東京新聞社説 2019年8月15日
昭和二十年八月十五日。東京都心の社交クラブで玉音放送を聞いた帰り道。その紳士は、電車内で男性の乗客が敗戦の無惨(むざん)をあげつらう怒声にじっと聞き入ります。
「一体(俺たちは)何のために戦ってきたんだ」
映画の一シーンです。
実在の紳士は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)。当時七十二歳。この二カ月後、首相となって日本国憲法の成り立ちに深くかかわっていきます。
◆不戦の源流を遡る
連合国軍の占領下、天皇制の存続と一体で「戦争放棄」を日本側から発意したとされる。憲法のいわゆる「押しつけ論」に有力な反証をかざす、あの人です。
社説にも何度か登場しました。「またか」とおっしゃる向きもありましょう。けれども今回は改憲論争の皮相から離れ、より深くにある幣原の平和観に迫りたい。
平成から令和へと時代が移ろう時にこそ、流れを遡(さかのぼ)り、確かめておきたいことがあるからです。昭和の先人たちから受け継ぐ不戦の誓い、すなわち平和憲法の源流はどうであったか、と。
その映画づくりが大詰めと聞いて、幣原生誕の地、大阪府門真市を訪ねました。三年後に迎える生誕百五十年の記念事業で、人類平和にかけた生涯を綴(つづ)る手作り映画です。題名は「しではら」。
「地元でもあまり知られていなかった元首相の、高潔な理想を後世に伝えるため、まずは名前の読み方から知ってもらおうと。多くの人に平和を考えるきっかけを届けたい」。元教諭や税理士など地元有志の実行委員会を率いる酒井則行さんと戸田伸夫さんが、事業の意義を語ってくれました。既に七月、撮影終了。DVDにして今秋にも公開予定とか。
◆野に叫ぶ民の思い
「私たちはこの映画で、昨今の改憲論争にくみしたり『九条を守れ』と訴えたいわけでは決してありません」。二人が口をそろえて強調したことです。
幣原の「戦争放棄」は思い付きや駆け引きからではない。もっと人生の深みから湧き出た、純粋な平和観なのだと。その歴史的な価値を絶やすことなく後世につないでいかねば、ということです。
例えば第一次大戦後の世界が、戦争はもうこりごりと、世界平和を願う機運にあったころ。幣原は協調派の外交官としてその世界にいました。時代の集約ともいえるパリ不戦条約の精神も当然、熟知していたはずです。まさしく「戦争放棄」の精神でした。
一方、国内では戦争拡大に反対し終戦まで長く下野していたが、久々に「感激の場面」に出くわします。あの映画にもあった終戦当日、電車の中の出来事です。
その後の展開が、自著の回顧録「外交五十年」に出てきます。
<総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった>
<(憲法で)戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは(私の)信念からであった>
恐らく電車の中で幣原は、外交官当時の記憶を呼び覚まされたのでしょう。欧米の軍縮会議などを駆け巡り、世界に広がる「不戦」機運を肌で感じながらいた当時の記憶です。幣原は乗客の怒声に確信したはずです。不戦の意志がついに日本人にも宿ったと。ここが「戦争放棄」の起点でした。
そしてもう一歩。幣原を踏み込ませたのは、広島、長崎の原爆です。元首相の口述を秘書官が書き留めた「平野文書」に記す、幣原のマッカーサー元帥に向けた進言から一部抜粋です。
<原爆はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争で世界は亡(ほろ)びるかも知れない>
<悲劇を救う唯一の手段は(世界的な)軍縮だが、それを可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現以外ない>
<日本は今その役割を果たし得る位置にある>
◆平和の理想つなげ
幣原の「戦争放棄」は、後世の人類を救うための「世界的任務」でもありました。源にあったのは高潔なる平和の理想です。
七十四年が過ぎました。いま令和の時代を受け継ぐ私たちが、いまもこの源から享受する不断の恵みがあります。滔々(とうとう)たる平和憲法の清流です。幣原の深い人類愛にも根差した不戦の意志を、令和から次へとつなぐ流れです。
流れる先を幾多の先人が、世界が、後世の人類が見つめます。
止めてはいけない流れです。
台風が関西方面を直撃しています。ご無事を願っております。
こちらは、明日夜から影響が出てくるようです。北海道の日本海側を通るとき「風台風」になるので嫌なんです。今まで台風とは無縁だった北海道を直撃する数が増えてます。