何度も同じ本を読み返したり映画を見たりする。その中でも、最高に繰り返し呼んでいるものが、大好きな『星の王子様』小学高学年~の児童書だ。
初めて読んだ、小学生の時は、ラストの別れが悲しくて涙した。でも、話の途中のエピソードの裏に隠れている物には、砂漠に隠れた水のように、気づかずにいた。
ふと気が付くと手が伸びる、心がカサカサしてきたら、読みたくなる本。その時々に心に響く言葉が違ってくる、何度読んでも新鮮な、不思議な本。その時その時、心が欲しい言葉が、聞こえてくる本。
教育テレビで特集していた。最近も、アントワーヌ・デュ・サン・テグジュペリの特集を見た。今回は、昨年来、何種類もの翻訳本が出ている中、それら、さまざまな翻訳本を比べながら、原文の意味を掘り起こそうとしている。自分も昨年、2冊買ってみた。でも、子どもから大人まで分かる言葉で、いろんな意味をふくんだ、優しい言葉でつづった、内藤濯の本が一番好きだ。その時その時人それぞれの解釈で、思いをこめながら、癒されながら読むことが出来る気がするから。
特集番組の中でも、好きな言葉、文のコーナーが印象的だった。たくさんありすぎて、上げていくと一冊分になってしまうくらいだが、いつも忘れず心に刻んでいる言葉がある。いつも頃からか、この言葉が一番好きで大切にしている。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えない」(確かそんなかんじ)やはり、皆長い間親しまれてきた内藤濯さんの訳ならではの言葉。
いろんな人が本質に近い訳をと、言葉を選んで翻訳しているが、やはり子どもが読む童話として、優しい言葉が使われている内藤濯さんの本が好きだ。想像できる余地をたくさん残している気がするから。
そして、もう一つ、最初に読んだ時からずっと変わらず好きな文がある。
それは書き出しの文。「レオン・ウェルトに」ではじまり「わたしは、・・・」とつづき「・・・おとな、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)・・・・子どもだったころの レオン・ウェルトへ」の文。まるで自分に言われているように思える。まずはじめのこの文を読むと、自分の気持ちが、子どものそれに近くなり、いつもすっとお話にないっていける。これは子どもへの童話。子どものような気持ちで、純な気持ちで読める気がするのだ。
いつまでも、私の本棚に、内藤濯訳の「星の王子様」はあるだろう。心が、かさかさにならないように、潤す為に。
初めて読んだ、小学生の時は、ラストの別れが悲しくて涙した。でも、話の途中のエピソードの裏に隠れている物には、砂漠に隠れた水のように、気づかずにいた。
ふと気が付くと手が伸びる、心がカサカサしてきたら、読みたくなる本。その時々に心に響く言葉が違ってくる、何度読んでも新鮮な、不思議な本。その時その時、心が欲しい言葉が、聞こえてくる本。
教育テレビで特集していた。最近も、アントワーヌ・デュ・サン・テグジュペリの特集を見た。今回は、昨年来、何種類もの翻訳本が出ている中、それら、さまざまな翻訳本を比べながら、原文の意味を掘り起こそうとしている。自分も昨年、2冊買ってみた。でも、子どもから大人まで分かる言葉で、いろんな意味をふくんだ、優しい言葉でつづった、内藤濯の本が一番好きだ。その時その時人それぞれの解釈で、思いをこめながら、癒されながら読むことが出来る気がするから。
特集番組の中でも、好きな言葉、文のコーナーが印象的だった。たくさんありすぎて、上げていくと一冊分になってしまうくらいだが、いつも忘れず心に刻んでいる言葉がある。いつも頃からか、この言葉が一番好きで大切にしている。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えない」(確かそんなかんじ)やはり、皆長い間親しまれてきた内藤濯さんの訳ならではの言葉。
いろんな人が本質に近い訳をと、言葉を選んで翻訳しているが、やはり子どもが読む童話として、優しい言葉が使われている内藤濯さんの本が好きだ。想像できる余地をたくさん残している気がするから。
そして、もう一つ、最初に読んだ時からずっと変わらず好きな文がある。
それは書き出しの文。「レオン・ウェルトに」ではじまり「わたしは、・・・」とつづき「・・・おとな、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)・・・・子どもだったころの レオン・ウェルトへ」の文。まるで自分に言われているように思える。まずはじめのこの文を読むと、自分の気持ちが、子どものそれに近くなり、いつもすっとお話にないっていける。これは子どもへの童話。子どものような気持ちで、純な気持ちで読める気がするのだ。
いつまでも、私の本棚に、内藤濯訳の「星の王子様」はあるだろう。心が、かさかさにならないように、潤す為に。