その上野さんが2021年3月、「人生最後の日に何を語るか」というテーマで著名人が特別講義をするNHKの『最後の講義』に出演。番組内ではコロナ禍で社会に起きたポジティブな変化と、ネガティブなまま変わらないことに触れ、視聴者へ強いメッセージを伝えました。
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なぜ日本国民は「痛税感が強い」のか
すでに示したように、生産労働と再生産労働、いい換えれば支払い労働と不払い労働の配分とそのコストについては、いくつかの選択肢がありますが、無限にあるわけじゃありません。有限個の選択肢があります。
ケアの公共化オプションを採用した社会は、わたしたちが福祉先進国と呼んでいる社会です。このオプションのコストは高い国民負担率です。税金と保険料を含めて、所得の50%以上を取られると思ってください。
「国民負担率」の「負担」とはネガティブな表現ですから、大熊由紀子さんという福祉ジャーナリストが、「国民負担率」を「国民連帯率」と呼び替えようと提案なさいました。日本国民の皆さんがそのくらい負担をしてもいいと同意されたら、日本も福祉先進国並みの社会がつくれるでしょう。
ですが、日本国民は、消費税を上げることにも抵抗する、痛税感の強い国民です。その理由もわかっています。各種の世論調査によると、日本国民は「暮らしの安心のためなら今より負担を増やしてもいい」という答えに6割以上が同意しているのですが、おカネを出してもいいが、あの政府には預けたくない、と思っているようです。
つまり政府不信のせいですね。
労働市場の底辺に置かれた日本の女性
もうひとつのケアの市場化オプション、つまりあなたの稼いだおカネで、市場から有償のケアサービスを買いなさいという選択肢のコストは何でしょうか。
そういう場合には、自分が稼ぐおカネのほうが市場で買う家事・介護サービスより高くなければなりません。そのための条件が、家事サービスを安い値段で提供してくれる低賃金労働者の存在です。
市場にあるチープレイバーとは、海外の場合、しばしば移民労働力や農村女性が担います。そういう社会は、高い賃金を稼ぐ女性とそうじゃない女性とのあいだの格差が大きい社会です。
日本はどうでしょうか。出入国管理法を改正して、これまで日本人に代替できない高度人材に限定して就労ビザを発行してきましたが、これからは育児・介護労働者のような非熟練労働者を入れるといいだしました。
ですが、規模はまだまだ小さいままです。日本の外国人政策は、ドアのすきまをちょっとずつ開けて、様子見をするというようなやり方です。
これから将来、日本は移民国家になるのか。もし日本が移民国家になったら、あなたたちは自分の子どもをナニーやベビーシッターに預けて働きに出るのか。それとも、こういう選択肢を選ばないのかが日本の女性にも問われるでしょう。
もうひとつ、アジア型解決という選択肢があります。つまり祖母力頼みです。
それも世帯分離によって、しだいに困難になってきました。このような国際比較からわかることは、現在の日本には、ケアの公共化オプションも市場化オプションも、どちらの選択肢もないことです。その結果、ケアの負担をすべて背負っているのが、女です。したがって、ケアの負担を背負った女性が、労働市場の底辺に置かれる結果になります。
海外で「日本の女の地位はなぜこんなに低いのか」を説明する際に、こういう表現をするとよく理解してもらえます。
「日本では、ジェンダーが、ほかの社会における人種や階級の機能的等価物(同一機能を果たすもの)として作用しています」と。この構造が変わらないかぎり、日本の女性が男性と対等に働く条件は実現されそうもありません。このように、誰がケアを担うのかというのは、大きな問題です。
コロナ禍でのケアの見える化
『Who cares?』というタイトルの本が出ました。
Who cares? とは、反語的に「それがいったい何の問題なの?(つまり問題じゃない)」という意味ですが、この問題はこれまでないがしろにされてきました。
ケアはただじゃない、子どもを産み育てるのはこんなに大変だ、この問題を解決しないと、もう女は子どもを産んでくれないよ、ということが、「見える化」してきました。コロナ禍のもとで、ケアの「見える化」が起きました。
今日、ほとんどの家庭が共働きですから、全国一斉休校要請で子どもが家にいるようになると、誰かが家にいなければなりません。では、誰が子どもをケアするのか、といえば、ほとんどの場合、女性が仕事を休むことになります。
仕事を休めばその分、家計の収入が減りますから、休業補償金が登場しました。つまり、家でケアをするのはタダではない、という「ケアの見える化」が、コロナのもとで起きました。
社会学者の落合恵美子さんが、WAN(認定特定非営利活動法人ウィメンズアクションネットワーク)のサイトに「新型コロナウィルスとジェンダー」というエッセイを書きました。副題は「家にいるのはタダじゃない。家族や身近な人々が担うケアの可視化と支援」というものです。
こういうことがようやく「見える化」してきたのも、コロナ禍のおかげです。
戦後家族体制の変化のとき
コロナ禍のもとで、ポジティブな変化も起きました。
たとえば、通勤って、なぜやらなきゃならなかったのかといえば、職住分離があるからです。職住が分離しているからこそ、そのふたつをつなぐための通勤が必要だったわけで、職住が一致すれば、通勤なんかしなくてすむようになります。
コロナ禍が永遠に続くわけではないでしょうが、コロナ禍が収束したあとにも、コロナ禍以前に戻ってほしいことと、戻ってほしくないことがあります。戻ってほしくないことのなかに、通勤地獄があります。
在宅勤務をするひとたちが増えてきて、家庭にいる夫婦の関係にも再調整が起きました。これまでは、対価を伴うモノの生産は男が独占し、人間の生命を産み育て、そして看取るというイノチの再生産という不払い労働が、女に配当されました。
その意味で、夫が100%の生産者、妻が100%の再生産者でした。これを、サラリーマン・専業主婦体制と呼ぶことは『最後の講義 完全版 これからの時代を生きるあなたへ』の中でお話ししました。
日本では戦後、これが定着したので、家族の戦後体制ともいいます。日本ではこういう家族の歴史は半世紀もありません。
今日再び、それが変化の時期を迎えているといえるかもしれません。ポスト近代という時代を迎え、男も女も共にいくばくかの生産者であり、いくばくかの再生産者であるという、そういう時代に入りつつあるのでしょう。
浮かび上がったケアに対する「労働観」
コロナ禍のもとで、怒り心頭に発したことがあります。
医療現場と介護現場で人手不足がいわれました。医療現場での人手不足は、退職した看護師さんや保健師さんで補充しなさい、看護師資格を持った大学院生を使いなさいと政府はいいました。
ところが介護現場の人手不足に対して、2020年に厚労省が出した通達では、「無資格者を使ってよい」としました。医療現場で無資格者を使ってよいとは、決していいません。ですが介護現場なら無資格者でもいい、といったのです。
唖然(あぜん)としました。
介護保険ができて20年たって、いまだに政策決定者たちは、介護というものは、女なら誰でもできる非熟練労働だと思っているのか、と。
介護保険20年目にして、こういうケアに対する労働観が、これほど変わらないのかと、再び痛感せざるをえませんでした。
※本稿は、『最後の講義完全版 上野千鶴子 これからの時代を生きるあなたへ 安心して弱者になれる社会を作りたい』(主婦の友社)の一部を再編集したものです。
3番手、クロッカス。
雪が多かったせいで多くの木がやられてしまいました。豊後梅、ひどい状態です。
梅の木がかわいそうな状態ですね!
雪は重いですから、耐えられないですよね。
京都は、28度の夏日でした。
寒がりの私でも、半袖で過ごせました。
昨日の記事で、帯状疱疹もワクチンの副反応かと思うと、
新しいものを急いで取り入れることの危うさを思います。
ワクチン、生きた遺伝子組み換え「薬品」。食べません。