1960年代初頭、来るべく国際化に伴う航空(空港)需要の増大を見越し、政府は羽田の東京国際空港に代わる本格的な国際空港の建設を計画した。1963年(昭和38年)の案では、現空港の4km南にある富里地区を候補に上げた。しかし、富里は農場経営のモデルケースだったことから激しい反対運動が勃発し、2年後に富里地区建設案は白紙撤回された。その後、候補地は四転五転したがいずれも反対運動にあったため建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は、1966年(昭和41年)6月に御料牧場があった三里塚・芝山地区を候補地として、同年7月4日に閣議決定した。御料牧場は空港予定地の4割弱しか占めていなかったにもかかわらず、政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。
これが成田闘争ですが~
「実は、成田闘争の地主が3人いまだに残っていますが、政府の条件次第では無償で立ち退き、土地代金はいらないといってますが関係者に会って貰えますか?」 と関東物流株式会社の北澤浩延会長が申しますので、私は 「無償で立ち退くというのですか?」 と尋ねますと 「一つあります!」 「先の北沢運輸大臣(公明党・大阪)が、三人の地権者が買って欲しいと申し出ましたが、不要と一蹴したので、謝罪して欲しいと言うのです」 「そりゃあ難しい!」 と北澤会長に話しますと 「とりあえず仲介者に会って頂けませんか~用地が買えますと斜めの滑走路が出来て、横風でも飛べるようになりますから成田空港もたすかりますよ」 とのやりとりで後日、地球環境評議会の評議員である竹中明という男が、私の前に表れました。
この男いわく 「私が中核の連中から頼まれました!」 「今の国土交通大臣でもいいのですが、地権者3人に謝罪して欲しい!」 「謝罪があれば土地は無償で寄付します」 と申しますので 「国土交通大臣が、謝罪すれば良いとのことですが、謝罪にも色々ありますからね。まさか謝罪の仕方が悪いなどとアクションを起こしたりしないでしょうね!まあ打診してみましょ!」
まあなんとも慇懃無礼な者でしたが、