Imidas連載コラム新しい外交を切り拓く第22回
2020/05/08 猿田佐世(新外交イニシアティブ代表)
2011年の福島第一原子力発電所事故以来、原発反対運動は全国に広まった。大多数の日本国民は原発問題の存在を認識し、賛成なり反対なり何らかの意見を持っている。
しかし、どれだけの国民が「再処理」について知っているだろうか。また、原発は「トイレなきマンション」などと言われているが、現在、原発から出た「核のゴミ(使用済み核燃料)」はどこに置かれているか、どのくらいの国民が知っているだろうか。
核燃サイクルの負担が青森に集中
昨年(2019年)末、私は青森県の下北半島を訪問し、原子力施設の調査を行った。これまで私は原子力の問題について日米関係の視点から研究を行ってきたため、現場を見なければ、という思いに駆られて足を運んだのだ。
下北半島には原発関連の様々な施設が連なるように設置されている。北から順に挙げれば、本州最北端の大間町にフルMOX炉の原発が建設中(停止中・審査待ち)。南東に下がって、東通村には東北電力の軽水炉(稼働停止中・審査待ち)および建設中の東京電力の軽水炉(工事中断・審査待ち)がある。その南の六ヶ所村には日本原燃のウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、そして比較的よく知られている使用済み燃料の再処理工場が存在し、MOX燃料工場も建設中である。東通村の隣のむつ市には、使用済み核燃料の中間貯蔵施設が建設され、現在、原子力規制委員会の審査結果を待っている。
福島原発の事故の影響を強く受け、多くの施設が稼働停止・建設停止し、審査待ちの状態であるが、このように実に多くの施設が立ち並んでいる。本州最北端のこの地を車で回ると、森と海の豊かな自然が目の前に迫り、大間の海岸に行けば対岸の北海道の町並みまで見ることができ、その風景に圧倒される。しかし、次から次へと原子力施設が目の前に現れるために、その自然や風景を楽しむ気持ちになれない複雑な心境のドライブとなる。
日本では、原発立地県は使用済み核燃料を県外に搬送することを条件に原発を受け入れている。その日本全国の使用済み核燃料を受け入れているのが青森県である。
高度の放射線を発する原発のゴミを受け入れたいという都道府県はどこにもない。青森県も運び込まれた使用済み核燃料を再処理し、再びエネルギー源として使用する建前の下で使用済み核燃料を受け入れている。もっとも、再処理工場は多くの問題を含み、24回も完成が延期されて稼働が見通せず、当面はむつ市などに設立される「中間貯蔵施設」が使用済み核燃料を保管することとなっている。その「中間」貯蔵施設での貯蔵期間は50年とされているが、実際には「最終」処分場になるのではないかと多くの人が不安に思っている。
原発立地県は他にもあるが、原発の材料を作り出し(ウラン濃縮工場)、それを使い(東通原発)、使用済み核燃料を受け入れ(中間貯蔵施設)、廃棄物処理を行い(放射性廃棄物埋設・貯蔵管理センター)、使用済み核燃料を再処理して(再処理工場)、そこで取り出された燃料で再度電気を起こす(大間原発)という核燃サイクルの一連の施設が全て揃っているのは、下北半島だ。
反対の声が起きない、起こせない
これだけの施設群に対し、地元には強い反対の声があるだろうと考えがちだが、現実はそうではない。
六ヶ所村の前回の村長選挙(2018年6月)では、核燃サイクル推進派の村長が5021票で再選。有権者の半数以上が日本原燃関係者かその家族だという。反核燃サイクルの立場で立候補した医師に話を聞くと、「当選しないから立候補したようなもの。当選したら命を狙われます」と語ってくれた。
中間貯蔵施設に使用済み核燃料の受け入れを開始しようとしているむつ市でも「使用済み核燃料を保管するだけだもの、原発より安全でしょ」という声もあり、受け入れ反対の声を上げること自体が容易でない状況である。
大間原発の建設に反対し、土地の立ち退き要求に応じまい、と、他の人たちが立ち退いた後も一人自らの土地に残って生活している人もいる。自ら建てて住んだ小屋「あさこハウス」で知られる故熊谷あさ子氏やその後を継いだ娘の熊谷厚子氏だが、様々な嫌がらせをされたり村八分にされたりした経験を持つ。町長選挙に立候補したが全体の0.9%に当たる34票しか得られず、同じく反原発を掲げたもう一人の候補と合わせても合計得票数はたったの113票(得票率3.0%)だった。
青森の歴史と核燃反対の声
下北半島は古くは漁業や畜産などが主たる産業で、寒冷地であることもあり、貧しい地域だった。日本の高度経済成長期にその影響を青森にも及ぼしたいと、1960年代にむつ・小川原工業地帯の開発誘致がなされた。しかし、この計画は、第一次石油ショックで破綻した。その後、六ヶ所村の中心部に第二開発計画が持ち上がり、土地の収用が進み、移転を余儀なくされ土地を売却せざるを得なかった地元の人々は、広大な工業地帯がやってくると期待して、売却代金を注ぎ込んで付近に新築の自宅を建てた。しかし、第二次石油ショックにより、コンビナートがやってくることはなかった。日本で初めての国家石油備蓄基地は建設されたが、むつ小河原開発株式会社(主たる出資者に青森県)には莫大(ばくだい)な土地買収の債務だけが残り、人々は東京への出稼ぎの生活を余儀なくされた。
そこに持ち込まれたのが核燃サイクルである。
1984年、日経新聞のスクープにより核燃サイクル基地のむつ小川原地区への建設内定が明らかになった。1985年には、青森県や六ヶ所村がむつ小川原開発計画の打開策として核燃サイクル受け入れをスピード決定し、正式表明する。既に、工業地帯の負の遺産として広大な遊休地と約1300億円という膨大な借入金を累積させていたため、その解決策となることが期待されたのである。
直ちに反対運動も立ち上がり、ピークの1989年には、県内92農協中過半数の50農協が「核燃反対」を決議した。また、反対派のリンゴ農家の農業団体幹事長を参議院議員に当選させるなどの結果も出している。
しかし、既に第二次むつ小河原開発計画で開発用地買収がされ、国家石油備蓄基地の受け入れで漁業補償も完了し、工業地帯の計画により経済が破壊されている地元では、反対運動は核燃受け入れを撤回させるに至らないまま力を落としていく。事業者側は、建設工事を始め、なし崩し的に事業の既成事実化を進めていった。
国策に潰される多様な民意
国策に振り回され続けた青森は、「原子力施設の受け入れに前向きな青森」と業界に認知されるようになっていく。
その後、再処理工場は様々な問題を抱え、ほとんど稼働しないまま青森県の受け入れ決定から早35年が経過している。その間、福島の原発事故が起き、原発は国論を二分する大きなテーマとなり、国政選挙においては、政党のマニフェストでも、立地県の候補者の政策でも原発の是非が語られる。しかし、それをバックエンドで支える原発マネーで立地自治体は潤う。青森県の統計によると、再処理工場等を有する六ヶ所村の一人当たり平均所得(平成28年度)は1656万円で、青森県平均の256万円の実に6.5倍である。
あるコミュニティーの中で企業や国が巨大な存在となった時には、そのコミュニティーの民意が変化していく。
例えば、日本の最西端、沖縄の与那国島には、島民の意見が二分される中、自衛隊が配備された。人口1700人の島に250人以上の自衛隊関係者が住み始め、人口の15%を占めることとなった。「もう、この問題を議論することはできない」との声が上がっている。
数年に一度戦争をしなければ国が持たないと言われるアメリカ。その背景は軍事産業である。アメリカでは軍や軍事産業が社会の隅々まで入り込んでおり、多くの人はそれに直接間接に関連した職業に就き、生活の糧を得ている。
戦争大国アメリカの姿を変えるのは極めて難しい。
青森もこれらに似た構造にある。
日本の原発政策の命運を握る青森
福島第一原発事故後の2012年9月、当時の民主党政権は「2030年代に原発及び再処理ゼロ」を閣議決定しようとしていた。しかし、青森県知事と下北半島の原子力関連施設立地4自治体の首長の反対で再処理ゼロが決定できなかった。それを受け、アメリカから、「再処理を続けるのに原発を止めるということは、再処理から出てくるプルトニウム(核兵器の原料となる)は使わず、溜め続けるつもりか」と言われ、結局2030年代の原発ゼロも決定できなかった。これにより、日本は、現在に至るまで原発稼働の方針を掲げ続けている。
青森の再処理工場の命運は、「使用済み核燃料全量再処理」政策を掲げる日本において原発そのものの行く末にかかわっている。
青森を忘れていないか
青森県の観光地や道の駅には至る所に「核燃サイクルは素晴らしい」と訴える立派なPRリーフが置かれている。CO2を排出せず、地球を守り、森や動物たちを救うきれいなエネルギー、との説明がどこへ行ってもなされていた。
国策にからめ捕られて、選択肢を奪われ、声を上げることすらできなくなっている青森。沖縄の基地も福島の原発も深刻な問題であるが、少なくとも人々に認知はされている。
「忘れられた青森」。これが今回の調査の感想だ。日々電気を使い続ける私たちが青森のことを忘れたままでいいのだろうか。
今朝はかなり強い霜が降りました。ハウス内の苗は無事です。
わたしの作業場、苗場です。