢口へ。漢口へ。
いよいよ二人、一人と、途上をうらうらと、さまよいつつ、倒れつつ行き進む。
色あせる顔、死人の如く。
吾等、身も心も疲れきり、ただいっしょに一歩づづ脚をすすめている様子だ。
薬物は無く、ただ死を近くに感じるのみ。
いや生きつつ地をすすめるのみ。
紅葉ははかなく地上に舞い落ち、今は我故郷と、現在を比す。
風に散る紅葉はひらひらと、吾がままならぬご奉公なりけり。


昭和13年10月27日 

・・・  

(父の話)

なんじゃゆうて、こうなんじゃ。(手でその角度を示す)
馬はころげて下へ落ちる。人間も落ちて死んだんもおる。
路は細ぃじゃけいのう・・・滑ったら落ちる。落ちたら死んでしまう。
よう、こわぁとこを通るねぃゆうとこじゃ。
せいじゃけい、普通なら通らん、きょうとぉて。
命が惜しいけぃとおる。独り残されたらやられてしまうけぃ。
みんなの勢いでとおる。しょうしょう馬やこが落ちても・・・人間だけでも、で、通ぉていきょうた。
その頃は身体もようよろいごきょうた。 

談・2001年8月15日

・・・

・・・

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行


漢口攻略戦
その四 平靖関の攻撃

大迂回作戦の栄誉を樹立した毛利部隊は、
戦塵を洗う暇もなく、霖雨で泥まみれとなって疲れた身体を10月16日より平靖関の攻略に取りかかった。
平靖関は武勝関と共に漢口北方の護りであった。
行軍2日突然山から砲弾が飛んできた。
平靖関の鉄壁にぶつかったのだ。
二手に分かれて全面の高地に進出した。
10月22日から連日敵の逆襲を受け、集中火を浴びて生地獄と化した。
白兵死闘のルツボであった。
どの山にも敵がいた。
24日午前1時、
第一中隊は決死隊をつのり25人が岩肌を突き進んだ。
隊長がまず倒れ二人の分隊長は共に戦死し、9人が負傷したが、
ついに五九五高地を占領し、
翌25日には漢口陥落のニュースが全軍に伝わる。
苦戦の第十連隊各部隊に喚声が挙がり、兵隊の眼に涙がにじんでいる。
大別山にわけ入って死闘10日間、食糧は不足し籾から飯までにつくらねばならぬ兵站の兵の苦労も一通りでなかった。
27日夜、敵は総退却した。
11月6日馬坪を出発し7日は露営、8日徳安に入り、城内に駐留する。
11月12日各連隊より一箇中隊を抽出して漢口警備に当ることになりとなり13日孝安に宿営して16日漢口に着き特別第三区の警備につく。

 

・・・

(父の話)

大別山の食糧どろぼう

食べるもんがねぃ。
それで、畑の○○を盗る。
なんじゃゆうて畑は下の方。
それをはさんで味方と敵がおる。
両方みんなが見ょおるんじゃけい。
頭を見られたら撃たれる。
溝みたいなここを、どんごろすをもってかがんで這うようにして歩く。
畑に着いたら、かがんで、頭をださんように、見えんように取る。
どんごろすが一杯になったら、くくって、縄を上から引っ張り上げる。
これでほおて(這う)道へでて、せねぇ背負うたり、引っ張ったりしながら戻ってきょうた。

見られたら、すぐ狙撃されっしまう、うっかりしょうたら撃たれて死んでしまう。

談・2001年8月15日

・・・

【父の野戦日記】


大別山の頂上に立つ


時まさに、昭和13年10月26日。午前8時30分。
中支・大別山の頂上に立った。
6時頃より山は霧に覆われ、眼下には白雲がたつ。
同時に夜のとばりが明けんとす。
行軍と小霧が顔につく。
吾は思わず、排刀「ひさつぐ」を抜き絶叫してみたかった。
道は今だ急、ローソクをたより、下りかけて中腹の民家にたどり着く、時は12時真夜中だ。
それより夕食を炊き、食して床についたのは27日午前2時30分。

昭和13年10月27日 

・・・

武漢作戦

(Wikipedia)

新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻が開始され、
第11軍は揚子江の両岸を遡って武漢を目指し、
第2軍は徐州の北方から行動を起こして大別山系を越え武漢に迫った。
第3師団と第10師団は10月12日には信陽を陥した。
揚子江の両岸を進む第11軍の各師団は、10月17日に蔣介石は漢口から撤退、10月25日には中国軍は漢口市内から姿を消し第6師団が突入10月26日に占領した。

 

・・・・

 

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「父の野戦日記」⑨信陽の戦い・第八中隊の全滅

2022年08月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)
信陽までは歩くだけ。
何日までに信陽に着け。信陽ではボッコウ犠牲者がでた。

8中隊は占領した平坦地の上から(山から)砲で攻撃され、行ってみたらほとんど死んでいた。
見るのもかわいそうじゃった。生きとる者はわずかじゃた。
戦闘力もなんも無い。青白い顔をしとった。

作戦に引っかかった。


談・2000・7・2

・・・

八中隊の全滅

大別山で、八中隊は砲の攻撃でほぼ全滅状態になった。

四面楚歌の状態で
702(ななれいに)高地と呼んどったが、一度奪った処に敵が砲を打ち込んできた。


大別山中腹の敵が山頂の八中隊を砲で攻撃したがほとんどが砲でやられた。
いっぽう大別山の下側の味方は逃げるだけでせいいっぱい。

8中隊があせったためにこの様に成った。

生き残った人は息もたえだえで、口も聞かれん状態じゃった。
生きている人は戦闘力もなく青い顔をしていた。

死んだ人は70人くらいいた。みな焼かりゃせん。
焼くのに困るくらいであった。

焼いた骨は分けて送った。(人別でなく・・・同じ人の骨を何人ぶんか適当に)
「これが骨だと」。・・・・言われんけど。殺されたものは骨は帰ってくりゃあへん。

じゃけど頭髪が残っておる。
頭髪は遺留品として本人のを送った。

談・2000年07月09日

・・・

8中隊は相手の砦を真っ先に占拠した。
占領して喜んどった。
そこは大別山中の一番高いところで要塞みたいにしとった。

勢い込んで占領した8中隊に、敵は砲をぼんぼんぼん打ち込んできた。
敵は占拠されたんでなく引いとった。

地形も不慣れな8中隊はどうすることもできず、やられっぱなしで死んだ。ほとんど全滅したんじゃ。
敵はそこを知り尽くしていた。大砲を撃ったあとはいんでしもうた。
向こうは信陽の連兵場からそこ(大別山の砦)に向かって撃つのを練習しょうたとこで、そりゃ撃ちゃあ当たらぁのぅ。

作戦にやられたんじゃ。日本人は死んだばぁじゃった。

谷間にいたおじいちゃん達もどうすることもできず攻撃が終わった後で行った。

大勢死んどった。怪我をしたのもいた。怪我をしていない元気なのもいたがヒーヒーしょうた。

(周りが廻りだけに意識がしゃんとしてなく)物も言えん。

 

談・2001年7月14日


  

・・・

     

・・・

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦
その三 信陽南方への迂回作戦

羅山を出発した第三十三旅団は右・歩兵第六十三連隊、右・歩兵第十連隊がすすむと、わずか5キロ南進して急射を受け、逐次敵は兵力を増加してきた。
10月1日頃より、信陽の攻防戦は最高潮に達する。
10月6日京漢線は爆破され、敵の退路は遮断された。
6日間の山岳踏破の苦心を重ねた毛利部隊は突如信陽の南方に出現し、
休む間もなく北上して、山又山をこえて信陽西南3キロの721・5高地に迫ったが、
敵大軍の後方に進出したのであるから四面楚歌で、
毛利部隊は死傷続出で信陽攻撃の最大の苦戦となった。
11日包囲網を縮め、東方からの戦車隊が城門を爆破して、城壁の一角を占領する。
信陽陥落まで毛利部隊が払った犠牲は戦死57,負傷者111人に達した。

・・・・

 

 

 

 

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